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クリア・蒼の禁書・見抜かれた奇跡

 3.クリア・蒼の禁書・見抜かれた奇跡


 「そんなに本が好きなら自分で物語を書けばいいのに――、って。ほらほら、本を読みながら森を歩くもんじゃない」

 「すみません。でも物語なんて書けませんよ、読んでばっかりだし」

 「誰だって最初はそうだろうさ」

 人見知りの激しいわたしでも、ロクリアさんとはよく話すことができた。

 厳しいことで有名なエクレシアの講師たちが、わたしの男性へのイメージのすべてだった。けれどロクリアさんは穏やかで本にも詳しく、もしわたしに兄がいたならばこういう人がいいなと思えるような人だった。

 エクレシアのみんなは物語よりも魔導書グリモアを好む。だから、ロクリアさんとこうして本のお話ができるのはとても新鮮で、森を抜けるまで話題は尽きる気配を見せなかった。大図書館では見たこともないような本も少なくなく、開かれるのを待っている物語が街にたくさんあるのだと思うと自然と胸が高鳴った。

 「……ボクは本屋の手伝いをしに呼び出されたわけじゃないんだからな!」

 わたしの肩に乗るモノは睡眠不足か、あるいはロクリアさんに惨敗したのがよほど悔しいのか、ずっと不機嫌なままだった。とはいえお喋りなモノのこと、口を開きたくてうずうずしているようだったが、わたしたちが物語の話しかしないので、なかなか仲間に入れずにしゅんとしていた。

 ロクリアさんは森の中の小屋で暮らしているだけあって、ほんの数時間でトリブの森を抜けることができた。出会ったころ、木の根につまづいて動けなくなっていたことが嘘と思うほど、その足取りは慣れたものであって、選ばれた道順もおそらく森から出る最短の経路だったことだろう。

 そのことにいささか違和感を覚えたが、「任せてください、わたしこそが宮廷修道士です」と見栄を張っていたのが思い出されて胸の奥と耳が熱くなるので考えるのをやめた。

 「セリィ、耳まっか」

 からかうような声が右肩から聞こえた。

 「うるさいな、もう。ロクリアさん、まずは中心街を目指すのですよね?」

 森はまるでこちらとあちらを分ける境界のように、突然途切れていた。その境界から先は開墾された平野であり、一面の麦が映える。畑を縦横に貫くようにして、大きな道が交差していた。特に大きな街道には石畳が敷かれている。徐々に都会に向かっていることが実感できた。

 「いや、まずはクリアを目指そう」

 「先にクリアですか?」

 「ああ、中心街へ至る前に馬車の駅がある。そこからクリアに向かう予定だったんだ、どうせクリアにも行くならそのほうが早い。モノがいれば、馬車代は考えなくていいしね」

 「なるほど」

 領主様がわたしに授けてくれたバシレウスの象徴――黒猫のファミリア、モノは領主様が治めるこの都市の中ではこのうえない免罪符となる。あらゆる関所の通行手形にもなりうるし、困ったら宿も喜んで貸してくれるだろう。馬車の運賃だって免除される。

 頭では理解しているけれど、それほどの存在だと思うと、この右肩に座っているちょっと間の抜けたファミリアの重さを実感する。と、同時にそれほどの存在を授けられたわたしに課せられた責任も痛感する。

 「バシレウスの名を商いに使うなよ」

 「いいだろ、減るもんじゃないし。三大教会の威厳と奇跡だけでは中立は保てない。強固な軍隊を持たずに済むのは、中心街の経済規模のおかげなんだ。本屋だってこの街を支えてる」

 「それとこれとは話がちがうだろ」

 ぷいっとモノがそっぽを向く。

 本人としては自分を便利な財布代わりに使われたことに対して、必死に嫌悪感を表現しているのだろうけれど、その仕草は仔猫の姿かたちをしていることもあいまってとても可愛らしかった。そんなモノも宿とシチューの恩は感じているのか、馬車の駅に着いたときに何もいわず「三人で。バシレウスの公務だ」と告げてくれた。

 「バシレウス様!?」

 馬車の運転手はあまりに意外な客に飛び跳ねんばかりに驚いていた。無理もない。バシレウスはこの都市を統べる名であり、そして現在の領主は名君主として名を馳せる人間だ。そのファミリア一行とあらば、むしろ金を払ってでも馬車に乗せたいくらいなのかもしれない。

 「これはこれは。オンボロの馬車ですが、ご容赦ください」

 「気を使わなくていい、クリア大聖堂までよろしく」

 「畏まりました、明日の日が暮れるまでには必ずやお届けいたします」

 「すまないね」

 腐っても、かわいくても、さすがはバシレウスのファミリアといったところか、モノはこのような手続きに慣れていた。そんなファミリアを肩に乗せているわたしの背筋も自然と伸びてしまう。まるでわたしも貴族になったようだった。

 馬車を曳く二頭の馬の嘶きが聞こえた。エクレシアにいたころもたまに街に出た時などに見かけたことはあったが、こんなに近くで見るのは初めてだった。自分よりも大きな獣の鳴き声や鼻息にびくびくしながらも、みんなで幌の中に入る。

 中はしっかりと木材で組まれており頑丈そうだった。夜を明かせるように、寝台を兼ねた大きな椅子には毛布の用意までされている。初めてづくしの乗り物で少し不安もあったのだが、これなら快適な旅が送れそうだ。森の中を、木靴の中の脚が痛くなるまで歩いたのを考えれば、なんと楽なことだろう!

 二頭の馬の手綱を握るおじさんがこちらを振り向く。

 「バシレウスの使者を乗せたとなれば、仕事仲間にも息子たちにも自慢できます。連れのお嬢さんは秘書さんですかな、ずいぶんとお若いように見える」

 ロクリアさんと顔を見合せて苦笑する。たしかにバシレウスの使者として見えるのは、物腰柔らかな青年のほうだろう。わたしの肩にモノが乗っているのも、鞄持ちか何かだと思われているのかもしれない。

 「いえいえ、こちらの少女こそがバシレウスのファミリアを授かった者なのですよ。森で動けなくなった私をまるで聖者のような優しさと華麗な奇跡で助けていただきました」

 「ちょ、何を言っているんですか。ロクリアさん!」

 ひそひそ声で抗議をしたが、馬車のおじさんはもう信じてしまっているようだった。

 「ほう、こんな幼いのに。ということはもう宮廷に入られているのですかな」

 「そうさ。セリィはエクレシアの神童と呼ばれているくらいだからね」

 「ちょっと。モノもやめてよ」

 「はは、それはそれは。是非、このオンボロ馬車に加護をかけていただきたいものですな」

 「だめだめ。セリィの秘儀はこの都市の財産だからね」

 おじさんに見えないようにこっそりと両手をかざして奇跡の円環を出そうとしてみた。やはりいつかの森の中のようにはいかず、もっともエネルギーの低い紅色の極小の円環が描かれただけで、それもすぐに霧散してしまった。(今回は)自分のせいではないとはいえ、なんだか嘘をついているような気がして申し訳ない気持ちになった。

 「エクレシアといえば、例の件は解決されたのですかな? 中心街の知り合いが大層困っておったんですが」

 「例の件?」

 「おや。ご存じではありませんでしたか。まあ、ここ数日のことなんですがね、エクレシアの修道士が軒並み奇跡を使えなくなったという話がありまして――」

 「奇跡が使えない!?」

 わたしは想像もしなかった事態に幌の中で立ち上がってしまった。馬車の振動でよろめいて、すぐに座り込んでしまう。それでも頭の中は混乱でいっぱいだった。

 「それは本当なんですか?」

 「え、ええ。母親がエクレシアにかかりつけになっている友人などは、大変困っておりましてわざわざケントゥリアまでおぶって行ったとか」

 「エクレシアの奇跡が――」

 「セリィの病気が移ったんだ!」

 モノの頭を一度叩く。

 けれどこれは笑いごとではない。

 領主さまによって治められているこの都市は、三角形を描くように配置された三大教会――西南のエクレシア、東南のクリア、北のケントゥリアの奇跡によって維持されている。ちょっとした怪我ならともかく、奇跡によってでしか治療法の見つかっていない病気を抱えている人も多い。馬車などの加護や豊作への祈願、大きなところでは大規模な工事や治水など教会の果たしている役割は非常に広範だ。

 いまは他の二教会で補っているようだが、それもいずれ無理が生じる。エクレシア地域から他の地域へは、金額的にも距離的にもそう簡単に行けるものではない。クリアとケントゥリアで処理しきれなくなれば、都市の大半が機能しなくなってしまう。文明と奇跡を誇ったこの都市はみるみる凋落していくことだろう。

 「前代未聞だな、一時的なものならばいいのだが。モノ、君はどう思う?」

 「そんなこと三大教会が出来上がってから、一度だって起きたことはないよ。何かの間違いか、修道士のストライキか何かだと思いたいところだね。けど、もし本当なら――そして、それが起こっているのがエクレシアだけだという事実に説明をつけるのなら、一つだけ思い当たることはある。ね、セリィ?」

 「エクレシアの禁書……」

 「断定するのはまだ早いけれど、可能性としては十分じゃないかな」

 「でも、どうして?」

 「さあね。封印されていた禁書はもちろん、ボクらがふだん使っている奇跡だって原理はよくわかっていないんだ。試行錯誤と経験則だらけで、体系的な解析はなされていない。どんなグリモアもその奇跡の起こし方とその結果についてしか語らないだろ?」

 確かに、奇跡が理解できるのはそれが目の前に現実として起こっているからだった。念じるだけで、あるいは詠唱するだけで、色とりどりの円環が出現することや、それによって人の傷をいやしたり、加護が与えられることの原理はエクレシアの誰からも聞いたことがない。

 「少なくとも相関関係はありそうだ、本屋として少し興味が湧いてきたな」

 「下手な介入は身を滅ぼすよ」

 「本に殺されるなら本望さ」

 「……本に殺される?」

 ロクリアさんの一言にわたしの何かが反応した。それはモノに対する売り言葉と買い言葉だったのかもしれない。けれど、この禁書をめぐる事件で助からなくなってしまう人はいる。

 「もし、禁書を盗んだ人がこうなることを知っていてやったのだとしたら、わたしはその人を許せない。大切な本で人に迷惑をかけるだなんて。重病で奇跡の集中治療が必要な人だっているだろうに」

 そう考えると、頭の中が真っ赤になった。こんなに怒ったことはなかったかもしれない。たとえ愚鈍と言われようが、奇跡に見放された悪魔の子と罵られようがここまでではなかった。

 「セリィ、それは考えすぎ」

 モノが尻尾で頭をぺちっとやる。

 「禁書と奇跡との関係はまだ仮説だよ。自慢じゃないけど、バシレウスのファミリアが知らないことをそのあたりの盗賊が知っていただなんて考えられない。いままで一度だって起こったことのないことだからね」

 「……そっか。モノより大教会に詳しいのは、」

 「領主様。もしくはボクより高位のファミリアか。いずれにせよ、数は相当限られる」

 「ファミリアにも階級があるんだ!」

 「そりゃあ、もちろん。大教会だってどこだって、社会は縦割りさ」

 「のんびりしてるけど、世知辛いんだね」

 「セリィもそのうちわかるさ」

 モノが遠い眼をして呟いたわきで、ロクリアさんが「あー、話を戻してもいいかな?」と手を挙げた。

 「モノの言う通りなら、容疑者は誰もいなくなるね」

 「どうしてですか?」

 「領主はまず除外。領主は禁書の価値を知っている。そしてそれによって奇跡が紡がれ、そして都市の平和に繋がっていることも知っている。自ら手を出さずに君に任せたのは、いまこの都市がさまざまな問題を抱えているからだろう。おおかた、次の戦争でどちらにつくかってとこだね。彼なら何をしてでもこの街を守るだろうから」

 「親しいのですか?」

 「……いいや、推測」

 たしかに当代の領主さまは都市のことを一番に考えているだろう。であるからこそ、彼は領主としては珍しく市民からの人気と高い評価を受けているのだから。

 「ボクより高位のファミリアの線もないね、下僕が主人に背いてどうするんだよ」

 「たしかに……。ということは、結局犯人がいなくなっちゃったじゃないですか」

 「そう、だから前提が間違っている。仮に禁書が奇跡をもたらしていたんだとしても、盗んだ者は禁書の価値を知らない」

 「振り出しですねえ」

 ガタガタと不規則に揺れる中、膝を抱えたまま外を眺める。

 いつのまにか田舎めいた景色は移り変わり、遠くに白い城壁が見える。中心街を囲むようにできているそれは円形をしているのだろうけれど、ここまで近寄ってしまうともはや平面の壁にしか見えなかった。いままで数回しか訪れたことのない、もっとも賑わい栄えている街。宮廷があり、三大教会へ至る交通の要所。

 麦の薫りを運んでくる風が、都会の喧騒をも連れてくる。


 ※


 それから寝るまで、わたしたち三人は取り留めのない会話を続けていた。一番いいベッドはモノがさっさと占領してしまったので、わたしはずっと硬い床の上で三角座りをしたり、お尻が痛くなったら正座をしたり脚を崩したりしていた。

 ロクリアさんとモノはよく喋った。

 決して仲良しではないのだろうけど、モノの悪口をロクリアさんが受け流すさまは板についていた。凹凸が揃っているといえばいいのだろうか。トリブの森――いろいろありすぎて昨晩だったとは思えないが、わたしが本の山で眠ってしまったあとも延々と話し続けていたのだろう。

 「だとしたら動機のあるやつなんて、市民や都市より禁書のほうが大事なやつに限られてくるじゃないか。案外、本屋のお前が怪しかったり」

 「稀少本として貴族に高く売れるかもね。たしかに動機はある。でも都市が没落したんじゃ、道楽で買ってくれる人なんていないだろ? 本末転倒だ」

 「他の国に出ればいいじゃないか」

 「周りは奇跡の信仰を禁止しているような国ばかりだよ。そうでなければ、国境なんて存在しない。そんな怪しいグリモアを持って入国できるわけがない。それゆえにこの都市の書物は流出を免れているんだけどね」

 「むぅ」

 「そんな僕を悪者にしたいのかい、モノ」

 「ちょっとしたミステリなら君が犯人だ」

 「ごもっとも。でも善良な市民を疑っちゃいけないな、バシレウスの紋として」

 モノのずいぶんな言い方に、いつロクリアさんが機嫌を損ねないかとわたしははらはらしっぱなしだ。この馬車だってモノの恩恵とはいえ、ロクリアさんが発案したのに。シチューと一泊の恩もまだ返せていない。

 だから寝るときは彼にソファを渡した。

 ベッドはモノが譲らなかったし、あと寝床になるようなものはソファしかない。一人用だ。運転手にそのことを言ったら毛布を追加で一枚くれた。

 ロクリアさんは、モノとちがって大人なので断ってくれたが、「慣れてますので」とわたしは固辞し、布団を巻きつけて床に転がった。溜息をついたロクリアさんは自分の毛布を一枚、みのむし状態のわたしにかけてくれた。「よくできたお嬢さんだ」という呟きに、わたしは勝手ににやついてしまうのを止められなかった。

 月が昇ってからも、二人は侃々諤々の議論をしていた。ベッドの下にチェス盤を発見したのか、急に静かになったので顔を出してみたら二人ともすごく真剣な顔つきになっていた。実はずいぶん仲がいいんじゃないかと思う。

 秋の夜風は稲穂を凪ぎ、まだ途切れない中心街の城壁の向こうから家族の団欒を届けてくれる。

 わたしには――いや、エクレシアに捨てられた子供たちが誰一人として味わえなかった安らぎが、きっとこの街にはありふれた形で存在する。そこにはきっと習得しなければ生き残れないような奇跡の授業はない。

 代わりに父母の手伝いや、同じような年代の子と本の話をしたり恋の話をしたりなんてことが待っているのだろう。辛いことは父に話して慰めてもらい、楽しいことは母に話してともにほほ笑むのだろう。騒がしいけれど、楽しいその家庭の中できっと一生を終えるのだろう。

 それはきっとわたしたちが望んでいるもの。

 寝る前に夢想をしては、それに遠く届かない自分の腕にいつも絶望する。そんな夢だ。わたしはそれを物語に求めた。みんなはそれを奇跡で大成した将来に求めた。そういう意味で、エクレシアの子供たちは平等だった。

 けれど、昨日も今日もそんなこと、思い出すことすら忘れていたように思う。

 理由は明白だった。

 ここでは奇跡が使えなくても許され、授業に出なくても話し相手がいるからだ。そしてその友達は蹴落とさなければ門が狭まるなどという関係性ではないから。純粋に軽口を叩きあったり、物語や書物について詳しい話ができるからだ。

 ――もしかしたら、わたしはこんな生活を望んでいたのかもしれない。

 禁書なんて怖ろしいもの、できれば追いかけたくはない。そもそもトリブを抜けたことすらあまりないのに、旅だなんて突飛すぎる。落ちこぼれの見習いに、領主直々の勅命だなんて荷が重すぎるにも程がある。

 だというのに、モノとロクリアさんとのこの日常に足りないものが一つも思いつかない。

 名前を失ったというのに、なんて幸せなのだろう。

 「ふふ、」

 わたしは毛布に包ったまま寝がえりをひとつ。

 チェスと車輪の音を子守唄に、馬車の揺りかごに意識を預ける。


 ※


 「もし動機が宮廷への恨みだとしたら、僕なのかもしれないね」

 「んなわけないだろ、だいたいそこいらの本屋がエクレシアに入れるわけがない」

 「そうだね、」

 「そもそも恨みってなんだよ?」

 「ん。言ってみただけ」


 ※


 中心街から南西に抜ける道に沿って、大聖堂についたのは翌日のお昼過ぎだった。親切な運転手さんにお礼を言って、わたしたちは馬車を降りた。パンをくわえながら見上げた大聖堂は、声を無くすほど壮大な建物だった。

 「ここがクリア大聖堂……」

 森を拓いた広大な敷地には三つの高い尖塔があった。そしてそれに囲まれるようにして、あるいは守られるようにして大聖堂がある。孤児を受け入れるエクレシアとはちがい、生徒はみな平民の出で熱意をもって勉学を修めたい者たちが集まるところだ。

 「何度見ても素晴らしい、いやはや君たちについてきてよかった」

 「ロクリア。ただで馬車に乗れて、のまちがいじゃないか」

 「はは。滅相もない。さて、」

 モノの一言で門を抜けたわたしたちだったが、ロクリアさんはリュックを背負いなおして別方向へ向かおうとしていた。

 「あれ。そっちは尖塔のほうですよ?」

 「僕には僕の仕事があるからね、納品をしてこなくちゃ」

 「あ。ではまた合流しましょう」

 ロクリアさんが本屋だということをたまに忘れてしまうときがある。納得したわたしはモノを肩に乗せたまま、中央の大聖堂へと歩を進めた。初めて見るエクレシア以外の三大教会ということで、いろいろと比較をしてしまう。

 まず子供たちがいないのが大きかった。すれちがう修道士はみな青年・女性と呼ばれる年代の人たちで落ち着きがある。法衣も似合っているし、小脇に挟んだグリモアは知性を強調している。授業を逃げ出した子供を追いかける司教の姿などどこをどう探したって見つかりそうもなかった。

 そして何より広かった。門での地図を見る限りもう着いてもよさそうなものだったが、一向に屋敷との距離が縮まってくれない。教会というよりは、まるでこれだけで一つの都市だった。三つの尖塔まで加えると、エクレシアは実は狭かったのだと気づく。

 「エクレシアの禁書の気配、する?」

 モノが肩の上で首を振る。

 そもそもクリア大聖堂を目指したのはわけがあった。禁書の情報を集めるのなら大教会が一番いいというのはもちろん、盗まれたものがクリアにあるという可能性も考慮しているのだ。三大教会は協調の下にこの都市を守護しているが、その実、三者の仲はけっして友好的とはいえない。

 「でもクリアの図書館は覗いておきたい」

 「どうして?」

 「仮説が正しければ、ここにもエクレシアと同じ禁書があるはず」

 やはり黒猫を肩に乗せていると目立ってしまうのか、生徒たちが集まってきた。それはそうだ、ここに来るような子たちは宮廷に入ることを目的に勉学にいそしんでいる。一度宮廷に入ってしまえば、平民といえど末代までの地位は保障される。そういう意味では、ここの学生もエクレシアと変わらないのかもしれなかった。

 「高名な宮廷修道士様なのですか?」

 「大聖堂クリアへようこそ」

 「いったいどのようなグリモアをお読みになったのですか?」

 「さすがバシレウスのファミリアだ、気高い美しさがある」

 「あの、ぼ、僕を是非バシレウス様にご推薦を……っ、」

 ただでさえ面と向かって話すのが苦手なわたしは、年上十数人に囲われてしまって軽くパニックに陥ってしまった。真っ赤になって俯いてしまったわたしに、けれどもよほどバシレウスの人間(わたしはちがうけど)が珍しいのか、この質問攻めは止むことを知らなかった。

 ――わたしが奇跡の一つも使えないとしったら、きっとがっかりする。

 そう思うと、胸がずきりと痛んだ。

 モノもわたしの肩の上でおろおろとするばかり。

 「どうする、セリィ? ボクらの目的なんてあまり大声で言えないし……」

 困り果ててもじもじしているわたしの腕が引っ張られた。バシレウスの使い(と思われているわたし)に対してずいぶんと不躾な行動だったが、この人込みから抜け出させてくれるという意図らしくわたしはそれに従った。

 「ほらほら、バシレウス様の使いはお忙しいのよ!」

 その声には聞き覚えがあった。

 ようやく人だかりを抜けて、青い屋根の大聖堂の裏手で落ち着けた。わたしの手をひっぱってくれていた女性はブロンドを奇麗に巻いていて、服装にもどこか気品があった。そしてなにより、クリアの学生にしてはあまりに幼い。まるでわたしと同世代のようなーー。

 「どうしてあんたがここにいるの?」

 「あ、」

 「……うげ」

 特徴的な吊り眼、高圧的で自信満々な態度。間違いない、どうしてクリアにいるのかはむしろこちらが聞きたいところだったけど、こんな人間はエクレシアでのわたしの隣人以外にはいないだろう。出会ったころから苦手らしいモノは舌を出して、残念さを全身でアピールしていた。

 「……ニュクス」

 「ああもう、その名前で呼ばないでよ! わたしは太陽ヘリオスニュクスなんかじゃないわ」

 そういえば、自分を捨てた親のつけた名前に対してコンプレックスを持っていたっけ。エクレシアを出たのはほんの二三日前だというのに、ずいぶんと昔のことのように思えた。

 「そんなことより質問に応えてよ、禁書を探しているのならどうしてこんなところにいるの?」

 「それは――、」

 『言ってもいい?』とモノに目配せをすると、仕方なくうなずいた。

 「さっき助けてくれたから、そのお返しだよ? ボクたちはクリアの禁書を探しに来たんだ、何かの参考になるんじゃないかってね。それで君は?」

 ニュクス、もといヘリオスは腰に手を当てる。彼女、お得意のしぐさだ。

 「あら、奇遇。私もクリアの禁書に興味があってここまで来たの。どこで追い抜いてしまったのかしら?」

 「途中、本屋さんに会って。って、どうしてヘリオスが禁書なんて探しているの? あなたも領主さまに頼まれたの?」

 「いいえ、これは私の意志。宮廷に入るためには才能だけじゃ足りないの。努力でも届かない」

 彼女ほどの奇跡の術者ならばどこにいっても通用すると思っていたのだが、その天才であってもこのようにうなだれることがあるのか。わたしは意外に思った。そのようなことで悩んでいるのは、わたしのように落ちこぼれの専売特許だと思っていたから。

 「もっともっと力が要るの。そしたら私はニュクスでなく、太陽(ヘリオス)になれる!」

 熱弁をふるうヘリオスだったけれど、どこか狂気じみたものを感じたのも事実だった。目指しているもの以外が目に入っていない。人はそれを集中だとか追究だとか呼ぶのだろうけれど、わたしには固執だとか執念といった言葉が思い浮かんだ。

 「あなたはエクレシアの主席じゃない」

 「ええ、そうよ。だからなに?」

 「エクレシアの主席がどれだけのものか……」

 「たかだか三大教会のひとつ、しかも研究者を募っているクリアでも、貴族から英才教育を任されているケントゥリアでもなく、孤児を集めただけのエクレシアで主席になったからといっていったい何になるの?」

 わたしが欲しくてたまらなかったものを、掴みたいのに手が届かなかったものを、太陽の名を自称する彼女は切り捨てていく。親に貰ったたった一つの名前、奇跡の才能。

 「私は井の中の蛙にはなりたくない。暗い井戸の底で月ばかり見つめているのはもううんざり。私は禁書のグリモアで大海に出たいのよ! そう、あなたが――何も持っていないあなたが、エクレシアでバシレウスを得たように」

 その言葉が発せられた瞬間、モノはわたしの肩から見事な跳躍力で撥ね、彼女の頬に長い尾でビンタを食らわせた。そしてその反動を使って、くるくる廻ってわたしの肩に音もなく着地する。

 音速の打撃にヘリオスは赤くなった頬に手をやった。

 「な、」

 「モノ……」

 さきほどまでのわがままそうな仔猫の表情とは違う、バシレウスの紋、名誉あるファミリアとしてのモノがそこにはいた。

 「もし君がエクレシアの禁書を読んだのだとしても、ボクは君についていかない。君の意見も理想も理解はできる、けれど君はあまりにも与えられたものを疎かにし過ぎている。ただ褒められて認められたいだけの人間を、市民のためのバシレウスは拒否する」

 「……そんな、」

 「モノ、もういいよ」

 この小さなファミリアがわたしのことを庇ってくれているのはわかったが、それにしても言いすぎだ。ヘリオスは自分の居場所に不満を持っているからこそ、自分の力で切り開こうとする努力の人だ。何も持っていない、しかも名前すら失くしてしまったわたしとはちがう。

 「セリィ、君はもう少し意見をいうべきだ」

 ――そんなことを言われても。

 モノが再びバシレウスの瞳でヘリオスを見つめる。

 「君は(ニュクス)に怯える太陽(ヘリオス)だ。そして太陽に憧憬を抱く夜でもある。禁書に手を出したい気持ちをわかるけど、君はいまエクレシアがどうなっているか知っているかい?」

 「エクレシア? いえ、すぐに出てきてしまったので」

 「……奇跡が使えなくなっているの」

 目を見開くヘリオス。それはそうだ、わたしだって信じられない。それは、そう、きっとわたしが奇跡を自在に操れるようになるほどあり得ないことなのだから。

 「奇跡が? あのエクレシアで?」

 「おそらく禁書の影響ではないかとボクらは見ている。それほどのものにそんな私的な興味を抱くべきでは――、」

 ヘリオスが両掌を中空にかざした。

 刹那、数え切れないほどの無数の円環が展開される。奇跡のコントロールが天才的な彼女はもっともエネルギーの低い紅から、起動が難しい緑色円環まで並べることができる。また、奇跡の純粋な出力を示す輪の大きさも常人のそれではない。

 「使えるけど」

 「……ッ、」

 モノが声を失う。

 考えてみれば当然のことだったが、ヘリオスはこれで何気なく重要なことを示してくれた。すなわち、影響があるのはエクレシアに属する修道士ではなく、エクレシアの近くにいる修道士なのだと。

 わたしはもともと奇跡を扱えなかったから参考にならなかったが。

 「奇跡の場所依存性がこれで証明されたのか」

 だとしたら、三大教会のすべてに禁書が存在しているといえる。むしろ、禁書の力場を利用するように三大教会が建っていると思ったほうがいいのかもしれない。能力がある者が教会に行くのではなく、教会にいるからこそ充分に奇跡を扱える修道士となることができるのかも。

 それでも奇跡が使えないわたしは何なのかということは、ひとまず置いておいて。

 「モノ、ここに――、クリアに禁書は?」

 「禁書……、あるだろうね」

 「それなら、地下大図書館で見つけましたよ」

 ヘリオスが当たり前のように言う。

 「けれど封印が施されていて解呪ができなかったんです、だからバシレウスのファミリアに手伝ってもらおうと……」


 ※


 クリア大聖堂は大きく分けて二つのブロックからできている。一つは中央に構える蒼い大聖堂、そしてそれを護るようにして聳える三つの尖塔。外から見ればそれだけの荘厳な建物なのだが、その広大な敷地面積は地下に広がる大図書館を埋めるためといっても過言ではなかった。

 この都市に奇跡を司る大教会は三つあれど、クリアはその中でも学術を扱う。そのため参考文献として古今東西のグリモアが集められていた。新しいものは尖塔の内部に、頻繁に使用されないものは地下図書館に蔵されているらしい。

 この都市ができる前からあったという大聖堂。もちろん地下図書館もいつからあったのか定かではない。わかっていることはただ一つ。いまだ誰も脚を踏み入れたことのない区画、誰も手を触れたことのない頁、それらは確実に存在しているということ。

 「それにしても、どうしてみんなここに来ないんだろうね?」

 「尖塔に資料があるからだろ?」

 「ここにだって、こんなに本があるじゃない」

 数メートル先は真の暗闇。微妙に角度を変えた本棚の配置によって、まるで迷宮に迷い込んでしまっているかのようだった。エクレシアのときと同じように手に蝋燭を持って、蜘蛛の巣をかきわけながら進んでいくが、行けども行けども最深部には着きそうもなかった。もしかしたら、巧妙に進路を曲げられてループしているのかもしれない。

 「奇跡はあくま経験則。だから、観測の精度も甘く、結果も断片的にしか得られていない古い文献にはみんな用がないのさ。特に一つの理論ですべてを説明しようとしているここ、クリアの研究者にはね」

 ヘリオスは夜通し地下図書館を歩き回り、位置的に大教会の真下に行き着いたという。そのあまりに入り組んだ構造は<自動書記>の奇跡によって記されていた。わたしは使えないため、彼女から受け取った奇跡をいまモノが展開している。

 「しかしあの子もよくここまで調べたもんだ」

 彼女が歩いた道のりがモノの手元に映し出される。緑色円環の奇跡だった。

 「道はここで正しい。しかし随分と行き止まりが多いね。無秩序に配置されたにしては、禁書に至る経路が一本だけあるっていうのも怪しい。何らかの意図を感じるね、しかも大聖堂ができる前の」

 もう何度目かわからない曲がり角を右に折れる。深部に近付いている実感はないのだけど、だんだんと蜘蛛の巣が少なくなってくのは感じていた。本も明らかに劣化しているものから、なぜか奇麗なものが並ぶようになっている。まるで禁書の力に守られているかのような、そんな気がした。

 「エクレシアもこうだったのかい?」

 「夢中だったからあんまり憶えてない。でも、一度も行き止まりには引っかからなかったはずだよ」

 「もしかして導かれたとか」

 「だったら、ヘリオスを導けばいいのに」

 「まったくだ。そうしたら、セリィはブックカースを食らわずに済んだのにな」

 時計もなければ、太陽も見えないので、地下に降りてから何時間が経過したのかさっぱり見当がつかないのだけど、脚の疲労からしてずいぶんと経っているような気がする。モノの展開する地図の、現在位置を示す光点も蛇行を繰り返したり、遠回りをしながら中心部に近付いているようだった。

 「ここか、」

 モノが何もないところで止まれと命令した。

 「どうしたの?」

 「見てて」

 さっきヘリオスにビンタを食らわしたときのように、しなやかな仔猫の身体が跳躍して宙を舞う。けれどモノは何もない空間で自然科学に反した不可思議な力を受け、そしてわたしの肩に戻ってきた。

 「円環が……」

 モノが弾かれた瞬間、水面に生じた波紋のように無数の円環が出現したのをわたしは見逃さなかった。ということはこれは奇跡的な力による結界。ヘリオスが言っていた、禁書の封印だった。エネルギーは最高を表す紫、しかも多重に過剰に貼られている。

 「ふむ、」

 「どう、解ける?」

 モノが両前脚をかざして、奇跡の輪を発生させる。封印の輪と干渉して、甲高い音が断続的に響く。モノの円環のエネルギーが上昇していくにつれて、展開されている円環の色が黄緑から青緑に変化していく。

 「これは、無理だね!」

 「え、そんなすぐに諦めちゃうの?」

 「封印を解く鍵は絶対封域の中、閉じ込めちゃってる。バシレウスの力で封印自体を破壊、あるいは無効化できると踏んでいたんだけど、さすがに奇跡の源泉は違うね。素因数分解を絡めた解くのに何百年とかかる暗号と、可視光域の円環でも解析できない高度すぎる奇跡的術式の暗号の合わせ技だ」

 「紫より上ってこと?」

 「何十体ものファミリアを使役する領主様でさえ、紫外の円環は発生させられないのに。この封印を解くのは現実的にどう考えても不可能さ」

 「……そんなに凄いものなんだあ」

 ――何もないように見えるんだけどな。

 やっぱり奇跡の世界はよくわからない。というか、バシレウスの力で無理だったらもう無理なんじゃないのか。逆に、そこまで凄いのならエクレシアの封印はどうやって解除したのだろうか、領主様は経年劣化と言っていたが本当にそんなことが起こるんだろうか。

 「……エクレシアではどうしたんだっけ?」

 ――たしか、何かが割れるような音が。

 そのとき頭蓋に響く音がした。それはまるでステンドグラスを一点集中の力でヒビを入れたかのような。あるいはものすごくエネルギーの溜まったものが勢いよく爆ぜたかのような。極彩色の衝撃。

 「セリィ!?」

 「ん。どしたの、モノ」

 見れば、自分の細い脚が領域を軽々と踏み越えているではないか。まるでそこにははじめから何もなかったかのように。とはいえ、さっきモノが弾かれたときに最高級の奇跡である紫の円環を見ているのだから……、わたしは目の前で起こっている現象がよくわからなくなっていた。

 モノと一緒に首をかしげる。

 「通れたね」

 「通れたな」

 モノは眉間に皺を寄せて考え込んでいる。わたしはといえば、通れて幸運とばかりにそのまま歩を進める。わたしではグリモアの文字は読めないから、モノに読んでもらわなければならない。きっとわたしたちの仮説の補強になるものや、エクレシアの禁書を盗んだ者の意図なんかもわかってくるだろう。

 「『見抜かれた奇跡』?」

 聞きなれない用語がモノの口から発せられたのと、祭壇を見つけたのは同時だった。エクレシアのものと同じ。一つ違うとするならば、禁書の色が今度は蒼いということだけ。それが放つ誘惑にも似た毒のような雰囲気もそのままだった。見る者を魅せる魔性のグリモア。

 普通の本と変わらない重さと質感だというのに、手に取った瞬間、掌が表紙に吸いつくような感覚が走る。開くと、そこには一枚の絵画のような美しい文様がびっしりと並んでいた。わたしには読めない奇跡を記述するための特殊な文字。

 「モノ、どうしたの。早く読んでよ」

 モノはさっきからぶつぶつと何かを考え込んでいる様子だった。けれど禁書までたどり着いた以上、わたしの仕事はもう終わりだ。モノに読んでもらわなくては意味がない。

 「――だとすればすべて説明はつく。セリィ、君は『見抜かれた奇跡』と呼ばれる存在なのかもしれない」

 「初めて聞いた、にしても名前長くない?」

 「あまりに症例がないものだから伝説的に語られるものだけど、これならセリィの現象をすべて説明できる。あるいは『メルツェル』とも呼ぶ人がいるけど」

 モノは興奮気味にわたしの肩から降りて祭壇に着地する。暗闇で瞳孔が広がっている、真剣な仔猫の瞳がわたしをまっすぐに見据えていた。

 「その本質は単純にして明快、例外にして至高だ。すなわち、あらゆる奇跡の無能力化」

 「でもわたし、何かを見抜いた覚えないし」

 いままでエクレシアの出来損ないであり、奇跡に見放された悪魔と呼ばれていたわたしが急にそんな神様みたいに言われても困るというものだ。

 「この命名はかつて奇跡が奇術と同一視されていたころの名残だ、気にしなくていい。この力を持っているなら、たしかにエクレシアであろうとクリアであろうと、禁書の結界は有無を言わさず突破できる」

 「でも、そんな奇跡使えないよ!」

 「『見抜かれた奇跡メルツェル』はむしろ体質といったほうがいいのかもしれない。セリィが奇跡を一切使えないのも当然だ、それは自他問わずあらゆる奇跡の無能力化なんだからね」

 「……そんな。急にそんなこと言われても、困る」

 奇跡が使えないのは才能でした、だから仕方がないのです。と言われているに等しい。いつか使えるようになると、いつかきっと上手くなれると信じてエクレシアで落第を続けていたわたしは何だったのか。

 「すごいよ、セリィ。これなら宮廷修道士なんてもんじゃない!」

 「やめてよ。いらないってば、そんなの!」

 つくづくヘリオスだったら、よかったのにと思う。ブックカースで名前を失っても宮廷に入りたいと公言する彼女だ、きっと奇跡が一切使えないことくらい受け入れるだろう。

 ――わたしは、普通がよかったのに。

 「ごめん。……怒ってる?」

 モノが不安そうにわたしを見上げる。尻尾がしゅんと垂れている。

 「ううん、でも受け入れられないよ」

 そう言って、溜息をついた瞬間だった。

 わたしたち以外のあらゆる音を許さなかったこの地下大図書館に、一つの風が駆け抜けた。

 「え――、」

 黒衣の疾風、それはわたしの手から易々と禁書を奪い、勝ち誇ったように振り向いた。ただでさえ灯りの少ない図書館に、漆黒のローブは溶け込んでいた。目深にかぶっているために顔の判別はつかないが、その唇はたしかに嗤っていた。

 「ご・く・ろ・う・さ・ま」

 声には出なかったが、そいつの唇はそう動いた。満足そうにクリアの禁書を見つめてから、丈の長い外套をはためかせて悠々と遠ざかっていく。

 「……、モノ。追いかけよう」

 あいつがこの混乱の原因だ。ここで止めなければ、次はケントゥリアが歯牙にかけられてしまう。ここで押さえなければ、領主様から直々にバシレウスのファミリアを頂いた身として申し訳が立たない!

 「……モノ?」

 返事がないので振り返ってみると、祭壇の上のモノはまるで死神に纏わりつかれたかのように青ざめ、小刻みに震えていた。瞳孔の広がった瞳も同じでまるで焦点が合っていない。

 「どうしたの、モノ。モノ?」

 生き物を宿した身とは思えないほど冷たい体温。ファミリアとしての自己が保てなくなってきているのか、身体がわずかに透けており、そしてわたしに一切の反応を示そうとしない。

 「どうしよう、誰か!」

 奇跡を繰れないわたしではどうしたって現状を打破できない。助けを求めて叫んでみても、いままで封印されていたような地下大図書館の深奥になんて人がいるはずもない。

 「う……、」

 脳髄を貫く鋭い痛み。声にならない苦痛に四肢が意識の傘下から外れ、わたしは為す術も無く床に倒れていった。

 ブックカースだ。

 わたしがモノのまわりであたふたしているあいだに、あいつはクリアの禁書があっていい領域から逃れたんだ。吐き気を催すような脳髄の疼痛に沈む中で、ただ領主様に申し訳ないという気持ちが泡のように浮かんでいった。

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