トリブの森・栞・本の夜
2.トリブの森・栞・本の夜
「準備はいいか?」
「う、うん!」
翌朝、緊張と興奮であまり寝られなかったわたしはお日様が昇るよりも早くにベッドから抜け出し、手荷物の最終確認をした。何度見直しても何か忘れているようで、最終的にはチェック項目を紙に作ってまで確かめた。そんなわたしとは対照的に、黒猫さんは約束の時刻を30分も寝過ごした挙句、大教会の大きな鐘の音に驚いて飛び上がるように目覚めていた。
領主様と黒猫さんの件は表向きには公表されていないらしかった。もっとも領主様が来るということで保健室の入り口に集まっていた女の子たちから漏れたことや、わたしが肩に領主バシレウス家の象徴である黒猫のファミリアを乗せていることからだいたいは噂話として広まっているらしかった。
見送りは先生だけだった。
陽が昇り、大教会の鐘が10時を伝えるころ、わたしたちは大教会から一歩を踏み出した。初秋の心地よい風に大教会のまわりの稲尾が揺れ、中心街への長い長い一本道を飾った。
「ここからとりあえず中心街まで女の子の脚で歩くことを考慮したら、五日ってところだ。まずはトリブの森を抜けることに専念しよう。それさえ抜ければ宿が見つかるし、馬車もある。が、森の中で夜を迎えることのないように。多少急いだほうがいいかもな」
あいかわらず黒猫さんは怠け者なのか仕事熱心なのかよくわからなかった。
中心街までの行程をもってきた地図で確かめながら、重いリュックを背負いなおしてわたしは少しだけ早足になった。
「そういえば、黒猫さんの名前っていったい何て言うの?」
昨日の晩から気になっていたことだった。これから――どれくらいの期間になるかはわからないが、一緒に旅をする仲間のことだ。結構話しやすくて仲良くなったような気がしていたが、名前をまだ教えてもらっていないことに気がついたのだ。領主様には黒猫のファミリアとしか言われていないし、黒猫さんは自ら名乗ろうとはしなかった。
何か事情があるのかな、と思ったけれど、意を決して昨日尋ねようと思ったらもう黒猫さんは夢の中に堕ちていた。
「ボクの名前?」
「そう、まだ訊いてないでしょ?」
「名前を尋ねるのなら、まず自分から名乗らなきゃ」
「あら、女性に先に名乗らせるおつもり? それにわたし、名前に関して嫌な思い出があるんだけどなー」
意地悪っぽく言ってみると、黒猫さんは苦虫を噛み潰したような表情になった。
「……名前はまだない」
黒猫さんは居心地悪そうにわたしの肩で身じろいだ。
「ボクは禁書捜索のために呼び起されたファミリアだ。魂の名はあるけど、軽々しく言えるものでもない。いまは君に付いてるから、原則的には君に名づける権利がある」
「わたしに!」
「そうさ、いままでどおり<黒猫さん>でいいだろ?」
「だめ」
「むー、」
「せっかくの名前なんだから、しっかり考えなくちゃだめ」
大教会ではあの隣人のように自分を捨てた親のつけた名前を忌み嫌っている人たちが多くいるけど、名前というものの大切さに関してはたぶんわたしがいま一番よく理解している。自分が透明人間にでもなってしまったかのような感覚。それはけっして気持ちのいいものではない。
「じゃ、じゃあ。ちゃんとしたのをつけてくれよ?」
不安そうにわたしを見上げる黒猫さん。「任せて」と胸を張ってみたがどうも思いつかない。
肩に乗っている彼も名前をもっていない。わたしと同じなのだと思うと、どこか親近感がこみ上げてきた。おそらく世界中の誰もこんな共感は感じ得ないとは思うが、その特殊さゆえにこの黒猫さんには素敵な名前を差し上げたい。
「……1(モノ)」
「安直だなおい、しっかり考えるんじゃなかったのかよ」
呆れたような、がっかりしたような。黒猫さんがわたしの右肩で脱力する。
「しっかり考えたよ! わたしが初めて知り合ったお喋りする猫さんだから、モノ。でも<黒猫さん>よりは、親しそうでいいことない?」
「むー、好きにしろ」
「じゃあ、モノねっ。モノ、」
「恥ずかしいからやめろって」
「誰もいないよ?」
「それでもだ!」
「モノー」
その言葉の響きが耳に心地よくて、そして<黒猫さん>よりは一歩近づけたような気がして、わたしは何度も何度もその名を呼んだ。そのたびにわたしの肩の上で殺人的に可愛らしい小動物がのたうちまわり、わたしはそれをにやにやしながら見つめていた。
「じゃあ。じゃあさ、君の名前はボクがつける!」
何度目かの悶絶の後、反撃とばかりにモノがそう提言した。
「本来の名前はさておき、とりあえず呼称はいるだろ?」
たしかにその通りだと思うのと、<黒猫さん>をモノと無理やり名づけてしまったこともあり、わたしは頷くしかなかった。これからわたしの名前が決まるのだと思うと、なんだかどきどきした。
「……ん。やっぱ名前考えるの難しいなー」
「ちゃんとしたの、つけてね」
「やっぱ自分でつけて?」
「えー、」
がっかりしたが仕方がないので自分で考えてみる。自分のことだからといってあんまり気取った名前なのもよくないし、かといってありきたりなのではつまらない。モノなんて安直極まりない名前をつけておいて、彼には怒られてしまいそうだが。
「なら……、ならね。栞、がいい」
「栞って、あの本に挟む?」
「あの本に挟む、栞だよ」
「一般名詞じゃないか」
「一般名詞だけど」
「それに女の子の名前らしくもない。栞なんてさ」
「じゃあ、セリィとか……、」
「もっと可愛い名前をつければいいのに」
そうだ、まだモノには話していなかった。
雨風を凌げればいいだけの外套の胸元をまくった。荒く、ところどころ糸が解れてしまっている首飾りが見えたはずだ。それをするすると引っ張り出すと、普段はわたしの胸の辺りで揺れているモノが現れる。
それは小さな黒猫の栞だった。猫自体は少し硬いフェルト生地でできていて、長い長い尻尾が伸びている。それが一周して、首飾りの体を成しているのだった。
「それは?」
「わたしが捨てられたときに手に持っていたモノだって」
黒猫は後ろに切れ込みが入っていて本の表紙に止めることができるようになっていた。そこから垂らされた長い尻尾が栞の役割。もっともこれは大事なお守りなので、実際に使ったことはなかったが。
「辛いときとか、哀しいときとか――、エクレシアの中には親を嫌っている子たちも多かったけど、わたしはこれを握ると頑張れるような気がしたんだ。気のせいかもしれないけど。お父さんもお母さんも、きっとわたしが要らなかっただけだろうけど」
ぎゅっと握って、また胸元にしまいこんだ。
「口に出すとどうしようもなくなっちゃうから言わないようにしてるんだけどな、なんかごめん。あんまりこの話も人にしたことがなくて……。モノ、ごめんね?」
モノは――、いつものやる気のなさそうな怠惰な顔ではなく、まじまじとわたしの顔を見てまばたきを数回したのち、急に前を見据えた。
「トリブの森だ、ご苦労さん。ここいらでご飯にしようか」
足元ばかり見つめて一本道を歩いてきたから全然気がつかなかった。両側を挟んでいた畑ははたとなくなり、切り株が残る未開墾の土地が目立つようになっていた。もう少し前に眼をやると鬱蒼と生い茂った木々が見える。いつのまにか南天にたどり着いた太陽の光すら、折り重なる樹木の葉っぱにさえぎられ、童話でよく出てくるような暗い森をイメージさせた。
「ここは大教会側からの開発と、中央街側からの開発のその取り残された場所だ。距離は――そうだな、ここまで来るのに二時間なら、三時間も歩けば余裕で抜けられる。道も踏みならされたものが一応あるからね」
ぴょんとしなやかな動きでわたしの肩から飛び降りたモノは、近くの大きな岩の上で尻尾を振った。
「さあ、昼食を済ませたらすぐに出発だ。のんびりしている暇はないからね、セリィ」
はじめて響くわたしの名。
白紙の上に色とりどりの絵の具を垂らしたような。
そんな色彩がわたしの胸に広がった。
「モノ、ありがと」
てとてとと駆け寄るわたしにモノが微笑んでくれる。
「君がボクをモノと呼ぶのなら、ボクは君をセリィと呼ぼう。やくそく」
わたしが初めて知り合った喋る黒猫、モノ。
そしてわたしが生まれたときから持っていた黒猫の栞によく似た、モノ。
わたしは浮かれた気分を押し込めるので必死だった。
※
「やっぱり暗いね、でも空気が澄んでいて気持ちがいい」
「足元、根が出てるから気をつけろよ」
少しだけパンを齧って、30分ほど脚を休めて、わたしたちは出発した。
「物語や童話でよく森って怖いところって描かれているよね。熊が出てきたり、迷い込んでしまったり」
大教会より外の世界の知識は基本的に本から得るしかなかったわたしには、森というのはそういったイメージしかなかった。モノがいなければきっと子供一人でこんなところにはこなかっただろう。
「女の子が食べられてしまったり」
モノが意地悪な笑みを浮かべて付け加えた。
「もう。あ、そうだ。こんなお話、知ってる?」
二人で黙り込んで歩き続けるのもかえって疲れるような気がしたので、わたしはこのあいだ読んだ物語のお話をした。一字一句まで憶えているわけではないが、わたしはたいして淀むことも詰まることもなく物語を紡ぐことができた。誰かと――、モノ以外の誰かと話をするときはこんな流暢に話せないのに。
それは森に迷い込んだ少女の物語だった。なんだかいまのわたしの状況に似ているから自然と思い出されてしまう。
彼女はまだ幼く、家の近くから綺麗な蝶々を追いかけて森に入ってしまったのだ。蝶々を見失い、ついでに日も暮れてしまったので家の方向もわからなくなってしまった少女は、怪我をして動けなくなってしまっている老人を見つける。自分も一人では不安だし、これから暗くなっている森に放っておくわけにはいかないということで、彼女はその老人に声をかけるが彼は実は――、
と盛り上がったところで、モノが口を挟んできた。
「あ。そのお話知らないけど、知ってるよ」
よくわからないことをいうので首を傾げると、モノは器用に前脚で前を指した。根っこに脚を取られないように注意して下を向いて歩いていたわたしは、モノの示した方向に眼をやった。
「こういうことでしょ?」
そこには――、動けなくなってしまったのか、木にもたれかかってこちらを見つめている青年がいたのだ。
「……!」
驚きのあまり声が出ず、口をぱくぱくさせるしかないわたしを覗き込むかのようにモノがにやにやとしていた。さっきの物語が頭を巡る、あれはどんな終わり方だったっけ。
「おお良いところに来てくれた。お嬢さん、少し助けてはもらえないだろうか」
暗い森の中で一人でいたというわりには怪しい雰囲気ではなく、温和で聡明そうな青年だった。訊けば、木の根に気づかずに脚を捻ってしまったらしい。日が暮れて危険になる夜を前に、青年は動けないまま不安を抱いていたらしい。
「セリィでもこけなかったのに、君はずいぶんとドジなんだね」
ずいぶんと失礼なモノの物言いに、わたしは頬を膨らませてみせた。
「喋る黒猫……、バシレウスのファミリアか。おお、初めて拝見する。さぞ高名な宮廷修道士なのだろう、是非奇跡でこの脚を治していただきたい!」
青年は満面の笑みを浮かべて喜んでいたが、わたしたちは何ともいけない気まずさを味わった。本来なら、エクレシアの寮の隣人のような傑出した天才のみに許される宮廷修道士。わたしのような例外でなければ、そういった人にこそ誉ある黒猫のファミリアは授けられ、そしてそれはそのまま地位と才能の証となる。
――のだけど。
「あのね、ちょっと話が込み入ってしまうんだけど。単刀直入に言うとセリィは……」
「こんなにも幼いのにバシレウスに仕えるとは。いや、才能というものはあるのだな。姉は天才と呼ばれていたが、わたしはからっきし。初等の治癒すら失敗する始末だ。しかし貴女ならこんな捻挫すぐに治してしまわれるのでしょうな」
気分が良くなったのかまくしたてる青年と、取り返しのつかないほどに進んでいってしまった誤解に、モノが苦そうな顔をして頭を抱える。その姿は可愛かったが、そんなことよりわたしを頼ってくれているこの人に、領主様からこの仕事を賜ったときと同じような感覚を抱いていた。
「……人の話を聞こうよ。セリィは奇跡なんて」
「いいでしょう」
まるで自分じゃないような自信たっぷりの声が喉から溢れた。
「むやみに奇跡を使ってはならぬゆえ、簡単な治癒でよければ施そう」
「ちょ、セリィ……!」
「眷属は黙っていなさい」
「けんぞ……」
少なくとも三回は読んだ、国々を遍歴するある天才修道士の物語を思い出していた。彼女は行く先々で奇跡を使って困っている人々を助けながら、小龍のファミリアと共に旅をしていた。アナトリア。
エクレシアの落ちこぼれは、いま人を助けることを生業とする宮廷修道士になった。そう、思い込む。
――出来るとイメージできることが大切。
それはいつまでたっても奇跡を使えなかったわたしに先生が何度も言い聞かせていたことであり、そして級友たちがいつも仲間内で言い合っていたことだった。奇跡は信仰と意志に依るものだから、もちろん技量を磨くための努力や、奇跡に同調できる才能は必要だが、最終的に重要なものは自信なのだそうだ。
「傷を見せてごらんなさい」
「ありがたい、御礼は弾もう」
「お気になさらず、わたしは為すべきことをしているだけ」
こういう台詞はすらすら出てくるんだなあ、自分で苦笑をする。
青年が裾をめくった脚には青いあざが生々しく残っていた。これでは歩けない。こうして人通りのあるところで動けなくなっていたのは不幸中の幸運といえる。
わたしは集中して、両の掌を青年の患部にかざした。青年の期待に満ちた視線と、モノの不安そうな息遣いがこころに刺さるようだったが、眼を閉じてできるだけ意識しないように心掛けた。
――わたしは、出来る……!
そう強く思い込んで、ふっと息を止める。
おそるおそる片眼を開くと、かざした両手のあたりに無数の光の円が煌めいていた。紅葉のような赤を主として微妙に色彩の異なるものも交じって、わたしの掌と青年の傷口までの空間に展開されていた。
「おお」
そんな嘆息を漏らしたのは、モノかわたしか。
いままで級友たちのを指をくわえて羨ましそうに見つめているしかなかった円環が、わたしの目の前に広がっているのだ。エクレシアの就学年齢に達してからいままでずっとできなかったこと、ずっと夢見ていたこと。突然胸がいっぱいになって、叫び声をあげて飛び跳ねたくなった。
――と、思ったとたん、
「あ、あれ?」
まるで霧の中に消えるかのように、色とりどりの無数の円環は消失してしまった。奇跡が発動したわけではない、だって青年の脚にはまだ見ているほうが痛いほどの痣が残っている。
さーっと血の気が引いていく。
背中を嫌な温度の汗が伝わった。
「あ、っと。その、」
「どうしました?」
何か言わなければと思ったが、青年の少しもわたしを疑っていない表情を見てしまうと、もう何も言えなかった。当然だ。バシレウスのファミリアを連れておきながら、初等治癒の奇跡すら使えないなんて笑い話にもならない。
モノがわたしの右肩でおおげさな溜息をついた。
「……す、少し風邪気味で調子が」
「なるほど」
わざとらしく咳払いをして、もう一度掌をかざす。
いままで何年も頑張ってきて出なかった円環を展開できたのだ。スランプは一度突破すると上達は早いという。生まれてこのかたスランプな人生だったが、きっと次は……。
「むー」
けれど、わたしの期待とは裏腹に今度は円環すらも展開できなくなっていた。赤色の極小の円が眼を細めれば見えなくもなかったが、こんなでは何の役にも立たない。
「ううぅ、」
「もー、仕方がないな!」
少し涙声になりつつあったわたしを見かねてか、モノがぶつくさいいながら肩から飛び降りた。
「話を聞かなかった君も悪いんだからね!」
青年の脚の痣をモノは睨みつけるように見つめる。全身の毛が逆立って、尻尾がぴんと跳ねたと思ったら、モノの眼前に10個は超える大小の円環が湧き出るように形成された。それぞれ回転しながら存在を維持し続ける円環は青年の痣にぶつかるように弾ける。残滓が消える頃には、すでに痣はなくなっていた。
奇跡と呼ばれるもの。
円環の色はエネルギーに対応している。緑色の円環は、わたしがかろうじて展開できた紅色の円環よりも遥かにエネルギーが高い。
「これでいい?」
何事もなかったかのように悠然とわたしの肩に戻るモノ。バシレウスの紋を授かった宮廷修道士が、その眷属に助けられたという状況に、ただ唖然とするしかない青年。
「あの……、ごめんなさい」
きっと耳まで真っ赤になってる。
「わたし、奇跡使えないんです!」
※
それからモノとわたしで拙い説明をして、何度も何度も謝った。モノが意地悪で、「簡単な治癒でよければ施そう」だとか、「眷属は黙っていなさい」などとモノマネをするので、何度絞め殺してやろうと思ったかわからない。
一応、禁書に関することだけは伏せておいた。エクレシアから盗まれた、とある本を探している。それは領主様の頼みであって、随伴として黒猫のファミリアであるモノが与えられた、と。
青年は苦笑をしながらも、「脚はきちんと治して貰ったんだ、お礼をしなくてはな」とここから少しいったところにあるという家に招待してくれるという。
「そんな、いいです」
と、早くこの場を立ち去りたいわたしは断ったのだけど、モノは首を振った。
「ここで手間取ったせいで、いまから出発してもトリブの中で日没を迎えてしまう。気温も下がるし、なによりただでさえ暗いトリブの夜をセリィが抜けられるとは思えないね」
「では、そういうことでいいかな?」
わたし抜きで話は進んでしまい――、そもそも悪かったのはわたしのほうなので、とぼとぼと先をゆく青年についていった。
「にしても、びっくりだな。バシレウスのファミリアを見れただけでも驚きだってのに、あのエクレシアの修道士が奇跡を使えないなんて」
「……ごめんなさい」
自分でもひいてしまうくらいの暗くてじめじめした声が漏れてしまった。
「あ、いや。嫌味ではないんだよ。僕も奇跡の才能には恵まれなくてね、そのぶん姉が天才肌だったから比べられちゃって。上達しようにもどうしようもない気持ちはわかるよ。だから頑張るんだけど、なかなかうまくはいかないよね」
エクレシアの寮での生活はまさに生存競争と言ってもいいようなものだったので、こんなふうに共感されたことはほとんど生まれて初めてのことだった。
無造作に地面を突き破ったり這ったりしている根っこを二人してかわしながら、少しずつトリブの森を進んでいく。
「あ、あの」
「ん?」
「トリブの森の中に住んでいるんですか?」
青年は微笑みながら、進行方向を指さした。
「うん、もう少し進んだところに一人で住んでいる。このあたり歩きづらいけど大丈夫?」
「はい、ありがとうございます」
「そういえば、名前を伺っていなかったね」
<名前>という単語に胸が震えた。
「僕はロクリア、君は?」
「……セリィ、です。栞」
「へえ、変わった名前だね」
もっと普通の名前をつけたほうがよかったのだろうか。
「ボクはモノ。森に住んでいるなら、あんな初歩的な怪我しないでよね」
わたしの右肩で毒舌を吐くファミリアに内心冷や冷やした。
「はは、君の言う通りだよ。今日は街で珍しい本が手に入ってね、少し浮かれてしまっていた」
モノが一瞬身構えたのがわかった。
「本、ですか」
「僕は中心街で本を売ることで生計を立てていてね。君は本は好きかい?」
「はい!」
力強くうなずくと、ロクリアさんは愉快そうに眼を細めた。
「そうかい、ならきっと僕の家は気に入ってくれるはずだ」
「お菓子の家じゃないだろうね」
「まさか。そんなにお菓子があったら、お菓子屋を営んでいるよ」
「セリィ、ごちそうを出されたら警戒するんだぞ」
「バシレウスはこんなに猜疑心が強いのかい?」
「……珍しい本ならさぞ高く売れるんだろうからな」
「どういう意味だい、黒猫さん?」
こんなことを話しながら、ロクリアさんが倒れていたところを出発してからおよそ30分ほど歩いただろうか。突如拓けた場所に出たわたしたちを迎えてくれたのは、小さな煉瓦の小屋だった。赤いお洒落な家。
「立派なお家ですねっ」
「昔は姉と住んでいたのだがね。さ、広くはないが入ってくれ」
お行儀が悪いとわかってはいるが、じろじろと見渡してしまう。
扉や壁も汚れてはいないし、蝶番やノブも錆びていない。ロクリアさんがマメに手入れをしているのだろう。いまだになんだか不機嫌そうなモノを肩に乗せて(自分が言い出しっぺのくせに)、わたしは扉を抜けた。
「わあ……」
そこにあったのはわたしを眠らせるためのご馳走ではなく、もちろんわたしを誘うためのお菓子の山でもなく――、
本の山だった。
壁一面に書架が取り付けられていて、すきまなくびっしりと茶色の背表紙をこちらに向けている。それだけではなくて移動式の書架がその前面に二層、それでも収まりきらないものは机の上に積み上げられていたり、――図書館に入り浸っていた者としては少しだけ許せないことではあるけれど、床にもうずたかく積まれていた。
100とか200のレベルではない、もしかしたら1000に届く本の家。
「きゃー」
「お、おい。セリィっ」
息が詰まるような幸福感に見舞われたわたしは、とりあえず机の上に積まれている本を一冊一冊眺めて回った。頬がにやけるのが止められない。ただでさえ幸せなのに、ここにあるものは見たこともないようなタイトルのものだった。聞いたこともない作者の名前も並んでいる。
「すごいだろ、街で注文を受けたらここから運び出す仕組みなんだ」
「はい、すごいです。あの、これ読んでもいいですか!?」
「<人形工房物語>かい、どうぞ。僕はそのあいだに料理でもこしらえるとしよう。お互い長旅で疲れているからね」
手にした本は100ページくらいの中編小説。作家名は聞いたことがなかったけれど、牧歌的な雰囲気の物語らしく好感が持てた。
「ところで、夕食はシチューでいいかな?」
石畳の街に、大きな教会。設定は現代らしく、そこに自分で考え動く機械である<人形>を放り込んだ物語だった。
「ざんねん。セリィにはもう聴こえちゃいないよ」
「ふふ、本当に本が好きなのだな。連れてきてよかったと思うよ」
いつのまにか漂ってきたシチューの柔らかな薫りが鼻孔をくすぐった。そういえばお昼に少し食べたきりで、少々お腹が空いていることを思い出したが、それはわざわざ頁をめくる手を止めるほどの衝動ではなかった。
※
幕間:黒猫と本屋
「おやおや、」
ボクはセリィの肩に乗ったまま、シチューの美味しそうな香りに包まれながら、小説を横から読んでいた。そんなにまで面白いお話なんだろうか、寝食を忘れて――っていうのはこういう状態のことをいうのかもしれない。セリィにとって、物語を摂取することは食事や睡眠に匹敵、あるいは勝るものなのか。興味深くて面白いからいいのだけど、それは生物としてどうなのとファミリアが突っ込んでみる。
「すー」
そのセリィはいま、薄い小説を半分くらい読んだところで力尽きてしまったらしい。机の上に積まれた本の山に顔をうずめるようにして――、あるいは本の海に溺れるかのように深い眠りに落ちてしまっていた。
「さすがに旅の疲れと、緊張には勝てなかったみたいだね」
それがなければ、余裕で朝まで読んでいそうで怖かった。いまは特殊な状況下に置かれてはいるが、セリィという少女にとって物語は生き物としての欲求の一つに平等に認識されているのはちがいなさそうだ。
「セリィちゃんは眠ってしまったのかい」
ロクリアが木の皿に盛られたシチューとパンを食卓に並べる。物語ではちっとも満たされないボクは、シチューの立てる白い湯気にお腹を鳴らした。
「バシレウスのファミリアが腹の虫を鳴らすなんてな、レストランを開いたら評判になりそうだ」
「うるさいな。旅の準備やセリィに突っ込みを入れるので疲れてるんだよ。そんなお前こそ森の中で飢えてるからって、セリィに手を出すんじゃないぞ。ボクはずっと起きてるからなっ」
恥ずかしさを隠すために威嚇をしてみたが、ロクリアは笑うだけだった。
「あいにく、僕はシスコンでね。姉以外には特にそういった意味では興味はないよ、それにセリィちゃんはまだ少女に脚を踏み入れたくらいじゃないか」
「それで胸を張るのは、人としてどうかと……」
「セリィちゃんに手を出すよりはマシではないかな」
「……くしゅん」
セリィが寝ながらくしゃみをした。器用なヤツ。
「さて。君たちの探している本というのはどういったものなのかな? 僕でよければ相談に乗るが」
「相談ねえ。君のような一介の本屋には関係のない話なんだけど」
ロクリアが黙りこむ。こちらを値踏みするような眼で見つめてきた。
「なんだよ」
「あのエクレシアで盗まれたということ。貴重な1点物だとしてもバシレウスが出てくるのは不可解だ。――グリモアだね、それもかなり特殊で危険な」
「……」
しまった。
こいつは思っていたよりも頭もいいらしい。セリィから本の盗難に関する顛末を聴いたときに、こいつは何も訊ねなかった。ボクの存在も一通り常識の範疇であるリアクションをしただけで、まったく追及はしてこなかった。
それをセリィがいなくなった途端に切りだす。
セリィは何も知らないと思っているのか、セリィから聞き出すのは心苦しいのか。いずれにせよ、こいつ相手には隠し事はできないらしかった。
素直に話したほうがよさそうだ。
――いや、彼のシチューが美味しそうだからではなく。
「黒猫さんは顔に出てしまうタイプみたいだ。話したくなければ話さなくていい、僕が勝手にしゃべり続けるだけだ。ああ、シチューも冷める前にどうぞ」
「……いただきます」
――いや、これは相手の油断を誘うために従ったのであって。
ロクリアもパンを千切って口に運びながら、知的な笑みを浮かべた。
「そんな本がもし実在するのなら、是非お目にかかりたいところだ。仕事柄、面白い本に目がなくてね。さすがにセリィちゃんには負けるが」
「奇跡の才能に恵まれなかったんだろ、グリモアなんて読めないさ」
「姉さんがエクレシア出身でね、よく教えてもらっていた。実技はともかく、座学と読書は得意だ」
「エクレシア? ってことは、年齢的にいまはどこかの修道士か」
「いいや、お空の向こうだね。あるいは僕の胸の中だ」
「そうかい」
「お気になさらず」
猫舌には少々熱すぎるシチューに息を吹きかけて、少しずつ舐めていく。ロクリアという目の前の青年のことはまだ信用してはならないとは思うが、旅の初日からこんな暖かな食事に出逢えるなんて幸運だ。
「話を戻そうか。それほどのグリモアを捜索するのに、奇跡に恵まれない少女と少し間の抜けているファミリアに頼まなければならないほど、この都市は行き詰っているのかな。本来ならば、バシレウスが動くんじゃないか?」
「誰が間抜けだって」
「失礼。あんな年端もいかぬ少女に旅をさせて、彼はどういうつもりなのかと思ってね」
食事を終えた彼が皿とスプーンを返しに席を立った。まったく悪びれもしない食えない背中に声をかける。
「セリィはいまその本のブックカースを受けているんだ」
「ブックカース」
ロクリアが台所に皿を置く音が聞こえ、今度はチェス盤を持って現れた。
「なるほど。それほどのグリモアならば、単なる脅しではないブックカースがかけられていてもおかしくはない。たしかにブックカースはかけられた者が本を返すことで解呪できると言われているね――どうだい、ついでに一局」
「セリィは記憶をなくした。……本来ならば、人格が崩壊するほどの精神的負荷がかけられているはずなんだけど、運がいいのか、彼女は名前を失くすだけで済んだ。顕在していないだけで、もっといろいろ忘れているかもしれないけどね。――悪いけど、ボクはチェス強いよ」
一滴残らず舐めた皿を突き返す。
「名前? セリィというのは?」
「6時間前に決まったばかりの呼称。エクレシアでは✕✕✕✕と呼ばれていたね、それが親に付けられた名前かどうかは知らないが」
ロクリアは不可解そうに眉をひそめた。
「……偶然か」
「ん、なにが?」
「いや。そんな目に遭って……、見かけに反して強いな」
感慨深い表情をしながらも、ロクリアの第一手が打たれた。
「……ああ、ボクもそう思うよ」
「しかしブックカースというのは、その本を盗んだ者にかけられるのでは?」
「特殊でね、最初に頁を開いたセリィが認識されてしまったみたいだ。」
「可哀そうに」
当の本人が本の山に埋もれたまま、実に幸せそうに眠っているのが少し格好つかないが。
「それで君たちはトリブの森を抜けてどこへ? 何か心当たりや証言でもあるのかな?」
「とりあえずは中心街へ。何も得るものがなかったら、第二の大教会に向かおうと思っていた。領主様が検問を敷いてくれたおかげで、この都市より外は考えなくてもいいだろう」
「中心街、クリア大教会か。ちょうど僕も用事があるのだけど、同行してもいいだろうか。本を数冊頼まれているし、いくつか仕入れたいものもある」
「一緒に行く必要はないだろう」
「旅は多いほうが楽しいさ」
盤の上は中盤戦。ロクリアのナイトがボクのポーンを切り払う。
「それにバシレウスの紋と一緒にいれば、諸経費には困らないだろう?」
「やっぱりそれが本音かい。でも、それを隠すようだったら絶対に断るつもりだった」
「それはそれは」
「でもボクはあくまで補佐だから。セリィがいいっていうなら、いいよ」
「では、明日の朝に訊ねるとしよう。黒猫さんは朝まで眠らずにセリィちゃんを護ると言っていたから、今晩は退屈しなさそうだ」
「う、」
変なことを言うんじゃなかった。
ファミリアは生物ではないが、記憶の整理や休息のための睡眠を取らなければならない。素材が違うだけで、基本的な生理的現象は普通の生物と同じなのだ。
「チェスがお強い黒猫さん、お手柔らかに」
そう言って、ロクリアはまたしてもボクの駒を薙ぎ払った。
――今晩は喋りすぎたな。
ちょっとだけ反省をして、ボクは盤の上の戦争に集中した。
「でもお前、脚の怪我わざとだったろ?」
「ご明察」
※
「んー、」
まどろみのなかで、古い本に囲まれている薫りがする。
そうか、また大図書館でうたた寝をしてしまった。もう今月で何回目なんだろう。ただでさえわたしの成績や実力に呆れている先生は、もう叱ってもくれないかもしれない……。
顔に陽光が当たっているであろう暖かみが感じられた。ピチチチ、と鳥が囀るのも聴こえる。シチューの香りもする。朝だ。起きなくちゃ。
「うん?」
身体が重い――、というかこれは筋肉痛と呼ばれるものだった。脚がだるい。それに椅子に腰かけている状態で眠ってしまっていたようで、腰や枕代わりの腕が痛かった。昨日、身体を動かすことなんてあったっけ?
って。
陽光?
囀り?
シチュー?
そんなのが大図書館にあるわけない!
「あっ、」
「おはよう、セリィちゃん」
ロクリアさんに声をかけられてようやく現状を理解した。そうだ、わたしはエクレシアを出て、モノと友達になって、森を抜けようとしてロクリアさんに出会ったんだ。もうここは、産まれてから――いや、捨てられてからずっと育ってきたエクレシアではない。
「どうしたの。ほら、濡れタオルがあるからとりあえず顔でも拭いて」
「あ、ありがとうございます」
「よだれの跡もね」
「……っ!」
真っ赤になった顔をタオルで覆いながら、わたしは昨日読んでいた本のことを思い出していた。<人形工房物語>。途中までは憶えているけれど、そこからは記憶が曖昧。机の上で眼がさめたこともあって、途中で寝てしまったんだ。
「そういえば、モノは?」
「ああ。彼なら、」
タオルから顔を出して、食卓のほうを見るとチェス盤の上に黒い塊が転がっていた。まるでどうしても勝てなくなったゲームをひっくり返そうとして、ゲーム中の盤に飛び込んで力尽きたかのような。ロクリアさんの仕業だろうか、絶妙なバランスでモノの身体の上に駒がいくつか乗っていた。
「こんな読み合いで僕に勝とうなんてね。バシレウスも大したことない」
「夜通しやっていたんですか?」
「モノが寝ずに君を護ると言っていたからね、暇つぶしにと」
「護る? こんな頑丈な家に森の獣は入ってこないでしょう?」
ロクリアさんは何とも微妙な顔をした。
「彼曰く、男は時として森の獣よりも怖ろしいのだそうな」
「はぁ」
モノはむかし男の人に何かされたのだろうか……?
「チェスの勝敗は?」
「彼の名誉のために伏せておくよ」
まあ、言わなくても分かる気がする。
「昨日食べられなかったシチューを温めておいた」
ぐう。
森に入る前にパンを食べたきりだということを思い出して、わたしの身体は恥ずかしながら素直な反応を返した。
「それと朝食を食べ終わったら、荷物をまとめるといい。読みたい本があったら持っていっていいよ。これから君たちに同行することになったからよろしく。やはり本屋として気になるからね」
「ロクリアさんが?」
「モノも同意している、彼が起きたら出発としようか」
本当はまだ大人の男の人に慣れていないせいもあって不安ではあったけれど、それでも世間知らずの少女とファミリアの心細い旅よりは安心というもの。それにきっと二人っきりよりは三人のほうが楽しい旅になるにちがいない!
追記。
美味しいシチューを食べた後に、好きな本を持っていっていいという言葉を忘れていなかったわたしは書架単位で本を選んでロクリアさんを苦笑させた。せめて五冊ということで、一時間を掛けて選別を行った。
「……もう一勝負!」とモノが跳ね起きたころにはもうお昼時になっていた。




