エクレシア・翠の禁書・旅のはじまり
わたしは物語に恋をしていた。
こんな場所でないどこか、こんなわたしではない誰か。
文字が紡ぎ出す幻想の中に、わたしは嬉々として溺れていった。
わたしはわたしが嫌いだった。
これは名を失くしたわたしの物語。
これは存在意義を与えられた黒猫の物語。
これは喪失を灯し続ける本屋の物語。
これは太陽に焦がれた夜の娘の物語。
これは大切なものを取り戻すための青年の物語。
そしてその物語は――。
『黒猫の栞』
1.エクレシア・翠の禁書・旅のはじまり
「さぁ、疵を見せてごらん?」
アナトリアは装飾が施された掌をかざした。彼女が何かつぶやくと、掌から美しく輝く青色円環が生成される。<奇跡>の質は赤や橙を底として、緑、青になるにつれて上級になるとどこかで聴いたことがあった。青まで製錬出来るものは世界に数人もいないとも。
「疵が治っていく……、すごい」
少年は初めて見る<奇跡>と呼ばれる現象に目を丸くした。自然界では絶対に有り得ない光景。数週間におよぶ自然治癒を、たった数秒に凝縮したかのような、まさに<奇跡>。
「……我々は先を急いでいるのだが」
彼女の肩にとまった小龍が愚痴をこぼした。「困ったときはお互い様でしょ?」とあどけない笑みを見せるアナトリアだったが、依然として手元には青色円環が維持されている。
「戦争も交渉も待ってはくれないのだぞ?」
「もう、これくらい罰は当たらないって」
「アナトリア、我々が負っている任務はだな――」
「わかってるって。それにね」
そしてアナトリアは悪戯っぽく笑う。
「あなたが例の妃の弟さんでしょう?」
彼女の瞳はまるで万物を見通しているかのようで、少年はただ頷くことしかできなかった。
※
「まったく。何を読んでいるの?」
突然、後ろからクリス先生の声がして、わたしは稀代の天才修道士アナトリアではなくなった。授業で使うグリモアと呼ばれる教科書を盾に物語を読んでいたのだけど、熱中しすぎてしまったようだった。すでに座学の時間は終わり、みな実習の準備をしている。
「……ごめんなさい」
「<奇跡>が苦手なのもわかるけど、だからこそ練習しなければうまくはならないのよ?」
はい、と聞こえるか聞こえないかの返事をして、わたしは鞄に本を隠した。表紙の感触を名残惜しく確かめてから、グリモアを持って立ち上がる。
孤児を集め、<奇跡>の教育を施す大協会エクレシア。
授業は年齢などおかまいなしに能力別に区分され、わたしはそのほとんど最下層のクラスにいた。授業をまったく聞かずに、実践などできるわけがなくーー、
「むー、」
精神を集中して、手のひらを虚空に向けるが何も起こらない。今年で五つになる子供でさえ、オレンジに輝く小さな円環を生成出来ているというのに、12のわたしは何をやっているのだろうと泣きそうになってしまった。
「あら、<悪魔>が唸っているわ。怖ろしい」
明らかにわたしに向けられた言葉であったが、聞こえないふりをする。まぶたを閉じて、昨晩読んだ物語を思い出せば、それくらい容易だった。というより、それくらいできなければ、きっとわたしは潰れてしまっていただろう。わたしはアナトリア。稀代の宮廷魔術師。
ここ、エクレシア大教会に預けられた孤児たちは奇跡を勉強して修道士となり、その地域での病気の治療や困っている人たちを助けたり、人々のために奉仕をしなければならない。
家や馬車に加護を与えたり、豊作の祈祷だって欠かすことのできない仕事だ。
<奇跡>というのはそのために必要な技術であり、大教会における絶対的な価値観でもあった。
捨てられた、あるいは天涯孤独となってしまった身に選べる道は少ない。だからみんな一生懸命に勉強をするし、努力によって伸ばせる素養を伸ばしていく。神の前とはいえ、少年少女には過酷な生存競争の日々が待っていた。もっともわたしはその競争にすら参加させてもらえなかったわけだが。
そして思春期の少年少女は素直で、残酷だった。
親を亡くした、あるいは親に捨てられた子供であることを考えると、もしかしたら自分より格が下の人間を見て安心するのかもしれない。わたしは笑われているあいだ、顔を赤くして嵐が過ぎ去るのを待つばかりの無力な子供だった。
そんな自分が大嫌いだった。
「すみません、いいですか?」
夕食が終わり、お祈りが済むと、わたしは決まって大教会地下の大図書室に通っていた。司書はわたしの担任の先生が務めているので出入りはほとんど自由だった。
「こんばんは、いらっしゃい。ほんとに本が好きなのね」
好き、というよりはもはや中毒といったほうが正しいのかもしれない。
閉じ込められたここではない、自由などこかへ連れて行ってくれる――、あるいはどうしようもない堕ちこぼれのわたしを、未来に希望を灯した主人公のだれかにしてくれる、それこそ文字通り奇跡の産物。それが本であり、わたしをどうにか繋いでいる細い命綱だった。
「そんなに本が好きなら、修道士ではなくて司書になってみなさんのお役に立ってもいいのよ?」
と先生は最近よく薦めてくれるが、わたしにはどうしても首を縦に振ることができなかった。それでは奇跡を諦めることになる。奇跡を繰れないわたしを認めることになる。大嫌いなわたしを。
そうしたら、もうどんな物語にも自分を投影できないような、そんな気がしたのだ。
「ごめんなさい」
とぼそぼそ謝るわたしに、先生は何か言いたげな視線をよこした。それから逃げるようにわたしはこそこそと暗い図書室の奥へと走っていった。
わたしの背丈の二三倍はある本棚にはさまざまな書物がぎっしり。それこそ、梯子を駆使しなければならない高さまで詰まっている。地下いっぱいに広がった大図書館を埋め尽くすばかりの本棚に、数え切れないほどの本が納まっているのだ。悲劇や喜劇やロマンスや英雄譚が、まだわたしに読まれていない物語たちが眠っているのだ。それを思うと、息が詰まって胸が高鳴った。
そうだ、これは恋なのかもしれない。
夜はなにかしらの本を読まなければ落ち着かず、ついつい夢中になってしまうときには寝ることすら忘れてしまう。物語の世界に入り浸っていたせいで授業に遅刻してしまったことは、今月だけでも片手では数え切れないほどだ。
時代を思わせる古びた紙質が好き。星屑の光で、ベッドに腰掛けながらそれを撫でるだけで今日あった嫌なことはすべて忘れられる。
誰かが一字一字書き写したその想いが好き。活版印刷なんて驚くほど便利なものが都市では開発されたらしいけれど、それではきっとダメなのだ。何時間も何十時間もかけて写したもの、大図書館の陽の当たらないところで下手をすれば何年も何十年も眠っていたであろう物語、それに触れるときわたしは恍惚にも似た昂ぶりを覚える。
実際の恋というものをしたことはなかったが、きっとみなが語るそれはこういう感情を言うのだろう。
――今日は何にしようかな、
唇に指を当ててふらふらと本棚の迷路をさまよい歩く。至福の時間だ。
昨日読み終わってしまった本で本棚を一つ片付けてしまった。順当にいけばその隣の本棚ということになるのだろうけれど、それではあまりに芸がないように思える。ここは思い切って、一番奥から攻めてみるとしよう。
鼻をつく、黴と埃の匂い。
蝋燭を片手に暗闇を切り裂きながら、わたしは大図書室の突き当りまで進んだ。
広大、というのは誇張ではなかったようで、端から端まで歩ききったころには脚はもう疲れてしまっていた。白いローブは埃で汚れてしまっているし、途中の蜘蛛の巣にも何度も悩まされた。帰り道も方角がわかっているとはいえ、ここまで来るとさすがに心細くなってしまう。
それでもわたしの脚が動いたのは、途中で級友(だった人たち)のあいだで流れていたある噂を思い出したからだった。それは、大図書室には誰にも読まれたことのない本が眠っているというもの。一週間もすれば、その本を読めば願いが叶うだとか、好きな子と両想いになれるなんてロマンチックなものになってしまっていたけれど。
そういった艶やかなものを抜きにして、もしそんな本があるのなら是非読んでみたかった。わたしが最初の読者になれるのなら――、誰かが書き写した想いの最初の受け取り手になれるのなら、こんなに幸せなことはないから。
みんな授業の予習や復習や色恋沙汰で忙しいのか、すぐにそんな噂は飽きられてしまった。根も葉もない噂だったのかもしれない、誰かが暇つぶしで作り出したものなのかもしれない。けれど、火のないところに煙は立たないとも言う。行ってみればわかること――、とわたしは何度も引き返したくなるようなこの暗い道を、蜘蛛の巣を払いのけ、蝋燭を持つ手を震わせながらやってきたのだ。
「これって……、」
何時間歩き続けただろうか。
小刻みに揺れる蝋燭の灯火に照らされている、萌える草原を映したような翠の本が一冊。拒絶の輝きを見せる黒曜石の台座に護られるように、その見たこともない装丁の本は孤高の存在感を放っていた。
ここまであった蜘蛛の巣もこの一区画にはまったく見当たらない。床の埃を見る限り、何年も誰も脚を踏み入れていないはずなのに、なぜだかここだけは神聖な何かであるかのように塵一つすらも拒絶していた。
「本当にあったんだ」
わたしの瞳はもうこの本だけに囚われていた。
それだけの抗いがたい魅力が、この翠にはあった。
わたしが最初の読者になる物語。
わたしを待っていてくれた物語。
冷たくなってしまった手を、焔に誘われた羽虫のように差し出す。
――ぱりん。
何かが砕け散るような、そんな音が身体に響いた。
一瞬だけだったけど、指先に燃えるような熱が走った。
しかしその衝撃もすぐに治まり、わたしはおずおずとその本に触れる。
想像していたよりもずっしりと重い。
この保存状況、この質感。紙からしてちがうのかもしれない。それにしてもこれほどまでに大事にされた本がいままで誰の眼にも触れなかったことが不思議でたまらなかった。これはこんな大図書室の一角で眠っていてよい本ではないような気がする。
表紙に描かれた瀟洒な文字に眼をやる。
それはこの国で日常的に使われている文字ではなかった。奇跡を繰るときに必要とされる記号群。わたしは初歩の初歩の授業しか受けていなかったために、読めるものはいくつかしかない。
きっとこれはグリモア(魔導書)と呼ばれる類の書なのだろう、そこに描かれているのは物語ではなくて、奇跡の方法論であり、哲学だ。普段ならば、気にも留めずに書架に戻してしまうようなものだったが、この奇跡的な出会いを無下にできるはずもない。
先生に相談しながら少しずつ解読を進めよう。そうだ、帰りにいくつかわたしでも読めそうな入門的なグリモアを借りて――。
「うぁ……!」
その本を小脇に抱えて、身体を翻した途端、わたしの頭を衝撃が走った。脳髄を直接わしづかみにされるような、生理的に受け入れがたい怖気の走る感覚。一歩踏み出そうとしたわたしの身体だったが、脚がついてこなかったためにそのまま倒れてしまった。
冷たい廊下、消えた蝋燭。
独りぼっち。
意識に靄がかかったようにすべてが曖昧になっていく中で、わたしは誰かの声を聞いた。
そんな気がする。
※
「すみません、私の注意不行き届きで……」
眼を醒ますと、わたしはベッドに横たえられているようだった。まだ頭は朦朧としてずきずきと痛む。
「本当になんと申し上げたらよいか――」
さっきから聞こえていたのは、わたしの担任の先生の声だった。ここまでおどおどしているのも珍しい。そんなにわたしが悪いことをしたのだろうか。だったらすぐに謝らなくちゃ。すでに反射的になっている思考で、わたしは跳ねるように起き上がった。
「おや、どうやらお目覚めのようだ」
聞きなれない大人の男の人の声がして、わたしはどきっとした。エクレシアにはまだ男女と区別できないくらいの少年しかおらず、大人の男の人といえば司教様くらい。ミサなどで見かけるくらいで、直接声をかけられるなんて経験はほとんどない。
寝起きでいまいち焦点の合わなかった瞳が、ようやく景色を紡ぎ出した。
エクレシアの寮にある保健室。
一面を綺麗なベージュ色で囲われた四角形のその部屋。わたしは窓際のベッドに横たえられているようだった。部屋の中央の応接用のソファには担任の先生と、身なりの整った青年の姿。
「やあ、気分はいかがかな?」
青年は嫌味でないシックで瀟洒な衣服を身につけていて、清潔感もある。こちらへよこす視線の動かし方にも、ソファへの座り方にしても、一つ一つに作法があるかのように流麗にこなす。育ちの良さがうかがえた。
きっと物語に出てくる皇子様というのはこういった人のことをいうのだろう。
なにか早く応えなくてはと思うのだけどエクレシアにこもってばかりで、あまり男の人というものに慣れていなかったわたしはどきまぎしてしまった。とっさに言葉が頭に浮かんでこない。
「……やはり言葉も記憶も失われていたか」
先生もその男の人も憐みを孕んだ視線をわたしに向ける。
――そんな目で見なくても。
わたしは猛烈ないたたまれなさを感じて反射的に俯いてしまった。
あ。
そうだ。
あの人をどこかで見かけたことがあった。
あれはいつかの収穫期。祭司として正装をして儀式を行っていた人だ。人ごみが苦手だったわたしは、ものすごく後ろのほうから眺めているしかなかったけれど、月下に映えるその姿はまさに神話の再現としか思えなかった。そうだ、あのときの――、
「領主さま!」
どうして忘れていたのだろう。
三つの大教会を束ねる、この都市の領主さまではないか。都市内の治安や行政だけでなく、周辺都市との外交に関しても類まれな手腕を見せる、バシレウス稀代の領主。その見目麗しい外見に惚れこむ少女も少なくはなく、よく寮の女子たちも夢想を語っていた。そんな御方がこんな近くにいるなんて……!
先生と領主様は眼を見開いて、驚いた表情でわたしを見つめていた。
「君、私のことがわかるのか?」
「え、あ。はい」
知らないということがあるのだろうか。
さっきは頭が朦朧としていて、そしてなによりあまりに場違いだったから気づかなかっただけで、彼がいかに優秀な統治者なのかということは周辺都市ばかりではなく、隣の大国にまで響いていると聞いたことがあるのだが。
「あなた、私は?」
先生が自分を指差した。何を慌てているのだろう。
「先生でしょ? クリス先生」
なんだろう、タチの悪い悪戯なんだろうか。いやいや、まさかそんなものに領主様が登場するはずはない。
「……領主様、これは」
先生の視線を受けて、領主様が白く細い指を唇に当て、思考に沈む。その姿はまるで一枚の絵画のようだったが、わたしはそれに見惚れている場合ではなかった。わたしが領主様や先生のことを憶えていたらいけないという法でもあるのだろうか。当たり前のことじゃないか。昨日まで先生先生と呼んでいたのに、それが今日できることの何が不満なのだろう。
「いや。これはどういうことか……」
「さぁね」
投げやりでやる気のない声が上のほうから投げかけられた。
はて。この部屋には、わたしと先生と領主様の三人しかいないはずなのに。
「禁書のブックカースは完全だよ。不発なんてありえないし、罪を犯した人間を許すはずもない」
それはわたしの頭の上から響いているようだった。
ああ。
さっきからなんだか頭が重いと思ったら、気絶した目覚めの悪さではなく、物理的に何かが乗っていたからなのか。でもわたしの頭に載るような小さな生き物ってこんな会話できるのかしら。
そんなわたしの疑問に応えるかのように、その存在はひょこんと床に降りて見せた。しなやかな四肢で衝撃を吸収し、長い尻尾をくねらせて身を翻す。
「ねえ、君」
人語を解する黒猫がわたしを見上げていた。
子猫が喋るだなんて聞いたこともない。そんな不可解な状況なのにも関わらず、わたしは怖いとか不思議だとか思う前に「可愛い」という場違いな感想を抱き、そしてそれを口に出してしまっていた。
「なにマヌケなことを言っているのさ。そんなことよりも、君が図書館で最後に見たであろう本のことを憶えているかい?」
「本? ああ、図書館の一番奥にあった翠の本のこと? ん、でもなんでそのことを知ってるの?」
「その本の中身を思い出せるかい?」
わたしの質問を無視して、黒猫が詰問をする。
先生も領主様も厳しい表情でわたしを見つめていた。
「思い出せるに決まってるじゃん。わたしには読めない記号も多かったけど、習った文字は読めるから――って」
読めるから。
読めるのならば、あの黒色にちりばめられた星屑のような文字はなんと語っていたのだろうか。
痒いところに届かないもどかしさ、知っているはずの記憶が墨で塗りつぶされている感覚。
「ブックカース、それ自体は機能しているみたいだね」
「どういうこと?」
「それについては私が説明しよう」
領主様が立ち上がり、深刻な瞳をわたしに向けた。
「君が手にした書物、タイトルは<エクレシア>。そう、この大教会と同じ名だ。あの本にはブックカースが仕組まれている」
「ブックカース、ってよく本の裏表紙にある……、」
「そうだ、君は図書館に詰めていたそうだから知っているようだね」
曰く、この書物を簒奪する痴れ者よ――、汝はすでに神の庇護下にあらざることを知れ。
いろいろなパターンはあるが、大抵このような文言が多くの書物には書かれていた。処罰は教会からの破門から地獄送り、永久追放など様々。
異国で発明されたという印刷機なるものはまだ世に普及していないので、本は誰かが一字一字丁寧に書き写さなければならない。それが教会として、あるいは文化的遺産として重要な書物ならば、そこに込められる思いもなおさら。
そんなものを盗んだり、破壊したりといった行為は許せるものではない。それに対する処罰がブックカースと呼ばれるシステムだった。もっとも――、
「でもわたしは禁帯出の本を、図書館が閉まってしまうので内緒で部屋に持ち帰って読んだことがあります。破ったりなんてことは絶対にしていませんが、特にブックカースに見舞われたということはありませんでした」
図書館の司書でもある先生が顔を赤くしている。先生にも内緒で持って帰ったのだから、そりゃ怒るだろう。ブックカースを信じないということは不敬にも当たる。あとでこっぴどく叱られるかもしれない。
「君は本当に本が好きなのだな。そう、大教会でこう断言するのは憚れるが、そのような書物に掛けられているブックカースは単なる注意書きに過ぎない。所詮は、罪人の良心に訴えるシステムだ。本当にそんな呪いがあるのならば、私ももう致死量のブックカースに苛まれているだろうさ」
――やった。
領主様がこちら側についたことで、これでもう先生はわたしを怒ることはできないだろう。
わたしの小さな安堵に呆れたのか、黒猫が口を開く。
「けれど、あの書はちがうのさ」
「君があの禁書を盗み見て持ちだした瞬間にブックカースは発動した。本来ならばあれは奇跡的術式で封印が施されているはずだったのだがね。いずれにせよ、あれは君の記憶を消そうと試みた。あの禁書の存在意義は<読まれないこと>」
――まだ誰も読んだことのない物語。
読まれることを拒む書があるというのか。
「記憶を消す、と簡単に領主様は言ったけど、そんな生易しいものではないよ。廃人になるほどの精神的負荷を掛けられて人格を壊される。あの本の著者、あるいはあの本自体、この内容が外に漏れるくらいなら一国でも犠牲にしても防ぐくらいの心持だからね。禁書と呼ばれるほどのグリモアだ、ヒトの力でどうこうできるものじゃない」
「――はずだったんだが、」
「わたしがこうしてここにいる」
頭が少し重かったのは喋る黒猫が頭に乗っていたからだとしても、身体の不調はちょっと寝すぎてしまったくらいのもの。一国を犠牲にするくらいの覚悟で負荷をかけたわりには、拍子抜けするほど何もなかった。
「記憶を消されたと言っても、領主様や先生の名前だって憶えてるし。ほら、こうやって喋れている以上、言葉だって憶えている。何かの間違いなんじゃありませんか?」
「だが、禁書の中身に関する部分だけは、ブックカースが機能している。どうにも奇妙なことだ」
「なら、いいんじゃありませんか?」
領主様と黒猫が心持ち沈んだ視線を向ける。
「だって、あの本が読めないのはたしかに残念なことだけど、わたしの記憶にはなんの問題もないのでしょう?」
「ああもう、この子は。大教会でもっとも大切な文書を盗み見て申し訳ないとは思わないの!?」
先生が甲高い声を出した。
「黒猫さんも領主様も、それが気がかりなんですか?」
ちがう気がした。
たしかにそんな大切な文書だとは知らなかったのだが、ブックカースに触れるようなことをした以上、そういった意味ではわたしが悪いのかもしれない。けれど、彼ら二人(一人と一匹)の視線にはわたしの不作法や教会のプライドなどではない、もっと切羽詰った何かがあるような気がしてならないのだ。
先生の言うとおりなら、反省文で書かせればいい。領主様が直々に、こんな古ぼけた保健室まで付き添う必要はないのだから。
「その件についてはあとで話をしましょう、クリス修道士」
「どうやらおばさんよりも、こっちの天然娘のほうが察しがいいみたいだね」
「お、おば……!」
子猫を睨みつける先生に領主様が一度苦笑を浮かべ、そしてベッドの上のわたしに向き直った。
「その禁書がどこにも見当たらない」
「そんな……」
「本当だ。部下に図書館をくまなく探させたが、あれは見当たらなかった。君がブックカースに触れて意識を亡くしてから、こちらの先生や私が駆けつけるまでに何者かに盗まれてしまったらしい。あまり疑いたくはないが、ここの学生や修道士という可能性も捨てきれない。あれには抗いがたい魅力があるからね、素養のあるものは魅入られてしまう」
「そう、なんですか」
わたしに奇跡の素養なんてその欠片一片すらありはしないのに。
「なにせ大昔に掛けられたブックカースだ、解析を急がせてはいるが何が起こるかわからない」
領主様がお手上げとばかりに苦笑いをしてみせる。
「君がなぜブックカースを受けなかったのか、この例外の原因はひとまず棚上げしておくとして、まずは何よりも優先してあの本を回収しなければならない」
領主様の使命感を帯びた瞳がわたしのこころを灼く。知らなかったとはいえ、わたしがあの書物を持ち出したりしたから――、わたしが迷惑をかけてしまったから。
「だけど、もうここには禁書は残っていない」
黒猫が厳しい眼をする。
「持ち出されたか、あるいは可能性は薄いが最初から外部犯だったのか。あれだけのエネルギーを蓄えている本だ、ボクならば近くにあるかどうかくらいは判別がつく」
「わかるの?」
「そのためにボクが呼び出されたのさ」
得意げで悪戯な笑みを浮かべた。瞳孔の細まった金色の猫眼が綺麗だった。しなやかなその体躯を躍らせて、一足でわたしのかぶっている毛布の上に音もなく着地した。
「ブックカースはそれを犯した者が書物を返すことで解呪できる、と伝えられている」
領主様の瞳がまっすぐにわたしを見つめる。
「君にしか頼めないんだ、このファミリアとともにあの禁書を探し出してきてくれないか?」
「はい。……って、ええっ」
「女性にこんな頼みごとなんて私らしくないがね。本来なら私が事に当たりたいところなのだが、私にはこの街を治めるという義務がある。家臣たちも外交や内外の治安のためにいまは自由に動ける身ではないんだ」
「わ、わたしここから出たことあんまりないんですよ!」
大教会から持ち出されたとするならば、いくら黒猫さんの能力があるとはいえ、少なくとも街まで出なければならないだろう。下手をしたら、ううん、普通に考えたらそれ以上。お金を使ったことも片手で数えられるくらいなのに。
「そのために彼をつけた。バシレウス家の象徴である黒猫のファミリアだ。困ったらこの子を見せれば、領主の名の下にある程度は自由が利くだろう。金銭面も私が全面的に手伝う。もし不都合があれば、その地で私の家臣に頼ってくれてもいい」
「どうしてそこまでわたしに頼むのですか?」
「君にしか頼むことができないからだ」
「わたしにしか……」
その表現が妙にわたしの胸をくすぐる。領主様の少し音の高い綺麗な声で紡がれた甘美な台詞は、わたしにとってどうしても抗いがたい魔法のような魅力を放っていた。
「はい……、わかりました」
わたしの返事に領主様が顔をほころばせる。
「よかった。すまないね、ええと……」
そういえば、わたしの記憶の件でごたごたしていて自己紹介をするのを忘れていた。エクレシア大教会の見習いとはいえ、三大教会を束ねる領主様を相手にしているのだ。あってはならない非礼だった。
「すみません! わたしの名前は……、」
あれ。
あれれ。
「わたしの、名前は、」
「忘れてしまったのかな?」
「どうしたの? だってあなたの名前は××××でしょ」
先生がわたしの名前を喋ったようだったが、なぜか音が途切れて聞こえなかった。どうして。耳に蓋なんてついていないのに。まるで、まるでわたしの本質がそれだけは聞きたくないのだと主張しているかのようだ。
「……いや、」
突然、足場もなにもないところに放り出されてしまったような感覚に陥ってしまい、わたしは溢れる感情に灼かれた涙を止められずにいた。
「わ、わたしの……っ、名前、は――」
シーツに水滴がぽたぽたと落ちる。
これほど哀しんでも――、これほど涙を零したとしても、先生の発するわたしの名前は聴きとることができなかった。いつものように神は<試練>であると言って、手を差し伸べてはくれないのだ。
※
「落ち着いた?」
「ん……」
いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
いままでのは単なる夢で、わたしは自分の名を失ってもいないし、あんな本なんて手にしていないと自分に言い聞かせようとしてみた。が、布団の上で丸くなっている喋る黒猫がいる以上どうやら不毛な努力だったようだ。
「みんなは?」
首をめぐらすと、窓からは夕陽が差し込んでいた。全体的な白の基調を橙に写し込んだ保健室には、ベッドから半身起き上がったわたしとこの子猫以外にはいなかった。
「領主様は公務があるとかで帰られたよ」
ああ、そうか。わたしとちがってお忙しいから。最後にきちんとした挨拶ができなくて残念だった。
「先生は?」と訊ねると「帰った」と返された。先生の仕事は今日はもうなかったはずだが、名前だけ聞き取れないというこの不可解な現象を先生はまだきっと理解できていないのだろう。わたしの名前を連呼していた(であろう)先生の言葉を、無視していたと勘違いされたのかもしれなかった。
「すべてを任せると領主様は仰っていた。しばらくの旅に困らない程度の金銭もボクが預かっている。さあ、いつから出発しようか?」
ずいぶんとせっかちな黒猫だった。
けれどその言葉でわたしはまた不安な気持ちになってしまった。基本的にエクレシアでひきこもっているわたしは、街にすら出たことなんて年に数回のお祭りの日しかない。あとは大図書館にないような本を受け取りにいくときくらい。そんな人間がいきなり旅などできるはずもない。しかも禁書を探すことなんて。
「青ざめているね。領主様に『君にしかできない』と言われたのも忘れたかな?」
「ううん、憶えてるけど」
わたしにしかできない、その言葉は魔力を帯びていた。いままで<わたしだけできない>ようなことは数え切れないほどあったのだが、<わたしにしかできない>なんてことはなかったように思う。
「……どうして黒猫さんはそんなに仕事熱心なの?」
「ボクがかい?」
頷く。わたしが知っている猫というのはもっと怠惰でお昼寝大好きな生き物だったはずだ。ファミリアということでちがうのかもしれないが、どうもこの猫さんが勤勉であるようには思えない。
「愚問だね」
黒猫さんが欠伸をひとつ。
「ボクはファミリアだ。禁書を取り戻すために呼び起された、そんな生き物にあらざる存在だ。君たち人間が何の目的で生きているかは知らないが――、ボクにとって君の旅の補佐をすることが存在意義なのさ。これを怠けるなんてことは、呼吸するのがめんどくさいなんて言っているようなものだ」
自信満々に言う黒猫さん。よくわからなかったが、この仕事が黒猫さんにとってとてもとても大事なもので、そしてそれを任じられたことに誇りを持っているであろうことはわかった。
存在意義、そんなものが上から与えられてきっとこの生き物は幸せなんだろう。
「……まだ決心がつかないのかい?」
「だって、」
不安そうな表情になっているであろうわたしを見上げて、黒猫さんが呆れた顔をする。
「もう陽が暮れてしまうからね、荷造りなんかもあるだろ? だからいますぐってわけじゃない、一晩じっくり考えるといいさ」
「ん、とりあえず部屋に戻らないと」
そう言って、わたしはベッドから降りた。
もう頭痛もなく、名前が思い出せないこと以外に身体の不調はない。立ち上がったわたしの肩にぴょんと黒猫さんが飛び乗った。子猫とはいえ重そうな感じはしていたのだが、それほど重たくはない。ファミリアという奇跡的存在であるためだろう。子猫特有の暖かさが心地よかった。
「……借りてた本を返して、読みかけの本をまとめて――」
「本なんて持っていくのか!?」
「だって、」
「もっと他に持っていくものがあるだろう。服とか食料とか、ちょっと遠くのカフェに本を読みにいくんじゃないんだぞ」
「だってわたし服全然持ってないし、それにあんまり食べなくても大丈夫だし。それより本がないほうが不安だよ……」
「本の虫というのは本当なんだな」
「えへへ」
「褒めてないよ」
そんな会話を続けながら、わたしたちはエクレシアの寮の廊下を進んでいった。わたしは結構人見知りをするほうだから、この黒猫さんが話しかけやすい人でよかった。途中何人か寮生とすれちがったが、わたしの顔と肩に乗っている喋る黒猫さんのことをまじまじと見つめていた。すれちがってからも、ひそひそと何かを話す気配がした。
慣れっこだった。
「ちょっと、××××。領主様にお会いしたそうじゃないの」
お隣さんの声がしたのは、部屋のドアノブを掴んだときだった。
同級生――、もとい、いまはわたしの二つ上の学年の彼女。綺麗なブロンド、目鼻立ちのはっきりした顔。腰にあてた右手は彼女の気の強さを象徴していた。手にはグリモア、わたしなんかは見たこともないような高度な科目のものだった。
「え、わたし?」
「そうよ、名前呼んだじゃない」
いつでも不機嫌を纏っている彼女は、今日は一段と虫の居所が悪いらしかった。肩の上でモノが欠伸を一つ、興味なさげな視線を彼女に投げかけた。
「で、この姦しいお嬢さんは?」
一方、その姦しい隣人のほうはわたしが答えるよりも先に、目を見開いて黒猫さんを指差した。
「黒猫のファミリアっ! バシレウスの象徴なのに……、私が戴くはずだったのに! どうして奇跡の一つも使えない出来損ないのあんたがっ!」
「……言われ放題だけど」
「慣れてるから」
「にしても酷くない?」
「本当のことだから」
黒猫さんはまたしても呆れてしまったようだ。
「エクレシアの禁書を読んでそうなるのなら、私だって……、」
「君は名前をなくしたっていいの?」
「名前?」
はっ、と吐き捨てるように彼女は哂った。
「あんな名前要らないわ! この私を捨てるような奴らがつけた名前なんてっ!」
エクレシアの寮生はみな両親を早くに亡くしたか、親に捨てられたかのどちらかだ。みんながみんな、軽くはない過去を抱えているために普段はそういう話題は出さないようにしているのだけど、虫の居所の悪い彼女はそのたが箍が外れてしまったらしい。一方、地雷を踏んでしまった黒猫さんは気まずそうに後ろ足で頭をかいた。
その後も彼女は止まらず、「私は領主様のもとへ行くために、これほど努力をしているのに!」といったことや、「堕ちこぼれのくせに、<悪魔>のくせに」などとわめき散らして、ぷんすかしながら勢いよく自分の部屋の扉を閉めた。
「わたしだってなりたくてなったわけじゃ……、」
彼女が去ってから消え入りそうな言葉でそう弁解したわたしに、黒猫さんが哀れむような表情をした。
※
気は進まなくても、領主様の頼みを断るわけにもいかない。
小皿に注いだミルクを黒猫さんが舐めている間に、わたしは替えの下着や服などをそれほど大きくはない旅行バッグに詰めていた。それと包帯や薬草をできるだけ。読みかけの本を何冊か選んで布に包み、忘れる前に大判の地図も詰め込んだ。
「黒猫さん黒猫さん、どれくらいで帰ってこられそう?」
気持ちよさそうに眼を細めて皿を舐めていた黒猫さんが、面倒そうに顔をあげた。
「そうだな。すぐに関所に連絡を入れたから、禁書は領主様の治めている土地からは離れないはずだ。だから遠出したとしてもエクレシアを除く、クリア、ケントゥリアの三大教会までだろう。かかっても一ヶ月程度か」
領主さまが治める土地は中心街を中央として、北のケントゥリア、東南のクリア、西南のエクレシアの三大教会で構成されている。全部回ることはないとは思うけど、随分と広いから馬車を使ってもそれくらいはかかってしまうだろう。
「そう、ならこのお本も返しておかないとっ」
「また本か」
「ええ、わたしは物語が大好きなの」
胸に本を抱えて微笑んでみる。
この手触り、この感触、この薫り。この質量。刻まれた文字。そのすべてがわたしを魅了し、心酔させる。物語の中でよく語られる恋というものをわたしは知らないが、きっとこういう想いのことをいうのだろう。
「物語か、てっきりグリモアを読んでいるのかと思っていた。勉強熱心だと感心していたのだけど」
「わたしはできそこないだから、あんまりグリモアは読めないの」
「さっきの女の子の言葉な、あんまり気にしないほうがいいぞ。誰にだって得意や不得意は仕方のないこと――」
「気にしない、なんてできないよ」
黒猫さんの言葉は優しさから出たものだったのかもしれない。というか、きっとそうなんだろう。けれど、黒猫さんの優しさはわたしの琴線に触れる言葉だった。隣人の女の子のもう聴きなれた罵倒よりもよっぽど、わたしの触れられたくない部分を無作法に撫でるものだった。
黒猫さんは許容した。身寄りのない子供にとって奇跡で大成するしかないエクレシアにおいて、まったく何の役にも立たない落ちこぼれを認めるものだった。わたしの認めたくないわたし。黒猫さんに悪気はないのだろうけど、いまのままのわたしをわたしは好きではないのだ。
「わたし、旅に出る。ここを出るの!」
胸元の一冊の本を力の限りぎゅっと抱きしめて、わたしはそう宣言した。
「お、おい」
「わたしにしかできないって言ってくださったんだもの。わたしが何もできないのを知らされるのはいや」
黒猫さんが悪いわけじゃない。謗るのは筋違いもいいところ、これは単なるわたしの八つ当たりだ。
「だからここを出る。だって領主さまに直々に頼まれたんだもの」
物語のプロローグは出逢いと旅立ちだって、相場が決まっている。
売り言葉に買い言葉と言われてしまえばそうかもしれないけれど、このときわたしの中で何かがカチリと噛み合ったような気がした。
わたしにしかできないこと!
「なんだか、瞳の輝きっぷりが尋常じゃないね」
案の定、黒猫さんは呆れたような顔をしていたけれど、
「まあ、それならボクも仕事が出来るしね」
「よろしくね、黒猫さん」
こうして、わたしたちの旅は始まったのだった。