第1話 王は、客を待っている
鉄の塊が、レナードの顔の前で止まった。
頭ほどもある重りだ。天井から吊った鎖が張り詰め、先端は鼻まで指3本の距離にある。
レナードは椅子に座ったまま、カップを口へ運んだ。
茶はこぼれていない。重りを受け止めた時も、服の裾さえ揺れなかった。
壁際では薪が暖炉へ収まり、背後では窓が閉じる。厨房から浮かんできた湯の入ったポットが、卓の空いた場所へ静かに下りた。
レナードは満足して重りを退けた。
異世界へ生まれ変わって20年。《領域》を鍛え始めてから、17年になる。
魔力を行き渡らせた空間で、物を動かし、止め、力の向きを変える。それが彼の能力だった。
初めは小石を浮かせるだけで息が切れた。今では城門へ飛んでくる矢を止めながら、離れた厨房で湯を沸かせる。
ここまで鍛えたのには、理由がある。
レナードは、王になりたかった。
各国の使者が訪れ、名のある将軍さえ言葉を選ぶ。その相手を、玉座に深く腰掛けたまま迎える。
敵の大軍が迫っていると聞いても、慌てて立ち上がったりはしない。
そんな王がよかった。
前世では小さな劇場で悪役ばかり演じていた。王の役もあったが、玉座は木箱に布を掛けたもので、兵士役は3人。出番が終われば、衣装のまま大道具を運んでいた。
今度は、本物の城と力を用意できる。
討伐の仕事で金を貯め、この廃城を買ったのは3年前だ。
毎日、尖塔から濠の底まで魔力を巡らせた。城外でも《領域》は使えるが、馴染ませた廃城一帯では精度が違う。座りながら周囲の状況が手に取るようにわかり、何十本もの武器を同時に取り上げることも、崩れる城壁を支えることもできた。
客室の寝具を揃え、門を直し、広間を磨いた。
訪問者だけが来なかった。
来客用の茶は自分で飲んで買い直した。門を叩いたのは薪屋と食料を届ける商人だけで、どちらも広間まで入らずに帰っていった。
だから、その日も注文した油が届いたのだと思った。
◇
門の外に、血に汚れた外套の女が立っていた。
背後には荷車がある。包帯を巻いた者が3人横たわり、片足を引きずる男が後ろを支えていた。
「お願いします。水を分けてください。それと、少しだけ休ませてもらえませんか」
来た。
レナードは顔に出さないよう、奥歯をそっと噛んだ。
3年だ。椅子を選び、門を直し、誰もいない広間で何度も客を迎える想像をしてきた。その客が今、目の前にいる。
何と言うつもりだったか。
よく来た、と迎える案もあった。待っていた、と言う案も。ただ、それでは本当に3年間待っていたことが伝わりすぎないだろうか。
女の膝が揺れた。
「中へ。荷車は俺が運ぶ」
用意していた台詞とは違ったが、声は落ち着いていた。
「ありがとうございます。私はエステルです。治癒師の、エステル・ローヴェルと……」
「レナードだ。水は厨房にある」
引き手を受け取ると、彼女は指を1本ずつ開いた。掌には、血の滲んだ跡が残っていた。
荷車を中庭へ入れた時、坂の下から蹄の音がした。
「門を閉めてください!」
エステルが振り返る。
12騎の兵が坂を上ってきた。先頭の男がこちらを指すと、後続が左右へ広がった。
「その者たちを引き渡せ!」
袖を掴まれた。
「私が行きます。この人たちだけ、置いてください」
「追われている理由は?」
「敵兵を治療しました」
荷台の若い兵士が目を伏せた。切り裂かれた上衣には、ほかの負傷者と違う紋章が縫いつけられている。
「味方の治療は終わっていました。でも、まだ生きていたから……」
「軍に背き、捕虜を連れ出した女だ!」
隊長が門前で馬を止めた。
「匿えば貴様も同罪になるぞ!」
レナードは袖を握る手を外した。
「厨房は突き当たりを右。布もある。怪我人を頼む」
「ですが――」
「俺が話を聞く」
門へ向かいながら、背筋を伸ばした。
追われる者が城へ辿り着く。兵を率いた男が引き渡しを要求する。そして、自分が答える。
外套を着てくればよかった。
だが、今から戻っては格好がつかない。作業着でも威厳は出せるはずだった。
「聞こえなかったか!」
隊長が剣を抜く。
レナードは門の中央で止まった。
「ここへ入った者を、勝手に連れていかれては困る」
「捕らえろ!」
兵士の1人が短弓を引いた。
放たれた矢が、レナードの膝の前で止まる。
弦の震える音が消えた。
兵士は次の矢へ手を伸ばしかけた姿勢のまま、宙に留まる鏃を見つめていた。
レナードは矢を門脇へ下ろした。
「武器を置け。話をするなら、それからだ」
隊長の剣が手を離れた。
続いて槍が抜け、弓が浮く。鞘に収まっていた剣まで滑り出し、兵たちの頭上を越えて門脇へ並んだ。
「なっ……!」
隊長が腰の短杖を抜いた。
炎が膨らむ。背後の中庭では、エステルが負傷者を降ろしているところだった。
レナードは火球を包み、杖先から引き離した。
炎が真上へ昇る。
兵たちが顔を上げた。火球は尖塔を越え、空高くで弾ける。馬がいななき、手綱を握る兵士が鞍へしがみついた。
短杖も取り上げる。
レナードは腕を組み、隊長を見た。
「ほかにもあるなら、今のうちに出してくれ」
声は低すぎなかっただろうか。気取ったように聞こえては困る。
隊長は返事をしなかった。空になった手を握り、背後の兵へ目をやる。その1人は既に馬を下がらせていた。
「……このままで済むと思うな」
「次は、話をしに来い」
隊長の頬が歪んだ。
それでも、もう手を武器へ伸ばそうとはしなかった。
馬首が返り、騎兵たちが坂を下っていく。
最後の姿が木立へ消えるまで待ってから、レナードは息を吐いた。
やれた。
3年間、誰もいない広間で考え続けた台詞を、本当に口にしたのだ。
ただ、今度こそ椅子に座って迎えたい。
◇
厨房では、エステルが包帯を結んでいた。
指先に灯る光は弱く、すぐに消えた。もう一度手をかざそうとした彼女へ、レナードは水のカップを差し出した。
「飲んで。食事も作る」
「あの人たちは……」
「帰った。今夜は休める」
エステルは戸口から中庭を覗いた。
剣と槍が整然と並んでいる。
彼女はしばらくそれを見つめてから、レナードへ向き直った。
「あなたは、いったい何者なんですか」
待っていた問いだった。
ここで少し間を置く。すぐに答えるより、その方がいい。
「この城の主だ」
エステルは唇を開きかけ、深く頭を下げた。
レナードは鍋へ向き直った。口元が緩みそうだった。
麦を煮て、干し肉と塩を加える。5人へ椀を配ると、若い敵兵が受け取るのをためらった。
「俺にも、いいんですか」
「食べられないものがある?」
「いえ。そうじゃ、なくて」
「なら、熱いうちに」
青年は両手で椀を包んだ。
エステルも匙を口へ運ぶ。2口目で涙が落ち、外套の袖で拭おうとしたので、清潔な布を隣へ置いた。
彼女は小さく礼を言い、そのまま食べ続けた。
鍋の底に残った粥へ湯を足し、レナードも椀を取った。
明日は、もう少し肉を入れよう。
◇
怪我人へ客室の寝台を3つと、自分のものを1つ。エステルには厨房の隣の小部屋を空けた。
「あなたの寝る場所は?」
「広間に椅子がある」
「それなら私が――」
「せっかく用意したんだ。使ってくれ」
3年間、寝具を干すためにしか使わなかった部屋だ。
エステルが頭を下げて入っていくのを見届け、レナードは広間へ戻った。
椅子に座り、肘掛けへ手を置く。
城の中に、人の声がある。今までなら自分の足音しか聞こえなかった廊下から、食器を片づける音がした。
やがて、それも静かになった。
入口にエステルが立っていた。
「すみません。最後に、もう1つだけ」
「ああ」
「軍が、また来たら……」
彼女は袖を握っていた。
レナードは背を椅子へ預けた。今度は、座ったまま答えられる。
「その時は俺が会う。君は、怪我人を診ていてくれ」
◇
エステルは、ようやく頷けた。
あの兵たちが誰の命令で動いているのか、彼はまだ知らない。知らせなければならないと思うのに、立っているだけで目の前が暗くなる。
「詳しい話は、明日聞く」
そう言われ、張り詰めていた肩が落ちた。
「……ありがとうございます」
部屋へ戻り、寝台へ腰を下ろす。
廊下を走る兵の足音はしない。扉を閉めても、外から鍵を掛けられることはなかった。
エステルは靴を脱ぐ途中で手を止め、両手で顔を覆った。
今夜は眠れる。
広間では、レナードが門までの《領域》を確かめていた。
3年間、一度も披露できなかった準備が、ようやく役に立つ。
次の客のために、茶も買い足しておこうと思った。
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