34
第34話 番外編 ガルド視点
忠誠が恋に変わる前触れはあるという。
騎士団長ガルド・ヴァン・グラディウスが気づいたのは、その変化がすでに始まっていたという事実だった。
ガルドの部屋は、戦場の延長だった。一般的な貴族の部屋とはまったく違っていた。壁一面には大小さまざまな剣が並べられ、棚には磨き上げられた防具がきれいに整列している。机の上には魔物討伐の地図が広げられたままで、赤いペンで危険地帯がマークされていた。窓からは街全体が見下ろせ、まるで要塞の司令塔のような空間だった。
夜更けた時間。ガルド本人は無言で剣の手入れをしていた。
布で刃を丁寧に拭き、特別な油を薄く伸ばし、光にかざして細かい傷がないか確認する。手入れの動きは、何度も何度も繰り返されたものか、まるで儀式のように静かで正確だった。剣との向き合い方に、男の人生が詰まっていた。
ふと、ガルドの脳裏に浮かぶのは、最近ずっと同じ人物の姿だった。
あの日、不注意によって馬車に引かれそうな危機一髪だったとき。命を救ってくれた令嬢。リリアナ様。
金髪が陽光に輝く、優雅で気高い姿。
リリアナの優雅さの奥には、強い意志と勇気が宿っていた。なぜなら自分の身を顧みず、ガルドを守るために動いたのだから。
あの方はなぜ自分を助けたのだと疑問に考えるも、ガルドは首を振った。
答えは出ない。出ないはずなのに、胸のどこかが温かくなるのを感じた。
考えても分からんが守らねばならないという決意だけは揺るがなかった。
ガルドの瞳に映るのは、剣ではなく、リリアナ令嬢の面影だった。
◆
「団長、準備できました!」
若い騎士の声が、部屋に響く。
「わかった。行くぞ」
ガルドは剣を鞘に収め、立ち上がった。鎧に身を包み、騎士団の紋章が入った外套を羽織る。その動きも、戦に向かう騎士そのものだった。
部下の騎士たちとともに、馬を駆らせて森へ向かった。
最近、街の北にある森の奥に魔物が出没し、徐々に街に近づいているという報告があった。このままでは、いずれ街の住民に被害が及ぶ。そうさせないために、ガルドは先手を打つことにしたのだ。
森に入ると、空気が変わった。
魔力を帯びた不気味な気配が濃くなる。葉擦れの音も、鳥の声も消えた。自然界が何かの存在を警戒していた。ガルドは馬を走らせながら、冷静に状況を分析する。
「街に被害が出る前に、必ず仕留める」
ガルドの強い思いが行動を駆り立てた。気持ちの奥には別の想いも隠れていた。
リリアナ様が心配なさらないようにという想いが、彼の剣をいつもより鋭くしていた。
「来るぞ――構えろ!」
ガルドの号令と同時に、黒い影が飛び出した。
牙をむき、邪悪な光を放つ瞳。魔力を帯びた獣の咆哮が響き渡る。
「はぁッ!!」
ガルドの一撃で、魔物は地面に沈んだ。
剣の速度、力は、人間の域を超えていた。
部下たちが息を呑む。
「さすが団長
」
「相変わらず化け物じみた強さだ」
ガルドは剣を払った。終わった後の表情に、勝利の喜びはない。あるのは、任務完了の事実だけだった。
「街に近づく前に倒せてよかった。戻るぞ」
街に戻ると、称賛の嵐だった。
街の門をくぐると、人々の歓声が上がった。
「ガルド団長だ!」
「魔物を倒してくれたんだって!」
「また街を守ってくれた!」
子どもたちが駆け寄り、商人たちが礼を述べる。老人たちは安堵の表情で合掌した。ガルドはこれ以上ない称賛の中にいた。
ガルドの心はそこにはなかった。
「仕事をしただけだ」
そう言って、照れたように眉をひそめた。
守るべきものがあるのは、悪くない、そう思ったときだった。
「ガルド様!」
明るい声が響いた。
ミレイユ・フローレンスが、スカートを揺らしながら走ってきた。
ヒロイン役だったミレイユは街の有名な令嬢で、見た目も性格も愛らしい女性だった。多くの貴族の息子たちが彼女の気を引こうと必死だったが、彼女はいつもガルドに頼ろうとしていた。
「ガルド様、お怪我はありませんか!?」
「ない。問題ない」
ミレイユは胸を撫で下ろした。
「よかった。ガルド様はいつも街を守ってくださるから、皆さん本当に感謝しているんです」
「そうか」
ガルドは少しだけ照れたように視線を逸らした。ミレイユは急に真剣な顔になった。表情の変化に、ガルドは違和感を覚えた。
「ガルド様。ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんだろうか」
ミレイユは勇気を振り絞るように、深呼吸して言った。
「ガルド様はリリアナ様のことが、その、好きなんですか?」
「すっ」
ガルドの手が止まった。
部下たちが遠くで、
「お、おい」
「聞いたか?」
とざわつく。ガルドは言葉に詰まった。好きという感情について、彼は考えたことがなかった。
「好き、とは」
ミレイユは続ける。瞳には、複雑な感情が宿っていた。
「ガルド様は以前は、私を守ってくれていた。でも今は、リリアナ様を守っているように見えます。全身から、彼女を想う気持ちが溢れています」
ガルドはゆっくりと息を吐いた。
正直に、自分の心と向き合う時間を持った。
「私は、命を救われた。リリアナ嬢に」
戦いの声とは違い、声は低くても真剣だった。
「だから守る。それが私の誓いだ」
ミレイユは目を見開いた。
「それって、恋なんじゃないですか?」
「分からん」
ガルドは正直に言った。
彼は自分の感情の名前を知らなかった。
「だが、リリアナ嬢が傷つくのは耐えられん。危険にさらされるのは耐えられん。リリアナ嬢が悲しむのは耐えられん」
耐えられんに、ミレイユはそっと微笑んだ。
「ガルド様は優しい方ですね」
ガルドは照れたように顔を背けた。
リリアナ様と思うと胸の奥が熱くなる。こんな熱は、戦場で感じたことのない感覚だった。
あなたを守りたい。あなたを守ることが、自分の人生だと誓う。
この感情が何なのか、まだはっきりとは分からない。確かに芽生え始めていた。
忠誠が恋に変わる瞬間。
それは、自分でも気づかぬうちに、すでに始まっていたのだ。




