第86話 測れない子
様式は、思ったより早く回った。
最初に返ってきたのは、南の港からだった。
書きつけが一枚。下から二つ目の欄ではなく、新しく足した欄に、印がついている。
判定不能
役所の字だった。
迷った跡が無い。欄があると、人は迷わない。
その二日後に、西から三枚。
その次の船で、北から四十一枚。
「多いな」
「棚に溜まっていた分です」
リディアが、束を揃えながら言った。
「保留は、片づくと一度に出ます」
俺はその厚みを見た。
この紙の枚数だけ、どこにも所属していない子どもがいた、ということだ。
枚数になった時点で、少しだけ、ましになっている。
来た人
人も来た。
多くはない。船で二人、陸から一人。
全員、思ったより静かに着いた。
宿は、いっぱいにならなかった。
港の男が一人を引き取り、市場の夫婦が一人を預かり、残りの一人は、リーネが「手が足りない」と言って連れて行った。
誰も決めていない。
困っている人が近くにいると、この街の人間は、大体、先に手が動く。
アクアが、帳簿に線を引いた。
「載らないものの欄、三件です」
「金は」
「出ます」
彼女はあっさり言った。
「載らないものにも、費用は出せます。欄がありますので」
その言い方が可笑しかった。
この人は、世界でいちばん真面目な顔で、帳簿を曲げる。
学園から
学園長からの手紙は短かった。
――手引きの新しいものが届きました。
――表紙の名前が消えていたので、最初は写し間違いかと思いました。
――教官が三人、書き足しました。うち一つは、私が消しました。消した理由を、余白に書いておきました。
最後の一行はこうだった。
――質問が、出るようになりました。
俺は、その一行を、しばらく見ていた。
静かになった、と書いてきた人の字だ。
(……よかったな)
返事は書かなかった。
書くことが特に無い。
なっていた
「で」
ノクスが、いつもの日陰から言った。
「基準にならずに済んだ、と思ってます?」
「思ってた」
「なってますよ」
彼はあっさり言った。
「あなたが“判定しない”と言ったので、世界は“判定しない”を基準にしました」
(……そうなるのか)
「逃げられないのか」
「逃げられません」
ノクスは笑った。
「ただ、今回のは、持ち主のいない基準です。誰でも書き換えられる。表紙に名前も無い」
「それでも、基準か」
「基準です」
彼は肩をすくめた。
「配ってしまえば、返されません。それが、いちばん安全な手放し方です」
俺は、少し考えて、言った。
「じゃあ、それでいい」
「はい」
「面倒が減る」
「そこですか」
石の列
夕方、俺は宿の前を通った。
石の列は、路地を曲がって、坂を下って、川港の手前まで届いていた。
途中で、何度か途切れている。
荷車が踏んだのだろう。踏まれた場所は、誰かが適当に並べ直してあった。並べ方が雑なので、本人ではない。
シアは列の先頭にいた。
しゃがんで、石を一つ、置くところだった。
「まだ並べてるのか」
「うん」
「どこまで」
「みずのところ」
あと少しだ。
俺は隣にしゃがんだ。
水面が、金色になりかけている。
「シア」
「ん」
「どこにも、登録しない」
「うん」
「名簿にも、載せない」
「うん」
「だから、ここにいるって証明は、何も無い」
子どもは石を置いた。
置いてから、こちらを見た。
「いるよ」
そう言った。
「見れば、わかるでしょ」
俺は少し笑った。
書きつけも、判子も、帳簿も、全部それを言うために作られている。
作った側は、見ればわかることを、見ないで済ませるために紙を使う。
「わかる」
俺はそう答えた。
最後の石が、水際に置かれた。
列は、宿から川まで、街を横切って続いている。
誰も、これを測っていない。長さも、数も、価値も。
それでもそこにある。
その日。
通界は、判定する側になる権利を、自分から配ってしまった。
命令しない。
縛らない。
支配しない。
そのうえで、今度は――決めない場所を、世界に配った。
水面が、赤くなって、それから暗くなった。
石は、暗くなってもそこにあった。
第二部『測れない子』、ここでいったん区切ります。
「押すな、通せ」の物語は、通したものが基準になったところで一度終わり、
今度は「測るな、置け」の話になりました。
まだ名前のない方角も、あの子が何者なのかも、書いていません。
書かないまま置いておくのが、この街のやり方なので。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




