第20話 静かな夜と、帳簿の向こう側
夜。
都市は、もう眠り始めている。
市場の喧騒は消え、
港の灯りだけが、水面に揺れていた。
執務室。
灯りは、一つ。
「……ふぅ」
小さく息を吐く音。
アクアは、一人で帳簿をめくっていた。
数字。
線。
注記。
それはもう、
街一つ分の人生だ。
「……あれ?」
扉の前で、僕は足を止めた。
まだ、灯りがついている。
軽くノック。
「どうぞ」
返事は、いつも通り落ち着いている。
中に入ると、
アクアは机に向かったまま、眼鏡をかけていた。
(あ、珍しい)
「こんな時間まで?」
「はい」
視線は、帳簿から離れない。
「今のうちに整理しておかないと」
「朝が、楽なので」
(完全に仕事人)
「邪魔だった?」
「いいえ」
一拍。
「……むしろ、助かります」
(珍しい二語)
僕は、向かいの椅子に座った。
帳簿を、ちらっと見る。
「……これ」
「市の税収?」
「はい」
「今月分です」
数字が、整然と並んでいる。
派手じゃない。
でも、安定して右肩上がり。
「順調だね」
「順調すぎて、怖いくらいです」
(本音)
アクアは、ペンを置いた。
眼鏡を外し、
少しだけ、肩の力を抜く。
「……リクスさん」
「はい」
「この街」
「もし、急に崩れたら」
珍しく、曖昧な言い方だった。
「どうなると思いますか?」
僕は、少し考えた。
「……人は、残ると思う」
「仕組みじゃなくて」
「居心地で、集まってるから」
アクアは、静かに目を伏せた。
「……よかった」
「安心した?」
「はい」
即答。
「数字は、嘘をつきません」
「でも」
一拍。
「数字“だけ”見てると、間違えます」
「人が減ってから、危険に気づく」
「それでは、遅い」
彼女は、帳簿をそっと撫でた。
「だから」
「私は、先に整えます」
「……すごいね」
僕が言うと、
アクアは、少しだけ困ったように笑った。
「仕事ですから」
「でも」
小さく、付け足す。
「ここは……楽しいです」
(来た)
「理由、聞いていい?」
「はい」
「……安心できるからです」
彼女は、まっすぐ僕を見る。
「誰も、無理をしていない」
「数字を守るために、人を削らない」
「それが」
「私には、珍しくて」
沈黙。
外から、夜風が入る。
「……ねえ、リクスさん」
「はい」
「もし、私がいなくなったら」
(重い)
「この街、回りますか?」
僕は、即答した。
「回るよ」
「でも」
一拍。
「今より、たぶん不安定になる」
アクアは、少し目を見開いた。
「必要だから?」
「うん」
「数字の向こうを見る人は、貴重だ」
彼女は、しばらく黙っていた。
そして、静かに笑った。
「……それなら」
「しばらく、ここに居ます」
(確定)
眼鏡をかけ直し、帳簿を閉じる。
「今日は、ここまでにします」
立ち上がると、
少しだけ、疲れが見えた。
「送るよ」
「お願いします」
廊下。
灯りは、控えめ。
「……不思議ですね」
歩きながら、アクアが言う。
「都市なのに、静かで」
「いい都市だと思う」
「はい」
少し、柔らかい声。
扉の前。
「おやすみなさい、リクスさん」
「おやすみ」
扉が閉まる直前、
彼女が、少しだけ振り返った。
「……ありがとうございます」
小さな声。
その夜。
帳簿の数字は、
安心という価値を、静かに積み上げていた。
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