第1話:嵐の夜の呼び声
狂おしいほどの暴風雨が、窓ガラスを激しく叩きつけていた。
大型台風が直撃したその夜、製薬会社の研究員である汐里は、築年数の経った古い実家のリビングで一人、書類を広げていた。外で唸りを上げる不気味な風の音に交じり、どこか遠くで響く雷鳴が家全体をかすかに揺らしている。
「……ずいぶん酷い台風ね」
汐里は小さく息を吐き、冷めかけた紅茶に口をつけた。
彼女の実家には、代々伝わる不思議な言い言い伝えがある。
『一千年に一度、満月と嵐が重なる夜、我が血筋の者は境界を越える』
幼い頃は単なるおとぎ話だと思っていた。
けれど、今夜のように風が荒れ狂う夜は——
どうしてもあの夜のことを思い出さずにはいられない。
8年前の、あの嵐の夜。
当時14歳だった汐里の前に、空間の歪みから突如として現れたひとりの少年。自分と同い年くらいに見えた傷だらけの彼を、汐里は離れの薬草乾燥室に隠し、必死で介抱した。
傷が癒えるまでの約1ヶ月間。温かいコンソメスープを煮込んで食べさせ、肩を寄せ合って言葉を交わしたあの愛おしい時間。去り際に彼が寂しげに囁いた「必ず、見つける」という言葉と、あの吸い込まれそうな黄金色の瞳は、今も汐里の胸の奥に焼きついて離れない。
(……セドリック)
彼の名を胸の中でそっと呟いた、その瞬間だった。
ゴオオオッ、と家鳴りが響き、停電によって部屋の明かりが不意に消え去った。
闇の中、ふと窓の外を仰ぐと、厚い雲の切れ間から狂わしいほどに巨大で眩い「満月」が覗いている。
「え……?」
部屋の中央、畳の上が突然、蒼白い光の粒子で満たされていく。
風もないのに汐里の髪が舞い上がり、甘い香木の香りが途端に鼻腔をくくすぐった。
足元から重力が消え去り、身体がふわりと浮き上がる不可解な感覚。
(何……これ……っ!?)
混乱し、息をのむ汐里の耳元で、嵐の音を突き破るようにして、低く掠れた——けれど酷く愛おしそうな男の声が響いた。
『——見つけた。俺の、たったひとつの光』
刹那、視界が眩烈な光に包まれ、汐里の意識は深い浮遊感の中へと飲み込まれていった。
◇
どれほどの時間が経っただろうか。
肌を撫でる空気の質感と匂いが、ガラリと変わったことに汐里は気づいた。
畳の匂いも、暴風雨の音もない。代わりに漂うのは、重厚な木造建築の匂いと、先ほど感じたあの甘い香木の香り。そして、肌に触れる滑らかなシルクの毛布の感触。
ゆっくりと瞼を開けると、そこは石造りの壁と重厚な調度に囲まれた、見知らぬ豪奢な部屋だった。天蓋付きの大きなベッドの上に、自分は横たわっている。
「……ここは……?」
体を起こそうとした瞬間、ベッドの傍らに腰掛けていた大きな影が、素早く動いた。
「動かないでくれ。……体が驚いているはずだ」
低く、深く、胸の奥を直接揺さぶるような深いテノール。
ハッとして視線を向けた汐里は、思わず息を飲んで身をすくめた。
そこにいたのは、漆黒の髪に、息をのむほど美しい精悍な大人の男性だった。
身幅の広い体躯に、銀の刺繍が施された重厚な騎士服を纏っている。見知らぬ大人の男に気圧され、警戒して身を引こうとした汐里だったが——男の顔を正面から見上げた瞬間、思考がフリーズした。
夜闇の中でも怪しく輝く、吸い寄せられそうな黄金色の瞳。
そして、彼から立ち上る、あの甘い香木の香り。
(え……何……? この目……この香り、どこかで……)
言葉を失う汐里の前で、男は壊れ物を扱うかのような繊細な手つきで、汐里の頬へとそっと手を伸ばしてきた。手のひらから伝わる熱い体温。彼の手が震えているのが分かる。
「……汐里。本当に……君なのか」
低く切ない声で自分の名を呼ばれ、汐里の脳裏に、8年前に姿を消したあの少年の面影が重なった。
(嘘……まさか……ッ!?)
「セドリック……!? でも……どうして……そんな、すっかり大人の人に……」
少年だった彼からは想像もつかないほど精悍に、男らしく成長した姿に混乱する汐里。
その反応を見たセドリックの黄金色の瞳が、感極まったように激しく揺れた。
セドリックは汐里の手を両手で優しく包み込むと、己の胸元へと力強く押し当てた。
黒い騎士服の上からでもはっきりと伝わる、深く狂おしい心臓の鼓動。
「……ああ。そうだ、汐里。俺だ……俺だよ。驚くのも無理はない。君の世界では『8年』だったろうが……こちらでは『14年』の時が流れていたんだ」
「14年……!?」
「ああ。君にとっては8年前のことでも、俺にとっては死ぬほど長い14年間だった……。あの1ヶ月間、君に救われてから……一瞬たりとも君を忘れたことはなかった。ずっと……この日を夢見ていたんだ」
セドリックの表情が、歓喜と溢れ出す愛おしさで歪む。
外では「氷の冷血漢」と恐れられている黒狼騎士団長の顔はどこにもない。そこにあるのは、ただひたすらに汐里だけを乞う一途な大人の男の眼差しだった。
距離の近さと彼の熱気に息を呑む汐里を見て、セドリックはふっと切なそうに目元を緩めた。
「すまない、焦りすぎて怯えさせてしまったな。……会えたことが嬉しくて、抑えがきかなくなっていた」
セドリックは包み込んだ汐里の手の甲に、深々と、愛おしさを込めたキスの音を落とした。
じんと熱が広がり、汐里の心臓がうるさいほどに跳ね上がる。
千年の時を超えた運命の歯車が、今、静かに動き始めたのだった。




