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第29話 外伝:子供を授かるということ②(スタンレー夫人視点)

 スタンレー夫人は、いつものようにイヴォンヌの元を訪ねた。無二の親友の二人は、気軽にお互いの家を行き来する仲だが、最近はイヴォンヌが家にこもりがちになっている。そういうこともあり、自分の方から足を運んだのだが。


 イヴォンヌは、いつものようにスタンレー夫人を歓待してくれた。よかった、病気ではなさそうだ。快くお茶とお菓子を勧めてくれるが、自分は手をつける様子はないのがちと気になる。


「ごめんなさい、最近顔を出せてなくて」


「別に気を遣わなくていいのよ。それより、体調でも悪かったの?」


「そうではないんだけど……」


 何やら言い淀むイヴォンヌを見て、スタンレー夫人は怪訝に思った。イヴォンヌは、普段ははっきりした物言いをするのに、今日に限って曖昧な態度でお茶を濁すなんてらしくない。何か事情があるのではという予感がした。


「あなたが口ごもるなんて珍しいわね。言いにくかったら無理しなくていいのよ?」


「いえ、いつか話さなくてはいけないことだから。その…………赤ちゃんができたんです」


 赤ちゃん。イヴォンヌの口からその言葉が出てくるとは予想してなかった。いや、状況から言えば、いつ出てもおかしくないはずなのに、油断していたという方が正しい。だから、スタンレー夫人は、一瞬頭が真っ白になってしまった。


「それって……つまり、妊娠したってこと?」


「ええ……そうです……」


 自分は何を言ってるんだ。そんなの当たり前ではないか。しかし、頭が追いつくまでにかなりの時間を要した。


「そうなの……おめでとう!」


「ありがとう……その、まだ自分でも現実感がなくて」


「そ、そうよね! 初めてのことだもの仕方ないわよ! それもだんだん慣れてくるって!」


 今の自分はうまく笑顔になれているだろうか。お祝いしたい気持ちは確かにある。その気持ちをストレートに伝えられるかいまいち自信が持てなかった。


「初期なのにつわりがひどくて……食事もすぐに戻してしまうんです。匂いに敏感になって、香水も付けなくなりました。こんな状態なので、社交イベントに出るのは控えようかと……」


「もちろんよ! 元気な赤ちゃんを産むまでは安静にした方がいいわ! 直前まで何が起きるか分からないんだから!」


 お前は妊娠したことないくせに何を知ったかぶりしてるんだ? 人生の先輩ぶって上から講釈垂れるなんておこがましい、ともう一人の自分が頭の中で囁く。そんな心の声を、スタンレー夫人は必死で無視した。


「ごめんなさい。まさか、そんなことになってるとは知らなかったから、香水を付けてきてしまったわ」


「いいんです。だってご存知なかったんだもの仕方ないですわ。今までと変わらず付き合ってください。ただ、しばらくご一緒できない時期が続くのが残念で」


「私もあなたにしばらく会えないのは残念。その代わり、体調がいい時で構わないから手紙をちょうだいね。つわりがよくなったらまた見舞いに行くわ」


 ついうっかり嫌味を言ってしまわないかヒヤヒヤしてしまう。そんな気持ちはないはずなのに、いや、本当は妬ましい気持ちがあるのに無意識の世界に落とし込んでいるだけなのか。スタンレー夫人は、サッカレー邸を出る頃には、気疲れでぐったりしていた。


 それにしても、と帰りの馬車の中で考える。これから家に帰って、夫にどんな顔で接したらいいのだろう? 家に戻っても、自分は平常心でられるだろうか。少しでも感情を出したら、イヴォンヌをお祝いしたい気持ちに傷をつけるようで怖い。醜くて弱い自分は嫌だ。人生経験を重ねて人格は成熟したはずなのに、こんなことで揺れてしまうなんて。誰も見てないのをいいことに、スタンレー夫人は頭を抱えた。


 クララとギルバートの間に子供はなかったが、それはスタンレー夫妻も同様だった。学生時代からの友人であるクララと変わらぬ友情を育んだ背景には、お互い子供を作れなかったという共通の悩みが存在したのも事実である。この問題について、クララとスタンレー夫人は度々悩みを共有した。


 もし、片方の夫婦に子供ができていたら、その時はどうなっていたのだろうか。共通の悩みで傷を舐め合っていた関係が崩れた時、友情も壊れてしまうのか。当時もそんなことを考えたことがある。今ではナンセンスにも程があるが、当時は真剣に悩んだこともあった。


 イヴォンヌの妊娠によって、苦い水が喉を逆流する感覚が甦る。家に着いて馬車を降りる頃には、スタンレー夫人は、すっかり意気消沈していた。


「フレデリカ、おかえり。どうだった? サッカレー夫人は?」


 夫のケントはいつもと同じ笑顔で迎えてくれる。それがまた、スタンレー夫人の良心を痛ませた。


「あのね、実は……」


 隠してもしょうがない。スタンレー夫人は、全てを夫のスタンレー氏に説明した。


「ギルバートも喜んだと思う。彼、ずっと子供を欲しがっていたから。クララができなかったことをイヴォンヌはやってのけたのよ。誇りにしてほしいわ」


「本当にそう思ってる?」


 スタンレー氏が悪戯っぽい目で妻の目を覗き込む。駄目だ。全て見透かされている。この人に嘘はつけない。スタンレー夫人は観念した。


「……あなたったら意地悪な人ね。喜ばしい気持ちは嘘じゃない、本当よ。でも、自分の中の汚い感情を自覚させられそうなのが怖いの。嫌な自分になりたくないのに……」


 とうとう言葉が続かなくなりうつむいてしまう。そんな妻を、スタンレー氏は優しく抱き寄せて、手を軽く握った。


「いいんだよ、無理しなくて。君がどんなに悩んできたか知ってる。そのために、色んなお医者様を訪ねたね。時には感情的になることもあった。だから、他人の懐妊話で素直に喜べないのは分かる」


「そんなことない……! 私素直に嬉しいのよ! イヴォンヌは今まで散々苦労してきたんですもの、これからは幸せになってほしい! でも……嫌なの。嫉妬してしまう自分がいて嫌なの。どうして、あんなに頑張っても自分は子供を授かれなかったのに、イヴォンヌは簡単に授かれるんだろうって」


 とうとう言ってしまった。胸に渦巻くモヤモヤの正体は嫉妬心なのだ。自分で口にしてから、はっきりと自覚できるようになってしまって、スタンレー夫人は愕然とした。そして、夫に縋りついた。


「どんなに普段取り繕っていても駄目ね。所詮いい人ぶってるだけ。自分が嫌になる。一皮剥けば、私も浅ましくて卑しい人間だわ」


「フレデリカは、醜い感情を持つ自分が嫌いなんだね? 友人のサッカレー夫人にやきもちを焼く自分が醜いと思う」


「ええ、そうね。その通りだわ」


「でも、醜い感情を持たない人なんているのかね? どんなにいい人でも、色んな感情が湧くのは自然なことではないのかい? 彼女の前で本音を言った訳ではないんだろう?」


「まさか! ちゃんとおめでとうを言ったわ。それも別に嘘じゃないし」


「それなら何も気にすることないじゃないか。湧いて出る感情をコントロールするなんて無理だよ。人間というのはそこまで理性的な動物じゃない。それなら、心に湧いたマイナスの感情をちゃんと認めてやって、受け止めることが大事だと思うんだ。君はよくやったよ。時間が経てば気持ちも整理できるはず。だから気に病まないで」


「そんなものかしら? 時間が解決する……?」


「だって、赤ちゃんのことだって、今は昔ほど気にならないだろう? それに比べりゃ、今回のことなんて些事に過ぎないよ」


「…………そうね、そういえばそうだったわ。私、素直にイヴォンヌを祝福できそうな気がする」

 

 スタンレー氏は、元々理屈っぽいところがある。この時もカウンセラーみたいに懇々と妻の気持ちを分析して見せた。どんな時でも感情に振り回されず、落ち着いて物事を考える夫が頼もしいと思うことがあった。今がその時だ。


「……あなたには敵わないわね。でも、そんなあなただからこそ、赤ちゃんができなくても自棄にならず持ち堪えられたのかもしれない」


「僕も、素直に祝福できないと言って悩む君が愛おしくてたまらないよ。結婚したのが君でよかった。僕は、君のそんなところが好きなんだ。正直で、可愛くて」


「やめてよ、可愛いだなんて。もうそんな年じゃない」


「人は幾つになっても可愛いものだよ。僕は死ぬまで君を可愛いと言えると思う」


 二人は、顔を見合わせてふふっと微笑みあった。そして、どちらかともなくキスを交わす。子供を設けることは叶わなくても、二人の愛情にヒビが入ることはなかった。それがどんなに尊いことか今なら分かる。


 健やかなる時も、病める時も、夫婦は二人で困難を乗り越えないといけない。その相手がこの人でよかったと、お互い心の中で思っていた。


**********


 その夜、同じ空の下では、もう一組の夫婦が会話を交わしていた。


「フレデリカが来たんだって? 妊娠のこと伝えたの?」


「ええ、少し緊張したけど……伝えたわ。普通に祝福してくれた」


「そうなんだ。よかったね。心配していたものね」


 そう言って、ギルバートはイヴォンヌの隣に腰掛け、彼女の肩に腕を回して、愛しい妻を自分の胸に収めた。

 

「でも、内心複雑なんじゃないか……彼女は優しいからきっと本音は隠してると思う」


「それでいいんだよ。誰しも胸に抱えた思いはある。それを無理に否定する必要はない。ゆっくり、時間をかけて消化していけばいいんだ。私たちは今までもそうやってきたし、フレデリカだってできるはず。そこは相手を信じて待っていればいいよ。大丈夫、ケントはいい夫だ。今頃、彼女をちゃんと受け止めているよ」


「うちの夫には負けますけどね?」


「おや、言うじゃないか。うちの奥さんもなかなかだな」


 ギルバートは優しく微笑むと、イヴォンヌの額に軽くキスをした。

最後までお読みいただきありがとうございます。感想などくださると嬉しいです。

一応これで完結とさせていただきます。最後に星で評価をくださると創作のモチベーションになるのでよろしくお願いします。

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― 新着の感想 ―
よかった…。 子供がいることで、ギルバートが先に逝ってしまったとしても、イヴォンヌは一人じゃないんですね。スタンレー夫人の視点で語られたことも、意外性がありつつもなかなか複雑な問題で…。でも、色々な形…
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