第五話
11月の日曜夕方は、あっというまに闇が近寄る。さっきまで遊んでいた家族連れや子どもたちが、足早に家路を急ぐ。散歩中の犬が鳴く声がやけに大きく響く。
ざり、と土を踏む音がした。二階堂はベンチで脚を組んだまま、顔をあげた。
「来ないかと思った」
相手はしばらく黙っていた。二階堂は彼女の言葉を待つ。
「……朝からおばあちゃんの家に行って、戻ってから実家の親と電話してて、遅くなりました」
ごめんなさい、と彼女は消え入るような声で言った。二階堂は悟る。のぞみが答えに辿りついたことに。
「座ったら?」
二階堂は右隣のスペースを目線で示した。のぞみは言われるままに、ちょこんと座る。ベンチに対して2本の垂直な影が伸びる。
「ごめんなさい」
のぞみはもう一度言った。小さく肩を震わせる彼女に二階堂は苦笑した。
「泣くなよ」
「だって!」
のぞみは真っ赤な顔で反論する。
「私、大事なことなんにも憶えてなかった……」
ずずずっと鼻をすするが、涙が膝の上で握りしめた両手にこぼれ落ちた。
東京に戻り、のぞみはすぐさま母親を電話で問いただした。当初はしぶっていた母親も、娘の真剣な声に、事の次第を白状した。
17年前の夏休み、のぞみは男の子と一緒に事故に遭った。目撃者の話によると、青信号を渡っているのぞみにトラックが突っ込んできたという。居眠り運転が原因だった。すでに信号を渡り終えていた男の子が、気づいて引き返した。突き飛ばされたのぞみは後頭部を打って気を失ったものの、身体はかすり傷程度で済んだ。その代わり、男の子は車体に巻き込まれ、あたりは血の海と化した。ふたりは救急車で搬送されたが、男の子の左腕は切断せざるをえない状況だった。
「夕飯の時間になっても帰ってこなくて心配してたら、警察から連絡があって、お父さんもお母さんも卒倒するかと思ったわよ。急いで駆けつけたら、あんたは目を覚まさないし、達郎くんにいたっては瀕死だなんて言われて」
本多達郎。それが男の子の名前だった。
母親によると、夏休みが始まった頃からのぞみと達郎は仲良くなり、8月に入ると毎日のように遊んでいたという。週に何度かはのぞみの家の夕食にも同席した。それはのぞみの祖母の意向でもあった。祖母は少年のことをとても気にかけていた。
「ラジオ体操のカードのこと、憶えてる?」
二階堂は前を向いたまま言った。記憶にないのぞみは、正直に首を横に振った。
「参加したら日付のところにシールを貼ってもらえるやつ。皆勤したら商店街の500円券がもらえる、みたいな……。でも初日から俺は手違いでシールがもらえなかった」
次の日に申告すればいいだけなのに、そんなこともあの頃の俺はできなかったんだ、と二階堂は続ける。
「また父親に怒られると思って、憂鬱な気分で帰り道を歩いてた。父親は500円券を絶対手に入れろと俺に言い聞かせていたから。クソみたいなアル中だったくせに、カネに関しては目ざとかった。500円なんてはした金でも、酒を買う足しにするために」
そんな彼に「私、町内会の人に顔を憶えられてないから、ダブってもらっちゃった。だから1枚あげるね」とシールを差し出したのがのぞみだった。
「驚いてありがとうもロクに言えなかったのに、君は次の日も普通に話しかけてくれた。俺は学校でも町内会でも浮いてたけど、外から来た君は気にしてなかった」
二階堂の低い声が、ベンチを通ってのぞみの背中まで振動する。表情を見なくても、それだけで伝わってくるものがあるような気がした。
「正直、最初は敬遠していた。いかにも苦労知らずのお嬢様みたいな態度がムカついたし。でも君のおばあさんもご両親も、本当に屈託がなくて好い人たちだった。君にいたっては……」
二階堂がのぞみを横目で見て、ふっと笑った。
「屈託がないというか、能天気というか、バカ?」
「うっ」
ちょうどかがんでティッシュで鼻を噛むところで、自分でも頭の悪そうな姿勢だと思い、言い返せない。二階堂は長い脚を投げ出して、ベンチの背に深くもたれた。人気のなくなった公園を見ながら、遠い過去を淡々とつまみあげる。
「新鮮だったし楽しかったし、うらやましかった。事業に失敗して昼間から飲んだくれてる父親も大嫌いだったし、言いなりになってる母親も大嫌いだったから。ばあちゃんのことだけは好きだったけど、死んでからウチは本当にどうしようもなくなってた」
だから、夏休みが終わるのが怖かった。のぞみたち家族が引っ越したら、自分は再び孤独になる。記録的な猛暑だったこともあったせいか、父親は日に日に不機嫌になっていた。ないものを見たと言い、言ってないことを言ったと言っては暴れた。ここから抜け出したい。違う場所で生きたい。少年はそればかり考えるようになっていた。
あの日は何故だか、特に帰りたくなかった。ぎりぎりまで外にいて、もう戻らないと本当に怒られるという帰り道で、トラックが突っ込んできたのだった。
だが子どもたちが救急車で運ばれて大騒ぎになっている頃、ひそかにもうひとつの事件が起きていた。
のぞみと同じく本多家にも事故の連絡がいったが、誰も電話に出なかった。いつまで経っても連絡が取れず、さらに母親も夜勤に現れていないことがわかった。これはおかしいということになり、警察と町内会長が家まで訪ねた。そこには、無惨な光景が広がっていた。
「……まさか錯乱した父親が母親と心中してた、とはね」
事故の翌々日の新聞に、そのニュースは大きく報じられていた。
のぞみが鼻をすする音だけが、暗くなった公園に響いた。二階堂は夜空を見上げる。
「俺は本当にラッキーだったと思ってるんだ。両親の死亡時刻は、俺が事故に遭ってすぐだった。つまり事故に遭わずに家に帰っていたら、きっと俺も死んでた。それが片腕で済んだうえ、地獄みたいな日々からも抜け出すことができた」
「でも」
「君が記憶を失ってると聞いて、絶対に俺のことは言わないでくれと頼んだ。余計な罪悪感を持たせたくない。だって君は命の恩人なんだから」
「そんなの、こじつけじゃないですか」
反論したのぞみに、二階堂は静かに微笑んだ。
「こないだ腕がなくなった話をしたとき、君は『不幸中の幸い』と言った。あのとき、ああ、やっぱり変わってないなと思って嬉しかった。なんでもポジティブに受け止めて、屈託がない。俺はそんな『のんちゃん』が好きだったんだ」
のぞみは何も言えなかった。
二階堂はモッズコートの右ポケットから貸金庫のカードとカギを出し、ベンチに置いて立ち上がった。
「残りの1900万円が入ってる。暗証番号は0825」
「もらえません! 私、結局親に聞いてしまって、自力では名前をみつけられなかった。それに、もう充分助けてもらったのに」
突き返そうとしたが、二階堂は取り合わない。
「事故のあとも、君の両親には本当に良くしてもらった。君のことでも大変だったろうに、何度も見舞いに来てくれて、うちで面倒見るとまで言ってくれた。結局遠縁の養子になって名前も変わったけど、俺が高校を卒業するまで、こっそり金の援助をしてくれたのも知ってる」
だからいつか返そうと思ってたんだ。二階堂は言った。
「結婚っていうのは……?」
「ちょっとした冗談のつもりだった。こんなにうまく引っかかるとは」
彼は唇の端をあげたが、その顔に少しだけさみしそうな色がよぎったのを、のぞみは見逃さなかった。
「おじさんとおばさんによろしく」
そう言い残すと、二階堂は背を向けて、左脚を引きずりながら歩き始めた。長身のシルエットは、あっという間に暗闇に溶けてしまいそうになる。
「たっちゃん!」
のぞみは叫んでいた。
「たっちゃん、って呼んでたよね?」
もう涙は止まっていた。泣いてる場合じゃなかった。確信を持って、強い気持ちで言った。
「ごめんなさい、思い出せたわけじゃないの。でも、たぶん私、そう呼んでた。わかんないけど、絶対、たっちゃんって呼んでたと思う」
振り返った二階堂の横顔が答えだった。
その右目から、一筋の涙が流れていた。
のぞみは二階堂のもとへ駆け寄り、そっと左腕に触れる。肘の部分を、両手で包むように大事に握った。
「私、本当に運がいいと思う」
のぞみは二階堂を見上げる。
「好きな人に2回も出会えた」
そして、にっこりと笑った。
大きな右腕がのぞみの背中に回された。身体がぎゅっと心地よく締め付けられて、あたたかい。額を二階堂の肩の下にくっつけながら、のぞみは静かに目を閉じた。
この手のなかの幸運を、一生離さないと誓いながら。
お読みいただきありがとうございました。
この作品は、第15回文学フリマに出展した喫茶マリエールの新作『Otogi Stories』に収録したものです。タイトルどおり、今回は「お伽噺のREMIX」がテーマで、当初は「眠り姫」なども検討していたのですが、最終的にこんな作品になりました。
名前を探す、というのはずっと好きなテーマで、お伽噺ではないですが「トゥーランドット」なども大好きです。ミステリーっぽくしようと思ったのはいいものの、結果的に記憶喪失、交通事故、殺人事件と、飛び道具をてんこ盛りにしてしまいました。が、もともと「花とゆめ」や「LaLa」といった白泉社の、ちょっとミステリアスな少女マンガが大好きなので、書いていて楽しかったです。緑川ゆき「名前のない客」や、吉野朔実「記憶の技法」あたりを少し意識しました。
主人公ののぞみは、お伽噺のヒロインに共通する特性として「偏見がないこと」と「根性があること」が大事なのでは、と思い、キャラ造型しました。でもキラキラなお姫様にもしたくなくて、間の抜けたところもプラスした感じです。相当ズボラで料理とか下手くそっぽいですが、こういうクセのないヒロインは実ははじめてだったので、新鮮でした。
また相手役である二階堂は、おそらく今まで書いた男性キャラクターのなかで、最もイイ男だと思います。
私の作品はいつも曖昧な結末で終わることが多いのですが、今回はお伽噺ということで、めでたしめでたし、で終わらせたのも新しい試みでした。というか、ヒロインとヒーローがはっきりとカップリング成立する話を書いたのははじめてで、感慨深いです。きっとこのあと、ふたりは結婚して幸せに暮らすはずです。
ハッピーエンドを書くのは恥ずかしさもありましたが、予想以上に周りから評判が良かったので、チャレンジしてよかったなあと思っています。
ここまでお読みいただき、どうもありがとうございました。
ご意見・ご感想などお待ちしております。