プロローグ
すっかりなろうから離れておりましたが、久しぶりに作品を投稿することにしました。
十八話で完結、毎日更新予定です。
お盆&夏休みのお供にでもなれば嬉しいです。
「阿凛、今日の分のハグがまだだろう?」
「鳳龍……! もう三回目です!」
――後にそんな甘い日々が待っているなど、この時の凛はまだ知らない。
◇
「何をしているの、この愚図!」
高飛車な声とともに、髪を掴んで引っ張られる。
(——っ……! 地味にっ、痛い……! やめてって言いたいけどっ……)
痛みに耐えながら、凛は表情筋だけを死守するのに徹した。
ここで顔を顰めたり叫んだりすれば、面白がった継母がさらに力を強めてくることは、経験上分かっている。
薄暗く冷え切った離れの部屋。
張り直されたことのない畳は踏めばい草が舞い、穴だらけの障子からは冷たい隙間風が吹き込む。
足に埃がつくのが嫌だからと、履物のまま上がり込んでいるのは、凛の腹違いの妹——彩香と、継母の静江だ。
「お母様、そんなに強く引っ張ったら可哀想ですわ」
足元に転がっていた凛の筆を、彩香が草履で踏みつけた。
優しげな言葉とは裏腹な行動。
可憐な顔立ちに浮かんでいるのは、歪んだ嘲笑だ。
静江が凛の髪をようやく離す。
よろめいた弾みで、ぱしゃりと朱色の墨液が畳に落ち、血のように広がっていった。
「あら、嫌ですわ。汚い」
「ああ本当。着物についたら大変だわ。この友禅は上等の物なんだから。凛、きちんと掃除しておくのよ」
「……はい」
余計な反論をすれば、また夕食を抜かれる。
俯くと、二人の上品な着物の裾が目に入った。
旧家の令嬢と奥方らしい絢爛な仕立てだ。
一度だって、凛は自分用の着物を仕立ててもらったことがない。
今も一人だけ、古びた着物を着ている。
「さあ行きましょう、彩香。こんな汚くて寒い場所にいつまでもいられないわ」
「ええ、お母様。ではね、お姉様。早く『雑用』を終わらせてくださいな? それくらいしてもらわないと、この花石家で養ってあげている意味がありませんものね?」
「…………」
「聞こえなかったの!? 明日までに、あと五十枚、きちんと仕上げるのよ! 返事は!」
「……はい。承知いたしました」
深々と頭を下げる。
反論すれば雑用が増え、従えば早く終わる。
——それだけの、至極単純な損得勘定だ。
二人が満足そうに去っていくと、離れには静寂が戻った。
(……泣いたって時間の無駄。そんな暇があったらさっさと仕事を片付けるに限るわ)
のろのろと立ち上がると、部屋の隅の姿見が目に入った。
そこに映るのは、疲れ果てた少女——花石凛。
平安の代から続く陰陽師の家系、花石家の長女。
けれど、誰も凛をご令嬢だとは思わない。
「……っ、熱い」
着物の袖をまくると、左腕の肘から肩にかけてアザが浮かび上がっていた。
天に向けて咆哮をあげる龍の形。
色は、鮮血のように赤い。
『凶印』——生まれた時からある、忌まわしい印。
このアザのせいで、凛は「忌み子」と呼ばれてきた。
実母は凛を厭い、幼い頃に男と消えた。
父はすぐに静江を娶り、彩香が生まれた。
(同情してほしいわけじゃないわ。……ただ、この無駄に体質だけは何とかしてほしいものだけど)
無言のまま畳の朱墨を拭き、室内を手早く片付ける。
それから文机に向かい、そっと筆を握った。
亡きお祖母様が遺してくれた、凛の唯一の宝物。
京都の高名な筆師が打った特注品で、上質な赤天尾を惜しみなく使った逸品だ。
しなやかで強い毛先が、溢れ出る凛の霊力を受け止めてくれる。
一つ息を吐くと、背筋をピンと伸ばし、霊力を集中させる。
赤い揺らめきが凛を包み込んだ。
そのまま、流れるような所作で、紙の上にすらすらと筆を走らせていく。
一筆ごとに、体の中で暴れる余分な霊力が紙へと吸い出されていく。
皮膚の裏側のジリジリとした熱も、霊力とともに流れ出ていった。
「うん、いい調子。……このペースなら、明日は久しぶりに学校に行けるかも」
枚数と時間を計算しながら、凛は出来上がった霊符を積み上げていく。
(このまま一生大人しく従っているつもりなんて、毛頭ないけれど。……今はまだ、その時じゃないわ)
いつか、この家を出る。
自分の力で、自分の居場所を手に入れる。
それだけは、もう何年も前から決めていることだった。
——カァ。
その時、どこかで鳥の声がした。
「……夜中に、カラス?」
筆を止め、凛は片眉を上げた。
夜のカラスは吉凶で言えば不吉。
恐怖よりも先に、違和感が勝つ。
訝しみながら障子の隙間から外を覗くと——格子窓の外、月光の影に『それ』はいた。
漆黒の羽を持つ、一羽のカラス。
その瞳は、生き物のものとは思えないほど深い、黒曜石の光を宿している。
——見られている。
ただの野生動物ではない。
まるでこちらを推し量るような知的な眼差し。
(……なに、これ。式神……? それにしては、随分と上等な——)
警戒心が一気に頭をもたげる。
正体を確かめようと手元の霊符を握りしめたその時、窓の隙間から低く艶のある声が漏れ聞こえ
た。
異国の言葉で、たったひと言。
『——終於搵到喇(ついに見つけた)』
意味など分かるはずもない。
けれど、胸の奥が妙に、騒がしく脈打った。
「あっ……」
月明かりを背に、カラスは一回羽ばたくと、夜の闇の中へ静かに姿を消してしまった。
(なんだったのかしら、一体……)
——この夜が、すべての始まりになるとは。
まだ凜は知る由もなかった。
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