第四章「発作」 ー初秋ー
『そんなこと言われたら、また「発作」がでそうだよ』
そんな表現が適切なのかどうかはわからないが、たとえて言うなら(飲酒をする人なら経験があると思うが)、お酒を呑み過ぎてしまった時の気持ち悪さ…アレだ。
(もちろん、一滴も飲んでなどいないのだが)。
あの症状を指して「発作」という言葉を使っているが…昨日は午前中、一週間ぶりで例の症状が出てしまい…父同伴で、近くにある別の病院へ。すると…「徐脈」ではないか?…とのこと。
(つまり、脈拍が遅くなってしまう症状)。
先にも述べたように、心臓に持病と言うほどではないが、トラブルを抱えていたので、三度「循環器内科」にかかっていたわけだが…「心電図」と、飲み始めた「血栓」予防のための、血液をサラサラにする薬の適応を調べるための「血液検査」程度で過ごしたこの一か月間が、まったく無駄になってしまった。
(詳しく書けば…脈が乱れると血流に滞りが起き、「血栓」と呼ばれる血の塊ができやすくなる。それが脳や心臓の血管を詰まらせれば「脳梗塞」や「心筋梗塞」の原因となる)。
仕事が忙しい時は、「真夏か真冬に、空調の効いた病室で、しばらくノンビリしたい」なんて語っていたものだが…通院だけで、手術も入院も無いのでは、保険も下りない。
(身体の事はもちろんだが、かさむ医療費に、生活費の方だって、そろそろ心配だ)。
いっこうに埒が明かないので、病院のハシゴをする事になったわけだが…最近では、「セカンド・オピニオン」も認知されているご時世。しかし、それ以上に、症状が出ている時の救急病院ばかりでなく、一か月間、原因もわからず、不安や苦痛に耐えている身にもなって欲しい。「溺れる者は、ワラをもつかむ」思いだった。
なにしろ三年前に他界した母の死因は、「大動脈解離」という循環器系のトラブル。
(「大動脈乖離」とも書き、三層構造の大動脈の膜が裂けてしまう症状だ)。
もともと「高血圧」などの持病のあった母。運動神経と、持病に関しては、すっかり母親似な上に…「出たがり」「目立ちたがり」は、父母両家系や、我が一家の家族の多くに共通するもの。
(満州生まれの母は、スピード・スケートをやっていたが、戦後、内地に引き揚げてからは、諸般の事情により…彼の地で早くに病気で父、つまり私の祖父を亡くし、それでなくとも、敗戦で貧しかったであろう当時のニッポン…高価な道具を必要としない、布切れ一枚の水着でできる水泳に転向し、高校の時は背泳で「国民体育大会=国体」に出場したそうだ)。
父も母も「自己顕示欲」が強いのは、元教師というせいもあるのだろうか?
(そんな性格だから、教師になったのかもしれないが…教師ばかりの家系。片方が教師だと、連れ合いも教師となる可能性が高いので、数は倍になって増えてゆく。それで主に伯父・叔父&伯母・叔母などの一族郎党、教師ばかりなのだが…元来のヘソ曲りだからか、教師だけにはなるまいと思っていた)。
おまけに、特に母は、「仕切りたがり」でもあった。地区の婦人会や市のボランティアの先頭に立ち、フラダンス教室を主宰するなど、三つや四つほどの地域活動を掛け持ちして数年、ある日突然、自宅で倒れた。
(ついでに、父が「アキレス腱断裂」で入院などした直後だ)。
一言で言うなら「過労」が原因だろう。
(先にも述べたように、「やりすぎ」なところも受け継いでいる)。
父は父で教員時代、教師的出世には目もくれず、部活の顧問や、そちら方面の役員などの活動ばかりに精を出していたものだ。
(我が県の元『高校体育連盟=高体連』サッカー部・部長。それで、「国体」や「インターハイ」の時期には、いつも家を留守にしていた)。
そして、そんな両親の性格が遺伝したのだろう、中学の時から、スピード競争の世界にいそしんできた。だいたい、スポーツを本気でやっている人間なんて、多かれ少なかれ目立ちたがり屋に決まっているが…。
(雑誌のレース結果などに、自分の名前が載るたびに、優越感にひたっていたものだ)。
ただ、どちらかと言えば、性格は父親譲りで、関心の無い事で注目を集めるのは嫌いだった。むかし従事していた仕事で、「特進で役職になる」という噂もあったが、管理職なんてものには、まったく興味が無く…むしろ、そんなものはお断りだった。辞職した一因に、そんな理由があった事も否定できない。
それに、人と接する仕事をしていた両親とは違い、多分に「人間嫌い」なところがあった。それで、機械相手の職種に従事し続けていたのだが…どんな仕事でも大抵そうだが、最終的には人と人とのつながりだ。機械を整備したからといって、機械が代金を払ってくれるわけではないし、たとえ故障が直らなくても、言葉たくみに相手を納得させられれば、新しい機械だって売れるかもしれないが…。なんでも「作家になるのは、教師の子弟に多い」という話を聞いた事がある。しかし、「話を創る」なんて、ウソつきなだけだ。「虚言癖」があるくせに、口下手な奴が小説なんてものを書く。口がうまかったら、きっと詐欺師になっていた事だろう。
(頭の良し悪しはともかく、「ズル賢いガキ」だった。それに、いったんシラを切るとなったら、とことん切り続けた。「性悪説」。もちろん、「性善説」的生まれながらの善人というのもいるだろうが、少なくとも、自分はそうだったし…「人間など皆◯◯」…この「◯◯」に当てはまる言葉が、『その人の本性』だと今でも思っている。そして、そんな「性悪」を討ち消すには、まず経済的な余裕。次に「教育」…つまり「美意識」の問題だろうが、この歳になると、今度は「体力」が重要だ。「善行」なんて、「超人」以外、まず金と力があっての行為だろう)。
いろいろと異論はあるだろが、あくまで、ごくごく個人的意見を述べているだけなので、反論や批判は受け付けないが…ただ、値段の交渉など、直接顧客と面を合わせて、営業やセールス的な応対をしなくていいだけマシだった。
(なにしろ特に、相手の顔や姿が見えない電話は、大の苦手だ)。
結婚も二度したが、『相手が変わっただけで、中身は同じだった』というのが感想だ。
(タイプは違う人達だったが…こちらは何も変わらなかったのに、二人とも「変らないのがいけない」といったような事を言って、出て行った)。
きっと…。
『これ以上は、立ち入らないでくれ』
昔から、誰にも侵されたくない『絶対領域』というものがあって…歳と共に、かなりマシにはなってきたが…結婚が破綻した遠因になっていた事は、間違いない。
(たとえば、一泊・二泊くらいの観光ならともかく、一週間にも渡る出張になったら、男同士の相部屋なんて遠慮したい)。
なんにしろ、始めから人を寄せ付けないのだから、話にならない。
(もっとも、最初に目指したプロ・スポーツマンや、次の目標としている文筆家で食っていけるようにでもなっていたら…あるいは、教師などではなく、もっと遥かに頭脳明晰な医者や学者…または、代々の政治家や軍人の家系にでも生まれていれば、結婚生活における結末も、違った形になっていたかもしれない)。
そんなわけで、トータルすれば、独りで暮らしている時間のほうが、はるかに長くなっている事だろう。
《閑話休題》
「人はやがて、一人では生きていけなくなるから」
二十歳前後の一時期。当時の『芥川賞』最年少受賞作家さんの作品を、よく読んでいた。氏はモーター・サイクルに乗るという事もあり、小説よりエッセイの方が多かったが、その中で、氏が付き合いのあった著名なライダーに…
「人はナゼ結婚するのか?」
そんな質問をしたのだが、その「学」も「教養」もある紳士の返答が、そういったものだった。
『?』
浪人や学生という身分しか経験のない自分は、まだまだ「半人前」以下の子供で…
『何を言っているのか?』
サッパリわからない、理解不能な答え。
もちろん「結婚」という行為も、『いずれはそういう時期が来るだろう』くらいに、薄々とは思っていたが…家庭を持っている自分など、想像もできない・考えてもいなかった頃。
それ以来、ずっと心の片隅に引っ掛かっていたのだが…その言葉の真意がわかるようになったのは、それから数十年も後。
つまりは、働くだけの退屈な日常にあって…すでに「働き口があるだけマシ。ガマンしてでも働き続けなくてはならない」などという時代でもなかったが…まだまだ「働く意義」「生きている意味」が要求され、ヤル気を保つためにも、「やり甲斐」「生き甲斐」が必要で、ゆえに(できれば愛せる)誰かを求め、結婚して家庭を持ち、子育て・住宅ローンなど、大切なものに「責任」を持つ。
(それなりの年齢なのに未婚だと、偏見の目で見られた時代。「ローンを組む時に不利になる」などと囁かれていたものだ)。
それが社会的にも、ましてや個人的にも、「一人前になった」と自他ともに認められる事だった。
その後の結婚率の低下に、コンビニなど、便利になった時代背景を理由に挙げる声もあったが、一番の理由は…
「自分のためだけに生きられる」
そんな世の中になったからだろう。それが、今の世界だ。
幸い、自分の一生の残り全部を使っても、やり切れないくらいやりたい事がある。
「残りの人生。自分のためだけに、自分の時間を使いたい」
そんな人間だ。今さら、たとえそれが血のつながった肉親といえど、誰かといっしょに過ごすなんて、こんな状態になっていなければ、それは今後も変わらないはずだが…もともと、同じ街に住んでいながら、実家にはあまり寄りつかない質だった。それに、特別な理由はなかったが、高校生ともなると、早く家を出たくて仕方なかった。案外それは、「性欲」と関係しているのではないかと思うのだが…たとえば、チンパンジーのオスは、ある程度の年齢になると、その群れを離れるという。
(ここのところ、父の蔵書、文庫本サイズの世界の歴史シリーズを、ヒマにあかせて読んでいるのだが…せっかくの機会だ。こんな事でもなければ「ゆっくり・じっくり腰を据えて」なんて、無理な話だろう…その第一巻『人類誕生』の項に、そんな事が書かれてあった)。
オス猫だって、家出同然に求婚の旅に出る一方で、メスは群れに残るが…人間界だって「お父さんのパンツといっしょに洗濯しないで!」などといった話は、よく耳にする事。もちろん、何事にも、例外はあるだろうが…『性欲が強い方が、「親離れ」が強く・はっきりしているのではないだろうか?』と、以前から思っている。なにしろ性的なものは、家庭内では最もタブー視されるものだから…おそらく、オスはオスなり・メスはメスなりに、「近親相姦」を防止するような遺伝子が、本能に組み込まれているのだろう。
(つまり、「性欲」と「人恋しさ」はイコールではないという事だ)。
「ふう!」
父の運転で父宅に戻る頃には、容態も小康状態。今後、さらなる検査をする予定だが…「24時間ホルター」(胸の数か所に電極を貼り付け、携行式の小型装置で丸一日分の心電図を記録する)や「超音波」など。ただ、今日は週末。
『少なくとも土日の二日は、いつ襲ってくるとも知れない発作におびえながら、過ごさなくてはならない』
そう思うと、夜、横になってから、またまた例の症状が発生。
(誰でもそうなのかは、わからないが…先に述べたように…自分の場合、わかりやすい表現で言えば「酒を呑み過ぎた時」のような状態になる。もちろん発病して以来なので、ここのところしばらくアルコールなど一切摂取していないし、まったくお酒を嗜まない方には、ピンと来ないかもしれないが…)。
「ハア! ハア! ハア…」
玄関を入って左の、仏壇のある畳敷きの部屋に布団を敷いて寝起きしているのだが…襖続きの奥の部屋には、父がベッドで寝ている…ひとつのパターンとして、「息苦しさ」から始まる事が多い。
『やっぱり、心臓が原因なんだろうか?』
以前、「不整脈」をほったらかしにしたまま、ハードな毎日を続け…「趣味」に「仕事」に「家庭」。あの頃は『人の三倍生きている』と自負していた…「心臓肥大」による「心不全」の初期段階のような症状に陥った事がある。
(心臓の機能が下がってくると、落ちた効率を補おうと肥大化していくそうだ)。
すると肺の交換効率が落ちて、肺の内部に水がたまる。横になると、低部にあった水分が一面に広がるため、息苦しさが増す…といった、そんな経験があった。
(あの時は、医者で処方された「利尿剤」をしばらく飲んでいた。たまった水分を、尿にして放出するわけだ)。
今回も、特に横になっていると胸苦しさが一段とひどい。そこで上半身だけを起こして、うなだれる。まだエアコンの欠かせない季節。
(昨年の夏。父は扇風機だけを回した締め切った部屋で就寝していて、「熱中症」の症状を示した。冬の屋内で「凍死」する高齢者がいるように、自分も加齢と共に、暑さ・寒さに対する感覚が鈍くなってきたように思う。気がつけば、「夏はチンチン」に火照っていたり、「冬はキンキン」に冷え切っていたりするものだ)。
空調は、奥の父の部屋にしかないので、北方向になる足元側の襖を開けて寝ていたのだが…闇は、いっそうの不安を募らせる。そこで枕元に置いたナイト・スタンドの灯りだけで、ジッと我慢。
「ハア! ハア! ハア…」
「ハタ・ヨーガ」の達人のように、「不随意筋」まで自分の意志でコントロールできるならともかく…。
(なんでも、任意の筋肉単体を、自分の意思で動かす事ができるようになるそうだ)。
体調を崩してから、ヨーガの入門書を買ってみたのだが、まだ読んでいない。どちらにしろ、修行も積んでいない人間が、急場しのぎにできるはずがない。
それに…『このまま、死んでしまうのではないか?』といった、湧き上がってくるような何とも言えない「恐怖感」。
また…『今までの人生、いったい何だったのだろう?』。人間は完全に失望すると、生命活動を停止させる事ができると言うが、すべてが無駄な事だったように思えてくる「絶望感」。
そして…「すべての人に役割がある」「みな、生まれるべくして生まれてきた」みたいに語る人もいるが、「やればできる」なんて言葉は「やってできた人間」が語るものなのと同様、すべての人に当てはまるわけではないのだろう。そう思うと、これから先の日々が、虚しい営みに思えてくる「虚無感」。
『このさき生きていても、いいことなんてあるんだろうか?』
「厭世感」とでも言うのだろうか? 今までは、「自殺」には否定的だったが、そんな人の気持ちがわかるような気がしてきた。
しかし一方で…。
『このまま死んでしまってもいいのか? 何も残さず、生きた証しも無く』
そんな思いも湧いて来る。『このまま終わってしまったのでは、何も残らない』
そうも思う。
『何か一つくらい、残しておきたい』
たとえば音楽。曲を創った作曲者の名は後世まで残るが、当時(そして、おそらくこれからも)誰が演奏したかは、時がたてば、そのうち大した問題ではなくなってゆく。
また、「映像の世紀」と言われる20世紀以降、動画も膨大な量となるだろうが、それにしたところで、評価されるのは製作者…たとえば映画だってやがては、誰が演じたかより、それを造った人間…「監督」だったりするものだ。
しかしあいにく、そんな才能は無いし、今さら始めて、いったい何ができるというのだろう?
『歳を取るという事は、選択肢の数が減っていくこと』
それが以前から、若い仕事仲間などに語っている自論だった。たとえば就職だ。最近では年齢制限の項が撤廃されたとはいえ、年齢が上がると同時に、求められる求人の数は減っていく。それでなくとも、今さらプロのスポーツ選手になる事など、到底無理な話だという事は、本人が一番良くわかっている事だろうし、芸術方面の分野を始めたところで、今さらいったいどれほどの技術を習得する能力が残っている事やら…。
(だいたいそれ以前に、何がしかの「才能」があるのかどうかも「?」だ)。
「人は脳の二~三割しか使っていない」という説もあるが、そんなのはウソだと思っている。ただ人間は、自分たちの脳について、まだ二~三割しか理解していないだけなのだろう。
(「超能力」とまではいかなくても、たとえば「速読術」や「超記憶力」についてもそうだ。誰もが達成できる事だとは思えない)。
たとえばゴリラも人類同様、必要以上の脳容量を持っている(と思われている)らしいが…ある研究者の話によると、ゴリラも人間同様、社会性の生き物。何もしていないように見える時にも、他者の顔色をうかがったり、あれこれ思いを廻らしており、そういった事に多大な「脳力」を消費しているのだろう…という事だ。
『人間は社会性の生き物?』
もうずいぶんイイ歳になってから、その話を聞いて、その事に気づいた時…。
『社会からの疎外感を緩和するには、自分が変わり、適応しなくてはならない』
かなりホッとしたものだが、しかし現代の人間社会は肥大化し過ぎ、情報量も膨大なものとなっている。すでに、いち個人の許容量をはるかに越えており、心を病む人が増えるのも、もっともな話なのだろう。
(我々が住むこの宇宙を情報に換算すると、十の百乗ビットと言うが…地球の水の総量は、太古の昔から変わらないのと同様、あるいは『質量保存の法則』のように、不変なのだろうか? おそらく、知識が増えたと思っても、真理はすでにあるもの。「コロンブス」が、新大陸を発見したようなものだし…経験にしても、『運命論』的に、すでに定まったものだとしたら…情報量は不変なのかもしれない)。
「たまには息抜きも必要だ」
かつて貧しかった時代。領主様に取り立てられて、ただひたすら働くだけの毎日だった民草にだって、たまのおこぼれの縁日があったはずだ。でなけりゃ「一揆」などの反乱だって、もっと頻繁したことだろう。
つまりそれが「レクリエーション」の意義であり、効能なのだろうが…『瞑想』の基本「何も考えない事をする」というのは、かなり困難な行為だ…というわけで、ダラダラと、脈絡の無い思いが浮かんで来る。
『みんな今ごろ、どうしているのだろう?』
やっていたのはマイナー・スポーツ。かつては「ゴルフなんて、男のやるもんじゃない」「水割りなんて、男の飲むもんじゃない」と公言してはばからなかった。かと言って、相手を倒すのが目的の「格闘技」みたいに野蛮でもない。そんな人間の、個人的なおすすめは…汗とホコリと爆音…「モトクロス」。
(最近では、レディース・クラスも盛んなようだが、特に体力面で、同じ土俵で戦えるはずもない。体力的には、サッカーに次ぐ消費量だというデーターもあるくらいだ。なにしろ、アスファルトの上を走るモーター・スポーツならひと息つく事もできる直線部が、路面が荒れてくると一番体力を消耗するのだから、その過酷さが知れようというもの。必要とされるのは、「心」「技」「体」。それに、男性に特有のものとされるメカに対する興味や知識。実際に戦っていた人間である自分に言わせれば、まさに「これぞ真に男のスポーツ」という事になる)。
引退後は、中には関連業界で、上手いこと立ち回っている人間もいるが…元「全日本チャンピオン」といえど、まったく別業種で、細々と生計を立てている人だっており…平々凡々と暮らしている奴はまだマシだが、とても通常の社会生活を送っていけそうもない個性的な連中だって、たくさんいた。
(かく言う自分は、他人の目にはどんなふうに映っていたのだろう? 結局「同じ穴の狢」。過去に栄光と呼べるほどの実績はないが、放蕩三昧を尽くした人間の末路なんて、案外こんなものだろう)。
『いったいどこが、何が違ったというのだろう?』
細かく見れば違いはあるが、大きく見れば同じ人間。「大同小異」。ただし、どこの世界にも、成功した人間に共通するものが、ひとつある。それは…良き恩師・良き伴侶・良きライバルなど…「良い出会いのエピソード」が、必ずひとつはあるものだ。つまり…。
『一番の違いはわかってる』
先にも述べたような人間。仲間がいなかったわけでもないが、こちらから友人を作るタイプではない。特に、競技の世界。実力拍車ならなおの事、真の友情など生まれるはずもないが…「人づき合い」を大切にしないところがいけないのだ。
(ただし、それは今でも変わらない。「仕事仲間」以外と言えば、せいぜいが「飲み仲間」程度。もともと「友達」や「友情」なんて言葉には、「偽善」の響きしか感じない人種。そんな人間関係を、まったく信用していない人間だが…「アーバン仙人になりたい」と語っては「そんなのウソくせ~」と言われるのが常…「世捨て人」や「マタギ」のように、まったく孤立した自給自足を求める人間でもない)。
でも…『やれる時に、やれることをやっておく』。
そう思って生きてきた。だから誰もができるわけではない経験がいくつもあるし、楽しい思い出もたくさんある。
『余生を退屈しないで過ごせるくらいの事はしてきた』と思っていたし、『あとは「借金を返すような人生」でかまわない』とも思っていたが…獲得したトロフィーの数々は、「3・11」の地震で崩れ、山と積まれたままだ。
もともとは、物質文明の権化のような子供だったのに、どうしたわけか? いつ頃からか? 「質実剛健」とは言えないし、「質素倹約」とまではいかないが、今では死語的響きのある「清貧」という言葉に憧れるような人間になってきた。
(もっとも「富」も、あったらあったで傲慢になったり、猜疑心が働いたり…どちらにしろ、人間の器が計られるものだ)。
『こちらが本当の自分なのか? それとも、単なる「負け惜しみ」?』
しかし、形の残らないものにお金をかけてしまうのだから…たとえば、この10年とんと御無沙汰だが「海外旅行」など…かえって始末が悪い? 「物より思い出」なところは、いま述べた通りなのだろうが…最近では、買い物の時は、常に小銭の9円とエコ・バッグ持参。一円五円をケチっては、夜の繁華街で散財してしまうていたらく。
(「そのための節約」という理由をつけてはいるのだが…なんでも現在、全世界に流通している貨幣の総量は、七京七千兆円と言われるが、表で動いているのと同じくらいの、裏の金があると言われている。独裁者が、匿名で預けていた隠し財産が、本人が革命などで死んでしまうと焦げついてしまうからだ。たとえば「ヒトラー総統」が、後々まで「徴兵制」のあったスイスを攻めなかったのは、『永世中立国』だったからではなく、こんなところに理由があるはずだ)。
そして、年齢に見合った「地位」も「名誉」も「金」も無い現在。
『いったい今、何をしなくてはいけないのか?』
それに今回の件も含め、体力面の衰えも著しい。
『最期は、ひとり静かに死んで逝く』
それで構わないが、「静かに」という望みからはずれているこの寝苦しさだけは、何とかして欲しいのだが…。
「ハア! ハア! ハア…」
子供の頃、テレビで観た白黒映画が思い出される。
(テレビがモノクロだっただけかもしれないが)。
昼の時間に放映されていた洋画。ずいぶん昔の、幼い頃だったので、記憶違いや勘違いもあるかもしれないが…心臓病の登場人物。ベッドの上で汗まみれになって荒い息をしているのだが、最後はフッと安堵の表情になったところで映画が終わる。
『死んでしまったのだろうか?』
もう40年以上も前の事だが、なぜだか妙に憶えていたのは、この日を暗示しての事だったのか?
『このまま、死んでしまうのだろうか?』
いつもの「不安」というより、「恐怖」の感情が湧き起こる。
『なんとかしてくれ』
そんな事をつらつらと考えていて、フト思い出した。小学校も高学年になり、身体が大きくなると、体調を崩し、引退していた祖父のお供をして、近所の病院のハシゴに付き合わされたものだが…今ひとり暮らしをしている市街地にある家は、もともと祖父母と同居していた家屋。
(祖父は、そこで商売をしていたので、店舗を兼ねた住居なのだが…自分の年齢とほぼ同じ、築半世紀。かなり傷んできたが、家賃がいらないことにかまけて、建て替えのアテすらまったくない)。
今にして思い返すと祖父は、「生きること」に対して、かなり執着があったのだろうが…祖父母と暮らした、懐かしい日々。死ぬ直前には、過去の出来事が走馬灯のように流れるというが…。
『夢みたいなものだろうか?』
(寝ている間に見ている夢は、長いようでも、ごく短時間だったりと、時間を超越したようなところがあるが…後年読破した、心理学の大家「ジークムント・フロイト」先生の著書『夢判断』に、「長い夢の大筋は、すでに潜在意識の中で出来上がっており、寸時の事なのに、長々と見たと思っているだけ」ではとの記述があった。あくまで、先生の推論なのだろうが…妙に納得できたものだ)。
「臨死体験」にしたところで、本当の死から生還した人などいないのだから、「あの世」があるかどうかは疑わしい。おそらく、恐怖や苦しみから逃れるために、「体外で合成できれば、通常の麻薬の何倍・性的絶頂感の百倍も強力な物になる」と言われる「脳内麻薬」が働いているのだろう…と想像している。
(高校生の時のサイクリング中、「ナチュラル・ハイ」を自覚して以来、自虐的なものに興奮や恍惚感を覚えるM系持久型タイプという自分を、認知・自認している人間だ)。
しかし、たしか高名な科学者であり、哲学者でもあった中世ヨーロッパの偉人の言葉だったと思うのだが…「もし(死後の世界が)あったら困るので、心づもりだけはしておいた方がよい」と語っていたという話を聞いた憶えがある。もし本当に存在し、信じていない人間が何の準備も無く「あっちの世界」に行ってしまったら…いわゆる「浮遊霊」や「地縛霊」になってしまうのだろう。
(いつだったか、語った人物について、少し調べてみたのだが…出所不明なので名前は挙げないでおく。なにしろ記憶なんて、曖昧なものだ。最近、定期購読しているDVDマガジン。「スーパー・マリオネーション」で名高い、懐かしの海外テレビ・シリーズものなのだが、こうして改めて観てみると、思い込んでいたものとの違いが多々あり…「過去の記憶を自分で創り上げる」という話にもある通り、特に幼い頃の記憶は、後から大人たちに聞かされて、自分で勝手に想像して創り上げたものがあると言うが、たしかに思い当たるものが、いくつもあり…『たとえ自分の過去といえど、意外とアテにならないのでは?』と自戒したものだ)。
『あの世や転生があるなら、延命治療などせずに、さっさとやり直した方が良い』
健康な時なら、そう思うのだろうが…こんな状況になると、かえって逆に『一回限りならば、いったい今、何をしたらよいのか?』と思ってしまう。
『どちらにしろ…』
少なくとも…それが科学的に説明がつく幻覚なのか、それとも本当に霊的なものかはともかく…実際に多くの人が体験しているという「臨死」や「幽体離脱」。そこに至るまでには…。
『まだまだ苦痛が足らないようだ』
(それとも意表をついて、電気のスイッチが切れるように、プツリと終わってしまうのだろうか?)。
「ふう~」
とにかく…古い記憶というのは、美化されるものらしい。
『あの頃は良かった』
年齢を重ねれば、やがて誰もが口にする台詞が浮かんで来た。それに、それが嫌なものでない限り、ご先祖様との思い出は、心が落ち着くものだ。そんな事を考えているうちに、やがて心の波も退いて行き、その晩は眠りに就く事ができた。




