《再始》1.転入生、目覚める
《再始》
学院の保健室。そのベッドの上に、気を失っている少年が寝かされていた。
黒髪の少年は、転移時の汚れをきれいに拭き取られ、今は静かな寝息をたてている。着ていた着物も、今は病衣に着替えさせられており、ベッドの脇に畳まれて置いてある。家紋入りの羽織も同じだ。所持品はほとんどなかった。
その様子を見守るのは、やや中性的な容姿をした人だ。マントの下に、白を基調としたスワローテイルを着込んで、腰にはレイピアを帯刀している。髪が背中の中程まであり、身体つきが小柄な事もあり、見た目は童女だ。しかし、その表情はれっきとした魔術師だった。学院の教書を読みつつ、少年の目覚めを待っていて、時折その様子を眺め、そして書物に目線を落とす。部屋の中には時折頁をめくる音だけが響く。
やがて、ベッドに寝かされていた少年の呼吸が変わり、それからゆっくりと目を開けた。
「………―――――」
うっすらと目を開けた少年は、最初、ぼんやりと天井を見ているだけだったが、やがてゆっくりと、どこともなく目だけで周りを見回す。必然的に少年の視線は、そばで本を開く魔術師に止まった。少年からすれば、魔術師の格好は当たり前の事、その容姿すら珍しく、普段であれば違和感を覚えるようなものだったのだが、いかんせん、この時の少年の思考はとても鈍っていた。
緑がかった金沙の髪に、尖った耳。処女雪のごとき白い肌。その容姿、特に耳には、木霊族と呼ばれる人の特徴が色濃く出ているが、少年に言葉はない。
少年と目線が合った魔術師は本を閉じ、少年に小さく微笑んだ。
「気分はどうかな?」
落ち着いた声に、少年は少し考えて、かすれた声で答える。
「…わからない」
少年には今の自身の状態を、正しく的確に表現できる言葉を思いつかなかった。なにより、状態を理解するほど頭がまわっていない。
それを聞いて、魔術師は質問を続けた。
「そうか。では、君の名前を聞いて良いかな?」
すると少年は、またも少し考え、それから答える。
「……思い、だせない」
微笑む魔術師を前に、少年は視線を天井にむける。
考える。自分。名前……。
少年は自分の事を思い出そうとするが、思いだせない。喉のところまで出かかっているような、もどかしい感覚だけがただある。存在しない、のではなく、思いだせない、という状態なのだという証なのだろう、などと、心の空白から逃れるように、別の思考が割り込んでくる。
ひた、と手を自分の額に当て、少年は考える様子を見せるものの、どうやらそれは演技では無く、本当に思いだせないようだ。そう判断した魔術師は、少年が思いだそうとするのを止める。
「解かった。とりあえず、思いださなくていい」
魔術師の言葉に、少年は密かに、無自覚に、少しだけ安心した。そんな少年の心内を知ってか知らずか、魔術師が名乗る。
「私の名前はリフィアー。リフィアー・アンシェンテだ。この学院で教師をしている」
少年が頷く。それを確認して、リフィアーは話を続ける。
「唐突な話で悪いが、君の身柄は、しばらくこの学院が預かる。この事に関しては、君には拒否権が無いが、まぁそこは諦めてくれ」
それを皮切りに、リフィアーは次々と説明を続ける。
頭がまわっていない少年に配慮して、懇切丁寧に話しをするうちに、少年はだんだんと意識がはっきりしはじめた。
身柄を拘束する理由として、学院の敷地に許可なく入ってきた事や、その侵入方法などを明確にするため、などが理由としてあげられると、リフィアーは言う。副次的に、記憶喪失である少年を暫定的に保護する事も保障してくれるらしい。
そう言われた少年は、けれど身柄を拘束されずとも、どこに行く事も出来ないだろう。何故なら、どうやってここに来たか、どころか、自分が何者かもわからなくなっているのだから。
したがって、少年はリフィアーの言葉通り、身柄を学院とやらに委ねることにした。
「解かりました。リフィアー先生にお任せします」
無意識に、きっちりと頼みごとをしたのは、きっと自分の事を含めて解からない事だらけで、そんな中、自分で無い人間を頼る以外に縋るモノが無かったからだろう。それを聞いて、リフィアーはさらに言葉を続ける。
「そうか。では、後の事は他の者に任せる事になるが……そうだな、今日この後はちょっとした検査がいくらか行われると思う。それで特に問題が無ければ、後は学院の生徒としてしばらくここにいてもらう事になるだろう」
言いきって、リフィアーは椅子から立ち上がった。立っている所を見ると、あまり身長は高くないんだな、と少年は感じた。その間にリフィアーはベッドの周りに引かれているカーテンを少し開け、そこから出ていこうとする。けれど、思いだしたかのように振り向いて、少年に向かって「あ、そうそう。私の事はリフィで良いぞ。まぁ、先生、くらいはつけて欲しいが」という言葉を残して、今度こそ部屋を出て行った。
入れ違いに、修道服の女性が入ってきて、少年は早速検査を受けることとなった。
***
時間は既に放課後。
「待たせてしまって済まない」
リフィが保健室から出ると、そこには少年を発見した二人の少女が待っていた。
少女たちは何処か所在なさげで、けれど何となく不安を隠しているのが感じられる。
学院へ侵入を試み、成功したものの、倒れてしまった少年を発見した二人だ。その転移に出くわして身の危険を感じ、言い知れない不安を残したまま担任に呼び出されて、待たされれば不安も増すだろう。
そこまで考えて、リフィは視線を向けてくる二人に「彼は恐らく問題ない。君らにも、ね」と声をかけてやる。侵入者としても、魔術師としても、現段階では脅威とはなり得ない。同時に、二人になんの瑕疵もないと示す言葉をかける。それを聞いてほっとしたのか、二人は僅かに顔を綻ばせた。そこに、リフィは質問を投げかける。
「一応確認だが…転移魔術があって、その発動後あの少年を発見したんだな?」
リフィの質問に、二人の少女、近衛桜とルビウス=ウリア=ルージュは頷く。先程少年が感じたように、リフィの身長は頭一つ、桜やルビアよりも低い。長身のルビアから見れば、先生とはいえ、リフィは子供にしか見えない。だが、二人はこの小さな魔術師が学院内でも一、ニを争う実力がある魔術師だと知っている。
「これも一応確認だが…君らは、彼について何か知っているか?」
その質問に対しては、ルビアはふるふると首を振り、桜はしばし押し黙ってから、躊躇いがちに口を開く。
「先生。あの家紋は神無家のものです」
学院へ来る前、一度や二度では無く、何度も見た事があった家紋を忘れるはずもない。
そんな桜の言葉に、リフィは聞き返す。
「魔術大家の神無家だな?」
魔術師のサラブレットたる魔術大家。歴史と功績を積み上げた、魔術師たちに認められし家系の通称。その中でも神無家は特に力ある有名な家のひとつだ。学院が独立機関かつ、異次元にある事を以てしても、対応を間違えれば、大きな問題、酷ければ魔術戦争にもなりかねない。
リフィの言葉に桜が頷くと、リフィは腕を組み直し考える。そして、リフィは桜とルビアに提案する。
「桜、ルビア。君らに彼の学内での世話を任せたいのだが、構わないか?」
リフィとしては、学院の本決定に際して、暫定的にではあるが、自身の監視下に置くよう申し出るつもりだった。故に、自身のクラスの生徒に、世話役を任せたいと思っての提案だ。クラスの生徒の中では、恐らく適任はこの二人だろう。桜には悪いが、面倒見が良い生徒は多くない。
リフィの提案に、ルビアが桜を見て、それから答える。
「私は別に構わないですが…」
桜は少し悩んだ挙句、ルビアが一緒なら、と引き受けることにした。
「では頼んだよ。今晩の会議で彼の処遇が決定したら、明日改めて君らにお願いしよう。今日はもう戻って良いよ」
言って身を翻すと、ひらひらと手を振り、リフィは教諭室の方へと歩いて行った。見送ってから、桜とルビアも自分たちの寮へと帰っていく。
そんな二人から隠れるように、物陰から様子をうかがっていた者がいた。
「……どう考えても、これは面白い事になるよねぇ」
にやりと顔を綻ばせ、独りごちた少女、フロウ・ザ・シルフィードはやがて独りで納得し、「よぉし!クラスの皆に報告だ!」などと叫びつつ走り去った。
***
数分後、フロウは自らの教室に舞い戻ってきていた。ばぁん、と大きな音を立てて、フロウは教室に飛び込む。放課後の教室内には制服を身にまとう魔術師たちがまだ残っていた。そんな生徒たちは、フロウのその様子を見て、けれどフロウの行動にはさしてざわつく事も無く、その中の一人の男子がフロウに声をかける。
「で、リフィ先生呼んできたのか?」
フロウは、実はホームルームにいつまでたっても来ない担任教師のリフィを呼びに行ったのだが、そんな質問に、フロウは羽根耳をぴくぴくとさせ、教卓をぱしぃんと叩いた。
そして。
「大!ニュースだよ!」
一瞬、静まり返る教室。その反応に満足したフロウが話しだそうとして、それに反するように再び教室は雑談に溢れかえる。
「って、人の話を聞けぇ!」
教卓をばんばん。
フロウがそう怒鳴るも、クラスメイト達は対して反応しない。やっと話しかけてきた一人も、狼少年って知ってるか?などと言うものだから、ついにフロウは怒って、もう一度教卓まで行き、再び叫んだ。
「桜に男が出来たっ!」
やや静まる教室。男子はそれなりに反応した。とはいえ女子はまだまだ興味が薄そうだし、男子の中にも半信半疑な視線は多い。そこに、たたみ掛けるようなフロウの台詞が入り込む。
「その男ってのが……どうやら昼休みのイケメンらしい」
ぼそっと囁いたはずのその言葉に、今度は女子たちの耳がぴくりとした。
昼休みに起きた事件は、当然ウルズクラスにも知れ渡っていた。しかし、当事者である桜やルビアから話を聞けておらず、知っている事は下位クラスとさほど変わらない。但し、午後の講義に担任ではなく代理が来たことから、侵入者がいた事の信憑性だけは高く見積もられていた。ウルズクラスの担任は、学内でも指折りの実力者なので、そういった重要案件にしばしば呼ばれるためだ。
そして、教室はお調子者・フロウの独壇場になった。
「さてさて…僕の話をよぉく聞くがいい!」
途端に上から目線になり、フロウは事の詳細を話し始める。といっても、フロウの見たのは一部始終だけであり、そのほとんどは誇張またはフロウの想像である。しかしながら、ゴシップも嫌いではない生徒たち。フロウと面白がって盛り上げる数名により、教室には時折どよめきが起こり、引っ張られる周りのテンションもあがる。まぁ、合わせて乗っているだけの者も多く、単に騒ぎたいだけの集まりとも言えるのだが。
そして、そんな異様な集団から離れている者もいるには居た。
「まだどんな奴かもわかんねぇし、だいたい真偽もいまいちだってのに、元気な奴らだな…」
ライオン頭の少年は肩をやれやれとすくめ、足を組んでだらける。少年とは言いつつ、人間でいうところの年とは扱いが違って、彼は既に二十年以上は生きているのだが、獅子族である彼にとっては、自身は少年の範疇にある。そして、人間族で無い彼の言葉にこたえる相手も、見るからに人間では無かった。
「まぁ…退屈しのぎしたいだけじゃないかな。っていうか、レクレスは気にならないわけ?」
その姿は、まさに形を持った水そのもので、時折身体の内部をこぽん、と泡が登っていく。そんな彼(彼女?)の姿は男性とも女性ともとれる中性的な容姿で、幼いイメージを持たせる。
「ミスティ。あいつが正しい事を言った試しがあったか?だいたいな、俺は強い奴以外に興味ねぇんだよ」
クラスの中でも、人型から大きく異なる姿の二人。その名をレクレス・レオンハルトとミストラル・ジ・ウンディーネと言う。しかし、改めてクラスを見回せば、彼らに限らず、異形は容易に見つかる。
例えば、頭に猫耳を生やしている者。
例えば、身体が燃え盛る炎でできている者。
例えば、魚の尾びれをもつ者。
他にも、耳が長かったり、異様なほど肌が白かったりと、元々20ほどしか居ない中でも、真に人間である者は意外と少ない。その中でも、かなり目立つのは黒髪で、異様な集団―最早、レクレス達には、それが新手の宗教にしか見えないのだが―の中で叫ぶ一人の男は、確かにかなり目立っていた。もちろん、それが黒髪であるという事だけでは無い。
「桜に男だと!某はそんなもの認めんぞ!」
そんな魂の叫びに、レクレスもミスティも、深い溜息をついた。
このクラスには良心の化身のような委員長もいるにはいたのだが、いかんせん多勢に無勢で、その後、ホームルームをころりと忘れていたリフィが来るまで、この奇怪な集会は続いたという。