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異世界の記憶:冴えない愛・輝く愛  作者: 田舎乃 爺
第一部 第一章 冴えてる三日間
10/264

09 吸われる(迫真)


 早朝。南西の端に位置する街、『アルーセル』は快晴の空に向けて昇り始めた朝日の柔らかな光に照らされ始めていた。海との間にある開拓された鉱山の採掘場の屋外照明が消灯し始め、人々にとっていつも通りの日常が始まろうとしている。

 一帯の領主であり、王国騎士団の重役であるトイズの帝国建国宣言があったのは数日前のこと。しかしながら人々の生活にはなんら支障は出ていなかった。この王国にとって、内部で帝国が建国されることは”日常茶飯事”であるからだった。要は、慣れてしまっていたのである。

 まばらだった人通りは徐々に増え始め、静かだった街は活気で満ちていく。そうした様子とは正反対である街の中心部付近の路地裏に、こそこそと動く人影があった。点々とだけ設置されている街灯の僅かな明かりだけが頼りの薄暗い中を進む様は、誰がどう見ても怪しいものだった。

 人目につかぬよう、先が安全かどうかを用心深く確かめながら低身長の汚いおっさんは進んでいく。その背後には、ボロボロの布切れを着せられ、手枷と鎖付きの首輪で行動の自由を奪われたエルフの女性が、朧げな足取りでついてきていた。

 顔にくっきりと涙の跡が残る女性は、ふらついた拍子にその場で転んでしまう。その整った顔が再び涙で濡れ始めようとしたところで、汚いおっさんは手に握っていた鎖を思い切り強く引っ張った。



「あぅっ!?」


「ぼさっとすんなノロマぁ!」


「う、うぅ……」


「泣くなってんだよ。”商品”としての価値が下がるじゃねえか」



 女性が苦しむ様子を見せても、汚いおっさんは意に介さない。彼にとって彼女はただの”商品”にしかすぎず、人としても、エルフとしても見る気は微塵にもないようだった。

 引っ張られたことでさらに体勢を崩してしまった女性は、手足に擦り傷を作りながらその場にしゃがみこんでしまう。鎖を引っ張っても動かない女性に嫌気がさした汚いおっさんは、特大のため息を吐き出しながら女性の髪を乱雑に掴み、その顔を無理矢理上げた。



「ぼさっとすんなって何度いっだぁっ!?」



 目と鼻の先にまで近づけたタイミングを見逃すことなく、女性は汚いおっさんの顔面に頭突きをくらわせた。鈍い痛みに汚いおっさんは短く悲鳴を上げてしりもちをつき、その手から鎖を放してしまう。その隙に女性は一目散に駆けだした。

 


 ――早く。早く。早く。



 ただそれだけを考え、残った体力の全てを使って女性は路地裏を駆ける。目指すのはその耳に聞こえる人々の声がする方向。賑わい始めた街の表通りだ。

 角を曲がったところで、憔悴しきった目に表通りの輝きを捉えた。救いの輝きにも見える朝日に照らされたその先に向け、女性は走りながら助けを乞うために叫ぼうとした。

 しかし、



「この野郎が!!」


「うあっ!?」



 突如眼前に姿を現した汚いおっさんの強烈な張り手が女性の行く手を阻んだ。叫ぼうとして開いた口からは血が滲む。なおも叫ぼうとした女性を汚いおっさんは悪臭がする手で覆い、その後懐から取り出した布切れを丸めて口へと押し込んだ。

 諦めきれない女性は必死にもがく。そんな女性を煩わしく思った汚いおっさんは、追加で足にも枷を取り付けた。まともに動くことすらできなくなった女性を汚いおっさんは鎖で引っ張り、地に引きずりながら再び陽光届かぬ路地裏の奥へと戻っていった。

 すでに背中の布地は擦り切れ、露わになった綺麗な肌は擦り傷だらけになっていた。痛みに耐えかねた女性は何とか布切れを吐き出し、汚いおっさんへと懇願する。



「やめてぇ!! 止めてください! 痛い、痛いぃ! 痛いです!!」


「あぁ? じゃあ大人しくするって約束するか?」


「します! しますから、止めてください!」


「……ちっ。仕方がねえな」



 腹だった様子で舌打ちした汚いおっさんは、ようやく動きを止めた。至る所に痛みを感じる女性は、涙でぐしゃぐしゃになった顔でゆっくりと半身を上げる。

 


「――どうして。どうして、ですか」


「何か言ったか?」


「どうして、『転移魔法』を使える『転移魔術師』であるあなたのような人が、人身売買なんてやってるんですか」



 涙を流しながら、女性は訴えかけるように汚いおっさんへと問いかけた。彼女が言う『転移魔術師』とはこのような悪行に手を染めるような存在ではないからだ。



「多くの人の、そして国の役に立てる重要な存在だと私は認知してます。そんなあたなが、なんで――」


「そりゃ儲かるからに決まってるだろうに」


「――そんな理由なんですか」


「そうだとも。国に雇われて安定した収入を得るよりも、多少のリスクを背負ってでもがっぽり儲かる方がいいと思ったんでな」



 一切悪びれる様子なく言い切った汚いおっさんは嘲笑う。人としての道を大きく踏み外したその様を見て、女性の絶望はさらに大きなものとなっていった。



「最近巷を騒がせてる『レカー団』も、人身売買を始めるって聞いたぞ。特にエルフの女性は高く売れるって評判だしな。お前みてえな里から出たはぐれものは俺らにとっていい的だってことだ」


「そんな……。私はただ、人の街へ買い物に出ただけなのに……」


「知ったこっちゃねえよ、お前の事情何て。こんだけの傷物になっちまったが、精々高値で売れてくれるのを願うばかりだぜ」


「う……、うぅぁ……」


「だから泣くなっての。ほれ、行くぞ」



 ひりひりと痛む鼻の頭を摩りながら、汚いおっさんは鎖を引っ張る。これ以上傷つきたくない女性は逃げることを諦め、陰鬱とした表情で汚いおっさんに付き従っていった。

 足枷が追加されたことで、先ほどよりもさらに動きづらくなっていた。里にいる仲間たちや両親が心配しているのではないか。早く里に帰りたい。解消されることのない不安と願いを沈み切った心の中で女性は巡らせる。

 流していた涙は枯れ果て、もう出てくることはないように感じられた。せめて、優しい人に買われたいと女性が考えるようになったところで、汚いおっさんが突然足を止めた。



「――、――」


「……え?」



 女性の耳に入り込んできたのは聞き慣れぬ言語。自らの言語統制魔法が反応こそしているものの、完全に翻訳することができていなかった。

 その声の主がいる前方へと女性が目をやる。そこには通路を塞ぐようにして、見慣れぬ服に身を包んだ黒髪の男性が立っていた。髪と同じ黒い瞳は異様に冷たいように感じられ、女性は背筋を凍らせてしまう。



「――、――?」



 男性は、なおもこちらへと向けてしゃべり続ける。その様子は非常に苛立っているようだった。そんな男性に、汚いおっさんは営業スマイルを浮かべながら近づいていく。



「まあ、まあ、落ち着いてください異境の地の旦那。ちょいとお待ちを」


「――? ――?」


「ええ、申し訳ありません。ちょいとですが喉に触れさせてもらいやす。何もしませんから、安心して下せえ」



 身構える男性をジェスチャーで安心させるように促しながら、汚いおっさんはその喉元へと手を近づけていく。その後一瞬汚いおっさんの手が輝き、男性の首に『言語統制魔法』が付与されたのだった。

 見たこともない光に驚いたのか、男性はすぐに汚いおっさんから距離を取る。警戒する男性に対し、汚いおっさんは機嫌を取るために腰を低くして構えた。



「上手く同期機能が働いてくれてるなら、あっしの言ってることが分かると思いますが、どうですかい旦那?」


「……分かる。何した、おっさん」


「そりゃあ良かった。言語統制魔法という便利なモンを旦那に使わせていただきました。これで、大半の人とはしゃべれるようになるはずですよ」


「ほお。そりゃありがてえ。訳も分からないままここに来てから1日、周りの連中が何をしゃべってるのかさっぱりだったんだよ」


「そうですか、そうですか。力になれて何よりでさぁ。ところで、旦那はどこから来たんですかい?」


「『日本』。『東京』目指して、糞ド田舎の道を車で突っ切ってた最中だった」


「ニホン、ですか。むうぅ……、聞き慣れない国ですなぁ……。言語統制魔法が微かに反応してくれてたんで、完全に未開の地ではないのは確かですが、あっしは行ったことがないところですな」


「そーかい。仕方がねえか。とりあえず、ありがとうな。きちんと礼を返したいが、何かできることはありそうか? まあ、かなり限られてると思うが」


「ほお。では、こんなのはいかがですかい、旦那?」


「ぁぅっ……」



 いやらしい笑みを浮かべた汚いおっさんは鎖を引っ張り、女性を前へと突き出す。散々といったその姿を見て、男性は首を傾げた。



「この女は?」


「あっしの”商品”でさあ。昨日の夜仕入れた極上品ですよぉ。人気の高いエルフの女。これからの旅のお供に”一匹”どうですか?」


「……ほーん。ほっほーん。なるほど、面白いじゃねえの」



 そういって、男性は口元に笑みを浮かべる。その表情を見て、食い付いたと汚いおっさんは内心でガッツポーズを決めていた。

 ここらあたりの土地勘を持っていなさそうな阿保丸だしな客をつい昨日相手にし、相場の”倍”の額で”商品”を売りさばくことができた。この男性であれば、もしかしたらそれが再び通用するかと踏んで賭けに出たのだった。

 しめしめといった感じで内側でほくそ笑む汚いおっさん。しかしながら、その油断から汚いおっさんは女性の異変に気付くことができなかった。女性は、押し寄せる恐怖によって全身を震わせていたのだ。



(に、逃げなきゃ。逃げなきゃ……!!)



 人よりも長く生きるエルフである彼女だからこそ、既に知っていた。眼前にいる男性が放つ雰囲気は、獲物を前に喜ぶ肉食獣のそれだったからだ。

 このままでは、殺される。それが分かっていても、現在の疲れ切った体では汚いおっさんを振り切れる自信がなかった。どうにかして逃げられないかを怯え竦む身心で必死に模索する女性へと、男性は一歩近づいた。

 その一歩を踏み出した刹那、男性の口元から笑みが消えた。見慣れぬ衣服の下半身部分に設けられたポケットから”何か”を取り出し、入れ物から抜き放つ。しっかりと磨かれ、手入れされたそれは、『サバイバルナイフ』だった。

 もう駄目か。生を諦めた女性はその瞬間にやってくる痛みに耐えるべく、目を閉じて歯を食いしばる。その耳、男性がさらに一歩近づいた音が入り込んだ。

 身構える女性、そして――



「おがぁっ!?」


「――へ?」


「な、何をぉ!?」



 ――響いたのは汚いおっさんの悲鳴だった。


 一回。そして続けざまにもう一回。凶刃が汚いおっさんの腹部を深々と刺し貫いた。腑抜けきっていたために油断していた汚いおっさんは痛みと恐怖で顔を歪め、男性がいる反対方向へと反転して前のめりに崩れ落ち、痛ましい血の跡を作りながら体を引きずっていく。

 汚いおっさんが流す血が、血だまりを作っていく。目を開けた女性は一体何が起きているのか理解できず、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。微動だにしない女性の横を通り過ぎた男性は、汚いおっさんへと近づいていった。

 死にたくない一心で飛びそうになる意識を繋ぎ留め、汚いおっさんは転移魔法による逃走を試みる。しかしながら、遅かった。



「よいしょっと」


「おおあああぁぁぁあ!?」



 追い付いた男性は勢いよく逆手に持ったナイフを振り下ろし、何かにすがるように伸ばしていた汚いおっさんの右手の平を貫いた。尋常ではない痛みは思考を激しくかき乱し、転移魔法を行使する余裕を奪い去ってしまう。

 


「中々持ちこたえるなおっさん。普通だったらもう死んでてもおかしくないはずなんだがな」


「な……、何故……、こんな……!」



 楽し気に笑う男性に、怨嗟の念を込めた視線で汚いおっさんは絶え絶えの声で告げる。それは、もはや長くはもたないと悟ったところで浮かび上がった疑問だった。

 真面目に働く馬鹿な正直者を笑って裕福な生活をしよう。そんな堕落しきった自らの夢が手の届かない遥か遠くへと離れていく。この夢を阻んだのが、どこの馬の骨とも知らぬ存在だという有様。こんな事になる自らの運命と、刺してきた男性への汚いおっさんの怨嗟の念は、凄まじいものがあった。

 追い込まれながらもそんな視線を向ける汚いおっさんに、男性は心底喜んでいるようだった。その手のナイフを背中へと突き刺すべく、狙いを定めながら男性は問いに答えた。



「俺さ、”人殺し”が趣味なんだ」


「なんじゃ……、そりゃぁ……!」


「言語統制だとか何とか、感謝はしてる。だけど、たぶんお前『死んでも問題ない』奴だよな?」


「そんなわけ――」


「だから殺されてくれ」


「はぎっ――」




 反論の途中で、汚いおっさんの背は貫かれた。入念に、何度も、何度も。反応が返ってこなくなるまで続けられた刺突は、汚いおっさんの背が刺し穴だらけになるまで続けられたのだった。

 女性は、腰を抜かしてその場に尻から崩れ落ちる。全身が震え、恐怖によって作り出してしまった水たまりが広がっていく。汚いおっさんが絶命したことを確認した男性は、そんな女性のことな気にかけずに真っ赤な体を探り始めた。



「金目のもんはあっるっかな~。『円』は使えねえだろうから、ここの通貨か換金できるものがほっしっいぞ~」



 鼻歌交じりに男性は汚いおっさんの亡骸をひっくり返し、様々な物が隠せそうな場所を手あたり次第探っていく。これだけ派手なことをしているのにも関わらず、男性自身は返り血を浴びていない。人を殺すことに慣れているからこそできる芸当は、女性をさらに恐怖させた。

 麻痺していた女性の感覚だが、こんな状況でも少しずつ戻り始めてしまう。そうした中で鼻孔に入り込んできた血の香りに耐えかね、女性は込み上げてきた胃液を吐き出した。

 吐しゃ物と排泄物が入り混じり、血とは違う異様な臭気が一帯を満たす。それに気づいた男性は一瞬振り返った後、汚いおっさんから見つけ出したとあるものを女性へと放り投げた。



「……えぇ?」


「それがあんたの手とか足の鍵だろ。早く取ってどっか行けよ。臭くてしょうがねえ」


「あ、ああ、ありがとうございます!」



 震える手で自らの前に落ちた鍵を拾い上げ、女性は枷を外していく。その間に男性が手を出してくることはなく、先ほどと同様に捜索を続けていた。

 もう手に入れることはないと思えた手足の自由を確認し、枯れ果てたように思えた涙が再び零れだし始める。ゆっくりと立ち上がった女性は、ふらつきながらも男性へと頭を下げた。



「あ、あの……。助けてくれて、ありがとうございました!」


「はいはい。さっさと行ってくれ。気が散る」


「せめて、お名前だけでも教えていただけませんか? いつかお礼を――」


「さっさと行けってのが分かんねんの? それともあれか――」



 語り掛けてくる女性を煩わしく思ったのか、男性は首だけを向けた。そして、非常に冷たい目をしながら告げる。



「――お前も殺していいのか?」


「ひっ!? い、いえ! すみませんでしたぁ!!」



 冗談ではなく本気の男性の一言に、女性は血相を変えて逃げ出した。途中で転びそうになりながら全力で逃げる彼女を追うことなく、男性は再び作業に戻るのだった。

 静まり返った路地裏で繰り広げられた惨劇。表通りへと飛び出した女性が街の騎士団員に保護され、現場へと急行するも男の姿はなかった。

 事故死や病死以外に発生した人の手による悪意ある死。それを犯した猟奇的な殺人犯は、平和な街の陰に身をひそめるのだった。

 







     ◆










 ロメルのホテルの3階のホールは魔法により修復されていた。昨晩の襲撃が無かったとも思えるほどに綺麗になっていた。

 夕飯と同様にバイキング形式の朝食。一般客の姿はほとんど見えず、王国騎士団の者たちしかいなかった。昨日の騒ぎの影響で、騎士団と食事を共にするのは危ないと誰もが考えている結果のようだった。

 そりゃこんな怖いところには誰もいたいとは思わない。当然の結果だろう。そう考えるサクだったが、そんなサク自身が今この場からすぐさま逃げ出したいと考えていた。



「……何すればそんなに急成長するのかしら。答えなさい、サク。あんた何したの?」



 どす黒い気を放ち、笑顔で話しかけてくるアイリスが仁王立ちでサクとハクの目の前に立っていた。場所はホールのど真ん中。その様子が恐ろしくて誰も近づいて来ようとしない。

 朝食を食べにこのホールへとやってきた直後、この状況に陥った。下手な言い訳をすれば間違いなく強烈な一撃が飛んでくるのは必至としか思えない。 

 ビビりまくるサクの右腕には成長したハクが絡みついている。ワンピース越しの柔らかな胸の感触はとても心地いいが、興奮している場合ではない。若干大きくなり始めているそれを隠すように内股になったサクは、とりあえず経緯を説明する。



「そ、そんな変なことはしてねえよ。ただ一晩一緒に寝たぐらいで――」


「ね、寝たぁ!? あ、あんた、あんなか弱い少女に手を出したって言うの!?」


「違う! 寝たって言っても添い寝しただけだ! 深読みするなアイリス!」



 顔を真っ赤にして拳を握りしめたアイリスをサクは必死に止めた。これが続くとなると精神が持たない。最悪の場合を考えて、いつでも吸血鬼状態になれるように準備をしておく。

 というか、ゲイリーはどこにいったのか。部下でもあり、執事でもある彼ならばアイリスを静めてくれるに違いない。すがるような思いで周囲のテーブルを見渡すと、ホールの一番外側、窓際の席にゲイリーを見つけた。



「あら~、流石執事さんをやっていたゲイリーですね~。これを組み合わせればこんなに美味しくなるなんて~」


「喜んでいただけてなによりです。ちなみにこれとこれを――」


(何やってんだあのエロ爺)



 並んでいる料理を独自に組み合わせ、座っているカーラに食べさせていた。伸びきった鼻の下、目線はカーラの谷間へと向けられている。

 アイリスが自慢の絶世の美少女だと言っていたのが聞いてあきれる。ゲイリーも間違いなくサクと同類であるのは目に見えて明らかだった。

 頼りの綱はなくなった。ここは自力で何とかするしかない。そう意気込んだサクの横からハクが言い放った。



「サクは何も悪くないよ! 恋人の私とチューしただけだもん」


「いかんハク、それは――」


「ちゅ、チュー!? 恋人!?」



 真っ赤な顔から湯気が出始めた。あかんやつや。これはマジであかん。またもそんな似非関西弁を脳内にサクは響かせた。

 アイリスはわなわなと体を震わせる。さあ、今回は一体どんな強烈なものが来るのでございましょうか。現実逃避するかのように第三者目線な解説を脳内で展開し、気絶する程度で済むことをサクは心の中で願った。

 ゆっくりと、こちらに一歩近づいたアイリス。それと同時に体を震わせたサクを庇うようにして、ハクが両手を広げてサクの前に立つ。

 拳を振り上げた。くる。そう思ったサクとハクが身構える。だが、違った。振り下ろした拳は人差し指だけを立ててサクを指さした。



「ちゅ、チューなら私の方が先にしたわよ! あの要塞でね!」


「えぇ!? 嘘!?」


「……んん?」



 予想外なアイリスの発言に、ハクは悲しそうな顔をして振り返った。状況が理解できないサクは変な声を出すしかなかった。

 


「お、落ち着けアイリス。自分が何言ってるのか分かってるのか?」


「落ち着いてるわよ! ハクのいる場所が私じゃないことが気に入らないの!」


「全然落ち着いてないじゃねーか」



 もはやこちらの言うことには耳をまともに貸す気はない様子。頭に血が上っているのか、完全に暴走状態だった。



「守護騎士には憧れてた。でも、それを考慮しなくてもあの要塞に単身乗り込んで私を助けてくれたサクはかっこよかった! 変態だけど!」


「変態だということに関しては否定できねえ……」


「だから、私はサクにお礼をいいたい! ありがとう、助けてくれて!」


「お、おう」



 勢いよく頭を下げたアイリス。即座に真っ赤な顔を上げ、目をぐるぐるさせながらハクを指さす。



「だからどきなさい! そこは私がいるべき場所なの!」


「やだ! 私はサクの恋人だもん!」


「2人とも、ちょっと落ち着――」


「「サクは黙ってて!!」


「あ、っはい」



 凄まじい剣幕の2人に気圧され、サクは引き下がることしかできなかった。これ以上口を挟んだら殺されるような気がした。怖い。

 どちらがサクに相応しいかで口論を始めるハクとアイリス。その物言いから考えて、アイリスがサクに好意を寄せているのは誰でも理解できた。

 サク自身は、何故こんな自分を好きになってくれたのか全く理解できていない。重要な場面ではことごとく全裸であったはずなのに。変態だとも思われているのに。

 やむことのない口論の中、ゲイリーがようやくこちらへと近づいてきた。その頬には、カーラがお礼にしたと思われるキスマークがついている。



「おはようございますサク様。昨夜はお楽しみでしたね」


「やっと来たなエロ爺。どうすんだよこれ」


「そうですなあ……。収まるまで待つしかありませんな。エロ爺にはそれしかできません」


「ちなみに、どれくらいかかる?」


「もって後3分程でしょう。限界を迎えて倒れると思うので、早めに水を用意しておきましょうか」


 

 そういってゲイリーはスキップしながら水を取りに行った。その心弾ませる様子にサクは静かに苛立つ。

 カーラは窓際の席でゲイリーの組み合わせ料理を食べているので、こちらに来る気配はない。しょうがなく、サクは口論をそばで見守ることにした。

 激しい言い合いが続くが、決して手を出したり、物を使おうとはしない。サクは律儀に言葉だけで争い続ける2人の姿が少し可愛らしく思えてきた。

 異性にこれほどまでに思われたことのないサク。高校の生活においては、行きつけの八百屋にいる後輩女子と話すぐらいで、女子と接することはほとんどなかった。必要最低限の会話と応答。一緒になるなんてことは絶対にありえない。異世界だから強気になっているが、元の世界のサクは高レベルのヘタレだ。

 圧倒的に魅力溢れるハク。しかしながら、アイリスも間違いなく魅力的だった。そんなことを考えつつもサクが見守っていると、変化があった。突然静まり返ったのだ。

 アイリスが限界を迎えたかと思ったサクが様子を見るために近づいていくと、信じられない光景が目に飛び込んでくる。



「……マジかよ。完全に解呪できてなかったってか」



 アイリスの瞳は赤く輝いていた。虚ろな目でサクを見つめている。



「な、なにこれ。サク、どうする?」


「とりあえず離れてくれ。俺がどうにかするから」



 不安そうな表情のハクに離れるように促し、サクはアイリスの目の前に立つ。

 要塞でどうにかなったと思ったが、甘かった。サク以外の周囲にいる者たちは、固唾を呑んで見守っていた。

 しかし、サクは気づいた。八重歯が伸びていない。どうやら呪術は中途半端に発動しているようだった。こうなると血液とか精力とかの吸収はどうするのかが分からない。

 恐らく、要塞では吸収される血液と精力を通してあの呪術を吸収できたはず。どのように自らの一部を吸収するのかと身構えたところで、その体を一瞬にして距離を詰めたアイリスに押し倒された。



「あだぁ!?」



 強く後頭部を床にぶつけるサク。その体はがっちりと押さえつけられ、身動きが取れなくなっていた。

 見ていられなくなったハクが近づいてくるが、サクはそれを目で止めた。今ここでアイリスの邪魔をしたらハクに危害がでるかもしれないと判断したからだ。

 真っ直ぐと虚ろな目でサクを見据えるアイリス。不気味な様子にサクがビビりまくっていると、静かに顔を近づけてきた。

 八重歯はないが、また思いっきり噛みついてくるのか。ヘタレスキルに負けたサクは、その瞬間を見ないために目をつぶってしまった。

 ああ、痛いのがくる。心の底で女々しい悲鳴をあげながら、その時を待つ。



「……!?」



 そして、唇に温かい物が触れた。その温かい物から伸びてきたざらざらとした触感の何かが、サクの口を無理矢理こじ開けて入り込んできた。

 痛くない。しかしながら今までに感じたことのない感覚。状況を確かめるためにサクは目を開けた。

 目と鼻の先には少し横に傾いたアイリスの顔。そしてその唇はサクのそれと繋がっていた。口の中でサクの舌を舐めまわしているのはアイリスの舌だった。 

 初めてのキスもアイリスだった。そして初めてのディープキスをもアイリスと交わすこととなった。こちらの唾液を分泌させるように艶めかしく動くアイリスの舌。サクははち切れそうなほどに鼓動を高鳴らせていた。周囲にいた者も、その様子を見て唖然としている。

 一体なぜこんなことを。興奮と緊張でおかしくなりそうなサクだったが、直後に始まった行為に驚愕する。



「!? おごごごごごぉぉぉぉぉ!!」



 吸われる。物凄く吸われている。呼吸が困難になる程に。唾液や、精力的なものを口を通して吸い込まれ始めた。

 その間にも、アイリスの舌は動き続ける。まるでサクの何もかもを欲するかのように。

 まともに酸素を肺に取り込めないサクは、手のひらを床に打ち付けて心の中で叫んだ。



(ギブギブギブギブ! し、死ぬ! 吸い殺される! 誰か助けて!)


「サク!? 待ってて! 今引きはがすから!」



 その悲痛の心の叫びを聞いたハクが駆け寄ってきた。押し倒したサクと熱いディープキスを交わしながらも吸引を続けるアイリスを引きはがそうとする。

 しかし、びくともしない。その他にも周囲から何人も手伝ってくれたが、全くもって動く気配がない。それでも諦めずに続けようとしたが、アイリスの背から放たれた衝撃波が引きはがそうとしていた者たちを吹き飛ばした。何とか受け身をとったために被害はなかったが、邪魔するなという強い思いが衝撃波からは感じ取ることができた。

 サクが呼吸困難で気を失いかけた時、吸引はようやく終わった。涙目になりながらも、サクは鼻から酸素を取り込む。

 マジで苦しかった。本当に死ぬかと思った。サクは呼吸をすることのできる素晴らしさを実感していた。

 そんな中、違和感に気づいた。アイリスの舌が動き続けている。もしやまだここまでは序章で、今からが本番とでもいうのだろうか。

 絶望が心の中を覆いつくそうとしたとき、ディープキスをしたままアイリスが何かを言う。



「ひゃく……、ひゃく……」


 

 もごもごと口を繋げながらも言ったそれは、ディープキスをしている相手の名だった。

 サクは呼吸を整え、夢中になっているアイリスに呼びかけた。

 


「……ほーい、ひゃひひふー?」


「ん? らぁに……。って」



 口を繋げたままのサクの呼びかけにアイリスは目を開けた。そして状況を理解するとすぐさま体を起こし、サクに馬乗りするような形になった。瞳は青に戻り、はっきりと意識を保っているように見える。

 アイリスは自らの口に手を当てる。どうやら自分が何をしていたか覚えているようだった。顔を真っ赤にし、煙を上げ始めながらサクを見つめた。



「……ごめん。意識が遠のいて、サクの何かが欲しいっていう欲求に逆らえなかった」


「なるほど、それであの超強力なバキュームキスをかましてきたわけだ」


「本当にごめんなさい。てっきり完全に解呪できたと思ってたから」


「でも、最後の辺りはちょっと意識あったよな」


「えっと、それは、その、あの……」



 サクの服の胸元を恥ずかしさを紛らわせるためにぎゅっと握りしめるアイリス。だが、それでももう限界のようだ。

 河原で見た状態に近づいていることを察したサクは、気絶するまえに告げた。



「お互いに初めてのディープキスだったけど、吸引さえなければ最高だったぞ」


「さい……、こうぅ……」



 それを聞いたアイリスは限界を迎え、サクの胸元に倒れて気絶してしまった。

 高熱を帯びてはいるが、初めて気絶させた時と違って嬉しそうな笑顔だった。それを見てサクは心が揺らいだ。

 前々から思ってはいたが、純粋に可愛い。胸こそないが、それを補うほどの魅力は持っている。思い返してみれば、河原で初めて見た時から惹かれていたのかもしれない。

 静かな寝息を立てるその姿にドキドキしていると、すぐ隣にゲイリーがしゃがみ、涙を流しながらサクの右手を掴んだ。



「サク様、これからもお嬢様のこと、よろしくお願いいたします……!」


「……え゛ぇ」



 周囲を見渡せば、ゲイリー以外の団員もうれし涙を流している。これは断りづらい雰囲気だ。どうしたものかと考えていると、ハクが左手を掴む。



「サクは私の恋人だよ!」


「そうだな。そうだけど……、どうすんのよこの状況ェ……」



 波乱万丈の冴えまくっている異世界での二日目は、こんな感じで本格的に幕を開けた。

 この先どうなっていくのか、サクは不安で不安でしょうがなかった。

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