酒禍
その酒のことを禎理が聞いたのは、天楚の冒険者宿『三叉亭』の主人六徳の口からだった。
「どうも最近、危険な酒が出回っているらしい」
見た目は普通のエールやワインと変わらないが、一杯飲んだだけで酩酊してしまう。しかも中毒性があり、その酒を飲んだ者は次もその酒を飲まないと暴れて手がつけられなくなってしまう。食物や飲料に関しては六徳が厳しく目を光らせている三叉亭にはまだ現れていないが、場末の冒険者宿や酒場には結構な量が出回っており、天楚市の治安を担当する平騎士隊や行政担当の市参事会も調査に乗り出し始めたという。
「おそらく、『酩酊成分』が普通の酒より多いのだろうな」
六徳の話を聞く禎理の側でグラスを傾けていた弦が、年相応の嗄れた声で大きく呟く。
「酒で失敗した儂が言うんだから、間違いない」
それ自慢じゃないから。そうツッコみたいのを抑えつつ、弦を見る。南の国で医学を修め、天楚でも高名な医者として知られている弦だが、酒の事で罪を犯し追放処分を受けたという過去を持っている。左袖から僅かに覗く、左手首に記された入れ墨が、その罪を雄弁に物語っている。本人もそれを反省しており、三叉亭の二階に診療所を開いてからずっと、酒を飲んでいるところを見たことがない。今飲んでいるのも、井戸の水だ。
それはともかく。
「酩酊成分は『蒸留』で作る、と聞いたことがある」
弦の言葉に、はっと顔を上げる。
次に脳裏に過ったのは、黒衣の友人。
「まさか、エクサが酒造りに手を染めているとは思えんが」
禎理の懸念を、六徳がそのまま口にする。
エクサは、禎理の友人の一人。マース大陸の宗教的聖地である『エルミの丘』で修行した正規の法導師である。『光』を用いた魔法と錬金術に長けているが、世間知らずなのか他人とのトラブルも多い人物である。錬金術の失敗により大切な人を死に追いやってしまい、その人を蘇らせようと禁断の魔術に手を染めたが故にエルミを追われたエクサを、昔エクサの師匠に世話になったことがある縁で禎理が預かっているのだが、『他人のことを放っておけない』が故にあちこちで事件や喧嘩を引き起こしてしまう禎理と、どちらが天楚のトラブルメーカーかを競っている最中である。
エクサが酒を飲んでいるところを、禎理は見たことがない。だが、エクサはエクサである。酒を飲まなくても、研究の為に何らかの実験をしている可能性は、ある。エクサ自身がこの事件に関与していなくても、他の錬金術師や魔術師の情報を持っているかもしれない。禎理はそう考え、三叉亭のカウンターから離れた。
エクサの実験室は、天楚市の北西側、手工業者が集まる一角にある。大陸南方が出身地である、鍛冶の技に長けた人種、茶人が使っていた背の低い一軒家が、エクサの住居兼実験室である。
「入るよ」
そう声をかけてから、地下へ続く扉を開ける。鼻を突いてきた酒の匂いに、禎理はがくっと肩を落とした。こういうところでの勘は、外れてくれた方が嬉しかったのだが。
「エクサ」
水が沸騰する、ポコポコという音に負けないよう、声を張る。
「何だ、禎理か」
石壁に囲まれた暗い地下室の、大きなフラスコの側で、エクサはニッと笑って禎理を見上げた。エクサの表情にも、声にも、楽しさしか感じられない。禎理はもう一度溜め息をつくと、石造りの階段をとんとんと降りてエクサの側に立った。
「すごいだろ、この装置」
禎理の気持ちなど全く構わず、エクサは笑ったまま禎理を見つめる。確かに、坩堝といいフラスコといい、普段見る物よりは大きい。ガラスの透明度も段違いだ。エクサが実験に力を入れていることはよく分かる。だが、である。
「エクサ、これ……」
確かめるように、尋ねる。
「ああ、蒸留しているのさ」
予想通りの答えが、エクサの口から返ってきた。
元々、酒の蒸留は、実験器具が上手く動くかどうか確かめる為に始めた行為だった。だが、蒸留した酒を近所に住む茶人に渡したところ大いに喜ばれ、もっとたくさん作ってくれと金貨も多量に渡された。それで気を良くして、大掛かりに蒸留を行っている。エクサは禎理にそう、説明した。
エクサの言葉に、頭が痛くなる。茶人は酒豪であり、そう簡単に酩酊しない種族だが、一般の陸人は違う。少しの酒で我を忘れてしまう人も多いのだ。それに。
「ねえ、エクサ、知ってる?」
懸念をそのまま、口にする。
「お酒を造るのって、許可がいるんだよ」
「え……」
禎理の言葉に、エクサの笑顔が固まった。
やはり、エクサは市の法を知らなかったか。
「あと、お酒を売った分、市に税金を納めないといけないし」
「そんなこと、誰が決めたんだっ!」
いや普通どこの市でもそうなんだけど。そうツッコミを入れる前に、怒りに任せて手にしていた掻き回す為の棒を振り回すエクサの腕を掴む。とにかく、酒の蒸留を止めないと。禎理はこっそり肩を竦めると、エクサの肩をポンと叩いた。
「まあ、そういうことだから」
「ちぇっ」
禎理に背を向けて、エクサが舌打ちする。
しかしすぐに、エクサは実験器具を温めていた火を手の一振りで消した。
良かった。そっと胸を撫で下ろす。
だが。
「エクサ!」
突然響いた、聞き知った声に、禎理は思わず唇を噛んだ。遅かったか。
「やはりお前か!」
開いた扉から、大柄な影と細い影が地下室に入ってくる。大柄な方は、禎理もいつもお世話になっている平騎士隊の隊長、大円。そして細い方は天楚の市参事会員、市税担当の長官だ。
「酒の密造は晒し台の刑だぞ!」
そう言って、大円がエクサの黒いローブをむんずと掴む。
「え、ちょっと」
たちまちにして、戸惑いの声を上げるエクサの身体は禎理の側を離れ、階段の側まで引き摺り出された。
「禎理!」
助けを求めるエクサの声が、耳を打つ。だが、知らなかったとはいえ天楚の法を破った者を助けて良いのだろうか? 禎理は一瞬、躊躇った。
その、次の瞬間。エクサの手が微かに光ったのを、禎理は見逃さなかった。
「エクサ! ダメだっ!」
一瞬で大円とエクサの間に割って入る。
力任せに大円を突き飛ばした瞬間、禎理の視界は爆発的な光に覆われ、そしてすぐに闇が訪れた。
背中の痛みに、目を開ける。
「お、気が付いた」
六徳の声が、少し遠くから聞こえてきた。
「動かない方がいい。酷い火傷だからな」
六徳の声の後から、六徳とは違う影が動く。エクサ、だ。禎理がそう判断するより早く、エクサの細い腕が禎理の背中に当てられた。
穏やかな光が、俯いた禎理の視界の端に映る。背中の痛みが無くなったので、禎理は腕に力を込め、ゆっくりと起き上がった。
「大丈夫か?」
六徳が、肩の下に腕を入れて支えてくれる。その六徳の陰に隠れている、エクサの不貞腐れたような顔を、禎理はそっと見つめた。
申し訳なさで、心が一杯になる。
「ごめん、エクサ」
だから禎理は、小さな声で謝った。
「何を謝ってんだ?」
禎理の言葉に、六徳が鼻白んだ声を出す。
「逃げようとしたこいつが悪いんだ」
そして六徳はエクサの方を向き、いかにも不快だというように鼻を鳴らした。
その六徳を無視して、エクサが灰色のベストを羽織る。そのベストの背に、魔法封じのお札が五枚も貼ってあるのを、禎理は見逃さなかった。
「ま、エクサも反省しているということで、お前の怪我を治す条件で大円と市参事会は手を打った、というところだ」
禎理が気を失っている間に起こったことを、六徳が説明してくれる。
「当分は、禎理を治す以外に魔法は使わないという条件付きでな」
「別に良いさ」
その六徳の後ろで、不意にエクサが声を出した。
「実験道具も没収されたし、ほとぼりが冷めるまでは、天楚大学の本で研究するさ」
魔法まで封じられてしまったのに、まだ懲りていないらしい。ニッと笑った顔は、いつもと同じだった。
「そう」
やはり、エクサはエクサだ。
エクサの顔と、そのエクサを見て呆れた顔をした六徳の顔を見て、禎理は思わずクスッと笑ってしまった。




