花の名、を
爽やかな香りに、はたと目を開く。
いつの間にか、禎理は花畑の真ん中にいた。
思わぬ光景に唖然とする禎理の周りで風に揺れている花は、ただ一種。見分けがつかないほど薄い青の線が一筋入った、白い百合のような花。この花が咲いている所は、一ヶ所しかない。そのことを知っている禎理はゆっくりと上半身を起こし、どこまでも続く花畑をただ呆然と見つめた。
しかし自分はどうしてここにいるのだろうか? 『この場所』に来るに至った経緯が、どうしても思い出せない。そういえば、ここにしか咲かないこの花には『忘却の花』という別名がある。この花の香りを吸うと、これまでに経験した痛みや悲しみを全て忘れることができる、と。その所為で、これまでのことを忘れてしまったのだろうか。きっとそうに違いない。そう考えながら、禎理は深く息を吸い、それからゆっくりと息を吐いた。
むせ返るように漂っている花の香りが、気分を落ち着かせてくれる。
と。
ふとした拍子に、自分の足元に目が行く。裸足の右足に、草の蔓としか思えない細いものが絡まっていた。
周りに咲くこの花は、普段は丈の短い姿をしているが、この場所にそぐわない現象を察知すると茎が伸び、蔓状になることもある。おそらくその状態のものなのだろうが、何故こんなものが自分の足に絡まっているのだろうか? 禎理がそういぶかしんだ、まさにその時。
「……あ、掛かってる」
不意に、鈴の鳴るような声が耳に入る。見上げると、白いドレスをまとった女の子が、禎理の前に居た。
「仕掛けに引っかかるなんて、ホント久しぶり」
上品な外見にそぐわないあけすけな言葉が、少女の口からぽんぽんと出てくる。あっけにとられながら、禎理は少女をまじまじと見、そして自分の足元を見た。
右足の横の地面が、少しだけ透明になっている。そのうすぼんやりとした地面の向こうに、禎理の所属する冒険者宿『三叉亭』の光景が確かに見えた。どうやら、何かの弾みで気を失い、魂が身体から抜け出てしまったようだ。その魂が少女の張った罠に捕まってしまい、死者たちの魂がまず初めに向かう場所であるこの『冥界の前庭』まで来てしまったのだろう。
と、いうことは。早く自分の身体に戻らないと、このままでは死んでしまう。禎理はようやく焦り始めた。
素早い動作で、足首の蔓に手を掛ける。
「ダメ」
だが、その禎理の手を少女の意外に温かい手が押さえた。
「せっかく捕まえたんだから、一緒に遊んで」
無邪気な少女の声に、一瞬迷う。
しかしずっとここにいてはいけない。ここで死んでしまうわけにはいかないし、今はまだ死すべき定めではない人間が『死んで』しまうと、この世界を支配する『自然の理』に反してしまうことになる。
『自然の理』に反することは、不幸に繋がる。だから禎理は、少女を見つめ、ゆっくりと頭を振った。
「……そんなに、帰りたいの?」
禎理のその返事に、少女はぷっと頬を膨らませた。が、すぐに別の言葉を口にする。
「じゃ、この質問に正解だったら帰してあげる」
そして、花畑の中をひらひらと舞いながら笑った。
「私の名前は?」
純白の衣装を縁取る、殆ど白と見分けのつかないほどの薄青のリボンが風に踊る。その色で、禎理には少女が『誰』であるかすぐに察しがついた。
「セオレ」
周りに咲いている花と同じ名を口にする。
禎理の答を聞いた少女はにっこりと笑った。
「当たり」
花のような笑みに、馥郁とした香りが混ざる。
少女の笑顔に、禎理も思わず顔を綻ばせた。
次の瞬間。
「……おい、禎理、禎理!」
聞き慣れただみ声に、はっとして目を開く。
「大丈夫か?」
三叉亭の見慣れた天井と、心配そうに周りを取り巻く三叉亭の主人六徳や冒険者達の顔が、確かに、見えた。
「……あ」
戻れたんだ。そう理解するのに数瞬かかる。
「全く、魔法を暴発させるなっていつも言ってるだろう、エクサ!」
先ほどまで心配そうに禎理を呼んでいた六徳が、この騒ぎの原因である魔導師エクサを叱りにかかる。
その声を聞きながら、禎理はほっと息を吐いた。




