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12章……ある日突然に

 幼い子供がふたり、ジャングルジムを指差してどっちが先に着くかと、競いながら走っている。

 背が大きい方の子供が、背の小さい子供より早くジャングルジムに取り付いた。

 背の低い方の子供も、背の大きい方の子供に負けじと必死に手足を動かして、山のようなジャングルジムに果敢に挑み、登っていく。

 その競い合っている様をふたりの比較的若め夫婦が、少し離れたベンチに寄り添うように腰掛け、顔も朗らかに優しい眼をふたりの子供に向けている。

 勝負は背の大きい方の子供が勝つかと思いきや、途中で登る速度が急激に下がった。はたから見れば、わざと負けたということがありありと分かる。だが、そこは幼い子供である。

 背の低い方の子供が好機と受け取ると、がむしゃらに小さな手足を動かし、ひと際高いてっぺんに一気に登りつめた。そこからベンチの両親と思われる夫婦に向かって、子供特有の甲高さをはらんだ声を張り上げる。

 夫婦は笑顔を浮かべながら、小さく手を振った。

 少し遅れて背の高い方の子供が、てっぺんの一段下まで登ってきた――ジャングルジムのてっぺんは狭く、大方人ひとりしか入れないからだ――。背の高い子供が、苦笑しながら素直に負けを認めた。

 それを真に受けた背の低い方の子供が、甲高い笑い声を発しながら、てっぺんに仁王立ちした。

 しばらくして背の低い方の子供が、飽きたのかジャングルジムを下り始めた。そのままではなく、わざわざ外側の方に移動して。

 背の低い方の子供が、よほど背の高い方の子供に勝ったことが嬉しかったのだろう、降りている途中から調子づき、一段飛ばしで降りようとしたその時。

 背の低い方の子供が足を踏み外した。


 そのまま地面を背にして落下した背の低い方の子供は、地面に背中をしたたかに叩きつけると、痛みと何が起こったか分からず、たちまち周囲に甲高い声を撒き散らすように泣き出した。

 夫婦は突然目の前で起こった不慮の事故に、にわかに顔を青ざめた。一目散に、背の低い方の子供に向かって走り寄った。

「幸永! おい、大丈夫かっ?」

 幸永と呼ばれた少年の名は、雨森幸永。この時はまだ7歳の少年である。

「うわ――ん、痛いよ――っ!」

芳文よしふみさん、背中を見てみましょう」

 芳文と呼ばれた男の名前は、雨森芳文。幸永の父親である。

「う、うむ」

 妻に言われるがまま芳文は、幸永の服とシャツを捲くる。すると、したたかに打った箇所が蒼くなっていた。

幸世ゆきよ、内出血を起こしているぞ!」

 幸世と呼ばれた人物の名は、雨森幸世。幸永の母親である。

「そうみたいね……。ちょっと触って、それで判断するわね」

「あ、ああ」

 幸世が冷静なのに対し、芳文はすっかり動転しきっていた。

「大丈夫、折れてないみたい。これなら家に帰って湿布を貼っておけば、直るわ」

 幸世は、慌てる芳文を落ち着かせようと、にこりと笑って見せた。

 幸世の笑顔に芳文は愁眉を開いた。

「それは良かった」

 そこに背の大きい方の子供が、ジャングルジムを飛ぶように下りて、息せき切って3人の許へやってきた。

「幸永は大丈夫!?」

「おお、利幸としゆきか。幸永なら大丈夫だ。普段から牛乳やちりめんじゃこを食べさせておいたから、骨折せずに済んだぞ」

 利幸の問いに、芳文は笑顔で答えた。

 利幸と呼ばれた少年の名前は、雨森利幸。幸永の兄であり、歳は5歳離れている。

「良かったあ……本当に良かった」

 利幸が、ほっとした表情で幸永を見やった。

「痛いよぉ、痛いよぉ――っ!」

「……でも、全然泣き止まないね」

 言いながら、苦笑いをする利幸。

「そうなのよ。だから、最終手段を使おうと思うの」

「いいんじゃないの。もう僕には通用しないけどね」

「ふふふ、そうね。それじゃ、行くわよ」

 幸世が、幸永の背中の蒼くなった箇所に触れないよう、掌を少し浮かせてとどめた。

「痛いの痛いの~、飛んでけ~! 痛いの痛いの~、飛んでけ~!」

 幸世は軽い調子で、何度も猫撫で声で叫び続けた。因みに「飛んでけ~!」と言うたびに、右手を斜め後ろ大きく振った。

「痛いの痛いの~、飛んでけ~! 痛いの痛いの~、飛んでけ~!」

 始めた時はまだわんわんと泣いていた幸永だが、幸世の声が一旦耳に入ると、潮が引くように泣き止み始めた。

「母ちゃん、母ちゃんっ。僕、痛くなくなったよ! ありがとね!」

 幸永が立ち上がって、無邪気に屈託のない笑顔を幸世に向ける。

 幸世は、莞爾かんじと笑って幸永の頭を撫でる。

「いいのよ。でも今度からは気をつけるのよ」

「うん! あ、そうだ! みんなでかくれんぼしよっ。鬼は父ちゃんね! ぜぇったい、ぜぇったい10まで数えてねっ。それじゃーねっ!」

 怪我を忘れているような幸永の振る舞いに、3人は暫時呆気に取られた。

 幸世が少し困り顔になる。

「本当にあの子ったら……人の話を聞いているのかしら」

 芳文が難しい顔をしながら、同調するように頷く。

「そうだなあ。今のうちからちゃんと話は聞くようにしつけとかないと、将来苦労しそうだしな……」

 ふたりの大人の憂いを聞いていた利幸が、一笑する。

「大丈夫だよ。僕だって幸永ぐらいの時は、かなりやんちゃだったんでしょ? あんまり気にしなくてもいいと思うよ。そのうち分かってくるさ」

 利幸の大人びた一言に、ふたりは親ながら利幸の成長を喜ぶとともに、思い悩むのが馬鹿らしくなった。

「そうね。今からいちいち気にしたって仕方ないわよね」

「うむ。俺たちがちゃんとしてれば、子供もちゃんと育つだろうしな。よーし、数えるか!」


 しばらく経った夏のある日。

 その日は原色のように真っ赤で灼熱のような夕焼けが、空に映し出されていた。雲も包丁でみじん切りにしたように細かく、広い空に点在している。不気味な空だった。

 級友と遊んでいた幸永は、日も沈みかけすっかりと遅くなった帰宅に怒られるのかと、恐々として玄関のドアを開けた。

「ただいまぁ……」

 か細い声で帰宅を告げると靴を無造作に脱ぎ捨て、幸永はおそるおそるリビングのドアの前まで来た。

 今日こそは幸世の雷が落ちると、信じて疑わなかった幸永は、ドアを勢いよく開けて目をつぶって謝った。

「母ちゃん、ごめんなさい! 今日は恭太郎きょうたろうくんと典広のりひろくんと遊んでたんだっ。もうしないから、許して!」

 しかし、しばし待ったが返事が返ってこない。幸永は、ゆっくりと目を開けていく。しばらく力を込めてつぶっていたせいか、目の前がいくぶんぼやけて見える。

「あれ? 母ちゃんの足が浮いている……? それに、隣の足は父ちゃん……? 今日ってお仕事休みだったのかなぁ……?」

 徐々に視界が鮮明なものとなっていく。幸永は真上を見上げた。

「……何、これ……?」

 幸永の家のリビングは、高くふきぬけとなっている。そのふきぬけを利用して、芳文と幸世のふたりは――荒縄で首を吊っていた。しかも荒縄には、首をくくる部分に大量の石鹸水を塗って。

「父ちゃ――ん! 母ちゃ――ん! 何で動かないの――っ? ねえったら――っ!」

 幸永は不思議な心境になった。こんなにも睡眠意外で全く動かない芳文と幸世を、初めて見たからだ。

「父ちゃん、母ちゃん、無視しないでよ。ねえねえねえっ?」

 幸永は、芳文と幸世の足を両手で掴み、揺り動かした。

 その時ドアが開き、廊下を音をたてて歩く音が聞こえてきた。利幸が帰ってきたのである。

「ただいま――。遅くなってごめん、クラブが長引いて……」

 リビングに入った利幸は、その凄惨の光景に持っていた荷物を力なく落とし、愕然となって声を失った。

 その荷物の落ちる音に、ようやく利幸が帰ってきたことに気がついた幸永が、無邪気に笑いながら、駆け寄る。

「兄ちゃん、お帰り! ねえ、父ちゃんと母ちゃんが変なんだよっ。足をぶらんぶらんしても全然何も……」

 正気に戻った利幸が、がなり立てる。

「み……見るな! これ以上、父ちゃんと母ちゃんを見ちゃ駄目だ!」

 言うや、幸永の体を引き寄せた。

「な、何で……?」

 突然大声を出した利幸に、びっくりした幸永は弱々しく訊いてみた。

「何ででも。見たら、幸永の大好きなお菓子を買ってあげないぞ!」

「わ、分かったよ……」

 幸永は、不承不承にも似た顔で頷いた。

「何だってこんなことに……」

 利幸は絶望感に見舞われながら、周囲を見渡す。すると、ある物を見つけた。

「兄ちゃん、どうしたの……?」

「幸永はここで待ってて。僕はテーブルの上にある物を取ってくる」

「うん……」

 テーブルの上からある物を取ってきた利幸は、すぐに戻ってきた。幸永にも見えるようにしゃがむ。

「どうやら、遺書みたいだ……こっちは親族って書かれているから、おじちゃんやおばちゃんが見る方で、こっちが……」

「僕たち宛だね」

 幸永が胸を張って言った。 

 多分、芳文か幸世のどちらかが配慮したのだろう、この封筒にふたりの名前が、平仮名で書かれていたのである。

 胸に詰まった嫌な予感を何とか取り除こうと、利幸が唾をごくりと飲み込む。

「僕が朗読してあげるから、黙って聴くんだよ」

 借金苦でにっちもさっちもいかなくなったこと、幸永と利幸には芳文や幸世の分まで一生懸命生きて欲しいこと、幸永と利幸は親戚のおじさんに預けること、自殺に対しての謝罪など幸永と利幸に宛てた遺書は、こういった内容だった。

 利幸は、何度も泣きそうになりながらも、そのたびにぐっと堪えて読みきった。

「僕には、そんなこと一度も言ってなかったのに……」

 様々な感情が利幸の心の中で交錯し、悲傷ひしょうを顔に滲み出しながら唇を噛み、体全体を震わせて遺書を握り潰さんばかりであった。

「父ちゃんと母ちゃん……死んじゃったの……?」

 幸永のか細い声での質問。

 遺書まで読んで、嘘をついてもすぐに分かるだろうと悟った利幸は、ゆっくりと頷いて反対側を向いた。

 頷いた利幸を見て、みるみるうちに泣き顔となった幸永は、火がついたように泣き出した。

 利幸も突如泣き始めた幸永に、自分もようやく思う存分泣けると、何気なく幸永の方を見た。しかし、幸永の姿がない。

「あれ……?」

 利幸が、目に溜まった涙を拳で拭い払って目を凝らす。やっぱり、幸永はいない。 その時、玄関のドアが開く音が聞こえた。開いた瞬間、甲高い泣き声も再び聞こえてくる。幸永が外に出たのだ。

「幸永の奴、何処へ行くつもりだ? とにかく、この近くには大通りもあるし、早く捕まえないと!」

 利幸が急いで玄関から出ると、あらん限りの声で叫ぶ。

「待てよ幸永! 待てったら!」

「うわああ~ん! 父ちゃんと母ちゃんが――っ!」 

 幸永には利幸の声が、自分の泣き叫ぶ声で聞こえていないのか、なおも大通りに向かって走っていく。

 幸永たちの自宅から大通りは本当に近く、わずか10メートルほどしか離れていなかった。

 そうこうしているうちに横断歩道に差しかかり、泣きながら反対側の歩道へ渡っていく幸永。

「そっちに行くなっ、幸永! 危ないぞ!」

 利幸も横断歩道に差しかかり、もう一度叫んだ。

「へ? 兄ちゃん? 兄ちゃ――ん!」

 その声にようやく反応した幸永が、歩道から利幸に向かって手を振った。

「ふう……あっちに辿り着いたか。幸永! 僕も今行くから待ってろよ!」

 利幸が横断歩道の真ん中で立ち止まり、大声を出しながら手を振った。

「うん!」

 幸永が嬉々として、手を千切れんばかりに負けじと振り返した。 

 笑顔で手を振り合うふたり。兄弟の微笑ましい光景が、しばしそこにあった。

 だが、信号をまるっきり無視したトラックが角をほぼ減速せずに曲り、不気味な重低音を響かせて利幸に向かってきた。

「あ、あぶ……」

 幸永が声を出す前に、トラックが利幸をまるで糸の切れた人形のように、いとも簡単に吹き飛ばされたのであった。


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