第3話 NISA女の六畳一間
土曜の昼。
俺――鷹城恒一は、安アパートの廊下で固まっていた。
「……本当に来てしまった」
ドアプレートには『白鳥』の文字。つまりここが白鳥美月の部屋だ。
会社では清楚で有名な24歳独身女性の一人暮らしの部屋。そんな場所に俺なんかが入っていいのだろうか。
いや、誘われたのは俺なんだが……。
◇
「この前のお礼をさせてください」
昨日の昼休み。
白鳥はそう言って真剣な顔で頭を下げた。
「焼き鳥なら、別に気にしなくていいぞ」
「気にします! だって鷹城さんのおかげで私、ちゃんとご飯を食べられるようになったんですから」
「生き物としての最低限なんだが、それ」
「それに老後資金の作り方をまだ教わってないし、心配なんです!」
「そこはブレねえな!」
◇
結局、押し切られる形で連絡先を交換。そして今に至る。
俺は小さく深呼吸して、インターホンを押した。
『は、はいっ!』
扉の奥から声がし、慌ただしく響く足音。
そしてガチャリとドアが開く。
「お待ちしてました。中に入ってください」
「お、おう……」
出迎えてくれた白鳥の姿に、俺は絶句した。
会社では隙のないスーツ姿の彼女。
だが目の前にいるのは、無地のTシャツに薄いグレーのスウェットという、拍子抜けするほどラフな部屋着姿だった。
飾りっ気なんて皆無。それなのに、不思議と目を奪われる。
ふわりと揺れる長い黒髪。
胸元まで伸びた艶やかな髪が、安アパートの蛍光灯に照らされ、妙に綺麗に見えた。
「その髪……」
思わず見惚れてしまった俺に、白鳥は長い黒髪を指先で弄りながら事もなげに言った。
「もう邪魔なんですよ、この髪」
「え……邪魔?」
「美容院代を節約するために、行く回数を減らしてるんです。でも、そろそろ切らないと」
「節約って……お前、黒髪ロングの理由それかよ!」
「そうですよ。カットだけでも五千円とかしますし、髪を染めるなんて完全に無駄。これが一番コスパいいんです」
「……お前って、ほんとブレねえな」
「無駄なお金は使いたくありませんので」
……この女、ある意味すげえ。
化粧っ気もほとんどない。会社でも、おそらく最低限しかしていないんだろう。
素材だけで美人が成立してやがった……。
「さあ、そんな所に立ってないで。早く入ってください」
「そ、そうだな……お邪魔します」
促されるまま部屋へ足を踏み入れ、俺は再び驚かされることになった。
六畳一間の古びたアパート。
ガランとした部屋の真ん中には小さなローテーブル。
最低限の棚。
カーテンも、ラグも、マグカップも、全部シンプルな無地。
テレビすらない。
生活感はほぼなく、物の少なさだけがやけに目立っている。
「まるで引っ越して来たばかりだな」
「ここに来てもう3年になりますが、節約すると自然とこうなります」
「欲しいものとかないのかよ」
「もちろんありますよ」
白鳥は胸を張って答えた。
「安心できる老後です」
「……重症だなぁ、お前」
その時、キッチンの方から、じゅわっと吹きこぼれる音が聞こえた。
「火、止めなきゃ!」
白鳥は顔色を変えて、慌ててキッチンへ駆け込んだ。
◇
白鳥の作った料理は驚くほど美味かった。
肉じゃが
だし巻き卵
ほうれん草のおひたし
味噌汁も、ちゃんと出汁を取っている。
「……お前、料理うまいな」
「節約すると自然とこうなります」
「またそれかよ……」
だが実際、どれも普通に美味い。
しかも安い食材を上手く工夫しているのが分かるし、栄養バランスも考えられていておよそ完璧。
「外食は高いですから」
「まあな」
「コンビニも高いです」
「それな」
「なので月の食費は二万円以内に」
「って、少なすぎ!」
俺は箸を止めた。
「まだそこを削ってんのか?」
「え?」
「この前、ちゃんと食えって言ったよな?」
「だから今日はお肉を増やしました。安いお肉ですけど、脂身が少なくタンパク質が効率よく取れて、しかも美味しいです」
白鳥が誇らしげに肉じゃがを指差した。
確かに、塩むすび一つよりは改善しているのだが――
「お前って、戦時中のお袋さんみたいだな。もしかして昭和生まれ?」
「失礼ですね、平成です!」
白鳥が頬を膨らませる。
「……でも」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「前より少しだけ怖くなくなりました。お金を使うの」
「これでそうなのか?」
「少しだけですが、鷹城さんに言われたから今の自分も大切にしようかな……と」
その言い方が妙に可愛く、少し困る。
六畳一間。距離が近い。
ローテーブルを挟んで向かいに座っているせいで、白鳥が身を乗り出すたびに黒髪からふわりとシャンプーの香りがする。
……落ち着かないな。
「早速ですが!」
白鳥が急にノートパソコンを開いた。
「今日はiDeCoについて教えてください!」
「飯を食い終わったばかりなのに、切り替え早いなお前」
「老後の不安は、全く消えてないので」
「だよなあ……」
NISA貧乏は少しマシになったが、彼女の中から老後の不安が消え去ったわけではない。
俺は苦笑しつつ、彼女のパソコンを受け取った。
家計簿がしっかり記録されており、NISA残高も右肩上がり。
表計算ソフトできっちり管理しているあたり、さすがは経理部。
「お前、スプレッドシート大好きだろ」
「20世紀最高の発明です」
「経理部の鑑だよ、お前……」
だが白鳥は真顔で俺を見つめる。
「……私、お金で揉める大人を見て育ったので、管理しないと不安なんです」
「ご両親のことか……まあ家計簿をつけるのは悪くない」
「そうですよね! よかったあ……」
ホッと胸をなでおろす白鳥がやっぱりかわいい。料理も上手で家計簿もつける。部屋もちゃんと掃除されていて家庭的。
NISA貧乏さえなければ、こんな優良物件、男が放っておくはずがない。
……コイツ、彼氏いるのかなあ。
「コホン……それでiDeCoだったな」
「はい!」
「結論から言うと、お前みたいなタイプに向いていると思う」
「本当ですか!」
白鳥がぐいっと顔を近づけてくる。
黒髪が肩に触れる。
「……近い」
「え?」
「いや、なんでもない」
……コイツ、異性との距離感があまり分かってないのか?
「それで、NISAと何が違うんですか?」
「お、おう……最大の違いは、60歳まで絶対に引き出せないこと。iDeCoは老後資金専用というか個人年金だからな」
「あと36年、絶対に引き出せない貯蓄……」
白鳥が露骨に顔をしかめる。
「……やっぱり怖い制度じゃないですか」
「だから人を選ぶ」
「ですよね……」
「でも、この縛りがあるからこそ税制優遇がかなり強力で、使い方次第でNISAより得するケースが多い」
「NISAよりも得なんですかっ!」
物凄い勢いで迫る彼女を押し返すと、俺は説明を始めた。
「NISAはよくも悪くも税金ゼロ。実にシンプルで分かりやすい」
「うんうん」
「一方iDeCoは税制の塊。複雑すぎて初心者には近寄り難い」
「だから、鷹城さんに教えてもらおうと」
「網羅的に説明するのは無理だから、今日はお前のケースに絞って話す」
「お願いします!」
「まずは入口。給料から所得税と住民税が引かれてるのは知ってるな」
「ええ。経理部ですから当然です」
「iDeCoに積み立てると、その分、税金が控除される」
「……控除!」
「例えば、月2万円をiDeCoに積み立てれば、年間で24万円」
「大した額ではないですね」
「NISA貧乏のお前基準ならな」
「うっ……」
「さて、今の白鳥の収入なら、所得税と住民税合わせて税率は約20%」
「悔しいことに、国に搾り取られています」
「でもiDeCoの24万はこの税金計算から差し引けて、24万×20%=4万8千円。月に4千円税金が安くなる」
白鳥が止まった。
「……つまり毎月2万円を積み立てると、4千円が戻って来ると」
「そう、iDeCoは『入り口で利益の一部が確定する』制度なんだ」
「それズルくないですか?」
「その代償として、60歳まで引き出せない」
「そういうことか……」
「だからiDeCoを子供の教育資金には使えないし、勘違いしたら最悪の結果に」
「なるほど、なるほど……」
白鳥が真剣な顔でメモを取っていく。
「逆にiDeCoは、出口で税金を取られる」
「ええええっ!?」
「しかも利益だけじゃない。元本込みの総額に対してだ」
「そんな制度ある? 普通は利益の20%なのに、元本に税金かかるなんて特定口座以下じゃないですか!」
「だから救済措置も用意されていて、一定条件なら税金はゼロだ」
「税金ゼロ……!」
怒ったと思えば喜んだり、会社での彼女とはまるで別人。
鉄壁の白鳥さんは、どこ行った?
「その一定条件って、何ですか!」
目をキラキラさせて、顔をグイッと近づける彼女。
だから近いって……。
「iDeCoの王道は『退職所得控除』。退職金とまとめて受け取るとかなりお得」
「そこを詳しく!」
「お前が62歳で退職するとして、勤続40年なら控除額は2200万円。退職金とiDeCoの合計がその範囲内なら税金はゼロ」
「2200万!?」
「仮に超えても、超過分を半分にして累進税率をかける。この時の税率は62歳時点の年収ではなく、超えた分の金額だけで決まる」
「iDeCoの税金、複雑すぎる……」
白鳥が途端にげんなりする。
「私の場合って結局、NISAと比べて得なんですか? 損なんですか?」
「ちょっと待て。シミュレートしてやる」
俺は自分のパソコンを立ち上げながら、一般的な傾向を説明。
「この制度は本当にケースバイケースで、退職金の多い大企業なら損益分岐点は40歳前後。若いならNISA有利、年配ならiDeCo有利って試算結果もある」
白鳥のパラメータをスプレッドシートに入力して、大雑把な試算を実施。その結果を彼女のパソコンに転送する。
「……じゃあ、私の場合は?」
「今送った。うーん……お前は微妙なラインだな。ウチは中堅で退職金もそこまで多くないから出口で税金を取られすぎることはないけど、NISAもiDeCoも損得はほぼ同じになる」
「ほぼ同じって、どういうこと……?」
「入口で得た税制優遇と、出口で取られる税金がほぼ同額。つまり差し引きゼロ」
「ガクッ……それじゃあ60歳まで下ろせないiDeCoはあまり意味が」
「実はそうでもない。行って来いになっても、先に金を貰った方が価値が高い」
「え?」
「割引現在価値という考え方だ」
「割引現在価値?」
「今の10000円と、来年の10000円。どっちがいいかという話だ」
「それ、聞いたことあります! もちろん今の10000円の方が価値が高い」
「理由は?」
「だって、オルカンの期待リターンが5%とすると、今の10000円は来年には10500円になってるから。つまり額面が同じだと今のお金の価値が高い!」
「お、おう……普通は国債金利で例えるんだけど、お前らしいな」
「私、オルカン一択ですから!」
「じゃあ今の10000円と定年の10000円は?」
「圧倒的に今の10000円……あっ!」
「そういうこと」
理解が速くてよかったが、コイツ根っからのNISA女だな……。
「それにiDeCoには上限があって、お前みたいなNISA女のストッパーにもなる」
「またNISA女って言った!」
「しまった、つい口に出ちまった。すまん」
「もうっ!」
「つまり俺が言いたかったのは、全力投資ができない分、『iDeCo貧乏』なんてことも起きないってことだ」
「iDeCo貧乏って……プッ!」
「NISA貧乏のお前に笑う資格なし。要するに老後資金はiDeCoを中心に組み立て、NISAは結婚や住宅ローンの頭金、子どもの教育費などの人生のイベントに備える」
「結婚かあ。私そんなこと考えたこともなかったな……」
白鳥がぽかんとしているが、本当にコイツ、老後のことしか考えてなかったらしい。
「そんなお前に、お得な裏技を一つ」
「お得な裏技! なになに教えて!」
「まずiDeCoで毎月2万積み立てて、オルカンを買うとする」
「うんうん」
「4000円税金が戻って来るから、NISAでオルカン4000円積み立てる。すると」
「毎月20000円で、24000円分のオルカンが手に入る! 口数ベースで20%利益確定!」
「そういうこと」
目を輝かせる彼女の横顔を見ながら、俺は思った。少し変わり者だが、根は本当に真面目な子なんだ。
老後の不安を解消するため、今の生活を犠牲にしてでもやり遂げてしまうほどに。
アリとキリギリスなら、圧倒的アリ。
だから強いが、だから危うい。
「……鷹城さん」
「なんだ?」
「今、失礼なことを考えてませんでした?」
「ギクーーっ!」
「ああっ、やっぱり!」
……そして意外と勘が鋭い。
「とにかくお前みたいな『老後のお金重視』タイプは、iDeCoが向いてると思うぞ」
「……それなら」
白鳥が小さく呟く。
「老後資金はiDeCoを軸に、NISAで補完することにします」
「それがいい。繰り返しになるがiDeCoは投資ではなく年金。制度が複雑だし、今後変更があるかもしれない。万が一にも対応できるように、余裕のある範囲でNISAは続けておくべきだ」
「分かりました。でも私には鷹城さんがいるのでそこまで心配してません。今後も老後の相談に乗ってもらいますので」
「今後も相談って……これからずっとか?」
「はい!」
屈託のない笑顔を見せる白鳥に、俺の心臓はなぜか勤労意欲を燃やし始めた。




