最終話 究極の老後戦略
銀行への怒りを一身に背負わされた鬼塚が、みんなの罵声を浴びながら敗残兵のような足取りで会場を後にする。
失意に沈むその背中を見送りながら、会場には怒りと哀れみ、興奮と虚しさ――さまざまな感情が渦巻き、何とも言えない重苦しい空気が広がっていく。
だが、その空気を切り裂くように、橘主任がマイクを握った。
「では皆様、投票をお願いします」
「投票……?」
「……何のだっけ?」
「これ、老後マネー王決定戦だった……」
ようやく誰かが思い出したように呟く。
「ああ……そういえば、そうだったな」
会場中から苦笑とため息が漏れる。
あまりに衝撃的な幕切れに、誰もが本来の目的を忘れていたのだ。
そして全員が我に返ったようにスマホを取り出すと、やがて投票結果がスクリーンに表示された。
鷹城 50
久我 50
「……え?」
「同点?」
会場がどよめく。
「マジかよ……」
ざわざわと声が広がり、橘主任も珍しく苦笑していた。
「引き分けのようですね」
そう言って久我が肩をすくめる。
「らしいな」
俺も苦笑した。
「結果が出なくて、少し残念です」
「俺の勝ちだと思ったのに、残念だ」
そう言いながらも、気分はそう悪いものじゃなかった。
「異議があります」
静かな声だった。
全員が振り返ると、コメンテーター席から白鳥が立ち上がっていた。
そしてゆっくり歩み出ると、橘主任の隣に並ぶ。
「あなた、何をする気……」
だが主任が止めるより早く、白鳥はマイクを手に取った。
「この勝負は引き分けではありません」
会場がざわつく。
白鳥が真っすぐ俺を見つめる。
久しぶりに視線が合い、心臓が跳ねる。
だが彼女の目は揺らがない。
「私は鷹城さんの勝ちだと思います」
「白鳥?」
思わず声が漏れる。
「投票結果は引き分けかもしれません」
静まり返る会場。
「でも今回の戦いで、私は本当にたくさんのことを学びました」
白鳥はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「老後の投資」
「年金」
「住宅ローン」
「世の中の定説を、鷹城さんは次々とひっくり返していきました」
誰も口を挟まない。
「正直、難しくて理解が追いつかないこともありました」
小さな笑いが起こる。
「でも、どれも数字に根拠があった」
「だから私は信じられたんです」
白鳥は胸の前でマイクを握りしめた。
「確かに安心は欲しい」
「でも自分で考えることをやめて、他人に丸投げして得ていいものじゃない」
一呼吸。
「安心は、自分で掴み取るもの」
白鳥は笑った。
少し泣きそうな顔で。
「私はオルカンを積み立ててました」
「NISAを最速で埋めようと思ってました」
「それが無駄だと鷹城さんに教えられて」
白鳥は小さく息を吐く。
「私の人生は少しずつ変わり始めました」
「それでも――」
声が震える。
「老後の不安は、ずっと消えなかった」
「白鳥……」
その時。
彼女の頬を、一筋の涙が伝った。
「青春を取り戻そうと、鷹城さんと海に行きました」
会場がざわつく。
「水着を一緒に買いに行った時は、店員さんに恋人同士と間違えられて恥ずかしい思いもしました」
「お、おう……」
何も今ここで話さなくてもいいだろ。
羞恥心で顔が熱くなる。
「ビーチでは会社のみんなに勘違いされて、散々冷やかされました」
会場のあちこちから笑い声が漏れる。
「その時の私は、まだ気付いてなかった」
「……え?」
「それに気付かされたのは、第1回目の打ち上げでした」
白鳥は橘主任を見る。
「それを教えてくれたのは橘主任です」
「え、私?」
主任が目を丸くする。
「自分の気持ちが初めて理解できた時、本当に驚きました」
白鳥は少し俯いた。
「でも同時に、とても恐くなったんです」
「それって……まさか、あの時の一言?」
橘主任が口元を押さえる。
白鳥は静かに頷いた。
「鷹城さんを取られる。どうしていいか分からなくなった私は、久我さんに相談することにしました」
「……それがあの時の」
「2回目の打ち上げの夜です」
白鳥は少しだけ笑った。
「ウソをついて欠席して、久我さんにこっそり会いました」
「久我さんは真剣に話を聞いてくれて、ある秘策を授けてくれたんです」
「久我の秘策……」
もう嫌な予感しかなかったが、一つだけ分かったことがあった。
白鳥は久我を選んだわけじゃなかった。
その事実だけで、胸の中に引っ掛かっていたものが、嘘みたいに消えていった。
そして――
ようやく俺も気付いた。
「白鳥……」
いつからだろう。
彼女のことが気になり始めて。
一緒に笑って。
一緒に悩んで。
一緒に投資の話をして。
気付けば、それが当たり前になっていた。
白鳥が顔を上げる。
綺麗な黒髪。
真っすぐな瞳。
そして――
久しぶりに見た、あの笑顔。
胸が痛くなるほど愛おしい彼女。
もう十分だ。
逃げる理由なんて、どこにもない。
俺は一歩前へ踏み出した。
白鳥もまた、一歩前へ出る。
スクリーンの前。
向かい合う俺たちに会場の視線が集まる。
だがもう気にならない。
俺は白鳥だけを見つめる。
白鳥も俺だけを見ている。
静まり返った会場。
次に俺が何を言うのか。
それを理解できない人間は、おそらく一人もいないだろう。
だから俺は――彼女に告白した。
「私と結婚してください」
「俺と付き合ってください」
「…………え?」
「「「えええええええっ!!」」」
そして白鳥が小さな箱を取り出す。
パカッ。
中には婚約指輪。
それを俺に差し出した。
「箱パカだと……!?」
「ウソだろ!」
「「「きゃああああああっ!!」」」
「「「逆プロポーズ来たああああ!!」」」
「「「白鳥ちゃん、男前すぎ!!」」」
女子社員たちが歓喜の悲鳴を上げる。
男性社員たちは一斉に立ち上がり、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
一方の俺は──頭が真っ白。
「その指輪は……まさか」
「久我さんに選んでもらいました」
白鳥が少し照れながら答える。
「きっと鷹城さんが喜んでくれるからって」
「じゃあ、あの時……」
「そっか……見られてたんですね」
白鳥が恥ずかしそうに目を逸らす。
「ええ。その時です」
よかった。
やっぱり久我とは何もなかったんだ。
胸のつかえが一気に消える。
だが――
白鳥の表情が曇っていることに気付いた。
「どうした?」
俺が尋ねると白鳥はおそるおそる、
「あの……返事は?」
「返事って?」
「結婚の……」
「…………」
そこでようやく思い出す。
そうだった。
俺は今──
逆プロポーズされてるんだった!
「いやいやいや!」
思わず声が裏返る。
「いきなり結婚!?」
「……ダメ……ですか?」
白鳥がしゅんとする。
「いや、だって俺たちまだ付き合っても――」
「じゃあ私って……」
白鳥がうつむく。
「付き合った後に、適当に捨てられちゃうんですね……」
「そんなことするか!」
反射的に叫んでいた。
「絶対に離さない!」
白鳥が顔を上げる。
「本当に?」
「ああ本当だ!」
「じゃあ、結婚してくれるんですよね」
「……その、いずれは」
「嬉しい!」
白鳥の顔がぱっと輝いた。
「……あれ?」
俺は首を傾げる。
何かがおかしい。
さっきまでカノジョですらなかった白鳥が、一足飛びに婚約者になっている。
「……なんで、こうなった?」
今日一番の歓声が、冷やかしの声とともに俺たちに降り注ぐ。
「おめでとう!」
「末永くお幸せに!」
「公開プロポーズ乙!」
穴があったら入りたいほど恥ずかしい。
だが白鳥は違っていた。
恥ずかしい気持ちもあるのだろうが、やり遂げた達成感の方が勝っているようだ。
その証拠に、満面の笑みでこう言った。
「この指輪、買ったかいがありました!」
「高かっただろ、それ」
「私の給料三か月分です」
「そんなに! ……でもそれってまさか」
「はい」
そして白鳥は、胸を張って言った。
「オルカンを売りました」
「大切なオルカンを……売っただと!」
「私にとって鷹城さんは、オルカンより大切ですので」
「え……ええっ!」
この俺が、オルカンに勝った……だと!?
オルカンより上なんて、
嬉しい。
恥ずかしい。
心臓に悪い。
──これ、もう反則だろ……白鳥。
「それに、私にとって鷹城さんとの結婚は究極の老後戦略なんです」
「え……?」
「だからここが勝負どころと判断しました」
「勝負どころ……え?」
「これで安心して老後を迎えられます!」
「そこはブレねえな!」
まさかの本音。
だが不思議と嫌じゃなかった。
白鳥のいない人生なんて、俺にはもう想像できない。
焼き鳥屋で初めて二人で飲んだ夜。
あの日から、すべてが始まっていたのかもしれない。
ふと視線を向ける。
そこには久我がいた。
さっき見せた真顔の久我はもういない。いつもの営業スマイルを浮かべている。
「なあ久我」
「何でしょうか」
「お前、白鳥にどんなアドバイスしたんだ」
すると久我は、実にあっさり答えた。
「不安な人に安心を売る。それが営業の基本ですよ」
「まさか……」
そこで、すべてが繋がった。
「……じゃあ、今までの白鳥の態度は──」
やられた。
完膚なきまでにやられた。
やっぱ、トップ営業には勝てないわ。
「この勝負、お前の勝ちだ久我──完敗だ」
〜 完 〜
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ここまで『NISA貧乏株式会社』を読んでいただき、本当にありがとうございました。
投資やお金の話は、正解がひとつではありません。
鷹城の考え方にも、久我の考え方にも、それぞれの正しさがあります。
この物語が、皆さま自身のお金との向き合い方を考えるきっかけになれば、とても嬉しいです。
作品を楽しんでいただけましたら、お気に入り登録や評価、レビュー、コメントなどで応援していただけると励みになります。
また次の物語でお会いしましょう。
くまひこ




