夜景の見える場所
どこかで漏れている水の滴る音。
昼間の活気ある路地とはうって変わり、夜の路地は閑散と静寂に包まれて余計に魔窟感が増す。
そんな路地を、ラムは確かな足取りで進んでいた。
そして、こんな環境下でもたくましく生きている、目の前を歩く住人にハイリーは感心しつつ後をついていく。
クラブの閉店後、二人がやってきた場所は電影中心。
映画館をはじめ、映画喫茶や劇場などが昼夜関係なく営業しているエンターテイメントの多く集まる一帯である。
頭上には街灯代わりのランタンがいくつも紅く灯り、レンガ造りの壁も相まって、まるで時代を遡ったような感覚にさえなる。
妖艶な色の電光掲示板には上映中のタイトルが流れ、館外まで映画の効果音やBGMが漏れ聞こえてくる。
「それで、今日は何を観るの?」
「いや、今日は映画じゃない」
前回は映画を観に来たが、今夜、ラムがハイリーをここへ連れてきたのには別の目的があった。
ラムは映画館には入らず、あるビルの横に外付けされた錆びた鉄骨階段を登り始めた。
カンカン、と二人が階段を登る音が響く。
錆びた手すりに掴まりながら、何階上がってきたのか数えておけば良かったと、次第にハイリーの顔に後悔が滲んでくる。
ひたすら黙って上り続けるラムに、いよいよしびれを切らす。
「ねえ、どこまで登るの?」
「もうすぐだ」
しばらくするとラムの足が止まった。
ハイリーは先に到着したラムの居る踊り場に並び立つと、それまで前後左右にあった建物の圧迫感のうち一方の視界が開けていることに気づく。
視界の両端は壁に遮られたままだったが、遠くには外の夜景が広がっていた。
こことは全く違う、淀んでいない爽やかで澄んだ光。
ハイリーは上がっていた息を整えると、外から流れ込んでくる空気を、思い切り吸い込んだ。
「いい場所だろ。深夜だと飛行機も真上を飛ばないし、空気も澄んでる」
そういってズボンのポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
「空気が澄んでいると言っているそばから、たばこを吸う人の気が知れないわね」
「そう言うなよ」
本当に素直じゃないーーー皮肉をいいつつも夜景に満足している様子のハイリーを横目に、ラムは静かに笑う。
「でも、急にどうして?」
ハイリーが現れてからというもの、毎日、店の手伝いやシュエガオの面倒を見てくれてることがラムにとって大いに助かっていた。それに、これまでシュエガオとの二人生活にもどこか、穏やかな変化を感じてもいた。
意味はないと言えばないし、あるといえばあるが言うほどでもない…。
ラムは口にしかけたが、やはり思い直し、口を噤むと手すりに体を預けた。
いや、ここで言うほどのことでもないだろう。
煙草を咥えたラムは肩をすくめて見せた。
「何も」
歯切れの悪い返事だったが、ハイリーは特に気にならなかったようで、夜景を見ながらひとりごとのようにつぶやいた。
「でも、まさかこんなに時代が変化しているなんて…。ラム、あなた、いい時代に生まれたことに感謝なさいな」
本来なら今も清朝の時代で暮らしているはずだったハイリーは、当然、当時の混乱や生活を経験している。しかし、ラムはそれを知るはずもない。
「ずいぶん人生を知った風なことを言うんだな。まるで時代の移り変わりを見てきた年寄りみてぇだ」
「それ、年上に向かっていう言葉?せめて、もう少し敬う言い方にしてくれるとありがたいのだけど」
「年上?どう見たって俺の方が年上に見えるが?」
「そうかしら?まぁ、いいわ、そういう事にしておいてあげる」
ラムはハイリーと最初に会った時からどこか不思議な雰囲気を持っているとは感じていたものの、まさか、女性自ら自分のほうが年上だと言い張るとは。本当に変わったヤツだなと思ったと同時に、面白いヤツもいるもんだと、ハイリーに見えないよう顔を隠し、一人笑った。
「こんな生活でも、俺はこの時代が嫌いじゃない」
「……わかる気がする」
不満があっても、なんだかんだといって思い出のある、自分の生きている時代にはやっぱり情が移るもの。
自分は、果たして過去に戻りたいのだろうか。あの人のいない、本来自分がいるべき時代に…。
夜景を眺める二人の間を、澄んだ夜風が通っていく。




