第78話 ストーカー(月宮:視点)
「えっと……この時間は……」
久しぶりに歩いた外。
冬の空は真っ暗だった。
勢いで家を飛び出したはいいものの、どうやって茜の家に行こうか。
いつも通りならタクシーを呼ぶんだけど、元日だとおそらく簡単には拾えない。
――なんて考えてたら、バスが都合の良い時間帯に出ていた。
時間ギリギリではあるが、これを逃す手はない。
「間に合ええー!」
肺を焼くような冷気を吸い込み、もつれる足で駆け込んだ。
どうにか乗り込んだ車内で、私は吐き出す吐息を整えることも忘れ、座席に深く身を沈めた。
「♪〜」
鼻歌が漏れる。
更には期待に急かされるまま、振り子のように体を揺らす。
……茜に会える。
その一点で、私は頭がいっぱいいっぱいだった。
でも仕方ない。
最低最悪な私のために、あそこまで茜は頑張ってくれたのだ。
もしかしたらあの日の夜同様『Vtuberとか本当にやりたくなかったんです』なんて言われるかもしれないし、嫌味を吐かれたり、嫌いとまで言われるかもしれない。
でも関係ないね!
茜の意見なんてもう本当にどうでもいい。
茜が私の隣にいてくれる。
そこだけが大事なのだ。
もしVtuberが苦痛というなら、すぐに運営さんにかけ合って辞めてもらう。
私の発言がダメだったというのなら、茜が満足するまでその埋め合わせをする。
縁を切るなんて選択肢だけはありえない。
嫌いだなんて意見もありえない。そんな事を言われようものなら、もう一度どんな手を使ってでも彼女の心を叩き堕とそう。
私の熱はもう頂点に達した。
茜は私の物だ。
私だけの物だ。
誰にも渡したりはしない。
私の視界は今、狂おしいほどの茜色に染まっていた。
「あかねええええ………!!」
昂ぶる情動が、喉を突き破って溢れ出した。
すると……
『車内では他のお客様のご迷惑になりますので、お静かにお願いします』
「……はい」
怒られてしまった。
まぁいい。
とりあえず静かにするついでに、LINEだけ入れ直しておこう。
今すぐ電話をかけたい気持ちはあるけど、それは直接会って謝るまでの我慢だ。
バスを降りたのは、飾り気のない消防署の前だった。
クスリのアオキを背に横断歩道を渡り、人影の途絶えた夜道を急ぐ。
「流石に傘を持たずに来たのは良くなかったかも。……足もびちょびちょだし」
私の住んでる場所のようにビルとか大きな建物が立ち並んでたりしないせいか、雪がジャストに当たってくる。
おまけに足が雪でぬかるんで気持ち悪い。
……少しばかり、あまりに考えなしが過ぎた。
これでは帰りが怠くなってしまう。
鈴菜にもあんな大口を叩いて出てきた手前、ちゃんと戻らないとだし。
ミスったなぁ……
「傘、貸してあげようか?」
背後から低く湿った男の声が響いた。
反射的に、ゆっくりと首を巡らせようとした。
「ぐぁっ……!」
刹那――首元に、断裂するような衝撃が走る。
抗う術もなく、私の視界はアスファルトに向かって崩れ落ちた。
遠のく意識の淵で、私を打ち据えた影を捉える。
それはどこか見覚えのある気がする、黒いパーカーを着た人だった。
「……お前が、全部悪いんだよ」
その呪詛のような言葉が鼓膜にこびりつきながらも、私の意識は深い闇へと沈んでいった。
---
「……おい。起きろよ」
乾いた破裂音と共に、頬に熱い衝撃が走る。
意識の混濁を突き破ってきたのは、コンクリートの底冷えと、鼻を突くアンモニアの刺すような臭いだった。
「……っ、あ……」
後頭部にズキズキと焼けるような痛みが走る。
視界がひどく霞んでいる。
まともに目を開けることすら難しい。
ただ自分が今信じられないほど不潔で、湿り気を帯びた場所に転がされていることだけは分かった。
「……ここ、は……?」
声を絞り出そうとしたけれど、喉がカラカラに乾いていて、掠れた音にしかならない。
辺りを見渡そうとしても、そこには底なしの闇が広がっていた。
わずかな街灯の光すら届かない、閉ざされた空間。
辛うじて視認できるのはタイルの床と、錆びついた扉の一部……。
「……」
ここはおそらくどこかのトイレだ。
でも、どうして私がこんなところに。
「ようやく目が覚めたか。……やっぱり近くで見ると最高に綺麗だな、詩音」
暗闇の奥からねっとりとした声が響く。
そこには、先ほどの黒いパーカーの男がしゃがみ込んでいた。
闇に溶け込んでいて顔ははっきり見えない。
けれどその双眸だけが、獲物を仕留めた獣のように異常な光を放っている。
「……私を、ストーカーしてた……男?」
「ストーカー? 違うよ、そんなんじゃない。俺はお前を危険から守ってたんだ。昔みたいにな」
男はクスクスと喉を鳴らすように笑った。
その手が私の頬をゆっくりと撫でる。
冬の風で冷え切った私の肌よりも、その指先は不気味に熱かった。
「俺と付き合え、俺の恋人になれ、俺だけの物になれ。それが俺の願いなんだ」
男の指が私の首筋に触れる。
さっき殴られた場所。
そこをなぞられるたびに、全身に鳥肌が立つ。
「い、嫌! 私は誰の物でもない!……それに初めて会った人と付き合うとか……絶対にありえない」
拒絶した瞬間、目の前の男が私の頬を思いきり叩いた。
一瞬、昔親に叩かれた時の記憶がフラッシュバックし、恐怖に飲み込まれそうになる。
でも今はそんな事をしてる場合ではない。
私は自分の舌を噛んで、無理やり意識を現実に引き戻した。
「なぁ! なんでそんな事を言うんだ!! 俺はお前と小学生の頃から一緒にいただろ?!」
「…………知らない、一々誰が居たかなんて覚えてない。昔の私に余裕なんて無かったんだから」
「小さかった時、なけなしの500円で二人でケーキを一緒に食べた! みんなでプールにも行ったし冬のスキーとか……児童館でやったバスケとかも……!」
この男と問答を続けるのは無駄だ。
早くここから逃げないといけない。
けど手首は縄か何かでトイレの配管に縛りつけられているらしく、いくらもがいてもキシキシと虚しい音が響くだけだった。
「俺達、仲良かったよな? 中学生の頃は少しの間だけだったけど、付き合いもしたんだ。なのに忘れたって何だよ! ふざけんじゃねえぞ!!」
「…………」
「それもこれもアイツのせいだ! 藤崎とかいうゴミが現れてから全部おかしくなった! 今までの詩音は他人に興味ないって態度だったのに、高校入学直後から挙動不審だったアイツに目がいってた!!!」
入学直後から……
私はそんな時から茜を見ていた?
自分ではそんなことに気づかなかった。
でも言われてみれば、確かにそうかもしれない。
私は最初から、彼女に惹かれていたのかもしれない。
そうでなければ、入学したばかりで一度も話したことがない相手を、あのイベント会場で見つけ出せるはずがない。
服装も雰囲気も全く違う彼女に気づき、わざわざ自分の時間を割いてまで関わろうとした理由に、他に説明がつかない。
そうなんだ。
そうだったんだ。
私ってそんな時から茜のことを見てたんだ。
……茜に会いたい。
会わなければいけない。
こんなところで、止まっているわけにはいかないんだ。
「アイツは――」
私は大きく息を吸い込み、喉がちぎれるほど叫んだ。
「だれかあああああああああッッッッッッ!!たすけてえええええええ!!!!!!」
休まず、もう一度叫ぼうとする。
「誰かああああああ――かはっ?!」
だけど二度目の叫びの最中で、私の肺の中の空気が、一滴残らず強制的に絞り出された。
視界が白く爆ぜる。
叫ぼうとした口は開いたまま固まり、声にならない悲鳴が喉の奥で震えた。
みぞおち。
そこに男の固い拳が深々とめり込んでいた。
内臓がひっくり返るような、えぐられるような衝撃。
鈍い痛みが神経を伝って脳を真っ白に塗りつぶしていく。
呼吸ができない。
吸おうとしても、肺が石のように固まって動かない。
「…………なぁ、おかしいよな……なんでそんな酷いことが言えるんだ? 俺が目の前にいるのによく助けを予防なんて言えるよな? まず俺が助けてるじゃないか。あの藤崎とかいう頭のおかしい女からよぉ!!」
彼は狂っている。
言動の全てがイカれている。
茜とは全く違った方向性で頭がおかしい。
この男の言っている事が、もう何一つ理解できないし、したくもなかった。
「……っ、が、あ……っ……げほっ、……ぅ」
痛みはまだ続き、私はあまりの苦しさに身体が勝手に折れ曲がろうとするけれど、縛られた手首がそれを許さない。
宙ぶらりんになったまま、私はただ痙攣するように喉を鳴らすことしかできなかった。
「それにな、ここは馬鹿広い公園にぽつんと佇んでいるトイレだ。こんな糞田舎の夜中、それも大雪が降る時間帯に叫んだところで、誰もきたりしねえ」
広い公園……だとしたら、ここは茜の家からそう遠くないはず。
でもこの公園の広さはよく知っている。
この状況で叫んでも、誰かに届く可能性は絶望的だった。
「はぁ……はぁ…………私、何も悪いことしてない」
「あ?」
「あんたが勝手に私を好きになっただけで、私に非なんてないじゃん!! なんで私がここまでされなきゃいけないの?!」
私が必死に訴えると、男は苛立ったように自分の鞄を漁り始めた。
「そんなの決まってんだろ。お前には俺を好きにさせた責任がある。……なのに、あの社会不適合者は俺の前でお前とキスをした。普通に考えて許されないよな? どうしてあんな真似ができるのか理解できない。まともな人間なら、絶対にやらないようなことだ」
男が鞄から、一つの道具を取り出した。
「なら詩音は俺とこれからの関係をやり直すために、俺のために誠意を込めた謝罪をしなきゃならない。それが社会常識ってものだろ?」
闇の中で鈍く光るもの。
それは包丁であった。
「……そういえば、数時間前にVとしてデビューしたアイツの姿には面食らったよ。イカれた嘘ばかり吐き散らしてウザかったけど、そんなことはいいんだ。ネットでどれだけ煽られようが、今、詩音の目の前にいるのは俺なんだからな」
「な、何しようとしてるの?」
「決まってるだろ。アイツにこれまでの分の仕返しをしてやるんだよ。そしてこれには詩音にも協力してもらうし、お前には俺を好きにさせたその義務と責任がある」
男は私の胸元でピタリと包丁を止めた。
「詩音、場所は悪いけど今からここでセックスしよう。それであの悪魔に証明してやるんだ。俺達の関係にお前が入る余地なんてないってさ」
「は?」
この男は今なんと言ったのだろう。
ここで私達が、愛し合う人同士がするソレをやると言った?
それも私とこの男で……?
ありえない。
絶対にありえない。
理解できない。
どうしてそういう考えになってしまうのかも理解したくない。
ただただ、生理的に受け付けなかった。
心の底から反吐が出るほど気持ちが悪い。
突きつけられた包丁の鋭さも忘れ、私は激しい嫌悪のままに啖呵を切った。
「絶対に嫌!! 誰があんたみたいな気持ち悪い男なんかと!!」
言い終えるか否か。
男は包丁を峰の側で、私の肋骨に向けて大きく振り下ろした。




