第49話 知らない天井
目を覚ますと、そこは知らない天井だった。
部屋は薄暗い。
今は夕方だろうか。
視界の端で、透明な滴が落ちるリズムだけが聞こえる。
鼻の奥には消毒液の匂いがこびりつき、喉は熱を持った砂漠のように乾ききっていた。
そして鼻に繋がれてるチューブが、ありえないくらい邪魔。
「丁度帰ろうと思ってたのに、このタイミングで眼を覚ますんだ。どうせなら明日まで目が覚めなければよかったのに」
鼓膜を震わせたのは、冷たく、けれど聞き慣れた妹の声だった。
声の方へ首を巡らせようとしたが、後頭部が枕に縫い付けられたように重い。
「…………酷いこと……言ってくれますね。こんなのでも貴女の姉ですよ、私」
掠れた声は自分のものではないようで、一言発するだけで喉の粘膜が悲鳴を上げた。
体が怠い。
腕を持ち上げようとしても、全く上がらなかった。
左腕の肘の裏には、皮膚を突っ張らせる太い点滴の針。
人差し指を挟み込むクリップからは、不気味な赤い光が透けている。
……どうやら私は病室にいるらしい。
「話は全部2人から聞いたよ。片方ずつから聞いたんだけど、2人の話を合わせると若干話にブレがあったなぁ」
「たぶん月宮さんの言い分が……全部正しいです。…………月宮さんは、なんて言ってましたか」
私がそう尋ねると、明日菜は特殊な形をしたコップ?を手に取って寝ている私に水を飲ませてくれた。
「まずお姉ちゃんはステージで倒れた後、すぐにママが先生達と一緒にステージまで上がって、救急車を呼んで――」
「ちょっ!?――ゲホッゲホッ!!」
不意に告げられた衝撃の事実に、咽せ返らずにはいられなかった。
え?、は?
てことは何?
2人してあの現場にいたの?
私、あの馬鹿みたいな姿を家族に見られたってこと?!?!
…………恥ずかしい。
今すぐ死にたい。
「話の途中で暴れようとするの止めてよ」
「……私、言いましたよね。文化祭には絶対くるなって」
「家の中でふらっふらなのを必死に隠し通そうとして『文化祭のため』って言いながら頑張ってたのを、私達は目の当たりにしてるんだよ? だったら行かないわけにはいかないよね」
「貴女達に見られるって分かってたら…………あんな」
「それと落ち着いて聞いて欲しいんだけど、朝方にメイド喫茶やってるお姉ちゃんの教室を、ママと一緒に少しだけ見に行ったんだよね」
「……先が読めました。本当に聞きたくありません。お願いなので今すぐに帰ってください」
明日菜が私のお願いなど聞いてくれずはずもなく……
「お姉ちゃんが色んな人たぶらかしてる姿――マジでキモかったよ」
「――――――――――――――(絶句)」
誰か!!!
私の心臓を止めてっ!!!
今すぐに!!!!!
「まっ、冗談だけど」
「……文化祭に居たことも冗談であってください」
「話を戻すとね、私とママが病院に着いた頃には、詩音さんもいたんだよね」
「……はい」
「それですぐに、めちゃくちゃ泣かれながら事情を話してくれたわけ。簡潔にまとめると……」
明日菜は一瞬、声をチューニングした後、月宮さんに声を寄せて発声した。
「『全部私が悪かった。私のせいで茜ちゃんは文化祭中ずっと錯乱してた。一緒に休んで欲しいって言われた時、ちゃんと茜ちゃんのことを考えてあげればよかった。私が我儘なせいで茜ちゃんの体調不良に気づいてあげられなかったし、苦しませた。入院費は全額私に負担させてください』――これ」
「はぁ……貴女の下手くそな声真似を聞いてると、耳が腐り落ちそうです」
「ちなみにママは詩音さんが大泣きながら話してる最中、割れるくらい顔をへの字にさせてたよ。あんな顔初めて見たから、泣いてる詩音さんの目の前で爆笑しそうになっちゃった」
「お母さんの顔がへの字に……それは中々ですね」
お母さんがどう思ったのか知らないけど、たぶんどんな対応をすればいいのか分からなくて困ったんだろう。
「…………」
……それにしても失敗したなぁ。
まさかぶっ倒れるハメになるなんて。
「私の目が覚めるまで、何時間くらい経ちました?」
「3……」
「3時間ですか。意外と短かい――」
「じゃなくて、3日だね」
「…………貴女って人は本当に」
3日?
……えぐい。
どんだけ寝てたんだ私。
「あっ、私そろそろ帰るね。明日も学校だし」
「お母さんは……?」
「ママなら今日残業。私はお姉ちゃんの定期券使って帰るから、よろしく」
「そうですか。勝手にしてください」
「最後に!!……詩音さんにはちゃんと謝るんだよ」
そう言って明日菜は出て行った。
「…………詩音さん、か」
では、ここで眼を閉じて脳内反省会の時間である。
議題は今回の私にダメなところがあったかという点。
正直、何故か記憶がところどころ抜けている点があるため、上手くまとめれるか心配だが……
第一に、全体的に弦巻さんの口車に乗せられたのが失敗だった。
準備期間中では他クラスのヘルプに回り、祭りの最中ではホスト紛い行動をしたのが、あまりに致命的だ。
とても目立ちすぎている。
退院した後学校に登校再開した時、一体どんな顔して教室に入ればいいのか分からない。
話しかけられるのは確定だろうし、私はそんなの耐えられないから、月宮さんと坂本さんに頭を下げて、盾になってもらうしかない。
二人に頭を下げるのも正直怠いとしか思えないけど、もうそんな悠長なことを言ってられる状況ではなくなってしまった。
第二に清水さんの件だけど……あの人本当に何?
結局、あの人は何だったのか。
やっぱりここは正気に戻っても、同じことを考えてしまう。
正気に戻った今でも、彼の行動原理が理解できない。
女性が生物学的なコストを鑑みて、優れた遺伝子を持つ個体を一点狙いするのは理解できる。
そのための男漁りや浮気も、生存戦略としてなら首肯できる。
あの時、妙にダル絡みしてきた二年の先輩のように。
もっとも私は月宮さん一筋だし、そんな生物的な損得勘定を剥き出しにした在り方はキショいとしか思わないので、共感の余地など微塵もないが。
しかし男性は生殖の制約が緩いのだから、一人の女に固執して身を滅ぼすのは、効率が悪すぎるのではないか?
――そんなふうに考えてしまうあたり、やはり私は人間社会に向いておらず、山奥の野生の猿にでも生まれ変わるべきだったのだと自覚する。
結局のところ彼も私も、絶望的に社会というシステムに適合できなかった、ただの欠陥品なのだ。
そしてその欠陥品が、輝かしい未来を約束されている月宮さんの隣に居座り続けるのは、あまりに不釣り合いではないか。
……今一度、月宮さんとの関わり方について考え直すべきなのだろう。
「――っ、……ぁ……!」
不意に廊下側から騒がしい人声が漏れ聞こえてきた。
私は目を閉じたまま耳を澄ませるが、音はくぐもっていて上手く聞き取れない。
やがてわずかな沈黙の後、部屋のドアが躊躇いがちにゆっくりと開かれた。
「お邪魔……します」
「…………わぁ」
私は誰にも聞こえないように小さく声を漏らした。
今、このタイミングで、これほど嬉しくない再会もない。
病室に現れたのは、まさかの月宮さんだった。
最低のバッドタイミングである。
丁度関わり方を考え直そうと、思っていたところだったのに。




