プロローグ 呪われた花嫁の幸福
オリベルタ帝国の城下町。その路地で、少年が新聞の束を抱え、息を切らして走る。
(これはたくさん稼げるぞ!)
勢いよく広場へ駆け込んだ。そして、息を整え声を張り上げる。
「号外だよ! 号外だよ! 世紀の大ニュースだ!」
「獣国からの停戦交渉を受け、停戦が決定! 停戦条件として、第一皇女殿下と獣王の婚姻が、本日執り行われたよ!」
その声に、広場がざわめき立つ。
五百年もの長きにわたって争い続けてきた、人間と獣人。
幾度となく血を流してきた両種族が、ついに婚姻による和平へと踏み切ったというのだ。
その知らせは、帝国中を震撼させるものだった。
たちまち少年の周囲には人だかりができ、新聞が飛ぶように売れていく。
「停戦って、本当か? 罠じゃねぇのか?」
「獣国の連中が、簡単に約束を守るわけがない」
「そういや、今の獣王は、野蛮で極悪非道なんだろう? 女も子どもも、容赦なく殺すって聞いたぞ」
「人間を凌ぐ巨体に、凶悪な顔。その鋭い牙と爪で大人もあっという間に食らうとか」
「ははっ! だったら、呪われた第一皇女とぴったりじゃねぇかよ!」
嘲るような笑い声が上がった。
「第一皇女は、皇帝陛下の娘なのに、髪も瞳も炭のように真っ黒ですって。呪いよ!」
「それだけじゃない。いつも死装束のように真っ黒な服に黒いベールを纏っているんだ。気味が悪い」
「知ってるか? そのベールの下の顔ときたら、あまりの醜さに空を飛ぶカラスが落っこちてくるって話だ!」
「性格も傲慢で我儘。従者を虐めているらしい」
「あの愛くるしい第二皇女殿下まで虐めているって聞いたぞ!」
「とんだ悪女だ!」
すると、一人の老婆が辺りを注意深く見渡し、声を僅かに潜めた。
「前皇后陛下のこともあるだろう……?」
人々の声が、静まる。
帝国では、皇帝の寵愛を受け、国民から愛されていた亡き前皇后陛下の話をすることは禁忌とされていた。
「第一皇女様がお生まれになってから、前皇后陛下は次第に衰弱していったっていうじゃないか」
「まさか……その話は本当だったのか」
「実の母親を呪い殺したというのも、事実なのか?」
「健康だった皇后陛下が若くして急に亡くなったんだ。呪い以外にありえると思うかい?」
誰かがひっと息を呑んだ。
人を喰らう、凶悪な獣王。
実の母を呪い殺す、呪われた皇女。
なんともお似合いの夫婦ではないか。
民衆の無責任な笑い声が、澄み渡る蒼天へと消えていくのだった。
◇ ◇ ◇
少し時を遡る。
オリベルタ帝国の皇城内では、まさにその婚礼の儀式が執り行われていた。
五百年にわたる争いを終わらせるための、獣国の王と帝国の第一皇女の婚姻。
本来ならば、帝国中を挙げて盛大に祝われてもおかしくない一大行事である。
それにもかかわらず、礼拝堂には、祝いの花ひとつなく、楽師もいない。
きらびやかな装飾もなければ、祝福の声すらない。
儀式に参加しているのは祭壇の前に立つ神父と、獣王が連れてきた十名ほどの臣下。
そして、花嫁の第一皇女だけ。
帝国側の参列者は、一人もいなかった。
その扱いだけを見ても、帝国がこの婚姻を歓迎していないことは、誰の目にも明らかだった。
そして、花嫁自身もまた祝いの場には決して似つかわしくない姿をしていた。
帝国でも獣国でも、婚礼の日に花嫁が纏うのは、純白のドレスである。
しかし、第一皇女はベールを被り、頭のてっぺんからつま先まで、漆黒に身を包んでいた。
まるでこれから嫁ぐのではなく、死地へ旅立つために黒を纏っているかのようだった。
獣王の背後に控えていた最も信頼する臣下の一人が、眉を寄せる。
(本当に、十五歳なのか。今年成人したばかりだとは聞いていたが)
皇女はあまりにも小柄で、獣王と並ぶと夫婦ではなく、親子に見える。
黒いドレスに包まれた薄い肩。
折れてしまいそうな細い腕。
これが、噂に聞く“呪われた皇女”。
獣王は、そんな花嫁を冷ややかに見下ろしていた。
その悪名は、遠く離れた獣国にまで轟いている。
傲慢で残忍な呪われた第一皇女。
そのような女を停戦の条件として寄越すとは。
人間は、何も変わっていない。
同じ空気を吸っているだけで反吐が出る。
奥歯を噛み締める。
目的さえ達成すれば、こんな停戦などすぐに破棄して、人間を……
その時、脳裏に情景が鮮明に浮かぶ。
愛する人が大切にしていた世界。そのすべてが赤く染まっていく、忌まわしい光景。
殺意を押し殺すように強く握りしめられた拳には、爪がくい込む。
無骨な手の甲には、血管が浮き出ていた。
その一方で、表情の変化といえば、わずかに眉間に皺が寄った程度だった。
獣王と神父の目がふと合う。
神父の顔から、さっと血の気が引いた。
獣人の精鋭に囲まれ、その中心に立つ獣王から放たれる威圧感に、平静を装うことなどできるはずがない。
できるとすれば、鋼の心臓の持ち主か、ただの間抜けだろう。
泣く子も黙る獣王。
そんな男が先程から不機嫌そうに眉を寄せているのだ。
神父は震える手を必死に押さえながら、心の中で神に祈った。
どうか。どうか何事もなく、この式が終わりますように。
そして、その背後に控える獣王の臣下たちの表情も険しかった。
五百年もの間、殺し合ってきた人間と獣人。
停戦が決まったからといって、それまでの憎しみが消えるはずがない。
まして、この婚礼を見れば、帝国が獣国を軽んじているのは言うまでもない。
和平の象徴として皇女を嫁がせる。
聞こえはいい。
だが、これは、帝国にとっての厄介者を、獣国へ押しつけているだけではないか。
獣王様は、いったい何をお考えなのだ。
国内での強い反発を押しのけ、即位後早々に五百年も争ってきた人間の国へ、自ら停戦を持ちかけた。
臣下である彼らにさえ、その真意のすべては知らされていない。
ただ、歴代屈指の賢王になると目される彼に、考えがないはずはない。
だからこそ、誰も口には出さず、その背を見守っていた。
そのときだった。
皇女の身体が、小刻みに震え始める。
ぷるぷる。
獣王の臣下たちも気づいたのだろう。
何人かが皇女へ視線を向けた。
恐怖で、震えているのだ。
その場にいた誰もが、そう思った。
無理もない。
目の前にいるのは、幾多の人間を屠ってきた獣人の王。
いくら悪女と呼ばれる皇女であろうと、恐ろしくないはずがない。
獣王もまた、皇女を無言で見つめた。
しかし、
その黒いベールの下では。
(…………眠い)
第一皇女は、猛烈な睡魔と戦っていたのだった。
眠い。
とにかく、眠い。
少しでも気を抜けば、このまま祭壇の前で崩れ落ちて、眠ってしまいそうだった。
(だめ……寝ちゃだめ……)
誰にも見えないベールの下で、ぎゅっと眉間に皺を寄せ、唇を噛み締める。
しかし、身体は言うことを聞いてくれない。
足が小刻みに震え始めている。
それも当然だった。
第一皇女が塔の外へ出たのは、何年ぶりのことだっただろう。
皇城の片隅に、古びた塔がある。
かつて、罪人を幽閉するために使われていた古塔だ。
さらに古い時代には、血のように赤い瞳を持つ、白き化け物が幽閉されていたという。
幾人もの人間を殺し、その身を血で染めた恐ろしき存在だったと伝えられている。
そんな古い言い伝えが、今なお皇城の片隅に残っている。
恐ろしくて誰も近づかない場所だ。
長いあいだ、この古塔が第一皇女の世界のすべてだった。
塔には、窓がなく、陽の光すら届かない暗闇の中で、第一皇女は長い年月をひっそりと過ごしてきた。
当然、長いあいだ狭い塔の中で、最低限の動きしかしてこなかったため、体力など皆無である。
今日、塔を出てから礼拝堂まで来ただけでも、彼女にとっては十分すぎるほどの運動だった。
いまは、もう立っているだけでも辛い。
ふわぁ。ふわぁ。
欠伸が漏れる。
幸い、黒いベール越しでは、わずかな口元の動きは見えない。
第一皇女は朦朧とする意識の中で、今朝の出来事を思い返す。
何年ぶりかに、塔の扉が開いた。
その瞬間、閉ざされた暗闇の中へ、眩い光が差し込んだ。
眩しい。
目の奥に鈍い痛みを感じる。
それでも、顔を背けることはしなかった。
光。
その光の向こうは、外の世界につながっている。
塔の中にはなかった心地よい風が、頬を撫でる。
セルリアのバニラのような甘い花の香り、爽やかな外の匂い。
微かに、鳥のさえずりが聞こえる。
切望していた外の世界。
たった、それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
そして、すぐに父である皇帝のもとへ連れていかれた。
皇帝は、娘との再会を喜ぶことも、体調を気遣うこともなかった。
低く冷たい声で、ただ淡々と、命令だけを告げた。
獣国との停戦が決まったこと。
獣国へ嫁ぎ、そして、『獣王を殺せ』
それが、皇帝から第一皇女に与えられた命令だった。
驚かなかった。
不思議と悲しくもなかった。
侮蔑の眼差しには、とうの昔に慣れた。
父に何かを期待することも、ない。
けれど、その命令を聞いた瞬間。
胸が大きく高鳴り、それと同時に、心臓が疼く。
塔から、出られる。
その事実だけで、頭がいっぱいになった。
この先、どうなるのかなど、何ひとつわからない。
すぐに、殺されるかもしれない。
それでも。
黒いベールの下で、ほんの少しだけ口元を緩めた。
塔の外へ出て、陽の光を浴びる。
他人から見れば、ただ、それだけのこと。
しかし、皇女にとって、今日死んでも悔いはない。
そう思えるほど、幸せだった。
読んでくださり、ありがとうございます
Instagramでは、漫画・イラスト・世界観メモを近日公開する予定です。
本編とあわせて楽しんでいただけたら嬉しいです。
© 2026 Nono
本作品の文章・イラスト・漫画等の無断転載、無断使用、複製、加工、自作発言を禁止しています。




