第2話 呼吸する聖域
「……あれが、セントラル病院か」
ギデオンは足を止め、バイザー越しにその巨影を見上げた。
かつて白磁のタイルに覆われ、街の希望の象徴だった巨大な医療センターは、今や巨大な「肺」のように、沈黙した都市の真ん中でゆっくりと膨張と収縮を繰り返していた。
外壁のコンクリートは真菌の菌糸に飲み込まれ、血管のような赤黒い管が、窓枠を食い破って街路樹や信号機へと這い出している。建物全体が、街のインフラを骨格として取り込んだ一つの巨大な臓器と化していた。
「ギデオン、見て。階段に……誰かいる」
ミラの警告に、ギデオンはベネリM4のライトを正面玄関へと向けた。
そこには、十数人の人影があった。彼らは階段の段差に腰掛け、微動だにせずに入り口を守っている。いや、「腰掛けている」のではない。
彼らの腰から下は、コンクリートの階段と完全に同化し、剥き出しの脊髄が石材の中にボルトのように埋め込まれていた。
「門番」たちはライトの光を浴びると、一斉に顔を上げた。彼らの瞳は濁り、瞳孔は開いている。だがその表情は、愛する者を出迎えるかのように慈愛に満ちていた。
「来るな……絶縁を……守れ……」
階段と同化した一人が、掠れた声で囁いた。それは警告ではなく、まだ「個」に執着して苦しむ者への、哀れみのようにも聞こえた。
「どけ、回路の部品どもが!」
ギデオンは迷わず引き金を引いた。
散弾が男の胸を叩き、コンクリートの階段ごと粉砕する。男の肉体からは血ではなく、ドロリとした真菌の体液が噴き出した。
同時に、階段全体が「意志」を持ったように波打つ。階段の一部である男たちが、自身の肉体を引きちぎりながら、埋まった石材ごとギデオンたちへ襲いかかってきた。
「ミラ、走り抜けろ! 密着させるな!」
二人は肉と石が混ざり合う階段を駆け上がった。
横から伸びてきた変異者の腕が、ギデオンの防護服の裾をかすめる。
[ WARNING: BIOTIC ATTACHMENT DETECTED. 25 SECONDS TO SYNC. ]
「クソッ!」
ギデオンは走りながらチェーンナイフを起動し、防護服の表面を薄く削ぎ落とした。火花が散り、足元の「肉の絨毯」が熱に反応してのたうち回る。
正面玄関の自動ドアは、すでに存在しなかった。
そこには、何層にも重なった半透明の「肉の膜」が張られ、建物内部の温かな湿気を閉じ込めている。二人がその膜を突き破ってロビーに飛び込んだ瞬間、外界の冷気は遮断され、重苦しい「生命の匂い」が彼らを包み込んだ。
ロビーの天井からは、数千個の「点滴袋」のような肉の塊がぶら下がり、そこから伸びる細い管が、床一面に横たわる患者たちの口内へと繋がっている。
患者たちは、タイル床と同化しながら、静かに、そして幸せそうに呼吸を合わせていた。
「……ミラ、この音……聞こえるか?」
ギデオンは銃を構えたまま、周囲を警戒した。
無機質な病院のロビーに、低い重低音が響いている。それは建物の壁、床、そして自分の足の裏から伝わってくる、巨大な心臓の鼓動だった。
「ええ、聞こえるわ。……でも、不思議ね」
ミラがHK416を低く構えたまま呟く。
「これほど多くの生命がいるのに、……これほど静かななんて」
ギデオンは自分のグローブを見つめた。
グリップを握る指先が、微かに震えている。
先ほどから、絶縁されたはずの防護服の内側で、「誰かに優しく肩を叩かれている」ような感覚が消えない。
「……先を急ぐぞ。オリジンはこの上だ」
彼は自分を律するように言い放った。
だが、彼が踏み出した一歩は、硬いタイルを叩く靴音を立てなかった。
防護服のブーツが踏みしめたのは、湿り気を帯びた、柔らかな「肉の感触」だった。




