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第1話 絶縁の世界

世界から「摩擦」が消えて、もう十年になる。

ギデオン・リードは、廃墟となった地下鉄コンコースの暗がりに立ち、自身の呼吸音だけを数えていた。バイザーの内側で、酸素残量を示す青い数字が冷たく明滅している。

「……28、29、30」

三十秒。それは、彼が自分を「人間」だと再定義するために必要な、絶望的な儀式だった。

「ギデオン、心拍数が上がっているわ。リラックスして」

無線の向こう、数メートル先の柱の影で、ミラの低い声がした。彼女が構えるHK416のサプレッサーが、暗闇の中で捕食者の牙のように鈍く光る。

「リラックスだと?……この『標本箱』の中でか」

ギデオンはベネリM4のフォアエンドをゆっくりと引き、薬室に散弾を送り込んだ。カチリ、という金属同士が噛み合う乾いた音。その「硬さ」だけが、今や世界で唯一信頼できる真実だった。

彼らの周囲には、かつての日常が「悪夢」へと書き換えられた光景が広がっている。

駅の待合ベンチ。そこに座っているのは、もはや人間ではない。

一人の男の背中がプラスチック製の背もたれとドロドロに溶け合い、皮膚と樹脂がマーブル状に混ざり合っている。男の脚はタイルの隙間から地中深くへと根を張り、神経網の末端として駅の構造そのものと同化していた。男の瞳には焦点がなく、ただ虚空を見つめ、時折、恍慮とした溜息を漏らしている。

「触れるなよ、ミラ。あいつはもう『回路』の一部だ。生体電流を嗅ぎ取られたら、俺たちもあの椅子の一部にされる」

この世界の絶対的な掟――「絶縁の法則」

神経磁性真菌『リンク』は、生きた神経が発する微弱な電気信号を感知し、その方向へ急速に増殖する。

ギデオンが身に纏うのは、内部に銀繊維を織り込んだ完全合成ポリマーの絶縁防護服。そして、手にするのは鋼鉄の銃器。これら「完全な無機物」だけが、自分という個体を他人と混ぜ合わせようとする世界の「愛」から守ってくれるシールドだった。

その時、コンコースの奥から、複数の足音が聞こえてきた。

ペタペタという、湿った肉が硬いタイルを叩く不気味な音。

「来たわ。……右、三体」

ミラの警告と同時に、暗闇から「それ」が這い出した。

三人の人間が背中合わせに癒着し、互いの脊髄を真菌の糸で連結させた多脚の異形。それぞれの四肢が蜘蛛の足のように歪な角度で地面を蹴り、驚異的な速度で接近してくる。

「……30秒だ」

怪物が跳躍した。

ギデオンはベネリM4を腰だめに構え、正確にトリガーを引いた。

轟音。散弾が怪物の中心核――癒着した胸郭を粉砕する。だが、飛び散った肉片の一つが、ギデオンの左腕の装甲にべったりと付着した。

バイザーの中に、真っ赤な警告灯が灯る。

[ WARNING: BIOTIC ATTACHMENT DETECTED. 28 SECONDS TO SYNC. ]

「クソッ!」

ギデオンは銃を放り出し、腰のチェーンナイフを起動した。

高周波の駆動音が空気を切り裂く。彼は迷うことなく、真菌が防護服の繊維を食い破り、自分の皮膚の「電流」に到達する前に、付着した肉片ごと装甲の表面を削ぎ落とした。

火花が散り、焼けたゴムの匂いが鼻を突く。

カウントダウンが「04」で止まった。

「……助かった」

荒い息を吐きながら、ギデオンは床に落ちた自分の装甲の欠片を見つめた。

削り取られた肉片は、まだ生きているかのようにアスファルトに根を張ろうと蠢いている。

「行きましょう。病院までは、まだ距離があるわ」

ミラが駆け寄り、彼の手を取ろうとして――直前で止めた。

二人の間には、一ミリの「絶縁体」が必要だった。たとえそれが、唯一の戦友であっても。

ギデオンは再び銃を拾い上げた。

だが、その時。彼は一瞬だけ、奇妙な違和感を覚えた。

拾い上げたベネリM4のグリップが、さっきよりもわずかに「温かく、柔らかい」気がしたのだ。

いや、気のせいだ。俺の脳が、温もりを求めてバグを起こしているだけだ。

彼は自分に言い聞かせ、鋼鉄の冷たさを必死に脳へ刻み込んだ。

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