第159話 記憶のなかの灯り
「あ、そうだ。これ見て」
食卓のざわめきが、ふっと緩んだそのタイミングで、
マイが箸を置き、スマホを手に取った。
「何かね?」
テーブルの真ん中に置かれたスマホに、
三姉妹が自然と身を乗り出す。
おばあちゃんも、少しだけ腰を浮かせるようにして覗き込んだ。
マイは、迷いなく再生ボタンを押す。
パチ、パチ、と小さくはぜる音。
次の瞬間、画面いっぱいに、焚き火の映像が広がった。
ゆらゆらと揺れる炎。
闇の中で、あたたかな光だけが静かに呼吸している。
「……キレイだら」
「だらぁ……」
誰かの小さな声が、重なる。
「これね、お父さんが撮ったビデオなんだよ」
マイは、どこか誇らしげにそう言った。
「ほう……」
「和ちゃんが、か」
三姉妹が口々にうなずき合う。
そのあとに続くはずだった言葉は、
誰の口からもこぼれなかった。
代わりに、
パチリ、と焚き火のはぜる音が響き、
赤い火だけが、ゆっくりと揺れていた。
その輪の少し外側で、
メイは黙ったまま、その様子を見ていた。
画面の中の焚き火が、最後にふっと揺れて、映像が終わる。
すると、マイがまた明るい声で言う。
「もうひとつ、あるんだぁ」
マイのその一言に、
メイの胸の奥が、わずかに揺れた。
(もう、ひとつ……?)
「ほら、メイちゃんも、こっち来んか」
律子おばちゃんが、そう言って少し身をずらし、
輪の中に、さりげなく場所をつくる。
「……うん」
メイは小さくうなずき、
みんなの肩越しに見ていた位置から、
そっと一歩、近づいた。
マイが、もう一度画面をタップする。
焚き火の続きを映した映像。
赤い火の揺らめきはそのままに、
画面の端に、誰かの影が映り込む。
カメラは、ゆっくりと、
火から離れるように動いていった。
淡い焚き火の灯りに照らされて、
そこに座っていたのは――
「……これ、奏恵さん?」
珠代おばちゃんが、息をひそめるように言った。
焚き火を見つめ、
やわらかく微笑んでいる、母・奏恵の横顔。
メイは、その瞬間、
まばたきをするのを忘れていた。
「今、見ても綺麗ずら」
菊江おばちゃんが、しみじみとつぶやく。
「今日はね、
お母さんの命日なんだよ」
マイは、画面から目を離さないまま、
いつもと変わらない調子で言った。
「……ほうだっただか」
律子おばちゃんが、そう言ってから、
そっとおばあちゃんの方を見る。
おばあちゃんは、
何も言わず、ただ静かに、うなずいた。
映像の中で、
『もー、やめてよ〜』と笑いながら、
奏恵が顔を背ける。
その背後、
母の肩に隠れるようにして映っていたのは――
幼い頃の、メイだった。
「……これ、メイちゃん?」
「そうだらぁ」
口々に上がる声。
誰もが、画面に引き寄せられていく。
けれど、
その輪の中で、
メイだけが動けずにいた。
(私……)
(この焚き火、
ちゃんと、見てたんだ……)
はっきりした形にはならないまま、
そんな言葉だけが、
胸の奥に、ふわりと浮かんだ。
マイはスマホを持ったまま立ち上がり、
今度はおじいちゃんや郡介おじさんの方へ画面を向けた。
「ほら、これだよ!」
「……ほう」
焚き火をじっと見つめながら、
郡介おじさんが感心したように声を漏らす。
「和が撮ったのか、これ」
「そうだよ!」
横で、シンペイおじさんは
相変わらず穏やかな笑顔のまま、
何も言わずに画面をのぞき込んでいた。
そのときだった。
少し赤くなった顔のおじいちゃんが、
思い出したように手を叩く。
「そうだ、ばあさん」
おばあちゃんの方を振り向き、
少し大きな声で続ける。
「この前、片付けしたとき、
あれが出てきたろ。
ほれ、和彦のアルバムが」
「……そうだけんど……」
おばあちゃんは一瞬、言葉を選ぶようにして、
視線をそっと、メイの方へ向けた。
ほんの一瞬の、ためらい。
けれど、それに気づく者はいなかった。
「明後日は、和彦の命日だに」
おじいちゃんは、
そのまま話を続ける。
「故人を思い出すのも、
供養のひとつだら」
「へぇー!
見てみたい!」
少し頬を上気させたマイが、
ぱっと声を上げた。
「和ちゃんのアルバムさー」
「どんなかねぇ」
三姉妹も、
次々に声を重ねる。
場の空気は、
もう止まらない。
静かだったはずの居間に、
期待と懐かしさが、
一気に広がっていった。
しばらく迷うように座っていたおばあちゃんは、
小さく息をつき、立ち上がった。
棚の奥から取り出したのは、
濃紺の表紙の、ずしりと重みのあるアルバムだった。
角をめくって、台紙に写真を貼りつけていく、
昔ながらのタイプのもの。
おばあちゃんは、それを両手で抱えるようにして運び、
居間のテーブルの真ん中へ、そっと置いた。
「ほれ……」
マイが待ちきれない様子で、アルバムを開く。
最初のページに現れたのは、
学生服を着た、若い父――和彦の姿だった。
「お父さん、かわいい〜!」
思わず声を上げるマイに、
「若いずらぁ」
「懐かしいねぇ」
三姉妹が、口々にうなずく。
メイは少し離れた位置から、
ぼんやりとそのページを見下ろしていた。
すると、背後から郡介おじさんの声がする。
「これ、昔の中学の校門ら」
「みんな、ここの卒業生ずらよ」
「へぇ〜」
マイが感心したように、うなずく。
ページをめくるたびに、
「とうふや」の前で撮った写真や、
運動会の一場面、
高校時代らしき集合写真が現れ、
そのたびに歓声が上がった。
「あ、これタエさん?」
「若いずら〜!」
場はすっかり、昔話に花が咲いている。
その輪の中で、
メイは流されるように写真を目で追っていた。
懐かしいはずなのに、
どこか実感が伴わない。
まるで、
知らない人のアルバムを一緒にのぞいているような、
そんな距離感。
「結婚式の写真は、ないずらか?」
ふと、誰かが言った。
「結婚式のは、違うアルバムさ」
おばあちゃんは、首をかしげながら答える。
「どこかにあるだらぁけど……
今は、見当たらねぇね」
そう言って、
もう一度、アルバムに視線を落とした。
マイが、何気なくページをめくる。
その手が、ふと止まった。
キャンプの写真だった。
焚き火の前で、お母さんが、やさしく笑っている。
「これ……動画の焚き火と、同じときかも」
マイが言う。
おばあちゃんは、少し懐かしむように目を細めた。
「これな、奏恵さんの写真が無い言うたら、
和彦が焼き増ししてくれたんよ」
写真の端には、小さい頃のメイとマイも写っていた。
無邪気に、火を囲んでいる。
マイが声を上げる。
「これ、私だ〜。かわいい!」
「自分で言うかね」
小さな笑いが起きる。
そして、次のページ。
ぱらり、と開いたその瞬間――
メイの視線が、釘付けになった。
キャンプサイトでの集合写真。
何人もの大人と、子どもたち。
中央には、奏恵がいて、
その前で、幼いマイが笑っている。
右側には、和彦。
その足元に、少し身を隠すように立つ小さな自分。
――そこまでは、なんとか理解できた。
でも。
奏恵の後ろにひとり、
誰か女性が立っていた。
奏恵に重なるような立ち位置のせいで、
顔は少し隠れている。
――誰だろう。
そう思った、次の瞬間だった。
「……えっ」
思わず、声がこぼれる。
若い。
けれど、鋭く澄んだ目元。
——間違えようがなかった。
記憶の中にある顔と、重なる。
……麗佳社長。
さらに、その隣。
奏恵の左側に寄り添う、
柔らかい笑顔の女性と、穏やかな表情の男性。
(これ……詩音の…お母さんと、お父さん?)
そして、その前に立つ、ふたりの小さな女の子。
片方は、元気よくピースをしている。
その顔に――はっきりと、重なった。
得意げなときに見せる、あの目元。
(……詩音……)
息を吸うのを、忘れていた。
(……私、詩音と……
小さい頃に、会ってた……?)
胸の奥が、ひどくざわつく。
「この写真はね――」
おばあちゃんの声が、聞こえた気がした。
けれど、その言葉は、
メイの中に、ひとつも届かなかった。
行き場を失った視線が、次の写真へと泳ぐ。
キャンプテーブルの上に、無造作に置かれたランタンの写真。
古めかしいオイルランタンが、ぽつんと写っている。
「おお、そのランタン、メイが持ってったやつさ。
和彦が、ずっと使ってたやつなんさ」
上機嫌のおじいちゃんが、メイの横に来て、写真を指差しながら言った。
――お父さんが、ずっと使ってた……ランタン。
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちる音がした。
笑いながら、楽しそうにアルバムをのぞき込むみんなの輪から、
メイは、そっと身を引いた。
すっと立ち上がり、居間のふすまに手をかける。
音を立てないように、それを開く。
その動きに気づいて、
おばあちゃんが、あとを追ってきた。
居間の灯りから外れた、薄暗い土間で、
おばあちゃんが、静かに声をかける。
「……メイちゃん」
「ごめん、おばあちゃん。
ちょっと、出てくるね」
目を合わせないまま、そう言って、
メイは土間の脇の勝手口を押し開けた。
外のひんやりとした夜気が、
すっと土間に流れ込む。
その背中を、
おばあちゃんは、ただ見送るしかなかった。
ーーー
「とうふや」を飛び出して、
あてもなく歩くメイ。
暗い街灯を、いくつも通り過ぎる。
詩音がいた……
お母さんと、麗佳社長……
詩音のお母さん……
――お父さんのランタン……
思考が止まって、
どうしたらいいのか、わからない。
気がつけば、
昼に来た漁港に立っていた。
暗い海。
紫紺の空。
打ち寄せる波の音。
遠くで、灯台が瞬いている。
どれも目に入っているのに、
現実感がない。
「なんで……」
その言葉ばかりが、
胸の奥で、
何度も、何度も、渦を巻いていた。
――ボォ……。
低く、長い霧笛の音。
その響きに、
メイはふっと、現実へ引き戻された。
――どのくらい、
ここに立っていたのだろう。
冷たい風が、頬をなでる。
お酒で火照っていた体が、
ゆっくりと寒さを思い出していく。
「……帰らなきゃ」
メイは体を抱くようにして、
小さく首をすくめると、
来た道を、ゆっくりと引き返した。
ーーー
「とうふや」に戻ってきたメイは、勝手口をそっと押し開けた。
中は、すっかり静まり返っている。
さっきまでの賑やかさが嘘のようで、土間には人の気配だけが、かすかに残っていた。
「勝手口の扉をそっと閉めた、そのとき。
ふすまが、すうっと音もなく開く。
「おかえり、メイちゃん」
やさしい声と一緒に、おばあちゃんが姿を見せた。
いつもの、変わらない笑顔だった。
「……おばあちゃん」
「上っぱりも着んで。寒かったろうに」
そう言いながら、軽く肩に手を添える。
「ほれ、早く上がりんしゃい」
居間はすでにきれいに片付けられていて、
部屋の端では、毛布をかけられたマイが、すやすやと眠っていた。
「マイちゃん、飲み過ぎら」
おばあちゃんが、くすっと笑う。
その横顔を見て、メイは小さく頭を下げた。
「……おばあちゃん、ごめんなさい」
「いいの、いいの」
おばあちゃんは、穏やかに首を振る。
「みんな、喜んで帰ってったから」
メイは何も言わず、テーブルの前に腰を下ろした。
おばあちゃんは、静かにお茶を入れ、湯呑みをひとつ、目の前に置く。
しばらく、言葉はなかった。
柱時計の秒針の音だけが、部屋に規則正しく響いている。
やがて、おばあちゃんが、湯呑みを置いて口を開いた。
「おばあちゃんもな、
今年で七十七になるんさ」
少しだけ、間を置いて。
「長く生きとると、
しんどいことも、ようけあったけんど……」
おばあちゃんは、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「時間が、
先に進んでくれることも、あるだに」
そう言って、ふっとメイを見る。
やさしく、包むような微笑みだった。
メイは、湯呑みを両手で包んだまま、
小さく、うなずいた。
「お風呂、沸いとるから」
おばあちゃんは、いつもの調子に戻って言う。
「ゆっくり入ってきたらどうずら」
「……うん。ありがとう」
そう答えて、メイは立ち上がった。
◇◇◇
翌朝。
居間では、おじいちゃんとおばあちゃん、メイとマイの四人が、
朝ごはんを囲んでいた。
干物のひらきに、湯気の立つ味噌汁。
小鉢に盛られたお漬物だけの、素朴な朝の食卓。
「昨日は、飲み過ぎたずら……」
おじいちゃんは、こめかみを押さえながら、情けなさそうに言った。
「いい気になって飲むからずら」
おばあちゃんは、ぽりぽりと沢庵をかじりながら、
呆れたように返す。
それを聞いて、
メイは思わず、ふふっと小さく微笑んだ。
「ごめん、おばあちゃん……
お茶漬けにしてもらって、いい?」
今度はマイが、つらそうな顔で言う。
「マイちゃん、お酒は、ほどほどにな」
おばあちゃんはそう言いながら、
マイの茶碗を受け取る。
「はーい……」
少し照れたように返事をして、
マイは肩をすくめた。
◇◇◇
「気をつけて帰るずらよ」
「とうふや」の前で、
おじいちゃんとおばあちゃんが並んで立っていた。
「おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう」
メイがそう言って、深く頭を下げる。
「また来るね」
マイも、少し照れたように言った。
プジョー208に乗り込むと、
マイは窓を開けて、身を乗り出す。
「バイバーイ!」
車がゆっくりと動き出す。
バックミラーの中で、おじいちゃんとおばあちゃんの姿が、少しずつ小さくなっていく。
二人とも、車が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
「楽しかったね」
助手席で、マイがペットボトルの水をぐびぐびと飲みながら言う。
「……うん」
「そういえばさ」
マイが、ふと思い出したように続けた。
「お姉ちゃん、昨日の途中、いなかったよね?」
「え……うん」
「飲み過ぎた?」
「まあ……そんなとこかな」
「そっかぁ」
それだけ言って、
マイは満足そうに笑った。
(あんたに言われたくはないわ)
心の中でそっとツッコミを入れて、
メイは、ふふっと小さく笑った。
プジョー208は、
まだ形にならない想いを乗せたまま、
静かに安久里をあとにした。
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