まだ、名前を呼ぶ前
澪と付き合い始めて、まだ三ヶ月しか経っていない。
そう言うと、ずいぶん短く聞こえるけれど、私にとっては、毎日がやけに長くて、やけに慎重な三ヶ月だった。
告白されたのは、冬の終わりだった。
思いつめた顔で、澪が「今日、もう少し……話してもいいですか」と言ってきて、私はただの進路相談か何かだと思っていた。
まさか、あんなにまっすぐな言葉が来るなんて、思ってもいなかった。
「……白石先輩のことが、好きです」
今思い出しても、少し胸の奥が静かになる。
その場で返事をした自分のことも。
「よろしくお願いします」
付き合ってからも、澪はずっと、外ではこうだ。
敬語で、きちんとしていて、ちゃんと「後輩の顔」をしている。
駅前で待ち合わせをしても、
「お待たせしました、白石先輩」
と、きちんと距離を保って立つ。
私はそれを見るたびに、少しだけ安心して、少しだけ寂しくなる。
人目がある場所では、ただの先輩と後輩。
それは、私が決めたルールでもあった。
澪は高校一年生。
私は、もうすぐ大学生になる。
この差は、想像以上に大きい。
だから、守るべき線は、ちゃんと守らないといけない。
カフェで向かい合って座っても、話す内容はほとんど変わらない。
勉強のこと、部活のこと、たまに私の受験のこと。
周りから見れば、ただの先輩後輩。
でも、店を出て、少し静かな道に入ると、澪は小さく息を吐く。
「……はあ」
「疲れた?」
「ちょっと。外の澪、がんばった」
声が、少しだけ柔らかくなる。
それから、ほんの一瞬だけ周りを確認して、小さく言う。
「……紬」
私の名前。
それだけで、胸の奥が少しだけ、きゅっとなる。
「外ではダメでしょ」
「今、人いないもん」
そう言って、ちょっとだけ、得意そうに笑う。
澪は、二人きりになると、びっくりするくらい素直だ。
「ねえ、今日ちょっと寒い」
「制服だからでしょ」
「うん。でも、あったかい飲み物ほしい」
そんなことを、遠慮なく言う。
私は、その距離感に、まだ慣れきれていない。
好きだ、という気持ちはある。
でも、どう振る舞えばいいのか、まだ分からない。
家に着くと、澪は少し緊張した顔になる。
私の部屋に来るのも、まだ慣れていないのだと思う。
「お邪魔します……」
「何回目?」
「……でも、まだちょっと緊張する」
コートを脱いで、ソファに座るまでの動きも、どこかぎこちない。
お茶を出すと、澪は両手でカップを持って、しばらく黙っていた。
「……ねえ、紬」
「なに?」
「私たち、ちゃんと……恋人、なんだよね」
その言葉に、少しだけ言葉に詰まる。
「うん。そうだよ」
「……実感、なくて」
そう言って、少し困ったように笑う。
「学校では先輩だし、ここに来ても……なんか、どうしていいか分かんなくて」
それは、私も同じだった。
「無理に、何か変えなくていいと思う」
「……でも」
澪は、少しだけ間を置いてから、小さな声で言う。
「もっと……恋人っぽく、したほうがいいのかなって」
その「恋人っぽい」が、何を指しているのか、私は聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
「今のままで、いいよ」
そう言うと、澪は少しだけ安心した顔をした。
「……そっか」
それから、ちょっとだけ、私のほうに寄ってくる。
肩が、触れそうで、触れない距離。
私は、動かなかった。
この距離を、越えてはいけない。
そう思う一方で、澪が少しだけ不安そうな顔をしているのも、ちゃんと分かってしまう。
帰り際、玄関で靴を履きながら、澪は振り返って言った。
「ねえ、紬」
「なに?」
「……好き」
それは、とても小さな声だったけれど、はっきり聞こえた。
「……私も」
それ以上は、言えなかった。
付き合って、まだ三ヶ月。
私たちは、まだ「恋人の距離」を探している途中だ。
名前を呼ぶ距離。
隣に座る距離。
踏み込まないと決めた距離。
きっと、ゆっくりしか進めない。
でも、それでいいと、私は思っている。
この子が高校生である間は、なおさら。
――春が来たら、私は大学生になる。
そのとき、私たちの距離は、少し変わるのかもしれない。
それとも、まだ変わらないままなのか。
答えは、まだ分からない。
でも少なくとも今は、
澪は私の隣で、私の名前を、小さく特別に呼んでいる。
それだけで、十分だと思っていた。




