御影家の影
父が帰ってきたのは、日が暮れる少し前だった。
私はその時、台所で大急ぎで夕餉の支度をしていた。
今日のうちに書かないといけなかった御札と、要の神祇学校高等科の課題の下書きを終えたら思ったより時間が経ってしまっていたのだ。お父様の帰宅時間から逆算すると、かなり手際良く支度を済ませないと間に合わないかもしれない。
「おい! 今帰ったぞ!」
玄関の方から、父の声が聞こえた。
いつもより大きい声だった。
怒っている時の声ではないのは良かった。けれど、ひどく急いでいるような、胸の奥が浮き立っているような声。
私は手についた水を布巾で拭き、慌てて父を出迎えるために玄関へ向かった。
「お父様、お帰りなさい」
父は出仕の衣のまま、玄関に立っていた。
いつもは帰ってくるとすぐに奥の部屋へ向かうのだが、今日は何故か母と澪と要まで呼びとめている。私がやって来たのを確認すると、父は口を開いた。
「澪」
妹を呼ぶその声は、とても誇らしげだった。
「お前に、神祇省から正式な知らせが来る」
「私に?」
澪が目を丸くする。
「まあ。水神様の迎え祭祀はまだ先よね?」
「それどころではない」
母の疑問を否定すると、父は一度深く息を吸った。
「この国の水を司る神、大神の弟君、鳴神龍臣命が修行をされているのは皆も知っているだろう。かの方が、その長き修行を終えて神座へ戻られたのだ」
その名を聞いた瞬間、私は息を呑んだ。
澪は意味が分かっているのか分かっていないのか、ただ父を見つめている。
鳴神龍臣命。
荒ぶる水と雷を司る龍神。大神の弟君。
神祇省に関わる家に生まれた者なら、その名を知らない人はいない。
私も、名前だけは知っていた。けれど、遠い神話の中の神様のように思っていた。
地元の氏神様ならともかく、私たち人間の生活に触れるには、あまりにも大きく、高位で、あまりにも恐ろしい存在。
その龍神様が、神座へ戻られた。各地に水難の傷痕の残るこの国にとっては大きな吉事だろう。
「その鳴神龍臣命が、ある娘をお探しだそうだ」
父は澪を見た。澪は、それが何を意味するかは分かってはいなそうだが、空気を感じ取ったのか唇の端は抑えきれずに上がっていた。
母が両手を口元に当てる。
「まさか」
澪の頬が、見る間に赤く染まっていく。
「その娘が……私、なのですか?」
「ああ。龍神様が示された名は間違いなく、御影澪、お前のものだった」
父がそう言った瞬間、母が小さく悲鳴のような声を上げた。
「澪! まあ、澪!」
母は澪の両肩を掴み、まるで宝玉でも見つけたようにうっとりと見つめた。
「やっぱりあなたは特別な子だったのね。水神様の加護だけではなく、鳴神様という貴いお方まで目を止めるとは」
「お母様……」
澪は恥ずかしそうにうつむいた。でも、そのうつむき方は、嫌がっているようには見えなかった。
むしろ、嬉しくて、けれどそれを表に出しすぎるのははしたないから、少しだけ隠している。そんな顔だった。
「神祇省が一週間後、鳴神龍臣命と澪を引き合わせる正式な場を設ける事になった」
父は続けた。
「ただの面会ではない。龍神様の神座復帰を祝う席も兼ねた、国の主催の儀だ。神祇省の上役、高位の陰陽師、巫女、帝とその側近も列席するだろう」
母が今度こそ、はっきりと声を上げた。
「まあ! それでは、まるでお披露目ではありませんか」
「そうだ」
父は重々しくうなずいた。
「龍神様が澪をどう扱われるかは、まだ分からぬ。だが、もしも澪が神嫁として望まれれば、御影家にとってこれ以上ない誉れとなる」
神嫁。その言葉に、部屋の空気が変わった。
神の花嫁。神域に迎えられ、神の伴侶となる娘。
そんなものは、言い伝えの中にしかないと思っていた。
古い家の記録に、数代前の娘が山神に嫁いだとか、川の神に迎えられたとか、そういう話が残っているのは知っている。
けれど、今私の目の前にいる澪が、神様の花嫁になるかもしれない。
そう思うと、妙に現実感がなかった。
「澪なら当然だわ」
母は夢を見るような浮ついた声で言った。
「水神様の加護を持つ程の娘ですもの。鳴神様にふさわしいのは、澪に決まっています」
「そうだな」
父もうなずく。
「十五年前、国の水の乱れが鎮まった時から、澪は特別だった。鳴神様が澪をお認めになるなら、これほど自然な事はない」
「私……龍神様に選ばれるかもしれないのですね」
胸元に手を当てて確かめるように口にするその声には、不安よりも期待が多く含まれていた。
「すぐに鷹宮家にも知らせを出さねば」
母が言った。
「いいえ、もう神祇省を通じて届いているかもしれませんね。晴親様もきっと喜ばれるわ」
その言葉通り、しばらくもしないうちに鷹宮家から使いが来た。そして夕餉の前には、晴親さん本人が御影家を訪ねてきたのだ。
いつも以上に上等な羽織を着て、どこか得意げな顔をしていた。
「澪。聞いたよ。龍神様が君を探しているそうだね」
「晴親さん」
澪は頬を染めた。
「まだ決まったわけではないの。神祇省の方も、まずはお会いする場を設けるだけだって」
「いいや、君なら当然だ」
晴親さんはきっぱりと言った。
「水神の加護を持つ君が、今度は龍神様の目にも留まった。さすが僕の婚約者だ」
僕の婚約者。晴親さんはその言葉を、少し強く言った。
澪が神嫁になるかもしれないと聞いても、晴親さんは不安そうではなかった。
むしろ、自分の婚約者にさらに大きな価値がついたと考えているようだった。
「龍神様の寵を受ける巫女が僕の婚約者となれば、鷹宮家にとっても大きな誉れだ」
晴親さんはそう言って、父に向き直った。
「御影殿。この機会は逃してはなりません。澪を最高の姿で送り出すべきです」
「もちろんだ。御影家の名誉に関わる」
父はうなずいた。
「千咲」
母が、力のこもった目で私を見た。
「はい」
「明日の朝一番に呉服屋を呼びなさい。澪に最上の着物を用意しなければなりません。鳴神様の前に立つのですもの。水の加護を持つ娘にふさわしく、上品で、若々しく、清らかで、神々しいものを用意しないと」
「はい。呉服屋は、いつもの所でよろしいですか?」
「いいえ、今回は格が違うわ。神祇省の奥方たちが使う一番上等な店に使いを出しなさい。鳴神命の神座復帰の祝いの場で、澪が神にお目通りする支度だと伝えて、相応の反物を持ってくるように伝えなさい」
「分かりました」
「髪飾りも必要ね。水晶か、真珠か……千咲、何かない?」
「鳴神命は雷の神でもありますから、閃電岩か雷水晶も良いかと思います。店を三つほど調べて、明日の昼までに候補を出しておきます」
「そうね。それから、当日の供物。龍神様にお捧げするものだから、水に関わるものがよいでしょう。最上級の清水、白米は外せないわよね……他には、千咲」
「水と雷を司る神ですから、魚、海藻、塩、酒、それから雷に縁の深い榊もよろしいかと思います。神祇省に前例を確認して用意します」
「ええ、そうしておいて」
私に意見を聞いてきた母にそう答えると、満足そうに頷いてくれた。
「神祇省からの返書も今日中に出さないといけないな」
父が口を挟んだ。
「神祇省へ、御影家として正式に出席する旨を伝える。文面は私が確認するから、下書きを作っておけ。失礼のないように」
「はい、お父様」
「それと、当日の段取りも調べておきなさい。神の前で恥をかくわけにはいかないわ」
母が続ける。
「私達が当日、どこに車を付ければいいのか。式はどう進行して、誰に挨拶をするべきか。」
「神祇省から式次第が届いたら、写しを作って澪に渡します」
「それだけでは駄目よ。それぞれどう動くか澪に分かるように教えてあげて。誰に挨拶をするとか、その順番も。あの子は緊張するでしょうから」
「はい、分かりました。用意します」
要は面白そうに言った。
「姉さん、忙しくなるな」
「そうだね」
「でも、こういう事でしか役に立てないんだから、頑張りなよ。澪が恥をかいたら姉さんの責任だぜ」
要は冗談のように言ったので、私も冗談を言われたように笑った。
「責任重大だね」
そう返すと、要は満足そうに笑った。
「千咲。今回の件は、御影家の名誉に関わる。澪の支度だけでなく、家の中の事も滞りなく回せ。長女ならしっかり支えるように」
「はい、お父様」
「要ももちろん同席する事になる」
父は要へ目を向けた。
「お前も優秀だからな。鳴神命、あるいは神祇省の上位の方々の目に留まるかもしれん。跡取りとして恥ずかしくない振る舞いをするように」
「はい、父上」
要は嬉しそうに背筋を伸ばす。それを見た父は誇らしげだった。要も澪も、父にとって人前で誇れる子なのだ。
私は、その横で黙って立っていた。
「本当に、二人共優秀で誇らしいわ」
母が澪と要を見て、柔らかく微笑んだ。それから、私を見る。
「あら。そうすると、一人だけ似ていない千咲は橋の下で拾ってきた子だったかしら」
いつもの冗談だった。母は悪意を込めたわけではないのかもしれない。少なくとも、母はそう言うだろう。
ちょっとした冗談で、家族だからこその軽口だと。
たしかに、その言葉が出た瞬間、「澪が神様にお目通りする」と緊張していた部屋の中の空気は母の望む通り和やかなものになった。
要が笑い、澪も口元を隠して微笑みを浮かべた。晴親さんも私を一瞥して、ふんと鼻で笑う。
だから私は、笑った。
「……それは大変。準備は任せてください。拾ってもらった恩を返しますから」
声は、ちゃんと明るく出た。少しだけ大げさに肩をすくめると、要がまた笑った。
「姉さん、こういうのだけは本当に得意でよかったな」
「得意な事が一つでもあってよかった」
私がそう言うと、母も満足そうに笑った。
「そうよ。あなたも、できる事で家に貢献しなさい」
「はい」
私は口の端が下がらないように、笑顔を浮かべたまま答えた。
笑えばいい。私が私を少し雑に扱えば、この家はうまく回る。誰も不機嫌にならない。
だから、大丈夫。
それから一週間、家の中はお祭りのような騒ぎになった。
呉服屋、髪飾りを扱う問屋、神祇省から式次第を伝える使いも来た。
母の知り合いの奥方衆からは、祝いの文が山ほど。鷹宮家からも、澪のために用意したという装飾品や「揃いで使おう」と文を添えた香が贈られてきたらしい。
そのすべてを受け取り、礼状を書き、帳面に控え、返事の文面を考えるのは私だった。
呉服屋が反物を広げるたび、母と澪は楽しそうに悩んだ。
「縫うのに急がせても三日はかかるでしょう。まずは最初に反物を決めないとね」
そう張り切った母は、しかし妥協する事をせずにしっかりと選定する。
「水色は澪に似合うけれど、少し幼く見えるかしら」
「でも、龍神様なら水の色がよいのではなくて?」
「金糸を使ったものにしましょう。鳴神様は雷の神でもあられるもの」
「お姉様、どう思う?」
「そちらの金糸を控えめに入れた染めの反物が、光に当たった時に綺麗だと思います。それに、反物を作られているところは清らかな湧き水で有名です」
「じゃあ、それにしましょう。水に関わりの深い土地の反物で作った着物ならきっと喜んでくださるわ」
澪はいつも私の答えを聞いて決めるけど、決めたのは自分だという顔をする。
髪飾りも同じだった。
「こちらの真珠と雷水晶なら、どちらが清らかに見えるかしら」
「真珠は海の気が、雷水晶は雷の気の方が強いからその上の青水晶の方が……澪が今加護を授かっている水神様に合うと思うよ」
「せっかくだから龍神様にご縁のあるものを付けたいわ」
「なら、雷水晶の飾り玉をその髪飾りに付けてもらったらどうかな」
「そうするわ」
奉納する供物も同じ。母は思いつくたびに私を呼んだ。
「千咲、調べておいて」
「千咲、神祇省へ問い合わせなさい」
「千咲、返書の文面を考えておいて」
「千咲、澪が分かるようにまとめなさい」
澪も同じだった。
「お姉様、式次第を読んだけど、私が知らない言葉が出てきて分からないわ」
「名前を呼ばれたら前に出て、高御座……帝が座ってらっしゃる玉座の階段の手前で止まりなさいって意味だよ」
「手前って、どのくらい?」
「畳の丈くらいの距離をあければいいと思うよ」
「丈って……畳の横だったかしら?」
「……長い方、縦だよ」
「分かってるわ、そんな事。ちょっと言い間違えただけじゃない」
澪は機嫌を損ねたみたいだった。その後も、ちょっとした文言の意味が澪に通じず、式次第に沿った動きを教えるのに私はとても苦労した。
「お姉様、私が恥をかかないようにしてね」
「うん」
「だったらもっと分かりやすく教えてくれないと困るわ。お姉様は、教えるのが下手ね」
「ごめんね」
そう言いながら、私は式次第をもう一度書き直した。
澪が読みやすいように、難しい言葉の横に意味を書く。
使われる会場を古い文献から調べて大体の見取り図を描き、澪がどう動くか、どこで礼をするか、線や丸を書き込み、間違えやすい所には、小さく注意書きを入れる。
その横で、澪は新しい髪飾りを鏡の前で合わせていた。
澪の支度に夢中になる母と澪が頼まれた御札は、いつものごとく当然のように私の机に積まれていった。
その間にも、家事は待ってくれない。それに家計の帳面は、呉服屋と髪飾りの代金でまた赤くなりそうだった。
いよいよ明日。この一週間忙しくて、夜になると、指が筆の形に固まったまま戻らなくなっていた。肩が重くて、首を回すと鈍い音がする。
疲れた目をつむっても、頭の中はやらなくてはならない事でいっぱいだ。出かける準備だけではなくて、気を回さなくてはいけない事はいくらでもある。
「姉さん、まだ起きてるの?」
「うん。もう少しだけ」
準備で大変だから、と要が任せてきた課題がまだ終わっていないのだ。明日の式典のために神祇学校を欠席する代わりに、提出を義務付けられたものらしい。
「父上が言ってたよ。今回は澪だけじゃなく、俺も見られるかもしれないって。神祇省の偉い方がいるんだろ? もしかしたら俺、上の寮に声をかけられるかもな」
「そうだね。要は優秀だから」
私が言うと、要は嬉しそうに笑った。
「澪はすごく緊張してたよ。姉さんは準備だけで、明日はやる事何もないから気楽だろうけど。まぁ、おやすみ」
「……うん。頑張るね」
要は満足したように去っていった。
私が、明日は何もする事がないから気楽、そう思ってる事に悪気はないんだろう。それが当然なのだと他の家族も思っている。
私も、そう思おうとしている。けれど、どうしてだろう。この一週間は、いつもより少しだけ苦しかった。
澪が特別なのは分かっている。水神の加護があるのだから。国を救った神に愛された子なのだから。龍神様までもが澪を探している。
私は澪が羨ましいのだろうか。
澪を見て誇らしげに笑う父が。澪のために高い反物を惜しげもなく選ぶ母が。要にも気遣ってもらえる澪が。澪を自慢げに守る晴親さんが。
そう思った瞬間、自分が嫌になった。
姉なのに。二十歳にもなって十五歳の妹を羨むなんて、みっともない。
私は、もっと役に立たなければいけないのに。
「千咲」
母の声がして、私は慌てて顔を上げた。
「はい」
「分かっているでしょうけど明日の朝は早く起きておきなさい。澪の着付けもあるし、あなただって着替えなければならないのだから」
「はい、お母様」
「それから、晴親さんの家から祝いの品が届いたから、礼状を書いておいて。澪の字に似せてね。あの子は疲れているの」
「はい」
「御札は終わったの?」
「あと十枚ほど残ってて……」
「遅いわね」
母は少し眉をひそめた。
「澪の大事な日に、頼まれた仕事を残して神に目通りしたって悪評をわたくしに付けるつもり?」
「……申し訳ありません。朝までには書きます」
「まあ、いいわ。あなたにはこういう裏方しかできないのだから、せめて丁寧にやりなさい」
「はい」
母はそれだけ言って去っていった。私は、文箱から新しい札紙を取り出した。
墨を磨って、筆を手に取る。息を整えて紙に向かう。
いつもの動作なのに、その日は指先が少し震えた。
泣くほどの事ではない。母は間違った事を言っていない。
澪の大事な日なのだから、支度を整えなければいけない。裏方しかできないなら、裏方をきちんとやるべきだ。
そうだ。そう思わなければ。
私は祖母の筆を握る手に意識を向けた。
古い筆管の感触が、指に馴染む。祖母が私にくれた筆。私の御札を「いい御札」だと言ってくれた祖母が。
その日を思い出した瞬間、胸の奥に溜めていたものが少しだけ緩みそうになった。
慌てて唇を噛んで堪える。
泣いてはいけない。泣いたら、まるで母を悪者にするみたいになる。
澪の大事な準備の邪魔をして、被害者ぶるつもりなのかと言われてしまう。
だから、泣かない。そう思ったのに、目の奥が熱くなって……橋の下の匂いをふと思い出した。
湿った土。夕暮れの赤が反射する川。
金平糖を包んだ紙の音。怖い目をしていたのに、私を笑わなかったおじいさん。
あの人は、私が「胸が痛い」と言った時笑わなかった。
冗談を言われただけで泣いた私を責めなかった。
橋の下で拾われた子だと言われて悲しかった私を、気にしすぎの悪い子だと言わなかった。
あの人は今、どこにいるのだろう。
十五年も前に出会っただけの、名前も知らないおじいさん。私の家族になると言ってくれた人。
きっと、もう私の事なんて覚えていない。
あの時の約束だって、子供のごっこ遊びみたいなものだった。
それでも。
あの人だけは、橋の下という言葉で傷ついた幼い私の心を笑わなかった。その事だけが、今夜はひどく恋しかった。




