平民体験
王位を引退した後、二人で平民っぽい生活をしてみる話
王位を長男に引き渡してからしばらく。今までよりは時間に余裕を持てるようになった俺たちは、やりたいと思っても今までできなかった事にいろいろと挑戦していた。
「次は何をしよう?」
教会からの帰りに馬車の中で相談を持ちかけると、リーゼは窓の外に目を向けた。走っているのは街中だ。店が並び、人が行き交う賑やかな様子を、リーゼはどこか羨ましそうに眺めた。
「わたくし、平民になってみたいです」
「平民に?」
ポツリと呟かれた言葉を聞き返してみると、リーゼは目線を窓から俺に移し、少し気まずそうな様子を見せた。
「言い方を間違えました。平民になりたいのではなくて、平民の暮らしをしてみたいのです。恵まれた生活をしているのに、悪趣味だと思われますか?」
リーゼは公爵家に生まれ、王子の婚約者になって、王妃になった。家は城。当たり前に使用人がいて、侍女がいて、最高級の衣服とアクセサリーを身に着け、最上級の食事をする。それがリーゼにとっての日常だ。
リーゼの気持ちは理解できた。別に平民ごっこをして楽しみたいというわけじゃない。平民が一日でいいからお城に住んでみたい、と思うのと同様に、リーゼもまた煩わしいしきたりや責任という重しから解放されて、誰にも干渉されない日を送ってみたいのだ。
リーゼはもう一度、窓の外に目を向ける。何の変哲もない、いつもの街の様子がそこにはあった。すぐそこにあるはずなのに、今の俺やリーゼの世界とは違って、入れない街並みだ。
「平民の暮らしとなると、侍女や使用人もいなくなるけれど、いいのか? 全部を自分たちだけでやらなきゃならないぞ」
「そういう暮らしをしてみたいのですよ」
ふむ。なるほど、なるほど?
侍女も使用人もいない暮らし、ということは、だ。
二人きり!
ってことだよな?
この身分だから仕方のないことだけれど、俺たちの近くにはいつだって誰かがいて、俺たちを見張りつつ必死で見ないふりをしてくれている。夫婦水入らずというのは寝室くらいなものなのだ。
もし平民の暮らしをするとしたら、日中も二人っきりで過ごせるということだ。
料理人の代わりに俺が料理をして、いや、一緒に作るのもいい。一緒に食べて、片付けて、好きな時にお茶を入れて。
なにより、二人だけならいつ抱きついたっていいってことだな?
いつもは俺がリーゼに抱きつくと、側近たちから長ーい溜息を吐かれたり、「あらまぁ」とでも言うような視線を浴びたりするけれど、そんなことを気にしなくていいってことだ。
……いいな。
それ、いいな。
しかもそれをリーゼが望んでくれているということだ。そうだよな?
二人のうきうきライフを脳内で繰り広げていたら、リーゼは最初から諦めていたように苦笑した。
「無理なのは分かっていますから、気にしないでください」
なぜ無理なのだ。俺はリーゼと二人きりで過ごしたい。
子供も成人したいい歳して、何を言っているって?
そんなの関係ない。なにせ俺は人生三度目なのだ。年齢など数えてはいけない。
それから俺はいろいろと根回しをし、三日の休みをもぎとった。そしてその「うきうき平民生活体験」はとても簡単に実現した。
王位を譲った長男からは「どうぞどうぞ」とあっさり許可が出たし、次男は生温かい目をしながら手配してくれたのだ。
「ただし、護衛だけは付けてください。父上たちが誘拐でもされたら大変ですから」
「そうなったら父と母を切り捨てよ」
「国王となったからにはそうしますけれどね、そういう状況にしないでくださいと言っているのです」
そんな話があって一月後、護衛たちと共に俺とリーゼは街の外れの小さなコテージにやってきた。三日だけだけれど、ここで二人だけで、平民っぽく過ごすのだ。
「本当にお二人だけで大丈夫ですか?」
コテージに入ると、ここまでお供してきたリーゼの侍女が、不安そうにリーゼに尋ねた。
「大丈夫よ。そのために今日まで勉強したのですもの」
侍女はとても心配そうに「何かあったらいつでも呼んでください」と言い残して下がっていった。二人きりの生活の始まりだ。
侍女を見送ったリーゼが少しだけ口を尖らせる。
「わたくし、そんなに何もできなさそうに見えるのかしら?」
「クッ、仕方がないさ。火を起こす練習でやけどをしかけたり、人参ではなく指を切りそうになったり、掃除しながら埃を顔で受け止めたりしていたら、それは侍女だって心配になる」
この日のために、俺とリーゼはいろいろと習ってきた。火の起こし方やお湯の沸かし方、ちょっとした料理に洗濯の仕方、掃除の方法。二度目の人生で平民だった俺からすれば、基本の「き」の半分程度だが。
もっとも、たったの三日なのだ。掃除をしなくてもその日数なら問題ないし、洗濯をしなくても足りるだけの服はある。必要な家財や道具は用意されている。二人きりといいながら、門の外には護衛がいるし、侍女も呼べばすぐに駆けつけられる範囲に控えているという。ずいぶんと至れり尽くせりな平民生活である。いや、これを平民体験などと言ったら、平民の反感を買うこと間違いなしだ。
だけど、それはそれ、これはこれである。
「や、やり方が分からなかっただけではありませんか。もうできます。任せてください」
なんでも器用なリーゼがそんな簡単なところでつまずくのが可愛かったし、もっと揶揄ってやりたい気分になったけれど、これ以上言うと怒りそうだ。せっかくの三日を喧嘩で終わらせたくはない。
「とりあえず、食材を買いに行こうか。今日は待っていても食事は出てこないからな」
街で開かれている市場は、午前中に行かないとすぐに店が閉まってしまう。一日開いている店もあるが、平民は安くて新鮮な市場を使うことが多いので、せっかくならば市場で買い物したい。
市場には何度かお忍びで訪れたことがあるが、実際に食材を買うのは今世では初めてだった。いつもはその場で食べられるものや、お土産を買う程度だったからだ。
少し離れて護衛がついてくるのは仕方がないが、俺たちは市場を堪能した。野菜売りのおばさんに食べ方を教わりながら野菜を買って、数ある中からおいしそうなパンを選んだ。こうして買い物をしていると、平民として暮らした二度目の人生が思い出された。
昼食は市場でできている物を買って食べた。
夕食はコテージに戻って二人だけで調理した。リーゼに指を切られては大変だから、ナイフは俺が握った。リーゼに玉ねぎの皮を剥いてもらい、俺は人参を取り出した。皮を剥いてまな板に置き、ナイフを下ろすとトントンといい音が響く。
「クラウス様、なんだか手慣れてません?」
「……こっそり練習したんだ。そ、それよりも、皮むきが終わったらこの野菜たちを鍋に入れてくれ。あと、ウインナーも焼こう」
普段料理などしない俺たちは、きっとひどい手際だ。でも、あたふたしながら作るこの時間がとても楽しい。
「あっ、しまった」
「どうしたのですか?」
「塩がなかった」
「あら、ふふっ」
せっかく二人でスープを作ったのに、味は薄かった。
食べ終えて食事で使った食器を水場に運びながら、そういえば自分で洗うのだったと思い出したあたり、俺は今の生活が普通になりすぎていた。使ったら片付けるのは当然だったはずなのに、二度目の俺が当たり前にやっていたことは今の生活では当たり前ではなくて、とても新鮮に思えた。
「洗濯って大変なのですね」
二日目、リーゼが庭で服を叩きながら呟いた。別に洗濯をしなかったところで着る服はあるのだけれど、なるべく平民の生活をするのだと言ったら洗濯のための桶と石鹸まで用意してくれたのだ。新品だ。なんだか申し訳ないし、使わないのはもったいない。
「こうやって自分の衣服を洗うだけでも大変なのに、平民の女性は家族分全てを洗って、掃除も料理もして、さらに他でも働いているのですものね」
「そうだな」
「わたくし、平民や使用人たちの大変さがわかっていなかったみたい」
リーゼが少し後悔を滲ませるように、ポツリと言った。
「それはお互い様だろう。平民や使用人たちはリーゼが背負ってきたものの重さなどわからないのだから」
リーゼは公爵家の令嬢として生まれた。厳しく育てられたことは知っているけれど、身の回りは全て整えられ、皆に傅かれるのが当然の生活だった。そんな中でも一度目の俺のような傲慢さがなく成長したのは、それだけですごいと思う。王妃というこの国の女性の最高位に立っても、リーゼは周りへの気遣いを忘れなかった。
「それはそうですね。今知れてよかったと思うしかないですね。使用人はすごいわ。だってわたくし、この汚れひとつ落とせないのですもの」
リーゼはそう言いながらゴシゴシと布をこすっている。少し習ったとはいえ、洗濯など当然やってこなかったリーゼの手つきは怪しい。布の汚れをただ広げているだけのようだった。
「貸して」
俺はリーゼからそれを奪うと、石鹸をつけて優しく揉みこんだ。
「ほら、落ちた。汚れを落とすにはコツがあって、ただ強く揉めばいいってものじゃないんだ」
洗っていた服を太陽にかざしながらリーゼに見せると、彼女は目を丸くして汚れがあった箇所に触れた。リーゼが驚いているのが嬉しくて、えっへんと胸を張ると、彼女は賞賛しつつも疑問を持っている目で俺を見た。俺はそのままの姿勢で内心で冷や汗をかく。
「…………って、本に書いてあった」
「そうなのですか? なんだかとても手慣れているように見えますけれど」
「あ、あと、俺だけで行った視察の時に教わった」
平民経験があるので、いつもやっていました、なんて言えるわけがなく。俺は言葉を濁してごまかすように残りをざぶざぶと洗った。それをぎゅっと絞ると他に洗ったものと一緒に運び、干す。
「今日は天気がいいから、すぐに乾きそうだな。俺たちも少し外で休憩しようか」
慣れない洗濯で、自分たちの服までところどころ濡れていた。きっと良い風が乾かしてくれる。
俺たちは一度部屋の中に戻ると市場で買った果物から好きなものを選んで切って、庭に置かれた小さなテーブルに置いた。
ここでなければ果物は誰かが用意して、お茶も入れてくれる。きっとそれは選び抜かれた果物で、綺麗に盛り付けられていて、誰かが毒見までしている。
誰の手も煩わせないこの感覚が、今の俺たちには心地よかった。
最終日、俺たちは昼食を終えるとコテージの中を掃除した。
俺は濡らした布でいろんなところを拭いていく。
リーゼは箒を握り、端から丁寧に掃いている。一生懸命やっているのはわかる。わかるが。丁寧すぎて、このペースでは掃くだけで一日かかりそうだ。
リーゼから箒を借りると、俺はささっと床を掃いた。
「そのくらいでいいのですね。わたくしたちの部屋はいつも綺麗に掃除してくれていますから、丁寧にやらなければいけないのかと思っていました」
「それを仕事にしているメイドたちと違って、平民には他にもやることがたくさんあるからな」
「クラウス様は手際がいいですね」
ちょっと得意気になってしまった俺は、慌てて「そんなことない」と箒をリーゼに戻した。リーゼの実家である公爵家の使用人として、掃除はいつもやっていました、なんて言えない。どうごまかそうかとリーゼを見ると、彼女は気にする様子もなく楽しそうに箒を動かしていた。
拭き掃除をしながら、もし俺たちが平民だったらどんな生活をしただろうか、と思った。そういえば以前リーゼに、「わたくしが平民だったらどうしますか?」と聞かれたことがあったなと思い出す。あの時は話の流れで出ただけで、ほんの冗談だったけれど、もしかしたら平民になりたいと思ったこともあるのかもしれない。
もしリーゼが望むなら、余生を平民っぽく過ごすのも悪くないかもしれない。完全に平民になりきることは難しいにしても、小さな家を買って、誰にも邪魔されず、リーゼと二人で。家事が大変になったら、昼だけ使用人に来てもらおうか。
悪くない案に思えた。
「リーゼ、仕事が完全になくなったら、平民になってしまおうか?」
冗談とも本気ともつかない感じで聞いてみると、リーゼは首を傾げた。
「クラウス様がそうしたいならば、それもいいかもしれませんね。でもわたくしは洗濯も掃除も料理も、何もできませんから、ついていっては迷惑になるかもしれません」
少し寂しそうな顔をするから、俺はリーゼに抱きついた。
「まさか、迷惑になるからお一人でどうぞ、とか言わないよな」
「……」
「おい」
「ふふっ、言いませんよ。クラウス様を一人にしたら、いろいろと心配ですもの」
王族の生活は、ふんだんな贅沢を許される代わりに、ずっと重しを持ち続けなければならない。何をするにも気軽には動けないし、ずっと気を張っている。
そんな重しを全部捨てて楽になりたいと思ったことが、ないと言ったら嘘になる。リーゼもそれはきっと同じだ。
「平民の生活も、悪くはないはずだぞ。そうなるようにしてきたのだから」
「そうですね。でもわたくしは、本気で平民になることを望んでいるわけではありませんよ。ない物ねだりなだけです。こうしてたまにゆっくり過ごせるだけで充分です。クラウス様は、平民になりたいのですか?」
「いや、そういうわけじゃないな」
箒を片付けたところで、ガタガタと外から音が聞こえた。迎えの馬車が来たようだ。綺麗になったはずの部屋を見回す。
「楽しかったですね。わたくしと違って、クラウス様ならば平民としても過ごせそうだと思いました」
「それは、褒められたと思っていいのか?」
リーゼは俺を見ると、「ふふっ」と笑った。
「帰るか」
「そうしましょうか」
重くて苦しくて、そして愛しい、我が家たる城へ。
俺たちは一度微笑み合うと、扉を開けた。
これでひとまずSSもおしまいです。
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