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蝉時雨  作者: 千早 朔
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最終日

長い長いと思っていたのに、終わってしまえばあっという間だったと感じるのは毎年のこと。

まだ暑いのに、と不満を引きずりながら、大して頭に入ってこない講義を淡々と受けていく。


あれから三週間。

約束した彼のスケッチブックは、まだ届かない。



忘れてる……? いや、そんなまさか。



細かいことも覚えていた彼の性格を考慮すると、ついうっかりという可能性は極めて低い。

だとすると、まだ描き続けているのだろうか。

"ひぐらしさん"の目に映った、沢山の思い出を。



「なにボーっとしてんだ。終わったぞ」


「え、あ、わり……」



隣に座っていた友人に肩をつつかれて捉えた教壇には教授の姿はなく、端までびっしりと使われていたホワイトボードもすっかり綺麗になっている。

しまった、と頭を掻きつつ変に途切れたノート閉じながら、「風邪でもひいたか?」と心配そうに覗きこんでくるソイツに、大丈夫だと肩を竦める。

夏の記憶に思いを馳せていたなんて、とても口には出来ない。



「この後さ、佐々木達と合流すっけど、お前はどーする?」


「あー……今日はやめとく」


「の方がよさそーだな。しっかり寝とけ」


「サンキュ」



ノートは今度見せてやるよと意地悪そうに歯を見せて、鞄を担いだソイツに手を上げ自身も荷物を鞄に押し込める。

体調不良だと捉えられたようだが、今はむしろ好都合だ。

今日は気分が乗らない。それに、早く、帰りたい。


根拠のない一握りの期待を胸に足早に帰路につき、寄り道もせず真っ直ぐに自宅へ向かう。

信号待ちで確認した携帯にも特に連絡は入っていない。

まぁ、仮に何か届いた所で、母さんが連絡をくれる保証もない。



「……ずいぶん減ったなぁ」



ほんの数日前までは、自宅近くの駅では大音量の夏の合唱が響き渡っていた筈だ。

けれどもすっかり晩夏も終盤となった今では、時折寂しく響く程度。


夏が終わる。


実感した頭の片隅で、『もう諦めろ』と声がする。

夏の小さな思い出だと。そう、宥めるように。



「……あ、」



唐突に気がついた事実。



「住所……教えてない」



そう、あの時に聞かれてなどいないし、書き置きを残した訳でもない。

というより、よくよく思い返してみれば、自分の名前すら告げていないじゃないか。



「嘘、だろ」



馬鹿な自分に脱力し、膝から崩れ落ち屈みこむ。

宛先も宛名もわからない人物に荷物を送るなんて不可能だ。


彼もうっかりしていたのだろう。

勢いで「送る」と口にしたが、肝心な部分が抜けている事に気がつかなかったのだ。



いくら待っても来ないワケだ。



頭を抱えて大きな溜息を一つ。

全て吐き切ってから、重たい身体を何とか起こし、引きずるように足を動かす。


手紙でも出そうか。

もう、あの家には居ないか。

もしかしたら、母さんなら何か知っているかもしれない。


グルグルと回る思考。

いつも以上に捻って捻って、僅かでもと可能性を探る。


どうしても諦められなかった。

たった一つだけ残されている、彼との繋がりを。


辿り着いた自宅の門を開閉し、階段を二つ上がる。

玄関に手をかけて、開こうとした瞬間。



「、」



足元に転がる、小さな黒い塊。

よくよく見れば仰向けの、一匹の蝉。



「し、んでるのか……?」



ソロリと近寄ってみても、宙へ放り出された足はどれ一つピクリともしない。

屈みこんでみても同じ。

恐る恐る伸ばした指先でツンとつついてみても、同じ形のまま揺れただけで、やはり反応はない。


今までのオレなら、踏まないように跨ぐだけでそのまま放置していただろう。

けれどもあの日の光景が、脳裏を過って。



「……」



出来るだけ優しく、力を入れないよう摘み上げて掌にそっと乗せる。

枯れ葉のように軽い身体が転げ落ちないよう注意して、壁沿いを回り薄暗い裏へと踏み入れる。


目についた小枝を拾い、湿った土をガツガツと削って作ったのは小さな穴。

ゆっくりと手の内の塊を横たえると、茶色い土の上に緑色がよく映える。

そこでふと、手が止まる。

羽に散りばめられた黒い紋は、どこか見覚えがあるような。



「……気のせいか」



「さよなら」では冷酷だし、「おやすみ」ではキザ過ぎる。

浮かんだのは生を全うした彼へ捧げる慰労の言葉。



「……おつかれさま」



またいつか、と心の中で呟いて、そっと土を被せていく。

静かに眠る彼は事切れる刹那、新しい来世に希望を抱いていたのだろうか。次は別の生物にと、強い願望に苛まれていたのだろうか。

それとももう目覚めたくないと、疲弊しきっていたのだろうか。


再び土に還った今、一体、何を思うのだろう。



「よっ、と」



たいして汚れのない両手をこすりあわせ、立ち上がって玄関へ。

いつも通り軽く発した「ただいま」に、母さんの声が返ってくる。



「早いじゃない、珍しい」



洗濯物を取り込んでいた母さんは覗いたオレの顔をしげしげと観察して、問題ないと判断したのか「手、洗ってらっしゃい」と再び動作を再開する。


荷物を下ろし、洗面所で手洗いうがいをしっかり済ませ、それから台所へ。

コップを取り出そうと近づいた食器棚の足元に、見慣れないダンボール箱を見つける。



「……?」



興味本位で覗きこむと、半分だけ開かれた中にはゴロゴロと詰められた野菜。

婆ちゃんからだったらしい。沢山貰って帰ったというのに、気が済まなかったのだろう。



「……これは?」



閉じられた半分側の上に乗せられた、厚みのある茶封筒。

手にとるとズシリとした覚えのある重みが、記憶を呼び起こす。


まさか。


大きく鳴り響く鼓動を耳で感じながら恐る恐る裏返すと、左下に流暢な書体で『日暮』の文字。



「っ、」



あの人だ。


バクリバクリと騒ご立てる胸にしっかりと抱きしめて、自室へと階段を駆け上がる。

しっかりと閉めた扉に背を預け、緊張に汗ばんだ指先で慎重に開けた封。

顔を覗かせた、見覚えのあるスケッチブック。



「忘れてなかったんだ」



嬉しくて嬉しくて、発した声は殆ど掠れていて。

そっと捲った表紙の二ページ目から、覚えのある景色が広がる。


細かく濃淡の付けられた白黒の鮮やかな風景。

数ページ続いた所で、突如現れた簡素な水筒に思わず笑みが溢れる。

これはあの人の持っていた、何度か手にしたあの水筒だ。



「こんなのも描いてたんだ……」



めくり上げると再び風景画が数枚続き、今度は丸い物体の絵。

そう。オレが渡した、あの時のゼリーだ。



「やっぱり違和感あるって」




あの時の制止に「そんな事ないよ」と笑んでみせたあの人に小さく苦笑を零して。

更にページを捲っていく指先が、現れた一枚に止まる。

白い盤面の上に鎮座した、一匹の蝉。

繊細な造りまで細かく描かれた羽には、散らばり主張する黒い紋。



「……おなじ、だ」



先ほどの既視感の理由は、コレだったんだ。


あの日、あの人が書き留めたこの一匹と、先程埋葬した一匹は同じ種類だったのだろう。

よくよく思い出せば確かにあの時の一匹も、綺麗な緑を持っていた。



「……こっちにも、居たんだな」



オレの記憶が確かなら、此処から先はオレの知らない「あの人の記録」だ。

「全部描いたら送る」と言っていた彼は、一体何を書き留めたかったのだろう。


万華鏡を覗きこむ瞬間のように浮つく心で捲り上げた次のページ。

現れたスケッチに、思わず息を飲み込む。

白い紙面の中で、こちらへ笑みを浮かべていたのは。



「……嘘、だろ」



紛れも無い、オレ自身。

まさか、と捲り上げた次のページには、どこか遠くを見ているオレの後ろ姿。

そしてその次のページにも、次のページにも。

切り取られた『あの時のオレ』が、一枚一枚丁寧に描かれている。



「ど、して」



息が、出来ない。


激しく支配する心臓とせり上がってくる熱い感情で埋め尽くされた胸が苦しくて、薄く開いた唇の間から乾いた呼吸を繰り返す。

彼にとってオレの存在は、偶々会えたちょっと手のかかる、ほんの一夏の思い出なのだと。

オレが抱いた感情は一方的な恋慕で、あの人は、親戚の子供程度にしか思っていないのだと、そう思っていたのに。



「……っ」



再び指先が止まったのは、捲り上げた最後の一枚。

そこに描かれた黒は、封筒と同じく流暢な文字。



『無事、手元に届いたかな。遅くなってごめんね。

 描きたいモノが多すぎて、少し時間がかかったんだ。

 これを見たキミはきっと呆れるんだろうなって、その顔を思い浮かべながら描くのは、とても楽しかったよ。』



「……なんですかソレ」



せっかくの手紙なのに意地悪じゃないかと、つい不満が漏れる。



『キミと出会えたのは本当に偶然で、とてつもない奇跡だったんだ。

 日常の中では絶対に起き得ない、心からの幸福を感じた。

 欲を言うなら、もっともっと、沢山の時間を共有したかった。』



「っ、」



綴られた文字に、ドキリと心臓が跳ねる。

これでは、まるで。

いや、そう思ってしまうのも、都合のいい解釈なのだろう。

けれども僅かな期待に胸を高鳴らせ、追った次の羅列に、息が止まる。



『けれどもそれは、無理な願望なんだ。

 決められた終わりは待ってくれない。例えどんなに足掻こうとも。

 だからこのスケッチブックは、キミに持っていて欲しかった。

 二人で過ごしたあの眩い時間は確かに存在したのだと、どうかキミは覚えていて。』



「ど、いう……コトだよ」



決定的ことは書かれていない。

けれども頭を過るのは、"最期の別れ"のようだと。



『押し付けがましいのはわかってる、でもどうしても、譲れなかった。

 こんなにも此処に未練が出来るなんて、思ってもいなかった。

 でもこれも、とてつもない幸福なんだと、今ならわかるよ。』



「みれん、」



音にした単語に、どんどん鼓動が早くなる。

あんなにも身体中を巡っていた熱が、頭上から一気に冷えていく感覚。



『もう、会えることはないけれど、それでも"もしも"と繰り返してしまうんだ。

 例えカタチは違えども、もう一度、会えたらって。』



「っ!」



衝動に部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。



「母さん!」


「あら、おやつなら冷蔵庫に何か…」


「婆ちゃん家の近くの、丘の上。青い屋根の家に、"日暮"さんって人住んでる!?」



『一目だけでいいんだ、たった一目、その後ろ姿だけでも映すことができたなら。』



オレの勢いに目を丸くしながら、母さんは頬に手を当てて。



「ひぐらしさん? 聞いたことないわねぇー……あのお家には確か室田さんっておばあさんが住んでらしたけど、数年前に娘さんの近くに行かれてから空き家だったと思うけど……」


「え……?」


「娘さんも"室田"だった筈だけど……まぁでも、ご親戚の方とか、お孫さんなら姓が違う可能性もあるんじゃない?」



『そう、強くキミを想いながら、眠りにつくよ。』



「そっか……ありがと」



『執恋に折れた"誰か"が、うっかり叶えてくれるコトを祈って』



そんな、まさか、でも。


可能性が脳を掠める度に、冷えた血液が支配する。

馬鹿げていると、自分でもわかっている。


芯が溶けていく両足を無理やり動かし、震える腕に力を込めて玄関を出て裏庭へ。

フラつく足取りを止めたのは、先程作った小さな山の前。


そこに、眠っているのは。



『さようなら』



「……っ」



視界が霞む。

何一つ理解などしていないのに、この雫は一体何処から込み上げてくるのだろう。

ただひとつだけ、はっきりとしているのは。



『僕が此処で呼んでいたのは、紛れも無く、キミだった。』



「っ……、あいたい……」



止めどなく溢れ落ちる感情が、湿った焦げ茶を黒くする。

会いたい、会いたい、会いたい。

こんなにもたった一つだけを強く強く祈るなんて、初めてで、きっと最後。



「あいたいよ、"ひぐらし"さん」



あなたがあの場で呼んで、呼んで。

だからこそ引き寄せられた出逢いだったというのなら。



「……こんどは、オレが、よび続けますから……っ!」



どんなカタチでもいい。あなたが見つけてくれるなら。

この生命尽きるまで、ずっと、あなたを呼び続けるから。



「また、夏を過ごしましょう。他の季節も、一緒に」



あなたは紛れも無く、オレの唯一でした。



遠くに聞こえる初秋の声。

生まれ故郷で眠る彼は、もう、鳴かない。


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