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「婚約を取り換えた」
目の前に座る婚約者にそう告げられた伯爵令嬢エリン・アヴィッツは、口に運んでいたカップを止めて顔を上げた。
夜空のような瞳が開かれ、気だるげに座る婚約者がその目に写る。
王太子の執務室に流れていた静寂を、研がれた刃で音もなく斬られたような気分になった。
久々に二人で会話する時間を作れたと思ったのに、開口一番の彼の言葉で開いた口が塞がらない。
「婚約を取り換える……?」
「ああ。俺の婚約者である君と、隣国の王子の婚約者を取り換えた」
目の前に座る、今し方元婚約者になった王太子フィッセルは、居心地が悪そうに答えた。自分で決めたくせに、その本人がなぜそんな投げやりな態度かは理解できないが。
エリンは一拍置いて紅茶を飲む。流し込んだ紅茶の後を追うように、その言葉がスッと腹に落ちた。
(この城から解放される……!)
驚きや悲しみ、絶望などという感情よりも、解放感が内側からエリンの心をほぐした。
エリンはフィッセルの婚約者になってから、王城に囚われの身だった。
王城での行動の自由もなく、与えられた王太子妃の部屋の中で過ごす日々。そのせいで人と話すことは滅多になく、日中することといえば部屋から外を眺めるか、当たり障りのない内容の本を読むことだけ。
それに、エリンは彼に愛されていると感じたことはなかった。ただひたすら、エリンが他人と接触するのを嫌っているということを察するくらいに。
本当は別の婚約者でもいるのではないかと探ったこともある。だがそういうわけでもなく、社交の場でもエリンという名前はフィッセルに付き纏っていた。
「……そうですか」
短く息を吐き、言葉を噛みしめるように答えた。
ここから逃げ出したいと何度、思ったことか。
王太子妃として公務を任されたこともなく、かといって好きだった魔法を学ぶことも許されなかった。
ここではフィッセルに縛られ、フィッセルに悩まされ、自尊心や自分が削れていく音をただ聞いているしかなかった。
それが遂に終わりを告げようとしている。
(やっと魔法使いへの道に近づくことができる!)
口から笑いが出そうなのを堪えるために、腹の中を虚無で満たした。
「……どなたと取り換えたのですか?」
「アリシェル・アズモンド嬢だ。お前ならよく知っていると思うが」
フィッセルを目の前にしているのに、口の端が勝手に持ち上がりそうな頬を殺し、それを彼に悟られぬように少し眉を下げる。
「はい。幼い頃からの友人ですから、もちろんです」
アリシェル・アズモンド侯爵令嬢はエリンの幼馴染で、フィッセルと出会う前からの友人だ。
互いの両親の仲は非常に悪く、この国で最も対立する存在として貴族社会では有名である。その子どもたちは親たちの思いとは裏腹に気がよく合ったために、毎日のように会っていた。そのせいか、一部では両家は喧嘩するほど仲がいいと言われているようだ。
今、アリシェルは、隣国の第二王子の下に婚約者として滞在している。簡単に会うことはできないが、文通で毎月やり取りをしている。
「なら彼女の婚約者についても知っているだろう? 今はお前の婚約者だが、名を確か……」
「確か、カーディリア王国第二王子シャルドレイス殿下……と伺っております」
アリシェルの手紙の中に、婚約者がつっけんどんな対応で手も足も出せないと書いてあったのを思い出した。
エリンはその内容を思い出し、あることを考えた。
(彼に嫌われて婚約破棄になれば、遂に自由が手に入るのでは?)
アリシェルはよく喋る。だから彼の情報が書かれた手紙を集めればそれなりにうまくいくかもしれない。
「そうだ……。とにかくお前はその王子の婚約者となる。だからお前の周辺にいた護衛も外すし、お前のすることなすことに口を出さない」
「では今すぐ、新たな王太子妃に部屋を明け渡さなければなりませんね」
エリンは一気に紅茶を飲み干した。
「……理由は気にならないのか?」
「そうですね……。気にならないと言えば嘘になりますが、教えてくださいと言って教えてくださると思えないので結構です」
たとえどんな理由があろうとも、窮屈で苦しかった記憶は消えない。
フィッセルは宰相たちの前では婚約者として振る舞い、誰もいなくなると距離を置かれる。それならばとこちらが深く踏み込もうとすると、一歩後退され距離が縮まることはなかった。
(昔みたいに仲良くできる日を待っていたけど、だめだったし……)
エリンは目を閉じて、ゆっくりと瞼をあげた。
目の前の元婚約者は好青年の皮を脱ぎ捨て、屍のような姿で覇気がなくなっている。自分を常に律していた彼がここまで堕落するには相応の理由があるのだろうが、もう関係のない話だ。
「引き継ぎは……いらないですよね」
「…………いらない」
「では私はこれで」
エリンは立ち上がり、執務室の扉の前へ向かう。
「エリン」
短く、低い声で名前を呼ばれた。
冷え切った声ではなく、熱の籠った声がエリンの耳を撫でた。その声に肩が強張ったが、振り返ることも立ち止まることもせずにドアノブに手をかけた。
「今まで縛り付けて、すまなかった」
「……お世話になりました」
ポツリと消え入るような声でそう呟き、執務室を後にした。
+ + +
エリンは足早に自室へと歩いた。
「やっと夢が叶えられる……。魔法使いになれるんだ」
口元を緩ませ、落ちてきそうな頬を両手で包み込んだ。
自室へ戻るや否や、エリンは机の引き出しから鍵穴付きの小箱を取り出す。鍵を開けて蓋を開けると、封筒付きの手紙が何十枚と重ねて入れられている。
ほんのりと夏の爽やかな森を感じる香りが鼻を抜けた。
「どれどれ」
アリシェルの手紙は、エリンにとって唯一の外との繋がりだったこともあり、大切に保管している。読み返しては懐かしく思ったり、相手の姿を想像したりする。
しかしアリシェルの婚約者については興味がなく、あまり覚えていないのだ。
下にいくほど古いものになり、色褪せ、湿気って手紙がぼこぼこしている。
アリシェルが隣国の王子と婚約したのは二年前。そこからの手紙を探し、手紙を古いものから開封した。
『彫刻みたいな顔の男だった。必要なことしか話さないし、用がある時しか会うことはないと面と向かって言われた。だけど負けるわけにはいかない』
アリシェルはむしろその状況を楽しんでいるように思える。自分に振り向かない相手に対し、あの手この手で懐柔させることがアリシェルの得意技。
それ以降はアリシェルと婚約者の攻防が書かれていた。
『手を握ろうとしても避けられる。女性への免疫がないのかと思ったけど、それも違う……。彼は義務感でわたくしと会っているみたい』
ふと、別に愛する女性がいるのではないだろうか、という言葉が口から溢れそうになった。
『彼からの初めての贈り物。なんだと思う? まさかの……首輪』
首輪はアリシェルの居場所を把握するものらしい。
(ある意味愛されてる?)
『面白い物がないかなと思って部屋に侵入してみたの。そしたら棚に薬が沢山。しばらくして血相を変えた側近が来て、黙っているように言われたの。でも怖いからエリンにも共有』
この文だけでアリシェルがどれほど怒られたかが分かる。
(安易に他人の、ましてや王族の個人的な空間に勝手に入るのは時期尚早だったね。とにかく、個人的な問題に触れるのは避けたい)
こんな手紙があったとは、案外適当に読んでいたのかもしれない。この手紙は燃やすことに決めた。王族の弱点を知った人物が、王族の監視下から逃げられるわけがない。
エリンは一番最近の手紙を手に取る。
『初めて彼が笑った。まぁ、わたくしに向けてではなかったけれど、最後の土産としていいものを見たわ』
(じゃあ誰に? ……でも婚約者に対して興味がないみたい)
これを読み、エリンはシャルドレイスという人物は、婚約者は婚約者の域を出ないものであって、それ以外の感情を持たない人間なのだと推測した。
本来なら情が湧いたりするのが普通だ。だが、彼のその態度はエリンにとって好都合だった。
(嫌われるのは簡単そうね)
手紙を読み漁る理由は一つ。
婚約破棄のために新たな婚約者に嫌われるという目標のため。
そして、夢に向かって走るためだ。
「初対面での印象が大事。私も冷たくあしらおうかしら」
手紙は束ねて暖炉へと放り込んだ。火の粉が舞い、水分の弾ける音が部屋に響く。エリンは燃え盛る手紙を見つめながら、拳を握った。
貴族と魔法使いが結婚することは許されていない。そう教えられ、魔法を禁止された時はフィッセルと共に過ごせるならと我慢してきた。
だがもうその婚約は破棄された。
隣国も、きっと魔法使いは同じ扱いなのだろう。貴族の足に踏みつけられ、普通の人と対等に生きることはできないに違いない。
(そんなのもううんざりよ)
絶対に嫌われて、婚約破棄してもらわなければならない。
「頑張って嫌われるわよ!」
エリンは拳を天高く突き上げ、声高々に宣言した。




