第五章 キムチと餃子は裏切らない~東信漬物と夢見亭 11
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家に帰ると、私は今日も、三人分のお茶を淹れた。湯呑とスープ皿を配りながら、
「でも、犬若。もし今日も蝦蟇が出てこなかったら、どうするつもりだったの?」
と尋ねる。
「む。その時は、多少強引にでもやるつもりだった。ただ、勝算はあったぞ。この間の俺と母親の邂逅で、蝦蟇の方も己の存在を俺に悟られたと思っていれば、焦って母親の精神への侵攻を早めるだろうからな。そうして息子を追いやって、勝ち名乗りを上げたところに最大の隙ができる。そうでもなければ、へばりついた蝦蟇なんぞそうそう落とせん」
お姉ちゃんが「そんなにしつこいんだ」と肩を震わせた。
「蝦蟇の毒は皮膚からにじんで、徐々に浸透する。耳腺から出るやつは、人間には心の臓に効く薬にもなるとはいえ――蟾酥のことだが――、扱いづらいのは確かだからな」
「せんそ?」と私とお姉ちゃんが同時に聞いた。
「そう、あの蟾酥だ。固めて割ってある分には、蛙から出てきたものとは思えんよな」
犬若が当然のように言い、かっかっと軽く笑う。それに対して、お姉ちゃんがぽかんとしながら言った。
「ごめん、私も小花も、多分そんなの聞いたこともないけど……」
「なに?」
犬若が真顔になって、私たちを交互に見る。本気で驚いているようだ。首の後ろの毛が震えている。
「知らないのか? あんな高名な生薬を? お前たち、幼少の頃から十年以上もかけて人の世の学を修めたのだろう?」
私は人差し指で頬をかきながら答える。
「そんな大げさなものでもないけど、……少なくとも蛙の耳から出る分泌物については、明るくないかな」
「ぐ。小花はまだ分かるとして……さちもなのか?」と、巨大な犬妖はすがるような目をする。
「どうして私の無知は納得がいくのよ!?」
私の叫びを聞き流して、犬若がふるふると頭を横に揺らした。
「まあ、確かに、小花は食い物の専門家の道を歩いているのだったな……生薬などには多少疎くとも、詮なきことか。俺も人間の食い物について多少の見聞を得たのは割合最近だしな。新八郎の好物に田鶏などという呼び方があると知ったのも、先の大戦の後だ。小花は知っているのだろ?」
「でんちー? 何それおいしいの?」私は苦しい笑顔を張り付け、首をかしげて聞き返す。
犬若が、口を半開きにして固まり、ややあってから、こほんと咳払いして私に告げた。
「頭にトサカと呼ばれる赤い突起を持つ鳥で、二本の足と一対の翼を持ち、朝などにはよくコケコッコーと鳴く生物がいる。ニワトリと呼称されるのだがな」
「うん、親切なのかばかにされてるのか掴み辛い」
「田鶏というだけあって、そいつと似たような食い物だ。味は、な」
「なんでそう引っかかる言い方を……」
「考えてみれば、今のお前たちが食う必要があるかと言えば、好き好んで口に入れんでもいいものかもな。仮に俺がその辺の畔で仕入れてきても、お前たちは喜ぶまい」
「何だかまた不穏当なこと言ってる気がするけど……その辺の畔で取れるものって何よぅ」
「思い返せば、新八郎などは食欲と好奇心に富んでいて、なんでも自分で試し食いするたちだったな。それがためにわけの分からんものもよく口に入れていた。食い物が豊富な時代の女性であるお前たちが、あんな悪ガキと同じ感覚のわけがない」
お姉ちゃんが――会ったこともない犬若の最初の飼い主を思い浮かべているのだろう――伏せ目がちに聞く。
「どんなものを食べてたの、新八郎さんて。聞きたいな」
「そうさな。たとえば、近所の生け垣もあいつから見れば八百屋と変わらなかった。ひとつひとつにかじりついてな。椿の葉は容易に噛み切れず味悪し、朝顔の葉は尋常でなく辛いらしい」
全然しんみりとできない例を挙げられた私たちが反応に困っていると、玄関の方から物音が聞こえた。
小さいけれど、ノックだ。
「私出るね」とお姉ちゃんが立ち上がり、私と、犬若ものっそりと後に続く。
「どなたですか?」
お姉ちゃんが、除き穴から外を見て聞いた。けれど、返事がない。
「あれ、誰もいない。いたずらかな」
そうつぶやくお姉ちゃんのすぐ脇に、犬若が立った。
「いいや。いる。開けてやれ」
犬若に促され、お姉ちゃんがドアノブを回し、押し開ける。
その僅かな隙間から、黒っぽい影がするりと家の中に入って来た。
私とお姉ちゃんは、揃って「えっ?」と叫ぶ。たたらを踏んで、危うく転ぶところだった。
犬若だけが、落ち着いてその影を呼んだ。
「あの小僧から離れていていいのか。ジライヤとやら」
それは、さっき別れたばかりのかまいたちだった。




