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ひとまずのエピローグ

この作品は、私が以前から敬意を抱いていた事務の皆さんへの感謝を込めて書いたものです。

あまり「事務って素晴らしい!」と持ち上げすぎるのもどうかとは思うものの、そのありがたさと素晴らしさが、少しでも伝われば幸甚です。

それでは、ひとまずのエピローグまでお付き合いください。


2019年1月吉日

澤ノ倉クナリ 拝

 お風呂上がりに、私は自分の部屋でベッドにひっくり返った

「何だか、濃い日だったな……」

「全くだな」

「だからなぜいる!」

 ドアの前に鎮座した犬若の顔に、私はハンドタオルを投げつけた。

「今日は目に見えて成果があったな。この日が来るのを、待ちわびたぞ」

「うん。それは、私も」

  ベッドの上で、私は膝を抱き寄せた。

「犬若が犬だった頃の話も少し聞けたし」

「む。面白いか、そんなものが?」

「ね、新八郎さんてどんな人だったの?」

「そうだな、新しいもの好きで節操がなかったな。そのお陰でよく痛い目も見た」

 犬若が部屋の天井を見上げながら、ぽつぽつと言った。

「うまい食い物が好きで、おれも奴から影響を受けたかもしれん。奴が親父から継いだのは乾物屋だったが、魚やら生鮮物を扱いだしてからは随分流行らせた」

「チャレンジ精神のある人だったんだね」

「ああ。何とかいう、中世の型破りな兵法家を尊敬していたからな。俺の犬若という名も、その兵法家の幼名をもじったらしい」

 兵法家。誰だろうと考えてみたけれど、私はただでさえ日本史があまり得意ではないので、幼名で、しかももじられていては元ネタとなった人物は分からない。

「だもんだから、自分が店を継いだ時に屋号も改めて、そいつの名から店名を付けていた。確か、九郎屋と言ったかな」

「クロウさんていう有名人かあ……やっぱり分かんないな」

「その後代替わりして、時代の流れと共に店の名も拠点も(うつ)ろっていったようだ。おれも新八郎が死んだ後にその土地を離れ、やがて妖怪になったので、店の最後までは見届けていない。今なおどこかで続いているかもな」

「そっか。今もあるといいね」

「む。流れてこその時代ではあるが、そうした感傷は否めんな。人の寿命は定められている。これまでに見知った人間たちも、皆おれよりも先に死んでいった」

 そうなのだ。

 この頃、特に考える。

 私もお姉ちゃんも、小学生の時に犬若に出会い、今は成人した。でも犬若は、あの頃のまま、年老いた感じもしない。

「小花。実はおれはな、お前たちと出会った頃、人間に愛想を尽かしそうになっていた」

「え?」

 私は驚いて犬若を見た。

 伏せ目がちになった双眸には、いつもの悪戯めいた様子はない。

「新八郎といるのはよかった。野を駆けた餓鬼の時分から、商いで奔走するまで、せわしなくも楽しかった。あいつの口癖は、『人は腹がいっぱいなら喧嘩も戦もしない』だった。そうして食い物を仕入れ、売り続けるあいつを信じた」

 単純だけどそうかも、と私は思った。

 お腹が常に膨らんでいれば、人は他人と争おうとはしないかもしれない。

「新八郎がこの世を去り、おれは流浪の身になった。やがて――やがてこの国は内乱を経て大陸と戦をし、そして敗れた。食うもののない時代が続いたが、やがて国中に奮起する者共が現れ、目ざましく復興し、この数十年、少なくとも津々浦々において『食い物がない』ということはなくなった」

「飽食の時代、ってやつだね」

 私は、スーパーやコンビニに食べ物が溢れ、余っては廃棄される時代に生まれてきた。

 それはどれほど幸せなことだろう。

 でも、その時代を語る犬若の目は暗い。

「おれは喜んだ。これで、新八郎の言っていた、喧嘩も戦もない世になると。しかし違った。確かに武力による争いは影を潜めたが、昭和と呼ばれる豊かな時代――好景気というのだったな――も、誰かが誰かを踏みにじっていた。あの頃におれの姿が見え、幾ばくか仲のよくなった人間は、皆、悪い人間というわけではない。しかし、やれ誰それの弱みを握って来られんか、あの書類を覗いてくれないか、その密会を盗み見て来てくれんか、頼む、頼む、後生だ。そんなことばかりで、夜中には味のしない飯を食い、酒をあおって、家族を持っても、一人で泣く。仕方ない、仕方ないと言いながらだ」

 遠くを見るような犬若の目は、泣いてこそいなかったけれど、震えていた。

 今、瞳の中には、その頃出会ったひとりひとりの顔が浮かんでいる。それが見えるような気がした。

「お前とさちを助けたのは、人間への最後の親切のつもりだったのだ。それを最後に、おれはもう現世からは消えてしまってもよかった。しのびないと言うか、人の世がどうにも虚しかったよ」

「そうだったんだ……。私たちが子供だったから、助けてくれたの?」

「いや、人間の年齢や性別は、おれにはあまり関係ないのでな。本当に偶然だ。ただそれがたまたま、他ならぬお前とさちだったというだけだ」

 そこまで言って犬若は初めて、口の端をくいと持ち上げて笑った。

「おれは、ずっと帰りたかったんだ。だが、どこへ帰ればいいのかを忘れてしまった。新八郎はもういない。九郎屋ももうない。かつて(たな)のあった場所に戻ったところで、意味はない。だから、本当に久し振りだった――誰かと共に、家の(ひさし)の下で眠るのは」

 初めて犬若を、この家に迎え入れた時のことを思い出す。

 あの時は、私もお姉ちゃんも、そうするべきだとごく自然に思った。

 この犬妖と、助けたり助けられたりしながら生きていくのは、私たちにとって必要なことなのだと、いつの間にか分かっていた。

 犬若がこれまでに過ごしてきた、長い時間のことを考える。

 どれだけ出会い、別れてきたんだろう。

 この、人間のように考え、思い、傷ついてしまう心を持って。

「そうだよ。犬若、私たちの家族だもんね」

「そういうことだ。決してただ飯食らいの野良犬ではないことを、よく分かっておけ」

 犬若がうんうんとうなずく。

 ……それが言いたかっただけじゃないだろうな、と私は胸中でつぶやいた。

「ともあれ、早まって現世から消えんで正解だったのは確かだ。ゲームとかいういい玩具もあることだしな」

「え、犬若ゲームなんてするの?」

「さちが貸してくれたものを、あいつの仕事中などに少々な。おれの前足では俊敏な操作が要るものは不向きだから、主にRPGだ。別世界を散策しているようで、なかなか面白い」

 知らなかった。

 話を聞く限り、お姉ちゃんが原稿の執筆中、邪魔をしないように時間を潰しているということなのだろう。

 スマートフォンやパソコンはお姉ちゃんが仕事に使うので、空いているテレビを有効活用しているのだ。

「しかしなぜゲームでは、雷の魔法が風属性だったりするのだろうな。風か? あれ」

「魔法とか属性とか、そもそもRPGとかの用語を犬若が口にするの、斬新……」

 聞いてみると、かなり有名なタイトルをいくつかクリアしているらしい。

「でも、なんで犬若にRPGなんだろ。パズルとかシミュレーションとかなら長く遊べそうなのに」

「RPGはだめなのか?」

「だめではないけど、今聞いたタイトルだと大抵シナリオも一本道だし、話が終わったらそれ以上先がないっていうのも多いから」

「確かに、終わり際がうら寂しいということはあるな。登場人物の名前をおれやら小花やらさち、新八郎にしているから尚更だ」

「そこで本名プレイなんだ……」

「他に適当な名前も浮かばんのでな」

 まあ、犬若ならそうかもしれない。

「旅行きを終わらせたくなくて、昔訪れた町を再訪したりというのは、ついついよくやるぞ」

「あ、それは私も分かるかも……」 

 苦笑しながらそう言いかけて、ようやく私は思い至った。

 なぜお姉ちゃんが、犬若にRPGを勧めたのか。

 私よりも犬若と一緒に過ごす時間が多いお姉ちゃんは、犬若の孤独と、過去の苦悩にずっと前から気づいていたのかもしれない。

 大抵のRPG、それも有名タイトルとなれば、ハッピーエンドのものが多い。

 これまで、たくさんの人間たちと触れ合う中で、特に最近になるほど辛い思いをしてきた様子の犬若に、擬似的にでも楽しい旅をさせてあげたかったんじゃないだろうか。

 いつかはエンディングという別れが来る。でもその時には、犬若にはやっぱり笑顔でいて欲しい。

 私たちや昔の飼い主と同じ名前のキャラクターと過ごした旅の終わりは、笑って迎えて欲しい。

 お姉ちゃんのそんな願いが、犬若に勧めたタイトルから伝わってくるように思えた。

「どうした?」

「ううん、なんでもない。お姉ちゃん、早く完全によくなるといいね」

「? ああ、そうだな?」

 込み上げる気持ちににんまりとしてしてしまう私を訝しげに見つつ、犬若も少し笑った。

「おれにできることは多くはないが、それでもやれることは全てやるつもりだ。例えば、さちの腹モフくらいは甘んじて受けよう」

 また私の知らない話がでてきた。

「……腹モフって何?」

「なんだ、小花は知らんのか。おれは背中の毛より腹の方が柔らかいのだが。その腹に、さちが頭というか上半身をこう、まるごと埋もれるような具合で抱きついてきてだな、その上で幼児のような語調になって――」

 その瞬間、弾けるようにドアが開いた。

「犬若ッ!」

「うわっ!? お姉ちゃん!?」

 そこには、私の後にお風呂に入っていたお姉ちゃんが、湯上りのほこほこと上気した顔で立っている。

 いや、その赤面振りはお風呂のせいだけとは思えないほどだったけど。

「小花に、シャンプーの買い置きなくなったから明日買ってくるねって言いに来たら、そんなトップシークレットを開陳しているなんて……!」

「トップなんかい。……あのさ、お姉ちゃん」

「……はい」

「いつだったか、お姉ちゃんがいつでも部屋に入っていいよって言ってくれたけど」

「……ええ」

「一応、ノックはしてから入るようにするね」

「ありがとうございます……」 

 半眼になった私と、濡れた頭をがっくりと落としたお姉ちゃんの傍らで、犬若だけがきょとんとしていた。



「小花ちゃんっ! そっちどう!?」

「も、もう少しです……はいっ、大丈夫行けます!」

 そんな私たちの応答を縫って、また別の声が飛んでくる。

「鬼無里さん、こっちのデータ変です!」

「変って何が!?」

「何かがです!」

「それじゃ分からないでしょうが! 小花ちゃんごめん、向こう見てあげられる!?」

「もう少し待ってもらえますか!」

「もう少しって何分!?」

「い、1分半もあれば!」

「お願い!」

 七月。

 相変わらず、デイリー課の電算室では必死の叫びが響いている。

 それでも、今はまだいい。

 八月になってお盆を迎えると、特殊な商材や変則的なスケジュールによって、普段よりも更に業務が大変になることを昨年既に私は思い知らされている。

 まだ考えたくもないけれど、年末となると文字通りの地獄と化すのも、デイリー課の宿命だった。

 でも、勝手も分からず右往左往していた去年とは違う。

 色んなことを知って、できるようになって行くのだ。

 今までも、これからも。

 

 午後の仕事が本格的に始まる前の数分間は、デイリーの事務にも弛緩した時間が流れる。

 デスクに座っていると、鬼無里さんが紙カップのコーヒーを置いてくれた。

「ありがとうございます」

「いいえ。そういえば、今度また営業会議ね」

 何だかんだと、私たち事務を加えた会議は一定の成果を出していると、社内でも評価されているらしかった。

「認められているって思うと、我ながら単純ですけど、やる気が出ますね」

 鬼無里さんが、そっと耳打ちしてくる。

「そうね。これが手当という形に昇華されるまで、頑張るわ」

 私も小声で返した。

「そんなこと、あるんですか……?」

「一応検討はされてるみたいよ」

「その辺、うちの支店て理解がありますよね」

「ちょっと前までなら考えられないけどね。私から見たって、どうしようもない管理職ばっかりだったし」

 鬼無里さんが、ごく小さい声のままで肩をすくめた。

「そうなんですか……」

「性格と能力は比例しないって言うじゃない? でも、肩書きと能力も比例はしないのよ。仕事できなくて性格も悪くても、上の見る目のなさと少々の運が揃えば、肩書きなんて転がり込んでくるもの。そうすると人格も能力もある人は、愛想つかして辞めちゃうでしょ。それで上層部に無能で嫌な奴が集まれば、会社なんて簡単にだめになるんだから」

 随分と実感がこもっている。

「見てきたようですね……」

「見てきたのよ。今の支店長が来るまでね」

 ふと支店長の席に目が行くと、支店長と課長たちが集まって何か話していた。

 真剣な話をしているのだろうけど、空気は柔らかい。前向きな活気があった。

「でも、管理職は管理職で、ここは従業員に恵まれてるのよ。小花ちゃんや私たちが事務にいる限り、縁の下から腐ることはないもの」

「わ、私はそんなたいそれたものじゃないですけど。でも結局、人ってことですよね。会社っていうか、社会のどこでも。家の中でも、時々、そう思います」

「そうね。私、小花ちゃんのご家族には会ったことないけど、いい人たちなんだろうなって思うわよ。小花ちゃん見てて」

 声のトーンが普段通りになった鬼無里さんの後ろで、どこかのんびりしていた職員たちの動きが、次第に慌ただしさを増してきた。

「さ、そろそろ午後用の気合い入れないとね……って、小花ちゃん、何にやけてるの」

「に、にやけてませんっ」

 私は自分の頬を両手で挟んで、ぱしぱしと叩いた。

 そして、本格的に業務が再開する。

 事務は、会社のため、お客のため、今日も忙しいのだ。

 

 昼休みに、お母さんからメッセージが届いていた。

 今週末、久し振りの帰宅らしい。

 その日の夕飯は何にしよう。

 冷凍のラザニアがあったな。何か合わせられるものがないか、買い物の時に見ておかなくては。

 

 お母さんには、いまだに犬若が見えないし、なかなかその存在を教えてあげる機会もない。

 でも、いつか聞かせてあげたい。

 お姉ちゃんと一緒に思うがまま口に出してくる、あの、妖怪らしからぬ食レポを。


 そういえば、腹モフなるものについて聞いたあの夜、その後に、もう一度、私たちが出会った時の話になった。

「あの時の握り飯は、忘れもせん。久方振りに、味のあるものを食った気がした」

 感慨深そうに、天井すれすれで天を仰ぐ犬若を尻目に。

「……お姉ちゃん、あのおにぎりって中身何だったか覚えてる?」

「えッ……ごめん、慌てて買ったから、あんまりよくは……なんだっけ……」

 私たちは二人で顔を見合わせ、面目ない思いで、えへへと笑った。

 犬若が半目で、私たちを見降ろしてくる。

「ほお。覚えとらんか。我々の、記念すべき日の飯の味を」

「す……すみません……」

 声を合わせてうなだれる私たちに、犬若が笑いかけた。

「冗談だ。そんなものだろう、日々の膳を共に囲む仲というのは」


 そう。そんな日常。

 私と、私の家族との、当たり前のような食卓。

 それは今のところはまだ今日も、当たり前のように続いている。


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