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第2話 民宿・夕焼けの家

ざぁっ……


ざぁっ……


木造の古い建物はそこかしこに隙間があるせいか、朝陽以外でも目が覚めるらしい。遮光性の無いシンプルな白いカーテンを通して、早朝のレモン色の柔らかい陽射しがベッドに横たわる雫に降り注いでいた。


右手を伸ばして、手のひらを裏、表と返す。規則正しく引き寄せては返す波が、耳に心地良い。


 やっぱり生きてる。


事故に遭ったあと、次に気が付いたのはこの夕陽が浜の砂の上だった。


軋むベッドから体を起こす。昨日、砂浜で目が覚めると、目の前にはどっしりとした入道雲がそびえ立つ静穏な碧海が広がっていた。


古い木造二階建ての民宿が目に入った時は、息が止まりそうになった。


玄関の上に掲げられた木の板に、長い年月で色褪せたペンキで書かれた〈夕焼けの家〉は祖父の営む民宿兼自宅だ。


誰も居ないがらんとした民宿は、家具などはそのままになっており、不思議な事に布団などは洗って綺麗に畳まれた状態で仕舞われていた。


足を踏み入れた途端に感じた懐かしい匂い。海風の匂いと相まって、無意識に涙が雫の頬を伝った。


そして何よりも驚いたのは、二階の寝室であるこの部屋の全身鏡に映った自身の姿だ。


奇妙なことに十二歳だったはずの雫は、すっかり大人の女性の姿になっている。二十歳くらいだろうか。   


ぼさぼさのショートカットだった髪も、さらりとした胸下くらいの長さ。


同級生の中でも低かった身長も随分と伸びていて、突然の目線の変化に驚いた。


一段ごとに響くミシッという音と共に、一階に降りる。真正面は玄関へと続く廊下。その廊下の左手には、十畳と六畳の和室。


階段を降りて右に行くと、裏山に面した小さな庭に出られる縁側がある。大きなガラス戸をあけると、早起きの蝉たちのシャンシャンと喚く声がなだれ込んできた。


すぐ隣は居間となっており、間の襖が取り払われた二部屋分の広い和室があった。大きな障子の窓を開け、一気に流れ込む海風に大きく深呼吸する。


祖父がくれた命の時間は約一年。


「ほんと。信じられないけど……」


穏やかなきらめく海の向こうに祖父を想い、瞳を閉じた。



「ごちそうさまでした」


広い和室に置かれた大きな円卓にぽつんと座り、白菜漬けとごはん、お麩の味噌汁という簡素な朝食を終え、窓から見える薄青い空に昇る太陽に目を細めた。


自分で用意したものと言えど、きちんとした朝ごはんを食べられることが幸せで仕方ない。


穏やかな時間。もう不安に思う必要も、何かに怯える必要もないのだ。


まるで羊が昼寝でもしながらこちらに背をむけているかのように、のんびりと浮かぶ丸い雲たちが、ここでの時間の流れを更に緩やかに感じさせる。


空いた茶碗をお盆に乗せて台所に運ぶ。


祖父や宿泊客に長年踏みしめられたこの家の床は、歩く度に軋む音が響く。


台所のそれは一段と酷く、踏むとふかふかとたわむ場所まである。


だが、そんな事すら愛おしい。祖父がここに居た事実。ここで沢山の人たちと日々過ごしていた事実。


そんな沢山の痕跡を感じているようで、一人でも不思議と寂しく感じないのだ。


一枚一枚丁寧に洗った皿を銀の水切りラックに入れていく。布巾で水滴をふき取り、背後にある大きな横幅の広い食器棚に片付けた。


台所の隅にある小さな丸椅子に座り、天上を仰ぎ見て息を吐く。少しツンとした木の匂いが懐かしい。


「あれ?」


台所の入り口の柱に黒いマジックで描かれている文字と絵。


『まさきにいちゃん しずく 2012年9月3日』


つたない子供の文字で(ち の文字も左右反転している)書かれたその下には、サーフボードを持った男の子と、


ショートカットヘアの女の子の絵が描いてある。


居間に掛けられた日めくりカレンダーは2020年7月20日だ。


事故に遭ったのは2019年の9月3日。まさかこの日付が雫の命日になるなんてと、奇妙な気分で柱の文字を撫でる。


事故で死んでから一年しか経っていないのに見た目は二十歳。心と見た目がまだしっくり合わなくて、なんとも気持ちが悪い。


サーフボードを手に、きりりとした眉で描かれたまさき兄ちゃんは、この夕陽が浜の海で溺れている所を雫が見つけたのが最初の出会いだった。


「まさき、にいちゃん」


この民宿で過ごした日々。懐かしさと、もう戻る事の出来ない日々の想い出に、胸がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。




* * *


「あー。ほんともう死んだかと思ったね」


さっきまで青い顔で倒れていた人が、今は目の前でスイカにかぶりついて、人懐こい顔で笑っている。


「お前、泳がれへんのか」


縁側に座っている男の子に麦茶の入ったグラスを差し出し、祖父もあぐらをかいた。


「いやいや、泳げるんすよ。脳みその中ではバッチリ泳げてるんすけど、身体が俺の完璧なシミュレーションに着いてこれないんっす」


へらへらと笑う男の子を、祖父は呆れた様子で見ていた。十七歳だという彼は、居間の隅で様子を伺っていた雫に気付くと、おいでと手招きした。


「まさきで良いよ。友達も皆そう呼ぶから」


「じゃあ……まさき兄ちゃん」


まさき兄ちゃんは「やべぇ!妹が出来たみたいでテンション上がる!」と、足をじたばたしてはしゃいでいた。


助けてくれたお礼にと民宿の掃除を夕方までやっていたお兄ちゃんは「しばらくこっちの家にいるからまた遊びに来るわ」と、頭をわしゃわしゃと撫でて帰って行った。


* * *



五歳の雫が描いたまさき兄ちゃんの絵に触れてハッとする。台所の勝手口の向こうから足音がするのだ。


かさっ かさっ


猫?ぴたりと音が止んだと思うと、流しの前にある大きな曇りガラスの窓に人の頭らしき影が見え、こちらの様子を伺うようにじっと動かなくなった。


かと思うと、窓に手を掛けられ、柱の前で腰を抜かしたまま「ひゃっ!」と悲鳴を漏らす。鍵が開きっぱなしだ。


泥棒だったらどうしよう。そんな考えが過ると心臓が暴れる。胸を手で押さえつつ、柱の陰に身を隠して息を凝らす。


窓がそっと開く音がした。ガタンと、窓の近くに置いていた新品の台所用洗剤が流しの中に落下する音に、思わず肩をすくめる。


「あれ?」


台所の窓から侵入してきた誰かが、隠れていた雫を覗き込んだ。


「誰?」


日に焼けた肌に明るい茶髪をクリップでアップにした女性の耳には、大きな輪っかの金色のピアスが光る。体を縮こませていた雫に、くりくりの目を向けていた。


「えっと……」


「お客さん?な訳ないよなぁ。ま、変なおっさんじゃなかったから良いや。私は渚。もしかして昨日からここにおった?」


差し出された手を握り返す。ひょいと引っ張られるようにして立ち上がった雫は、まじまじと視線を向けて来る渚から顔を逸らしてしまう。


「は、はい。昨日のお昼からここに来て。おじいちゃんの家だから」


すると「ってことはジュンさんの孫?例の雫ちゃんか!」と、民宿に響き渡りそうな程の声で叫んだ。


「あれ。でも、雫ちゃんってまだ小学生くらいじゃなかった?それともめちゃくちゃ発育の良い子供って事?」


混乱している渚に、ここに来た経緯を一から話すことにした。こんなおかしな話を信じて貰えるとは思えなかったが、事故に遭ったところから話している間も、真剣な眼差しで聞いてくれていたことに、内心ほっとしていたのだった。


「事実は小説より奇なりってね」


眉間にしわを寄せながら、腕を組んで頷く。


「にわかに信じがたい事ではあるが、雫ちゃんがこの姿でここに居るという事。そして君の瞳は嘘を吐いていない」


そんな芝居口調の渚はとても整った顔立ちで、同性の私でも、見つめられると少し恥ずかしい。


「目は心の鏡である」


派手な見た目からはかけ離れた物言いに、無意識に頬が緩む。


「あ。今、ちょっと鼻で笑った?笑ったよね!ジュンさんにそっくりやったよ。初対面のくせにー」


祖父に似ているという言葉にどきりとしたその時。玄関のカギをがちゃがちゃと回す音と、建付けの悪い引き戸が力任せに開けられる音に渚が声を上げた。


「海里や」


「わっ。ちょっ、ちょっと!」


ぐいっと急に腕を引かれて玄関に連れて行かれた。そこに居たのは、雫よりもずっと背が高く、渚よりもしっかり日に焼けた肌のガタイの良い男性。


「渚、家に鍵置きっぱなしだったぞ。どこから入ったんだよ。あれ、誰?」


雫を見るや否や顔を近づけてくる男性に、思わずたじろぐ。


「嘘だろ。もしかして、雫か?あれ、でもこんなにでかくなる年齢だったか?」


「ぴんぽーん!海里恐るべし!バカの嗅覚は、相手が誰かすら見分けるのもお早い」


「お前、人の事バカバカ言いすぎなんだよ。っつーか、本当に雫?なんでここに居るんだよ。母さんは?ってか、びっくりするくらい成長してんじゃん」


「げっ。海里へんたーい!」


渚は迫り来る海里を強引に引き離す。兄妹?幼馴染だろうか。


ただの友達ではなさそうな間柄の二人は、とても眩しく羨ましいものに思えて仕方なかった。


「嘘だろ」


居間の円卓を囲んで海里にもここに来た経緯を話すと、みるみる落ち込んでしまった。


頭を抱えて俯いたまま、ため息をついたり呻いたり。


蝉の鳴き声。流れてくる風に縁側の風鈴がリンと鳴る。重い空気が雫達を包んでいた。


「事故で死んじまったってさぁ。ジュンさんに顔向けできねぇよ。約束果たせなかったって事じゃん」


「でもほら、ジュンさんがここに雫ちゃんを連れてきてくれたんやろ。凄いよ、ジュンさん。ほんまに雫ちゃんの事、心配で仕方なかったんよ」


ねぇ、と渚に同意を求めるように笑顔を向けられ、黙って頷くしかできなかった。


二人には条件付きでここに来たことは話していない。


来年の九月三日までの期限付きで与えられた命だという事。なんとなくそんな暗い話は今の二人の様子では言い出せなかった。


「約束って何ですか?」


思い切って尋ねると、海里は力なく答えた。


「雫をあのクソみたいな親から引き離してこっちに連れて来るって約束だよ。ジュンさんと死に際に約束したんだ」


「クソみたいって、あんたなぁ」


「何だよ。間違っちゃいねぇだろ。娘の事、彼氏と一緒になって何やってたか聞いてただろ。子供ほったらかして、ろくに飯も食わせてやってないかもって話だったじゃねぇか。事実だったとしたら虐待だろうが」


その言葉は、身体の奥深くに眠る黒い部分を鷲掴みにされるような強烈なもので、吐き気がするような記憶を抑え込むように、ぎゅっと膝の上で拳を握った。


「いい加減にしいや。本人の前でそんな言い方せんでも良いやろ。そんな人でも、雫ちゃんにとってはお母さんなんやで。そういう無神経な言葉が思い出したくもない記憶をえぐる事だってあるんやから。二十五にもなったんやから、ちょっとは人の気持ちも考えやっ」


パシンッと海里の頭を思い切りはたく。


「あの……」


険悪の空気を割って入るように口を開いた雫に、二人の視線が注がれる。


「お二人とお爺ちゃんって、どういう関係なんですか?」


釣鐘型の南部鉄でできた風鈴がリンと揺れていた。




 * * *


深い夜の海は、のっぺりと凪いでいた。灯りの無い海辺の漆黒の空には、光の輪を伴った月がぼうっと見下ろしている。左手の防波堤の先端に見える灯台の光が、遠くの海を真っ直ぐに照らしていた。


煙草に火を点けて、白い煙を夜空に吐く。体の奥深くにある重いわだかまりを吐き出すように。だが、そんなものはそう簡単には抜けてくれる訳もなく、かえって虚しい思いが心の中にずしりと落ちるのを感じた。


「なんや海里。また来たんか」


浅黒い肌に、随分と着古した紺の甚平。ボロボロの草履を履いた男が隣に胡坐をかく。


ジュンさんは、今年で七十三歳になる。歳の割には筋肉の付きは良くて、一般的に見るこの年齢の人達より若々しいのは、この浜辺の民宿をたった一人で切り盛りしてきたからだろうか。


「最近よう来てるやろ」


「知ってたのかよ」


「いちいち話しかける程ヒマやないわ」


無表情のまま、興味があるのか無いのかいまいち読めないジュンさんのそっけない言い方は、昔から海里にとっては不快なものでは無かった。


事情を根掘り葉掘り聞いてくるでもなく、それでいて関わりを絶とうとするわけでもない。この距離感で接してくれる事は寧ろ心地よかった。


ただ、なんとなく癪に障るのでそんな事はいちいち口にはしない。


「喧嘩でもしたんか」


抑揚の無い口調で、海を見つめる。


「うるせぇ。別に負けたとかじゃねーよ」


本当は今まで入っていた暴走族から抜けてきたのだ。ジュンさんは、ふんと鼻で笑って立ち上がり、ポケットから出した携帯灰皿を海里に放り投げた。


「ポイ捨てすんなよ」


そう言い捨てて、ジュンさんは民宿の方へと歩いて行った。なんだよ。相変わらず愛想のねぇじじいだな。そんな悪態を乗せたため息を漏らした。


「はよ来い」


「は?」


「風呂入れや。そんな汚い体で帰ったら、渚ちゃんにどやされるぞ」


ジュンさんは民宿のドアを大きく開いたままサンダルを脱ぐ。


「……おう」


煙草を灰皿に押し付け、尻に付いたさらりとした砂を乱暴に手で払ってから、後を追うように民宿へと向かった。

 


風呂からあがり、用意してくれていた甚兵衛に着替える。


着古されたくたくたの甚平が初めてとは思えない程に肌に馴染む。


二部屋ある和室の真ん中の襖を取り払った広い居間。ガラス戸が開け放たれた裏庭からは山の濃い緑の匂いと共に涼しい風が流れ込んで、火照った肌をそっと撫でる。


縁側に腰を降ろして朝顔が描かれた団扇で扇いだ。


時々ふわりと漂う蚊取り線香の匂いが、ここから離れがたい気持ちにさせてくる。


「海里。これ、持って帰れ」


ジュンさんが台所の暖簾をくぐって持って来た大きいタッパーには、アジの南蛮漬けがぎっしりと入っていた。


「昨日、渚ちゃんに頼まれてたんや。南蛮漬けが食いたいんやて。海里、これ好きやったやろ。多分お前に食わせたくて言うて来たんやと思うぞ。食べたら空いたタッパーはお前が返しに来い」


「は?なんで俺が。渚で良いだろ」


ビニール袋にタッパーを入れて海里の傍に置き、再び台所に戻ると「どうせヒマやろ」と食器棚の扉を開けた。


麦茶を二つ持って来たジュンさんは右隣にどさりと座り、氷が揺れるグラスを差し出した。


「ここ手伝わんか。大した金額にはならんが、給料も出したるぞ」


「ははっ、なんだよそれ。つーか、手伝うほど客も来ねぇじゃん。歳取って寂しくなったか」


ジュンさんの腕を肘で小突くと「あほ言うな」と呆れるように鼻で笑われた。


「こんなちっせー田舎町でうんざりしてたんだよ。俺はもっと強い男になって、でっけぇ組織で出世するんだっつーの。だから、あんな小物だらけの族なんか抜けてきたんだ」


麦茶を一気に飲み干し、南蛮漬けのタッパーが入った袋を掴んで立ち上がる。


「強い男になって組織か」


ジュンさんは、そうか、と憂いを帯びた瞳で手元の麦茶に視線を落とす。


「まぁ、海里の人生やからな。お前がそうしたいなら、気が済むまでやりゃあええわ」


海里は「言われなくても好きにやるさ」と、背中にジュンさんの言葉を聞きながら廊下に出た。


「ただなぁ、海里」


呼びかけるような声に、足が止まる。


「自分を気にかけてくれている人に、余計な心配かけるような事はするなよ。ほんまに大事にせなあかんもんが見えてへんような奴は強い男ちゃう。ただの間抜けや」


ただの間抜け。その言葉に少しカチンときた海里は、うるせぇよと吐き捨てて民宿を出た。


「あれ。おばさんって今日夜勤だっけ」


 歩いて十分程の家に帰ると、風呂あがりらしい渚のドライヤーの音が玄関まで聞こえてきたので、大声で話しかけた。


「うん。ってか、今日バイト遅なっちゃってさぁ。夕飯カップラーメンでも良い?ご飯はお母さんが夜食用のおにぎり作るのに炊いてあるんやけどね」


ドライヤーのスイッチを切った渚は、まだ半乾きの状態で洗面所から出てきた。


渚はいつもこうだ。しっかり者だが、少々雑で適当な部分がある。


そんな彼女は母方の従妹で海里と同じ十九歳だ。海里は去年の春からこの篠崎家で住まわせてもらっている。    


渚の母親は介護士の仕事をしていて、急遽欠勤の人の代わりに夜勤になってしまったらしい。


「これ、ジュンさんから」

「わぁ、アジの南蛮漬け!またえらい大きいの釣ったなぁジュンさん。さっすがー」


上機嫌でタッパーから皿に移し、インスタント味噌汁に沸かした湯を注いで、ご飯をよそった。


「たくあんもあったわ。うん、立派な夕飯やね。いただきます」


南蛮漬けは、口に入れるとさっぱりとした漬け汁がじゅわっと広がる。ふっくらとした癖の無い淡泊な白身は一度揚げて油を含み、程よくこっくりと食べ応えのある一品だ。


蒸し暑い夏の夜にはこれ以上ないくらい贅沢な食事を、渚と二人で楽しんでいた。


「おーいしーい!ジュンさんに南蛮漬けも教えて貰わんとなぁ」


「揚げ物苦手なのに出来んのかよ」


「油跳ねが苦手なだけなんですー。鍋の蓋を盾にすれば大丈夫なんですー」


「この前、その盾で守れなかった腕に油が飛んできて喚いてたじゃん」


渚は「料理をしないあんただけには言われたくないね」とすかさず言い返す。


「米は炊ける」


「はっ。それは炊飯器様のお陰でしょーが」


ぐうの音も出ない反論に、黙って二匹目のアジにかぶりつくしかなかった。


「あれ。怪我してるやん。どうしたん、それ」


渚は自分の右頬をここ、と指す。


「たいしたことねぇよ」


たくあんをポリポリと噛み、米を口に放り込む。納得していない口ぶりで、ふぅんと言いながら残っていた味噌汁を豪快にぐいっと飲み干した。


「ごちそうさまでした。なぁ、海里」


「ん?」


「ジュンさんとこでバイトせぇへん?」


食べ終えた食器を重ねて、渚の持つお盆に載せた。


「いつまでも危なっかしい事ばっかりやってたら、真由美おばちゃんも心配するで」


「母さんは関係ねぇだろ。俺は強くなるんだよ。強くならなきゃ、駄目なんだ」


台所に入っていった渚が何か言った気がしたが、海里はそのまま二階の部屋に向かった。



 * * *




「それから俺はやばい奴らと関わってた。二十歳の時、人を騙す仕事に加担させられる事になったんだ。でも出来なかった。寧ろ相手に通報するように言っちまったんだ。で、逃げた。もちろん簡単には逃がしてなんか貰えなくてさ。死にかけでこの民宿に帰って来たんだ。ジュンさんはそんな情けない俺を見て笑ってたよ。『強い男になったなぁ。気済んだか』って」


潤んだ声で絞り出すように言葉を続ける。


一度慌てたように俯く。ゆっくりと目を閉じて、再び顔を上げた海里はいつもの声色に戻っていた。


「そこからはジュンさんが毎朝家に呼びに来るようになって、ここの民宿を手伝うようになったってわけ。まぁ、本当にぽつぽつとしか客なんて来ねぇから殆どやる事も無くて、ジュンさんと灯台の下で釣りばっかりしてたんだけどさ」


海里が話している間、雫も渚も真剣な眼差しで聞いていた。


「そんな感じでさ。私も海里もジュンさんのお世話になりっぱなしな訳よ。私はバイトもしてるんやけど、時々ここの手伝いもしてんねん。私もここの海が好きでさ。ジュン


さんにも小さい頃、よう遊んで貰ってたから。まぁ、ジュンさんが亡くなってからは民宿も休業中なんやけどね」


「休業中?また再開するんですか?」


「もちろん!当たり前だろ。だからここ一年、俺らだけでもやっていけるように色々準備してたんだよ。古い建物だからさ。不器用ながら修復とかもしてるわけ。もうすぐ再


開するんだ。雫、良いタイミングで帰って来たな」


「記念すべき初日のお客さんの予定は無いけどねぇ」


肩をすくめて笑う渚の隣にある柱の絵が、再び目に留まる。


「あの、そこの柱の絵……」


二人にとってはただの落書きに過ぎない。やはり消されてしまうのだろうか。


ふと、寂しさと不安を同時に感じる雫に海里は「あぁ、これね!」と、柱の前にしゃがんで絵をぽんぽんと叩いた。


「雫、覚えててくれたんだ。嬉しいなぁ」


「え?」


「あれ、違うの?」


海里がきょとんとした表情でこちらを見る。


「まさき兄ちゃんって、めーっちゃ懐いてくれてたじゃん。この絵、俺すんげぇ気に入ってるんだよね。消すわけねぇじゃん」


日焼けした肌で笑うと、ひと際歯が真っ白に見える。


「真咲海里。雫に会った当時の俺の名前。もしかして俺の苗字、下の名前と勘違いしてたか?あの後、親が離婚したから今は真咲じゃないんだけどさ」


目の前の海里と、記憶の中のまさき兄ちゃんが重なる。予想外の事実に言葉を失っていた。



「あっつ!二階奥の客室のエアコン掃除終わったぞ。ちょっと家戻って着替えて来るわ。このまま昼飯にしたら、君たち女子に臭い男と思われかねねぇ」


「もう思ってるよ。さっきトイレに降りて来た時、隣通ったらめっちゃ汗臭かったもん。なぁ、雫ちゃん」


階段を降りた所で額の汗をぬぐう海里に、縁側の床を水拭きしていた渚が冷たく言い放つ。


居間を掃きながら、返答に困って口ごもってしまった雫に、海里は真剣な表情で歩み寄る。


「雫、初対面じゃねぇんだから敬語はやめろよな。一応、今の雫は俺らと大して歳も変わんねぇんだし。何より、これからこの民宿で過ごす仲間なんだから。名前も呼び捨て


にすること。渚さん、じゃねぇぞ。渚だ。良いな?」


「は……えっと、うん」


満足したのか、嬉しそうに頷いた海里は


「いっけね。臭い服のまま雫に迫っちまった。じゃ、渚。昼飯よろしくー!」


と、まるで逃げるようにさっさと部屋を出て行ってしまった。



「はい。これ手伝ってくれる?」


渚は台所の調理台に、水に浸けた植物の茎が沢山入ったボウルを置いた。


「これウワバミソウっていう野菜なんやけどね。筋が張った皮があるから剥かなあかんねん。茹でて豚肉と炒めるんよ。山菜なんやけど癖が無くてね。美味しいよ」


慣れた手つきで次々と剥いていく。真似してみると、思いのほか気持ちいい位にするりと剥けて癖になる。二人並んで、黙々と作業をしていた。


「これ、この町の道の駅に売ってるんやで。この辺は海ばっかりが目立つけど、山に行ったら山菜も結構採れるねん。今度、一緒に買い物行こか」


「はい!行きたいです」


「ねぇ、私にも敬語は無しやってば。名前も呼び捨て。オッケー?」


「う、うん」


「私一人っ子やからさ、雫ちゃんは妹みたいで嬉しいねん。海里は同じ歳やしさ。あんなあほで暑苦しい男じゃ全然癒されへんのよね」


渚は、塩を入れて煮立つお湯にウワバミソウを全て入れる。


色鮮やかなウワバミソウが、ぐつぐつと湯の中で踊り出す。


「雫ちゃんの話はさ、ジュンさんから聞いてたよ。ジュンさんね、雫ちゃんの事すっごい心配してたんやで。時々電話してたやろ?雫ちゃんの声が聞けた日はいつも嬉しそうやったし、一回電話してるところ見た事あるんやけど、聞いたことないくらい優しい声してたしね」


彼女の言う通り、母がいない時間が多かった雫はお爺ちゃんに電話を掛けていた。


もちろん母には内緒だし、話している事も他愛の無い話ばかりだったが、当時の雫にとってはそれが苦しい日常の唯一の楽しみだった。


祖父は、今日はどんな魚を釣っただとか、全然釣れなかったとか、夕焼けの色の話だとか。電話の最中に蝉が乱入してきたらしい時は、電話の向こうで誰かが騒いでいる声が聞こえた事もあった。


今思えば男の人だったので、海里だったのかもしれない。


殆ど外に出してもらえない生活だった五歳の雫は、狭いマンションの部屋が世界の全てだった。


二か月だけ住んでいた民宿の記憶を振り返りながら祖父の話を聞いては、その風景を思い浮かべていた。


電話を切って暫くすると、母が煙草のにおいを纏って帰宅する。髪を乱してリビングでいびきをかく母を横目に、空腹に耐えながら隣の部屋で眠る。そんな毎日を繰り返していた。


思い出すだけで体中の血の気が引くような感覚に襲われる。


「雫ちゃん」


「あ、えっ?」


呼びかけられて現実に引き戻される。彼女の手元ではフライパンの上で油とにんにくが食欲をそそる香ばしいかおりを漂わせていた。


「そっちの豚肉取って欲しいんやけどな」


「うん、ごめん。ぼーっとしてた……」


「お料理中にぼんやりしたら怪我するから気を付けてよ?火使ってる時やったら、こんな木造の古いお家すぐ燃えてまうわ」


冗談交じりに言う渚は豚肉をフライパンに入れる。途端にジュッと焼き付く音に、腹の虫が呼び起こされる。


下処理をしたウワバミソウを加えて炒め、醤油を回しかけた。誰かと一緒に料理をするのは何故だかむずがゆくて、頬の筋肉が自然と和らぐ。


昔、同じようにお爺ちゃんの隣で踏み台に立ちながら見ていたことがあった。野菜を洗ったり卵を割ったり。料理を教わりながら手伝っていた懐かしい記憶が少しずつ蘇る。


「はーい。出来ましたよっ」


にんにくの香りに、焼けた醤油の匂い。大皿に緑が鮮やかなウワバミソウと豚肉のにんにく醤油炒めが、白い湯気を立ち昇らせながら盛り付けられる。


「これと漬物で十分じゃない?キュウリのぬか漬けがあるんよ。とっておきの私が漬けたやつなんよ」


ぬかを洗い流したきゅうりを切り、小鉢に盛ってテーブルに並べる。ご飯と麦茶も用意したところで海里が玄関を開く豪快な音が聞こえた。


「うんまっ。労働の後の飯は格別!」


炒め物にがっついて満面の笑みを浮かべる。


 リン


縁側に吊るした風鈴が柔和な音を奏でた。


「渚は料理の上手さをアピールすればすぐ嫁に行けるわ。損してるよなぁ、お前」


「うわっ。なにそれ、どういう意味やねん」


バシッと海里の頭をはたく乾いた音に驚いたのか、庭木に止まっていた蝉がジッと鳴いて飛び立った。


「雫、うちに来るか?」


渚は午後からバイトの為、残された二人で細かい場所の掃除をしていたら、あっというまに空は朱色に染まっていた。


玄関の下駄箱を拭いていると、ドアの向こうで脚立を片付けながら海里が尋ねる。


「ううん。二階のおじいちゃんの部屋に住もうと思ってるの」


「寂しくないか?昼間におばさんにメールしたら良いって言ってたぞ。渚の家、親父さんが単身赴任でずっと居なくてさ。空っぽの部屋が一つあるんだよ」


海里の向こうでは、穏やかな海に夕焼け空が溶け込んでいた。


「ありがとう。でも、この家にずっと戻りたかったから。この家にはおじいちゃんの匂いというか、ぬくもりを感じて寂しくないんだ」


居間に続く廊下に目を向けて言うと、そっか、と雫の頭に手を乗せた。


「なんかあったら連絡しろ。これ、俺の携帯番号。そこの固定電話からいつでもかけて来いよ。夜型人間だから、夜中でも気にしなくて良いからな」


ジーンズのポケットから取り出した、少しくしゃっとなったメモ用紙を手に握らせて海里は帰って行った。


「まさき、兄ちゃん」


砂浜を歩いて行く海里の背中を見つめて無意識に呟いた。




「暇やなぁ」


七月のある日。渚が縁側で団扇を片手に空を仰いでぼやく。次第に陽が高くなって、庭にサンサンと力強い陽光が射し込む朝。


夕焼けの家を再開させて一週間ほどが経ったが、未だ宿泊客は来ていない。それどころか、観光客らしき人すら見かけない静かな毎日を過ごしていた。


「やっぱホームページくらい作るべきなんかなぁ」


半袖を肩の上まで捲し上げて麦茶を一気飲みする渚の背中を、海里が団扇で小突いた。


「あほか。ジュンさんだってそんなことしてなかっただろ。良いんだよ、マイペースで。のんびりやってたら、そのうち誰か来るから」


「大体こーんな綺麗な海があるのにさ、海水浴場じゃないんやもんね。結構マニアックな場所らしいよ、ここ。たまーに夏休みに帰省したちびっこたちが遊びに来るくらいやし。帰省してるからさ、みんな家に帰っちゃうやん?ここにわざわざ泊まらんもんねぇ」


「焦んな焦んな。そうだ!ジュンさんがどっかにかき氷機片付けてなかったっけ。暑くて余計な事ばっか考えちまうんだよ。パーッとかき氷パーティでもやろうぜ。どうせ台所の棚でも探してたら出てくんだろ」


張り切る海里の足元で、良い歳してかき氷パーティーってねぇ、と渚が呆れていると、廊下から電話の甲高い音が鳴り響く。


立ち上がろうとした雫の肩に手を置いた海里が「俺が出る」と、頭を掻きながらめんどくさそうに部屋を出て行った。


間もなくして苦虫を噛み潰したような顔をした海里が戻って来た。


「また?」


尋ねる渚に、海里がため息を吐きながら頷いた。どうしたのだろう。その時、誰かが玄関のドアを叩いた。


「おぉっ?誰だ?」


三人で玄関に向かうと、開けっ放しだったドアの向こうに老齢の男性が一人。


「突然申し訳ありません。ジュンさんはいらっしゃいますでしょうか」


グレーのハットを脱いで胸の前で持つ男性は落ち着いた雰囲気で、背筋もピンとしていてとても品が良い。白髪も綺麗に整えられており、紳士という言葉がぴったりの七十代くらいの人だ。


「公晴さんじゃん!そっか、そうだそうだ。いつもこの時期だったね!奥さん、あれからどう?」


海里が尋ねると、男性は苦笑した。


「妻は昨年末に他界しました。介護も終え、いよいよ独りになってしまいまして。三年ぶりに戻って参りました」


寂し気な笑顔を見せる男性の名は、望月公晴。


毎年この時期になると夫婦で泊まりに来ていたらしいのだが、奥さんが三年前に倒れてからは介護の為にここには来られなかったそうだ。


「あー……えっと。せっかく来てもらって言いにくいんだけどさ。ジュンさんは二年前に亡くなったんだよ」


「なんと!そうですか。あぁ、そうですか……。お元気そうだったので、そんな事は想定もしておりませんでした。何だかあの人はそういう所とは縁遠い所にいるような。ずっとここに居るものだと勝手に思っておりました。そうですか、もうお亡くなりに……」


「とりあえず中へお入りください。今日は暑いですし。お茶、お持ちしますから」


すっかり肩を落とす望月を、渚が居間へと案内する。海里と一緒に台所でお茶とお菓子の用意をする事にした。


「これ、良かったら食べて。鶴屋の水羊羹。公晴さん、好きだったよね」


海里が和菓子皿に乗せた涼し気な水羊羹を出す。雫は人数分の麦茶をお盆に乗せて後に続く。


「ちょっと。お客さんにため口はやめなさいよ」


「はははっ、良いんですよ。彼とはもう馴染みだから。ねぇ、海里君。そしてあなたは渚さんだ。彼の従妹でしたね?」


「あ、はい。確か一度ご挨拶したきりでしたけど、覚えていてくださったんですね」


望月は「もちろん。綺麗で気立ての良いお嬢さんだと思っておりました」と、穏やかな笑顔を見せて雫に視線を向ける。


「えっと、あなたは初めましてでしたね」


「はい。雫と申します」


どこかで聞いた名前のような、と顎に手を当てて首をかしげた。


「ジュンさんの孫だよ」


海里がそう言うと、あぁ!と目を丸くする。


「こんな大きなお孫さんだとは思っておりませんでした。そうですか。確かにジュンさんの言っていた通り可愛らしいお嬢さんです。言ってましたよ。目じりのほくろがジュンさんと同じだってね。確かに同じ場所にあります。宜しくお願いしますね」


差し出された望月の手を握り返す。祖父と同じ場所にあるほくろ。今まで気にもしなかった小さなほくろが、突然掛け替えのない宝物に変わる。


「妻が亡くなって、ここに来るのも気が進まなかったんですけどね。毎年一緒に来ていた場所なだけに、一人でとなると中々ね。だけど、遺品を整理していたら妻の手帳に挟んであった写真を見つけて。最後にここに来た時、ジュンさんと撮った写真なんですよ」


黒い鞄から取り出した一枚の写真を見せてくれた。


海を背に撮られたものだった。左の奥に白い灯台が映っている。白髪の祖父が、何とか頑張って口角をあげてみましたと言うような、不器用な笑顔でこちらに微笑んでいた。


その隣で望月夫婦が幸せそうに肩を寄せ合っている。もうこの写真が二度と撮れない物だと思うと、三人の笑顔がとても尊く儚いものに感じた。


「この写真は海里君が撮ってくれたんだよね。そもそもこれを撮ろうと言ってくれたのも君だ。あの時は恥ずかしさもあったし、ジュンさんだって照れて渋っていたが、今となっては宝物だよ。本当に感謝しているんだ。おじいさんになると改めて写真を撮るなんて中々出来なくてね。ありがとう。改めてお礼が言いたかったんだ」


嬉しそうにはにかむ海里の背中を、やるじゃん!と、渚が強めに叩く。


「この浜は妻と出会った想い出の場所です。妻が大好きだった場所。私にとっても大切な場所です。寂しい気持ちはありますけど、そんな場所を妻の死と共に失くしてしまうというのも、なんだかね。それで来てみたんですが、まさかジュンさんが亡くなっているとは思いもしませんでした。人生と言うのは、本当にいつ終わりが来るかわからないものですね」


望月は気持ちを落ち着かせるように、冷たい麦茶で喉を潤す。


ふぅとひとつ息を吐いて、改めてゆっくりと語り出した。


「妻はまだ若い頃に大切な妹を病気で亡くしましてね。だからこそ、傍にいる人に感謝して、毎日を大切に生きるべきだと言っておりました。私もわかったつもりで『そうだね』なんて言っていましたが、その言葉の本当の意味をこんな歳になってようやく理解するなんて情けない話です。大切なものを失って、大切なものを学ぶ。どうしようもなくなってから気が付くなんて、皮肉なものです」


「あたたかい想い出を沢山抱えて亡くなった奥様は、きっと望月さんと一緒に生きれてこられて幸せだったと思います」


雫は心に浮かんだ言葉を口にしていた。


海の遥か上でトンビが鳴く声が、のどかに聞こえていた。


「自分の事を大切に想ってくれている人がいる。それが実感できる中で亡くなった事は、人としてとても幸せな最期だと思います」


その言葉に自身の最期が重なる。母と義父の冷たい視線。冷たい言葉。酒と煙草のにおい。悲しみと、痛みと、絶望と。彼方にある母の優しかった頃の記憶だけに手を伸ばしては、脆い泡となって消えるおぼろげな笑顔。


「優しい人に出会って、あたたかい想い出を抱えて。悲しい事も辛い事もあるのが人生かもしれませんが、その中にある幸せを。普通の幸せを沢山感じて。苦しみを上回るくらいの大切な想い出を抱えて……私も、私も」


そこまで言って、もう言葉にならなかった。胸の奥が詰まるような、一気にこみ上げて溢れようとする感情を抑えるのが精一杯で、それ以上三人に顔を向けている事が出来なかった。


「雫、二階でちょっと休め。ほら、行こう」


海里がそっと手を取って立ち上がらせる。


「す、すみません。私がこんな暗い話をしてしまったから……」


謝る望月に、俯いたまま頭を横に振る。渚が明るい口調でフォローしてくれている声が聞こえてくるのを背に、海里と一緒に階段を上って部屋へと向かった。


「大丈夫か?」


ベッドに座る雫の前にしゃがんだ海里が顔色を窺う。


背後の窓から差し込む斜光が、雫の周りに陽だまりを作っていた。


「ごめんなさい。私……」


「気にすんなって。公晴さんは雫の言った事で気分を悪くしたりとかは絶対ねぇよ。寧ろ安心したと思うぞ。奥さんが幸せな最期だったなんてさ。自分で思うより、他人に言って貰う方が説得力あるし嬉しいだろ」


「そう、だと良いんだけど」


何とか笑顔を作って見せたものの、一度思い出した苦しい記憶が心に落とした影はそう簡単には晴れない。


ふいに海里に抱きしめられた。そっと、子供を慰めるように背中に回した手で優しくトントンとされ、戸惑いのあまり石のように硬直してしまう。


「心配すんな。せっかくジュンさんがここに来させてくれたんだ。今まで苦かった分、これからめいっぱい楽しもうぜ。もう何も怖い事も、不安になる事も無いんだ。何かあったら俺が助けるから。ん?どうした?」


固まっている雫にようやく気付き、慌てて体を離す。


「わ、悪い。ごめんな!痛っ」


後ずさりした海里は、壁際にあった机の角に思い切り足を強打して悶えた。


「ほんと、別に変な意味じゃないから。ごめん」


足をさすりながらしきりに謝る海里の姿に、ふっと小さな笑いが零れる。海里も安心して、力が抜けたように笑っていた。


「あ。これジュンさんの手帳」


机の隅に置いてあった古い青色の手帳をおもむろに開く。


落ち着いたシックな色合いの手帳から、ぱらりと二枚の写真が滑り落ちる。海里が拾い上げ、隣に座って見せてくれた。


まだ若いお爺ちゃんと同じくらいの年齢の、お腹に赤子を身籠っているらしい女性。


もう一枚は、少し派手さの残る格好の海里と砂浜で遊んでいる、五歳の雫の写真だった。


「これ、お爺ちゃんだよね。隣にいるのは……」


「あぁ、それ。ジュンさんと奥さんだよ。俺は会った事無いんだけどさ。豊美さんだったかな。これは、雫の母さんがお腹にいた時の写真らしい。豊美さん、娘が小さい時に海で事故に遭ってさ。ジュンさん、自分のせいだって時々言ってたよ」


海里の話では、祖父は昔こことは違う町で船に乗って漁師をしていたらしい。いつも夫婦船で出ていた祖父と祖母は、ある日事故に遭った。


近くを通りかかった船がいて祖父は何とか助かったが、祖母は亡くなってしまったというのだ。


「仕事も家でもずっと一緒でさ。それでも口数少ないジュンさんと、明るい豊美さんでお互い補い合ってさ。仲良かったんだって。だから奥さんだけが亡くなった事が、ジュンさんは耐えられなかったみたい。それで漁師を辞めて、まだ幼い娘一人を抱えてこの夕陽が浜で民宿を始めたってジュンさんが言ってたよ」


祖父が幼い母を連れてここに。あの母がこんな穏やかな場所で育ったなんて信じられない。


「まぁ、さ。ほら、この写真は覚えてる?民宿の前で雫と遊んだ時の。俺めっちゃ覚えてるよ。ジュンさん、こっそりこんな写真撮ってたんだなぁ」


ぶかぶかの麦わら帽子をかぶって、手に黄色い小さなスコップを持った幼い雫が一生懸命砂浜を掘っている。


夢中であちこちに穴を掘る姿を、海里が笑いながら見守っている。


二人の向こうには、写真越しでも目を細めたくなるような眩しい入道雲が、雄大な海の上にどっしりと浮かんでいた。


「確かおもちゃの宝石を隠してたんだよ。この家でたまたま見つけたやつでさ。雫がトイレに行ってる間に俺が隠して宝探ししてるところの写真だ」


海里の手元にある写真を見ながら、懐かしい記憶が呼び起こされた。



 * * *


「雫!宝探ししようぜ。ほれ、スコップ」


白いシャツに、白地に何かの植物が大きく描かれた涼し気な生地の半ズボン姿のまさき兄ちゃんが、トイレから戻った雫に黄色い子供用のスコップを差し出した。


「何を隠したの?」


「見つけてからのお楽しみ!ほら、やってみ?」


砂浜は綺麗にならされていて何処にあるのか全くわからない。とりあえず足元からあちこち掘ってみる事にした。


「ヒント無いの?」


「そうだなぁ。まぁ、あんまり広範囲掘られちゃ、あとで戻すのが大変だから出してやるか。じゃ、こうしてー」


近くにあった流木の欠片で、まさき兄ちゃんの立つ場所を中心にかなり大きな円を描いた。


「この辺りだ!」


「広すぎるよ……」


「少しでも苦労して得たものってのは、どんなに他人から見てくだらない物でも大事な宝物になるんだぞ」


途方にくれる雫の隣にしゃがみこんで、大きな手を雫の背中にそっと当てる。


「ほらほら。行動しないやつは何も得られない!」


「……おじいちゃんが言ってた事?」


「うっ。ちびの癖に感が鋭いやつだな」


両頬をつねり「じいちゃん譲りか!このやろー」と笑う。


「や、やめてよー、もう」


頬をさすりながら円で囲まれた場所を手当たり次第に掘る。


何気ない一日。こうして誰かと遊ぶ事が無い雫にとっては新鮮で楽しい。


穏やかに波音を立てる海。優しいまさき兄ちゃん。民宿ではかき氷の準備をしてくれている祖父。幸せでたまらなかった。


祖父の呼ぶ声に、一度かき氷を食べに戻る。三人並んで縁側でかき氷を食べ、再び砂浜へと宝探しに戻る。


時々水分補給をしに民宿に戻りながら砂を掘っているうちにどんどんと日が高くなっていったが、なかなか見つからない。


背中に浴びる日差しが次第にじりじりと強くなり始めた頃、五年間の人生で一番の歓喜の声を上げた。


「あった!」


「うぉ!やっとか!」


「こんなに線ぎりぎりの所に隠してるなんて思わなかった」


纏わりついた砂を払って真夏の太陽にかざす。鮮やかな水色の宝石が、お日様の光を通して煌めいている。これは、まるで――


「海みたいだろ」


言おうとした言葉を、まさき兄ちゃんがそのまま口にした。


「うん、すっごく綺麗」


「ま、おもちゃの宝石だけどな。民宿の二階の部屋で見つけたんだ。ブルートパーズって言うんだぜ」


「ぶるーとぱーず?」


「海の宝石って言われてるんだって。昔、どこかで聞いたことがある」


目の前に広がる海に重ね合わせると、その風景の一部のように溶け込む。


こんな綺麗なもの、今まで一度も見たことがないなと、思わず息をのんだ。


「海の雫みたい」


「お?洒落た事言うじゃん。すげぇな、お前本当に五歳かよ」


とんでもない化け物でも見たかのように、目を見張って顔をしかめる。


「気に入ったなら雫が持ってろよ。使ってない部屋の棚の裏に落ちてたやつだし」


海の上に浮かぶ雲みたいな白い歯を二ッと見せる。


「ありがとう……!」


そんな雫の頭を「ジュンさんの所に戻るか」と不器用な手つきで撫でた。少し乱暴ながらも優しい撫で方に、胸の奥がじわりと熱を帯びるのを感じる。


「まさき兄ちゃん、これ宝物にするね」


「おう」


まさき兄ちゃんの大きな手を、ほんの少し強く握って呟いた。



 * * *



「ブルートパーズ」


「そうそう!海の雫って言ってたな。五歳の口から出る言葉じゃねぇよな」


からからと笑う海里の隣で、ポケットから巾着を取り出した。それと同時に、緩んでいたらしい口から、一枚のくしゃくしゃになったメモが転がり落ちた。


「ん、なんか落ちたぞ。それ、何入ってんの?」


拾い上げたメモを手渡し、海里が巾着に視線を注ぐ。


「わっ。まじかよ!それ、まだ持ってたの?」


取り出したブルートパーズは、あの頃と変わらない透明感のある海色を抱いていた。


「宝物だから。辛くなったらいつも見てた。大きくなったら、また行きたいなって」


手のひらの上で窓からの日差しを受け、まるで本物の海のようにその色を揺らめかせている。


「砂浜で目が覚めた時、このメモとブルートパーズが入った巾着が胸の上にあったの。私にとって大切な物だけ持って、ここに戻ってきたみたい」 


巾着を膝の上に置いて、恐らく事故に遭った時の血だと思われる茶色い染みがべっとりと付いたメモを広げた。丁寧な字で書かれた電話番号。


「それ携帯の番号だよな。ジュンさん?っても、あの人は携帯持ってなかったか」


「これは……最後の日に私の事を気にかけて、とても良くしてくれた人の連絡先。結局そのあとすぐ事故に遭ったから一度もかけてないけど。何かあったら連絡しておいでって渡してくれたの」


海里は「へぇ」と言うと、突如何かを思い出したかのように声を上げた。


「そういえばさ、八月の終わりに花火があるんだぜ!それもでっけぇ打ち上げ花火!」


「花火?」


「そう!この近く浜で花火師のおっさんがぶち上げるんだ。ここ、めっちゃ特等席なんだぜ」


海里が「な?!」と弾けんばかりに目を輝かせる。


「楽しみじゃね?すげーんだぞ、どっかーんって!」


広がる花火を表現するように、両手を大きく広げて子供みたいにはしゃいでいる二十五歳の海里の姿に口元が緩む。


「楽しい事が一杯なんだ。こんな地味な場所でもさ、世界一綺麗だーって思える事がいっぱいあるんだぜ。それを雫もこれから沢山経験して行こう。自分の人生は自分でいくらでも変えられるんだ。生きてりゃどうすることも出来ない事もある。誰かに壊された時間があるなら、自分の力でその苦しみの倍の幸せを掴めばいい。どんな事があっても、過去に未来を壊されるほど馬鹿馬鹿しい事はねぇよ。自分を変えるのも、未来を変えるのも、自分だけなんだからさ」


差し伸べる海里の手に、砂浜で繋いだ手の記憶が重なる。あの頃は随分大きく感じた手が、今は成長した私の手に馴染む。


少し海里に近づけたようで、小さな喜びをそっと心の中で噛みしめた。



「雫ちゃん!大丈夫?」


居間に戻ると渚が駆け寄って来た。その手にあるお盆には、空になった食器とグラスが乗せられている。


「望月さん、ついさっき帰ったんよ。雫ちゃんの事も大丈夫ですって言っておいたから心配ないよ。寧ろ、雫ちゃんの言葉に励まされたって。ここに来て良かったって言ってたから」


海里が隣で言った通りだろと口角を上げた。


再び静かになった居間に、窓から縁側に向かって潮風が通り抜けていく。


リン、と揺れる釣鐘型の風鈴がなんとなくお爺ちゃんの存在を感じさせるのは、気のせいだけではないような気がした。


円卓を挟んで、何を話すでもなく二人で向かい合って座っていると、暫くして洗い物を終えた渚がエプロンを外しながら出てきた。


「私、夕方からバイトやからさ。海里はどうすんの?まだここにおんの?」


「あー、そうだなぁ。特に帰ってもやる事ねぇし。あ、かき氷忘れてた!雫と二人でかき氷パーティーするか!」


「えぇっ!ずるい!私も食べたかったのにー」


渚はその後も「ずるい!ずるい!」と拗ねた子供のように口を尖らせていた。



自然の音に包まれた静かな家に海里と二人になる。


すっくと立ちあがった海里が、かき氷シロップ買いに行くかと半ば強引に雫を連れ出した。


「よーし。氷セット完了!雫、削ってみるか?」


買い物から帰り、ニ十分ほどかかってようやく棚の奥に仕舞い込まれていたかき氷機を見つけ出した。随分とレトロなかき氷機を前に、ブルーハワイとイチゴのシロップと、涼し気なガラスの器を用意した。


「うん。昔、おじいちゃんと一緒にやったきりだけど」


「こんなん、これをくるくる回すだけだから楽勝だって。ほら、やってみ」


言われるがまま、てっぺんに付いたレバーを握る。


「俺が下のとこ支えといてやるから。一気に回せー!」


しっかり両手で支えてくれているかき氷機を、勢いよく回す。シャリシャリと氷が削れて、雪のような氷の粒が器に山なりにどんどん大きくなっていく。


「おっ、良い感じ!じゃ、これは俺のにしよーっと。はい、次は雫の分な。よし!いっぱいいっぱい回せー!」


もう一つの器もセットして、あっという間にてんこ盛りのかき氷が出来上がった。


「雫のが大盛りじゃん!ずるいなー」


いたずらっぽく笑いながら、海里は自分のかき氷に青色のブルーハワイをかける。雫も真っ赤なイチゴのシロップをたっぷり回しかけた。


「浜辺で食おう!」


連れ出された浜辺で、二人並んでかき氷を食べる。冷たい氷が舌の上でふわりと溶ける。火照った体の芯からひんやりと気持ちが良い。


「こんなでっけぇ自然を二人占めして食べるかき氷は格別だー!な、雫!」


中身が十二歳の私から見れば二十五歳なんて立派すぎる程大人なはずなのに、それを感じさせない海里のリアクションに、ずっと固く絡まっていた心の糸が知らぬ間にどんどんと解かれている事に気が付く。


嬉しいような、でもだからと言ってどうしたら良いのかわからない不思議な感覚に陥る。


「うん。本当に美味しい」


青いかき氷と、赤いかき氷。眼前に広がる青い海と盛夏の太陽。真っ白な氷は砂浜か、はたまた夏雲か。少しはしゃいで作ったかき氷は、とても冷たくて爽やかで。


宝探しをしたあの日、祖父と海里と一緒に食べたかき氷の懐かしい味が蘇り、広がる壮大で美しい景色が、切ない色を帯びているように見えた。

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