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第1話 夜の海

「あら、どうしたの?もしかしてお部屋わからなくなった?」


夕食後、ロビーに置かれていた古い木製の椅子に座っていると、十二歳の少女を心配した白い着物姿の仲居さんが声を掛けてきた。


持っていた玩具の宝石を小さな巾着に戻してポケットに仕舞う。


彼女の胸元には、西本と刻まれた銀色の名札が付いている。奥二重の優し気な目と笑い皺が印象的な彼女は、細身で小柄な雫の目線に合わせるようにしゃがみこむ。


一本の毛も逃さずぴっちりと纏めた黒髪が、清潔感や上品さを際立たせていた。


「お部屋までご案内しましょうか。お名前は?」


「菅原、雫です」


「あぁ、桔梗の間の菅原さんね。雫ちゃんって言うのね。お部屋行こうか」


脂の浮いた髪に視線を向けられた気がして、無表情のまま頭を横に振った。


「まだここにいる」


「そっかぁ。じゃあさ、おばさんと大きい露天風呂に行かない?今日一日暑かったでしょう?おばさんも汗でべたべたなのよ。ね、夜の露天風呂。素敵よ。お母さんには私から聞いてみるわね」


戸惑う雫を廊下のソファに座らせ、フロントの奥に入った。


「じゃあ森さん、あとお願いね」


「はい、任せてください」


暫くして若い仲居さんと一緒に出てきた西本はフロントに立った彼女と別れ、ソファで待つに雫に慈愛に満ちた笑顔を向ける。


森さんもまた、カウンター越しにこちらに手を振っていた。


春であれば見事な景色を拝めたであろう立派な桜の木や、手入れの行き届いた松、色鮮やかな鯉が泳ぐ池のある日本庭園の真ん中を突っ切る渡り廊下を抜けると、温泉独特の匂いが立ち込める脱衣所に着いた。


もう夜の九時を回った風呂には誰もおらず、静謐な空間にお湯が流れる音がさらさらと響いていた。


手前は洗い場。奥に石で形どられた大きな風呂が一つと、その隣には三人用くらいのヒノキ風呂があり、それらの露天風呂になみなみと張られたお湯は、冷たい光を放つ三日月を写し込み、月光に揺らめいている。


温泉自体が初めてで借りたタオルを胸に洗い場で立ち尽く雫を、西本が「ほら行こう」と楽し気に背中を押した。


「温泉初めてかな。銭湯とかも無い?」


シャンプーを手に取り、長い髪に泡立てながら西本が尋ねる。脂の多い雫の髪は一度では泡立たず、二回目のシャンプーを手に取りながら頷いた。


「じゃあ、最初にこんな貸し切り状態の夜のお風呂を経験しちゃったら、もう他じゃ満足できないねぇ」


笑いながら、もこもこに泡立つ髪を一気にシャワーで流す。タオルから何から貸してくれたおかげで、四日振りに身体中の汚れを洗い流すことが出来た。


屋根が付いた洗い場から、大きな露天風呂へと手を引かれて着いて行く。


肩まで浸かると、皮膚の表面から芯までじんわりと温もりが伝わってくる。あまりの気持ちよさに、子供の口からも至福のため息が漏れた。


温泉から見える夜の黒い海は、不気味に音を立ててたゆたう。


深い闇の中は人間が住むことのできない、得体のしれない生き物たちが息をひそめていると思うと、背筋がゾクリとする。


あの中に入って行けば、誰もいない独りぼっちの世界なのだ。誰も助けてくれない。誰にも声が届かない静寂の世界。


日中はきっと絶景なのだろうが、一変して恐ろしくも感じる海からは、人間は自然には勝てないのだと言う事実を突きつけられているようにも思える。


「夜の海も素敵でしょ?」


思っている事と真逆の感想を口にした西本に、はぁ、と情けない返事をする。違ったかあ、ごめんねぇ、と悪びれる様子も無い声が開放的な空間に響く。


着物姿の時の上品な雰囲気とは違い、彼女はとても明るくて楽しい人なのだろう。


「もしかして海嫌いだったかな。それとも暗いのが駄目とか?」


キラキラしている明るい海はとても好きだ。母が昔、今の義父とは違う男と付き合っていた頃。まだ五歳だった雫は母方の祖父の家に二か月間だけ預けられたことがある。


そこは日本海に面する、小さな民宿だった。


それ以来、一人になると必ず祖父に電話していた。そうすると独りぼっちの暗い部屋で眠るのも、少し怖さが和らいだのだ。


母の居ない夜は、祖父の声を耳に残して眠りにつく。そうして苦手な夜を乗り越えていた。


そんな祖父は、去年の暮に他界した。


口数は少なくても優しくて大好きだった祖父の死は、簡素な葬式だったというだけでなく、母の余りにも興味のなさそうな態度が、幼い心に悲しみと大きな虚無感を植え付けた。


日の出と共に起きて、用意してくれた朝食をとる。大きな窓から見える優しい顔をした大海。


五歳という年齢もあって細かくは覚えていない部分もあるが、とても夕陽が美しい海だったこと。


『この夕陽見たらな。人生なんてのは、苦しくたって楽勝やと思えるんや』


目を細めた夕陽に染まる横顔は今でもはっきりと覚えている。


「海は大好きです。ただ、暗い場所が少し苦手で。でも今は一人じゃないから平気です」


せっかく誘ってくれたのにと、慌ててフォローを入れるがあまり気にしていなかったらしい。両手の指を組んで伸びをした西本の周りに緩やかな波紋が広がる。


「そっかぁ。おばさんもね、子供がいるのよ。あなたよりずっと大きいんだけどね。あの子、昔は海が苦手でさ。小さい頃に連れて行った親戚の家の近くの海で溺れちゃったの。私は漁師町生まれで海が大好きだから、あんなトラウマを植え付けちゃって、ほんっとに後悔したわ」


肩にお湯を流しかける柔らかな音が、静かな夜の空気に溶ける。二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。


「元気にしてるのかしらねぇ」


ふと漏らしたその言葉に疑問を抱いた時、脱衣所のドアががらりと開く。


「西本さーん。そろそろお風呂の片付けしないと」


年配の仲居の声に「いっけない。そろそろ上がろうか」と、慌てて立ち上がる。差し出されたその手を握って風呂を後にした。


穏やかな時間が終わるのを惜しみながら、ほかほかの身体とシャンプーの匂いをまとう髪で、西本と一緒に両親の泊まる部屋へと急ぐ。


部屋はせっかく敷いてくれた布団も乱れ、持ち込んでいた缶ビールが机の上に乱雑に転がっていた。両親の身体から染み出るものなのか、缶そのものからなのか、アルコールの臭いが鼻につく。


テーブルに肘をつきながら、義父はもう何本目かわからない煙草を吸っていた。長い髪をかき上げ、もう帰って来たのと言わんばかりの目を向ける母に「遅くなって申し訳ありませんでした。ゴミ、こちらで回収していきましょうか」と申し出た西本は、空き缶を七本抱えて雫に小さく手を振った。


暗い部屋の中、窓際に敷かれた布団に潜る。風呂で温もった足に、ふとんの冷気がひやりと気持ちがいい。シャンプーの爽やかな香りが、顔の横からふわりと漂う。


隣でいびきをかく義父と、その向こうでもそもそと動きながら熟睡する母から目を背けるように窓の方を向いて、頭上にあるカーテンに手を伸ばした。


刃物のように鈍く光る三日月が浮かんでいた。雲の無いすっきりとした夜空に、さっきの温泉を思い出して頬が緩む。


誰かと入ったお風呂は、記憶がある中では五歳の時に海の民宿で祖父と入ったのが最後だ。雫にとっては母と入った記憶なんてのは、遥か昔のかすれた記憶の中にしかない。


背後で一際大きくいびきをかいた義父に穏やかな気持ちもかき消され、布団を頭まで一気にかぶって目をつむり、いつのまにかそのまま眠りに落ちていた。



「雫、早く乗って」


翌朝、乱暴に荷物を車のトランクに乗せた母が、側に立っていた雫の背中を乱暴に押す。義父は先に運転席に乗り込み、煙草に火を点けた。


「ちょっと待ってて」


「ったく。急ぎなさいよ」


ヒールを鳴らしながら助手席に向かい、どさりと座る。義父のライターを借りて煙草に火を点けると、開けた窓から気だるげに煙を吐いた。


見送りの為に一列に並んでいる、かちりとした濃い紫色の着物を着た仲居たちの中で、西本がこちらに微笑んでいる。


「昨夜は、ありがとうございました」


「良いのよ。おばさんも、あの温泉に入ったの久しぶりだから楽しかったわ」


車から顔を出した義父が早くしろと言わんばかりに、眉間にしわを寄せて睨みつけてくる。頭を下げてから車の方に向かおうとした時、西本に引き止められた。


「これ、私の番号なの。何かあったら連絡しておいで」


「えっ……」


「元気でね。無理しちゃだめよ」


差し出されたメモを、両親に見られないようにズボンのポケットに忍ばせる。


後部座席から振り向くと、車が駐車場を出てからも仲居さん達はこちらに深々と頭を下げていた。ようやく顔を上げた彼女たちは、両手を頭の上で大きく振っていた。


結局、手を振り返さないまま山に沿うようにカーブを曲がり、ようやく前方に身体を向ける。煙草の臭いと白く煙たい車内。両親の後ろ姿。孤独な現実に引き戻された雫はポケットに手を入れ、メモをくしゃりと握った。


「せっかく喫煙できる旅館に泊まったってのに、子供の前では煙草を控えろってうるさい仲居がいたのよ。あんなんじゃ、あの旅館も先は短いね」


母の愚痴に、思わずドキリと胸が鳴る。高速道路の渋滞に巻き込まれ、車が止まると同時に、義父が舌打ちをしながら苛立たし気に新しい煙草に火を点けた。


「昨日の夜、雫と風呂に入ってた奴か?」


大して興味は無さそうな口調の義父が、窓の外を眺めながら聞く。母は「そう、その人よ」と赤いバッグからスマホを取り出す。


「評価の星マーク、無しにしとこ。まぁ、雫を連れ出してくれたおかげで夫婦の時間が作れたから、そこだけ感謝かなぁ」


義父が生返事をしながら、白い煙を車内に漂わせたその時。


突然、目の前が真っ白になるほどの衝撃が背後から突き上げ、雫の意識もほぼ同時にぷつりと遮断された。


不気味なほど静かで、身体に力が入らない。


 おかあさん。


目を開けると、前の席に座っていたはずの母が、隣でエアバッグに顔を埋めていた。運転席の後ろに座っていた雫からは、義父の姿は確認できない。


窓ガラスの向こうで、知らない人達がこちらに駆けよって来るのがぼんやりと見える。音が聞こえなくなっていた。 


押し潰された重苦しい胸に微かに吸い込んだ空気は焦げ臭く、鉄っぽい臭いも充満している。


 あぁ、もう駄目なんだ。


遠のく意識の中、だらんと垂れた母の冷たい指先を握った。


まったく酷い人生だった。たかだか十二年で人生悟ったみたいで笑われるかもしれないが、最期の瞬間くらい罰は当たらないだろう。


いつか、一人で生きられるようになったら、自由に外の世界を見てみたかった。会いたい人に会って、美味しい物を食べて、綺麗な物を沢山。沢山。


ふわふわとした意識を保つのがやっとになった頃、真っ白な世界で、懐かしい祖父の姿が浮かんだ。


 おじいちゃんとの想い出は、酷い人生の中には含まれないよ。


あと、もう一人いる。祖父の民宿にいた、海で溺れたサーファーのまさき兄ちゃん。


その二人がいる記憶のなかだけが、雫が唯一笑顔でいられたのだ。


「雫」


目の前に浮かんだ祖父の幻が話しかけてきた。


いよいよ幻覚まで見えてしまった。もうこれで終わりなのだろうと悟ると、強張っていた体からすっと力が抜けるのを感じた。


「よう頑張ったな。雫、もしあと少し自由に生きられたら何がしたかった?」


自由に。もし親のいない世界で好きに生きられるとしたら。


「海。おじいちゃんの民宿がある海を、もう一度見たかった」


その言葉を最後に声は出なくなった。意識が途切れる間際、祖父の日焼けした手が、頭をそっと撫でた気がした。


「この雫の命日、九月三日までだ。大切に過ごしなさい」

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