秋のテレイグ 下
波打つ豊かな銀髪に輝くような白い肌。いつも通りの美貌のアナスタシアがこちらにのしのしと近づいて来ていた。
「アナスタシア様!」
「アナスタシア様だ、お綺麗だなぁ」
「きゃあ、アナスタシア様ー!」
子供達が感嘆の声を上げている。アナスタシアはこの薄暗い地下の学校でもなお光り輝いていた。
横のパーヴェルまでもが頰を赤らめて興奮している。
「クラリッサ、ここにいましたのね。どうです、学校は慣れましたか」
アナスタシアは故国にもいられなくなった愚かなクラリッサを引き取った。だが、宮殿ではなく、こんな子供だらけの寒い街に放り込んだのだ。
この学校の大半は孤児や、貧しい村出身の子供だ。──それと、クラリッサのような特殊な事情がある者。
住む場所も用意されて、飢えることもなかった。けれど、この場所がクラリッサにふさわしいと思われていることが悔しかった。
「……何の用ですか。無力なわたしを笑い者にでもしに来たんですか」
「まあ、クラリッサは今日も生意気だこと」
アナスタシアは何を言っても怒ることはない。胸の前で力強い太さのある腕をゆったりと組み、笑顔のままだった。
「クラリッサ、貴方はこの場所がご不満なのね。けれど貴方にはこのくらいがお似合いよ。まだ貴方はテレイグについて何も知らない。基礎も土台もなくては家は建てられなくてよ。おちびさん達に混じるのが嫌なのかしら。でも貴方だって十分におちびさんだわ。今の貴方は今日から働いてと言われても、なんの仕事も出来ないでしょう」
クラリッサはまた唇を噛んだ。
授業の内容も、まだ分からないことが多い。そもそも文化が違う以前の問題で、バルシュミーデでは貴族の娘が勉強をすることを嫌厭する空気があり、クラリッサも文字の読み書きや計算くらいしか教わっていない。それより行儀作法の方が大事、美味しいお茶や甘いお菓子の種類、男の人の好みのお酒を覚えることこそが重要だったからだ。
「もっと勉強をなさい。テレイグでは優秀であれば男女も生まれもを問わず認証官になることだって出来るのですからね」
認証官とはテレイグでの役人のことだ。難しい試験に合格する必要があったが、バルシュミーデのように文官の家柄でなくても、優秀なら誰でもなれるとは言われている。
「そうだよ、クラリッサ。俺も認証官を目指してるんだぜ!」
パーヴェルは関係ないのに、何故か胸を張ってそう言った。
「もちろん、向いているなら職人でも良いでしょう。魔法石加工や、魔道具の作成も我が国では重要な産業です。クラリッサを引き取ったからには、わたくしは貴方に勉強をさせます。そして自分で行きたい道を選べるようにして差し上げます」
少なくともそれが出来ると判断されるまで、クラリッサはこの薄暗い街にいなければならないようだ。
もう隠す気もなくため息を吐いた。
クラリッサにはその目指したい道すら分からないのに。
「あら、クラリッサ。乳茶を飲んでいないではありませんか。あまり顔色も良くないし、少し痩せましたね。テレイグでは痩せている女性はモテませんよ」
アナスタシアの言葉にクラリッサは眉を寄せた。確かにテレイグに来てから、きちんと食べているのに何故か痩せて来ていた。乳茶を飲めばいいのかもしれないが、手の中の乳茶はもう随分と冷めてしまっていた。
「冷めているのは体が冷えるから飲んではいけません。……あら?」
クラリッサの手からひったくるように乳茶のカップを取り上げたアナスタシアは、くんくんと匂いを嗅いで、綺麗な色に塗られた唇を窄めた。
「あらあらあら、これでは駄目!」
さっさと中身を流しに捨て、サモワールの蓋を開けると、横に置いてあったスパイスの瓶からガンガン中身を投入し始めた。更に砂糖も追加だ。
「まったく、スパイスも砂糖もケチってはいけません!とにかくたっぷり入れなければ!」
クラリッサどころかパーヴェルまでも目を丸くするほどにスパイスと砂糖を足し、それを再び煮立たせてカップへと注いだ。
「さあ、お飲みなさい!」
ツン、とスパイスの香りが鼻を刺す。
絶対に引かないアナスタシアに突きつけられてはどうしようもない。クラリッサはカップを受け取り、一口飲んで目を丸くした。
「え、なんで……美味しい……」
スパイスはかなりきつい。ピリリと舌を刺してくる。けれどその分、冬鹿の乳の生臭さがまったく気にならない。甘味もさっきより強いのに、不思議とちょうどよく感じていた。
一口飲んだだけで体の内側からポカポカと温まり始める。
「そうでしょう!何にでもちょうど良い分量があるのです。そして、ちゃんと意味もある。この乳茶は、冬鹿の脂肪分の濃い乳と砂糖の熱量で寒いテレイグで失われる栄養を補い、スパイスで体を温めるのです。クラリッサが痩せて来ているのは、それほどテレイグが寒いからですよ。だからこそ、テレイグではわたくしのような体型は少なく、また稀有だからこそ美しいのです!お分かり?」
「確かにアナスタシア様はすっごくお綺麗だもんなー!」
どん、と分厚い胸元を叩くアナスタシアにパーヴェルは林檎のような赤い頰をして見惚れている。
「寒い時に必要なものは何か、それを考えること、その答え。ほら、お勉強にも意味があるでしょう。そして、貴方に必要なものは何か。今の貴方の役目は、それを考えることよ」
クラリッサは黙ったまま美味しくなった乳茶を飲んでいた。
「それじゃあ、その内また顔を見に来ます。その時にはわたくしほどでなくとも、もう少し太っているといいですね!さてと、乳茶のことを伝えなければ。ストーブの魔法石といい、ケチり過ぎですわ!」
去りかけたアナスタシアは一度だけ振り向いて言った。
「そうそう、クラリッサ。貴方は計算がとても早いそうね。難しい数式も解いたのでしょう。教師もまだまだ伸びるだろうと、とても驚いていましたよ。貴方にもあるではありませんか!」
それだけ言うと、アナスタシアは来た時と同様に慌ただしく派手な足音を立てながら去っていった。
(馬っ鹿みたい。そんなおべんちゃらごときで私が喜ぶとでも思ってるの?)
けれど手の中の乳茶は温かく、クラリッサはもう先程までの寒さを感じてはいなかった。
「……なあ俺にも一口くれよ」
「いや」
「いいじゃん。俺のカップだぞ、それ」
クラリッサはパーヴェルに渋々とカップを渡した。
パーヴェルも一口飲み、目を輝かせている。
「うめえっ!全然違うなー。さすがアナスタシア様だ!」
「……もう体あったまったから。返すから全部飲めば」
「いや、一口って言っただろ。それにクラリッサ、ガリガリだもん。ちゃんと乳茶飲めって」
律儀に返してくるパーヴェルからまたカップを受け取った。
──そういえば、こんな回し飲みなんて、初めてだ。
こんな行為もバルシュミーデでは下品で汚らしいこととされていた。大人はもっと下品で汚いことばかりしていたくせに。
「なあ、アナスタシア様はすっごくお綺麗だけどさ、クラリッサもなかなかいい線行ってると思うんだ。もう少し太れば、だけど、顔は可愛いしさ」
「は?さっき可愛くないって言ったのはパーヴェルのくせに」
「なんだよ、さっきのまだ根に持ってるのか?違うって、そのさ、大人になったら、クラリッサと結婚してもいいぞってこと!俺、認証官になるもん。将来有望でお買い得だぞ?」
「何言ってるのよ。馬鹿じゃないの。アンタいくつよ」
「こないだ13歳になった!なあ、10年後に迎えに来てやるからさ!」
「……馬鹿みたい。わたし、もうすぐ17歳なんだけど。ガキなんてお断りよ」
女性の方が年上で4歳も差があるなんて、バルシュミーデではありえないことだ。
しかも10年後だなんて、かつてレイラに向けて言われていたより遥かに年がいっている。
パーヴェルは年相応にその唇を尖らせた。
「……なんだよ、べっつにそんな離れてねーじゃん。なあ、ちょっとくらい、待っててくれたっていいだろー」
「いやよ。私は待たない」
クラリッサは乳茶の最後の一口を飲み干して、パーヴェルの手に空のカップを押し付けた。
「……悔しければ、アンタが勝手に追いついてくれば?」
返事は聞かず、クラリッサは身を翻した。
寒く薄暗いテレイグの片隅で、クラリッサのバルシュミーデ風の金髪がキラキラと煌めいていた。




