第17話 衝撃!激突!レセプション(衝撃編)
新橋と浜松町のちょうど中間あたりにある『ホテルシングラー・インターナショナル汐留』。そこに隣接する、大きな曲線だけで構成されたような建造物が、『フィーデール・インターナショナル・ホール』だ。
老舗洋食レストラン『櫻華亭』が入っている、シングラーホテル系列の親会社、Fiedeal & Cinglar International Corporation(FCIC)が経営する、多目的劇場ホールである。
最新の音響・舞台設備を備えたメインの大ホールでは、国立交響楽団を招いての演奏会、イタリアオペラの公演、ブロードウェイのミュージカル公演など、国際色豊かに多種にわたって利用されている。またその他にも、バラエティに富んだ仕様の大小合わせて五つのホールがあり、セミナーや講演会、式典やパーティーなど、幅広く活用されているという。
七月下旬にオープン予定の洋風割烹『紫櫻庵-SHIOUAN』は、この『フィーデール・インターナショナル・ホール』半地下一階に広がるレストランエリアに、その看板を掲げることとなっている。
三ツ星フレンチレストランや、高級江戸前寿司店、某有名四川料理店など、高名どころが軒を連ねる激戦区に、いわば鳴り物入りでの参戦であった。
七月第二週水曜日、いよいよ『紫櫻庵』のレセプションパーティーの日がやってきた。取引業者などの関係者各位を招待した、プレオープンパーティーである。
会場は、中規模クラスのCホール。
本来なら、半地下一階にある『紫櫻庵』の店でやるべきパーティーなのだが、招待客の多さを鑑みて、このCホールを借りたらしい。
パーティーなどによく使われる天井高い豪奢な会場では、朝早くから様々な恰好の人々が、慌ただしく忙しなく動き回っている。ジャケットを脱いだワイシャツ姿の黒服、真っ白なコックコートに真っ黒のショップコート、完全フォーマルのタキシード姿まで。
柔らかな暖色系のカーペット敷きのフロアに、すでにパーティー用クロスをかけたテーブルがいくつも配置され、正面上座には簡易ステージにマイクスタンド、パーティー用花飾りは今ようやく搬入作業が終えたようだ。
そして、入り口側を除く三方の壁側にずらりと並べられた、ビュッフェ卓台。中にはその場で調理する物もあり、焼き台や揚げ台までもが設置されている。
これから順次、『紫櫻庵』の厨房内で仕込んだ料理や食材がここへ運ばれて来て、繊細に鮮やかに会場を彩るのだ。
「グラスは……これくらいでいいかな」
葵は丁寧に磨かれたビールグラス、ワイングラス、タンブラーなどを確認する。
今日のレセプションパーティーは “着席ビュッフェ” スタイルである。ゲストが自由に取ることができるバーカウンターも設置されてはいるが、まずは会場内にあるテーブル全てに、これらのグラスを並べていかなければならない。
今日は当初予定していたよりも三割ほど多い、二百名近くの招待客がやってくるらしい。その数のテーブルセッティングを完璧にこなすのは、なかなかの重労働で気が抜けないのだ。
「お、早いね、水奈瀬。じゃあ全部並べちゃおっか」
「はい」
「あ、小林ー! それ違ーう! 先に会席盆から! 裏のコンテナに入ってるから持ってきて!」
現場監督さながらに会場内を動き回りテキパキと指示を出しているのは、『櫻華亭』麻布店の穂積支配人。四十過ぎの壮年男性で、明朗快活といった言葉がよく似合う人だ。
葵は会議などで彼に会うたび、中学の時の体育教師を思い出す。厳しくも生徒に慕われていたところが何となく似ていると思うのだ。一緒に働く大久保恵梨の話だと、実際、穂積支配人も面倒見のいい熱血感溢れる上司なのだそうだ。
彼の他にも『櫻華亭』各店舗の支配人たちがリーダーとなって、各セクションの準備をそれぞれ分担して仕切っており、会場内はあちらこちらで慌ただしい声が飛び交っている。
そしてその一切合財を取り仕切る双璧が、杉浦崇宏と黒河和史だ。
目にも眩しい真っ白なコックコートを着た黒河和史は各ビュッフェ台を念入りにチェックし、同じコック着姿の料理人たちにあれこれと指示している。ここのチェックが終われば、彼は会場から少し離れた半地下にある『紫櫻庵』の厨房に入り、そちらで陣頭を取るのだという。
会場内では姿を見かけない佐々木チーフや国武チーフら大御所コックたちも、すでに『紫櫻庵』の厨房へ入っているらしい。
一方、杉浦崇宏は会場内全般を取り仕切っているようで、さすがに今日は無駄口を叩くことなく、真面目な面持ちで『紫櫻庵』の新支配人や鶴岡マネージャーとともに、各セクションを回っている。こうしてみると、いかにもやり手の指揮官に見えるから不思議なものだ。
そんな指揮官のもと、驚くほど多数の人間が働き蟻のように動き回っている。
『櫻華亭』ホテル店舗は本日通常営業のため、半分ほどの出席だったが、他の店舗社員はほぼ全員ヘルプとして来ている。古株ベテラン勢から今年入社したての若い子まで、そのうえ滅多にお目にかかることのない黒河紀生社長の姿までがあるとなれば、会場内に満ちる緊張感と高揚感は弾けんばかりだ。
ここまで大人数が集まる場は、葵にとっても初めてのことである。いつもは関わることのない他店舗の人々と、いつもとは違う業務をこなすのはとても新鮮だ。
テーブル一台、椅子一脚なかったガランとしたホール内を、絢爛豪華なパーティー会場へと様変わりさせていくその過程は、まるで運動会や文化祭準備のようなワクワクする楽しさがあり、葵も精力的に尽力した。
各テーブルに、指紋一つないグラスを決められた位置へ配置していく。
その作業を手早くこなしながらテーブル間を進んでいく葵は、同じくテーブルセッティングを手掛けているらしい一人の女性に気づく。
カトラリー類を配置しているのだろう。しかし、どこか自信がなさげで、時々顔を上げてはあたりを不安そうに見回している。
「……木戸さん?」
声をかければ、その女性、木戸穂菜美は「水奈瀬、さん……?」と、これまた自信なさげに呟いた。
「はい、慧徳の水奈瀬です」
ぺこりと頭を下げると、彼女はぎこちない動きで礼を返した。
「あ、私は、『グランド・シングラー赤坂』の……」
「木戸穂菜美さん、ですよね。今日はよろしくお願いします。……実は私、後で声をかけようかなって思ってました」
「え……?」
「ふふ、木戸さんとお近づきになれるチャンスをずっと狙ってたんです。でもなかなか機会がなくて」
冗談めかして言うと、木戸は少し驚いたような顔をしたが、ふわりと小さく笑ってくれた。
笑うとイメージが少し変わる。いつも不安そうで伏せ目がちな印象があったのだが、笑顔は可憐な花を思わせる可愛らしさがあった。
葵よりも背は低く、全体的に女性らしい柔らかそうな身体つきだ。明るい色味を使ったメイクは少なくとも葵より上手いと思う。
葵と木戸はぽつぽつと会話しながら、止まっていた手の動きを再開させた。
人見知りをする性格なのか、木戸は年下の葵にでさえおどおどと尻込みするような様子だ。だが、そこは気にせず屈託なく接する葵に、木戸も少し笑顔を見せてくれた。
「なんていうか……すごいね……みんな慣れてる感じで……私、こういうの初めてだから、よくわからなくって……」
彼女は不安気に辺りを見回して、ちょっと困ったように微笑む。
「私もですよ。こんなに立派な会場は初めてです。どんなパーティーになるか楽しみですね。あ、もちろんお料理も。パーティー終わったら、試食させてくれるかもしれませんよ?」
葵がにっこり笑うと、木戸もつられるように目を細める。
その木戸の瞳が、不意に葵の背後へ移り――、
「――水奈瀬」
聞きなれた低い声。
振り返れば、颯爽とこちらに向ってくる長身の姿。
ここしばらく電話連絡のみで慧徳には顔を出さなかったので、こうして直に会うのは久しぶりだ。
「黒河さん、お疲れ様です。……あれ? 今日は給仕にまわらないんですか?」
今日の侑司は白ワイシャツのみで蝶タイもしていない。
葵たち若手社員は、準備が終わり開場したら裏方に回ることになっている。だからと言ってどんな服装でもいいわけではないので、葵はいつもの白シャツ黒ズボンに黒ベスト、セミロングサロンなのだが、他の支配人やマネージャーは全員黒ジャケット、蝶タイ着用で完全な黒服姿となっている。
今日のパーティー給仕は、『紫櫻庵』の正式スタッフ(ちなみに『紫櫻庵』の制服はコックコート型のオールブラックショップコートと臙脂色のセミロングサロン……これがカッコいいのだ)と、黒服陣が行うと聞いていたので、てっきり侑司も給仕にまわると思っていたのだが。
「ああ、俺は裏方だ。表ばっかり人が多くても仕方ないしな……」
ちらりと遠くに走らせた侑司の目線を追えば、恰幅の良い体躯を完全タキシードに包んだ今田顧問の姿。正面のステージ脇で、黒服姿の徳永GMと機嫌良さげに話をしている。
“コンダヌキ” ――先日の飲みの場で、そう揶揄され大いに話題の中心となった今田顧問だが、会議以外でこうして同じ会場にいるのは葵も初めてだ。
もう一人の顧問である茂木は、先ほどクローク担当の社員たちと一緒になって、ニコニコと自らセッティングを手伝っていたのを葵も見ている。
同じ顧問でも、やはり諸々の違いがあるようだ。
今田顧問から視線を外し、葵は侑司を見上げた。
何となく……引っかかりを覚える言い方が気になったのだ。
――が。
「――あの、黒河マネージャー……」
不意に、葵の隣にいた木戸穂菜美がおずおずと声をかけた。侑司は初めて木戸の存在に気づいたような顔をする。
「今日は、FCIC関係者も出席されると聞いたんですが、本当ですか?」
「あ? ……ああ」
木戸は、揺れるようにフラ、と半歩前に進み出た。
「あちらのCEOも『櫻華亭』の料理は大のお気に入りなんですよね。『紫櫻庵』にもかなり期待されているって聞きました。すごいですよね、さすが『櫻華亭』です。赤坂にも何度か本国からチーフディレクターやゼネラルがいらっしゃったんです。こないだ来店したニューヨーク支店の方もとても満足して帰られて……」
「そうらしいな……ああ、水奈瀬。会場後はバーカンの裏サポート、頼んでいいか? 力仕事は諸岡や小野寺たちに任せていい。グラスの補充と、できればリカー類の補充も気をつけて見ててほしい。今日はワインだけじゃなく日本酒や焼酎もかなり種類が多いんだ……担当は柏木だから、詳しくはあいつに聞いてくれ」
「はい、わかりました」
「よろしく。――それから」
突然、葵の眼前に侑司の肩先がすっと近づく。え?と顔を上げた葵の耳に、侑司はぼそりと呟いた。
「……『兆京』の社長も来る。あとでこっそり見ておけ」
「『兆京』の?」
「ああ、あれは必見だ……一度見たら絶対に忘れられない」
「……?」
きょとんとしたままの葵を見て、ふ、と表情を緩めた侑司は、そのまま早足で去っていってしまった。
――『兆京』……って、五月に黒河さんと行った『兆京食堂』のことだよね……社長……社長……? 兆京精肉の社長ってことかな……?
「水奈瀬ー! それ終わったらこっち手伝ってー!」
すっかり手の止まってしまった葵に、容赦なくかかるお呼びの声。穂積支配人だ。
「は、はーい! 今行きます!」
慌てて葵は返事をすると、隣にいる木戸を振り返る。
「あ、じゃあ木戸さん、また後で」
にこりと軽く一礼して、葵は急いで残りのグラスを配るべく次のテーブルへと移った。
「……ええ、じゃあまた」
そう返した木戸は、ふわりと微笑んでいた。
* * * * *
「うわ……ずいぶん、おっきい人……ですね……」
「マジか……あれで “生肉” さばいてんだぞ」
「……ある意味…… “ホラー” だな」
バーカウンターの物陰から、こっそり場内を覗く八つの眼。
驚きと慄きで見開かれた視線は、会場内中ほどの席に鎮座する一人の招待客に集中している。
見事なスキンヘッドと顎の強髭、不自然な凹凸のある鬼面のような赤ら顔、立てばおそらく身の丈二メートル近くあるだろうと思われる巨大な体躯……
兆京精肉社長の姿を目の当たりにした、『プルナス』広尾店と表参道店の両店長、小野寺双子兄弟はその第一声で、「処刑人だ……」と見事にハモった。
だが、堂々着こなした薄鼠色の着物と、透けた黒の紗羽織が妙に品よく似合っており、見ようによっては僧侶とかにも見えなくはないな、と葵は思う。
「食肉について日本一詳しい男、らしいよ」
諸岡が苦笑しつつ小声で言う。
「その “食肉” ってのが怖いじゃん。きっと牛・豚・鶏だけじゃないね」
「ああ……ヘビとか、ワニとか……まさか、じん――、」
「――君たち、忙しそうですね」
パテーションの縁沿いに串団子状に縦並びした四つの頭のうしろから、静かだがぞくりとする声がかかった。
ツーポイントフレームのレンズがキランと光り、四人は慌てて顔を引っ込める。
『櫻華亭』本店支配人の柏木……まだ二十八歳という若さだが、現在本店を取り仕切る有能な人物で、葵も研修当時にお世話になっている。
「まったく……ゲスト相手に失礼です。心中で何をどう思おうと個人の勝手ですが、それをネタに一言でも発すれば、 “お客様に対する不敬行為” と見なされます。仮にもクロカワフーズのギャルソンを名乗るのであれば、絶対に慎むべきことです」
「すみません……」
四人のか細い声が重なる。
開宴してからしばらくは裏方もバタバタと忙しかったのだが、和やかな歓談タイムに入り会場が落ち着いたこともあって、少々気を緩めてしまった。
折しもそこへ諸岡が、「あれが兆京精肉の社長だよ」と、パテーションの影からおいでおいでをしたものだから、先ほど侑司に言われたこともあって、つい下賤な真似をしてしまった。
シュンと項垂れる葵の前で、柏木は呆れたような溜息を一つ落とす。
「まぁ、今日のゲストはどの方も、うちの会社にとって大切なお取引先さま、お得意様です。顔を覚えておくのは無駄なことではありませんが。どうせなら、FCIC関係者からチェックしていただきたいですね」
片眉をクイと上げて、柏木はさっさと持ち場に戻っていく。
小野寺1号が横を向いてベェと舌を出したのを見た葵は、「小野寺さん」と小声で窘めたが、小野寺2号と諸岡はブフッと小さく吹き出した。
「次の休憩はどなたですか? 後がつかえますので速やかに回して下さい」
咎めるように、再度キランと光ったメガネ。
葵は慌てて「ど、どなたか、お先に休憩どうぞ!……小野寺さん……えっと、どっちがどっちでしたっけ……」と、同じ顔の小野寺双子を交互に見比べた。
* * * * *
「広いなぁ……迷子になりそう」
高い天井と片側一面ガラス張りとなっている廊下を、葵は興味深げに歩く。
小野寺双子が続けて休憩を済ませた後、次は葵が休憩に出ることになり、緩やかにカーブする長い廊下の先にあるという、アトリウムオープンカフェに向かっている。
今日のパーティーヘルプには賄いや弁当といった類のものは出ないのだが、その代わりこの施設にあるオープンカフェを利用していいことになっているのだ。
中庭に面したガラス張りの廊下は、ほとんど人気がなく静かである。
ガラス窓から見える外はあいにくの雨模様で、中庭の木立の間に配したモダンな野外オブジェが雨に濡れていた。
幸い、地下鉄駅からこの『フィーデール・インターナショナル・ホール』までは地下道が通じているし、隣接の『ホテルシングラ―・インターナショナル汐留』とも連絡通路で繋がっている。駐車場も完備しているので雨でも便は悪くないが、招待客の入りは朝から心配されていた。
だが、開場してみればそれは杞憂だったらしく見込み通りのご来場数。いかにこの『紫櫻庵』が、各方面から大きな期待を寄せられているかわかるというものである。実際、レセプションパーティーはゲストの感嘆と称賛に沸き、大好評の様子だった。
――『アーコレード』にはない、絢爛豪華で煌びやかな世界。
ほんの少し、葵が距離感と焦燥感を覚えたのは、否めない。
木戸や柏木が言っていたFCIC関係者など、葵は顔も名前も一人として知らない。
『櫻華亭』の持つ格式と品格、一流のゲストと一流のギャルソンが培ってきた歴史とその重み、ハイクラスな雰囲気とグレード高いコミュニケーション……少なくとも、それらはどれも『アーコレード』慧徳学園前店にはないもの。
一流のギャルソンを目指すため、まだまだ勉強しなければならないことは山ほどある。確かに柏木の言う通り、興味本位に物陰から覗いている場合じゃないのだ。
先日の飲み会からだろうか、葵の中で時々、こういった “焦り” のようなものがほんの少し頭を出してくることがあって、その感情に戸惑いを覚える。大久保の一件や社内の裏事情を、図らずも聞いてしまったからかもしれない。
だがそんな時、必ず思い浮かぶのが、学生時代アルバイトしていた『敦房』、そしてそこにいた濱野夫妻だ。
素朴で庶民的だけれど明るく開放的な店内、常連客に芸能人や政治家などのVIPはいなくとも、皆が気さくに声をかけ合い、そこに集まる客も迎える濱野夫妻も、みんなが笑顔であった。
葵が創りたいのは、そういう店だ。――そこは変わらない。変えたくない。
クロカワフーズ本陣と自分自身の格差、齟齬を感じるたび、こうして己に言い聞かせるのは、ただの言い訳に過ぎないのだろうか。
「わ、すごい……」
たどり着いたオープンカフェは、上方四フロア分まで吹き抜けとなっており、天井部分はアーチ状に鉄骨とガラスを組み合わせた作りになっている。天井全面から自然光が入るので、天候が悪くても十分明るく開放的だ。
しかも、相当に広い。
このアトリウムオープンカフェも各種イベントで使われることがあるらしく、前方には大型液晶ディスプレイまで設置されている。
どこかで聞いたことのあるようなピアノ曲が静かにゆったりと流れており、昼食時間はとうに過ぎているせいか、平日ということもあってそれほど混んではいない。とても居心地のいい空間に思えた。
誰か休憩に来ている人いないかなー、と、丸テーブルが配置された広いカフェ内を見回したその瞬間――、
――……ぇ……う、そ……
ギクン、と、葵の全身が凍りつく。
上のフロアへ上がる幅広の緩やかな階段、そのちょうど脇のテーブルに座る、二人組のスーツ姿の男性。
穏やかな表情で会話する片方の、その横顔に、葵の視線は釘付けとなる。
――……うそ、まさか……だって……こんな所に、いるわけ……
身体全体が一個の心臓になったように、速い心拍音が膨れ上がって反響する。
財布を持つ手の指が、不自然に細かく蠢きだした。
じりじりと、何かが足元に迫ってくるが、足が縫い付けられたように動かすことができない。
じりじりと、それは這いあがってくる。硬直した身体に、さらに絡みつくように縛り上げるように……――その時。
視線の先の人物がにこやかな笑顔を浮かべたまま、まさにこちらへ向きかける――
「……っ!」
葵は弾けるように踵を返すと、元来た廊下を全速力で走り戻った。
――どうして……
走って走って、走って。
――こんなところで……
逃げるように、めちゃくちゃに走って。
――だって、あの人は……
弾き飛ばすようにドアを開けて中へ滑り込む。
――……名古屋に、いるはず……
大きく何度も肩で息をしながら、葵はずるずると女子トイレの中でへたり込んだ。




