後
光陰矢の如し、そんな言葉を酷く痛感する一晩だった。彼女に向けて何をすべきなのかを考えていたら瞬きをする暇もなく次の日を迎えていたような気さえする。思えば、彼女と初めて会った日普通の状態ではなかったような気がする。
迎えた最後の日、受験生にもかかわらず授業の内容は別の国に迷い込んだかのように意味不明なものにしか聞こえなかった。加えて特に何か考えが浮かんだわけでもなかった。
こんな風に、何もいい考えが浮かばないのは彼女との関係のありように関係するのだろうか。こんな時になって思うのもなかなかどうかとも思うけれど、彼女と俺の関係とは何なのだろう。
知り合いではあるのだろう。けれども、友人? 恋仲? どちらも違う気がする。直感的に否定できるのなら、きっと違うと俺は思う。
なんとなく、蛇足とは違う、けれども似たような何かに突き動かされて俺は彼女に会っていた気もする。しかし、彼女はどうだったのだろう。俺のことをどんな関係と思っていたのか。
それがわかればすべてが瓦解するのだろう。
そしてそんなことすらわからないから俺と彼女は繋がっていたのだ。そう納得しておくことにする。
保健室の扉に手を掛ける時、いつもよりも重く感じた。しかし、不思議とその感覚が気持ち良いともどこかで思っていた。だから力を入れてその扉を開け放った。
相変わらずテーブルには書類が多く置いてあるがそこに使用者はいない。だれも使っていないが締め切られているベッドももはや当然のように見える。しかし、初めて来たときと違うのは……そう、あのベッドだけが北極星のようにまるで違ったもののに映っている。
同じようで、同じじゃない。ベッドもそうであるし、以前の俺と彼女もそうなのだろう。
そんなことを思いながらいつもと同じように歩みを進める。足取りは重い、初めて来たときは体の問題だったが今回は違うのだろう。心の問題だ――――当然だと思っていた彼女との時間も今日で最後だと聞いて、少なからず動揺している。
気持ちに収まりはついていないけれど、時間は俺のことを待たない。それは彼女も同じはずだった。
彼女のいるベッドのほうを見るといつの間にか定位置となってしまったパイプ椅子が置いてある。一度も撤去されなかったことをいいことにそのままにしておいたのだった。
ベッドに向かって進む。心臓の鼓動がやけに早く、気持ち悪い。
色々な感情がせめぐ、そんなすべてをできるだけ気にしないようにしていると声が飛んできた。美しく、硝子のように透き通った声が。
「そこの君。暇ならお話でもしないかい?
演技掛かったヤツだとずっと思っていた。そして、これもきっとそういうことなのだろう。相変わらずだ、そしてそのあいかわらずが、この先どう変わっていくのかは俺には見えないのだろう。
そう考えると、少し寂しかった。
「とりとめのない話をしよう」
彼女は俺が座るなりそんなことを言い出した。意図は分からないけれど、それをわざわざ拒否するような理由はない。
「何かものを隠したい時って、一体どこに隠すべきだと思う?」
「ん……、物による、としか言えないかな」
「全体的にだよ。隠すものの種類はあれど、コンセプトはたいして多くないはずだろう?」
そう言われても、なかなか物を隠すことなんてないと思う。
「そういえば、ポーカーフェイスとも通ずるところがあると思うけど。ばれると困ることはあえて堂々とするといい、なんてことを聞いたことはあるぞ」
「つまり、隠すべきものをほかのものと同じように扱う、と?」
嘘もそんなものだろう。と思ってそう言う。
「怪しさを残さないって言うならこれが最善だと思うぜ」
「なるほどね……。木を隠すなら森の中ということか。けれど、さ」
彼女は、少しの間をあけて言葉を口にする。
「森の中でさえ目立ってしまうほど、変わっている人間になりたいものだね」
会いわからずなその言葉を聞いて、彼女の表情が目に浮かぶようだ。きっと、これ以上なく満足げな表情をしているに違いない。
「今日、ボクはここにいるけれども。出席はしてないんだ。いわゆる不法侵入ってやつだね」
曰く、新幹線の時間が夜遅くで昼間は両親も忙しいらしく、彼女は暇だったらしい。結局、習性は変わらないということなのだろうか。
俺は暇つぶしに最適だったのかもしれない。今日だけでなく、今日までのすべても。
「だから、ボクに言いたい言葉は今ここで言ってくれ。明日ならまだいるかもしれない、とかは論外だ」
とりとめのない話ではなかった。彼女はそんなことをいつもと変わらない声で言う。
何を言うべきなのか、悩んでも生まれないのだから、実際にこういう事態になれば何かしらは言うことができるだろうと思っていた。けれども、不思議と俺の口は動かない。
思考だけがぐるぐると回り続けている。
そんな俺の様子を見透かしているように彼女は言葉を投げかけてくる。
「……最後に聞くけれど。君にとって、ボクはどんな存在だった?」
俺と彼女……音鶴羽織は違うのだろう。けれども、きっと似ていたということなのかもしれなかった。
それを応えれば、彼女に抱いている気持がわかってしまう気がした。そして、それを俺は本能的に拒否していることがわかっていた。
渦巻いている勘定はきっと彼女に無益なものなのだろう。そして俺にとってもきっとそのはずだった。
だから、
「お前はさ、音鶴。俺が忘れていたことを思い出させてくれた――――大切な友人だ」
最初彼女に会いに行っていたとき、俺は過去の自分と似ていることに感心していただけだった。けれども、彼女の青青しい言葉の中に潜む純粋な夢は、俺を変えてくれたのだ。
俺は彼女を、尊敬もしていた。それだけは胸を張って言える一つのことだった。
「……そっか」
そんな俺の言葉を、相変わらず彼女はカーテンの中で聞いていた。そして、何ら変わらない口調でつぶやく。その響きに、期待外れだったという感情が見えていたのは気のせいだったのだろうか。
俺の混沌たる思考は彼女に伝わらず、ただ話し続けるのみ。
「なんだかむず痒いね――――こういう時には、感動するのが普通だと思っていたよ」
「――――普通は嫌いだろ?」
「……嫌いだけど、けれども頼りたくなる時はある。例えば、今とかさ」
いつもと同じような抑揚で、声で、彼女は俺に向けて言葉を投げかける。けれども、自分の気持ちを飲み込んでしまった俺にはすべてが刃物のようだった。わかっている。彼女が今言っている言葉はどれも真摯なものなのだろう。
そして、俺はそうではなかった。
彼女が言ってほしい言葉もわかっているのだ。けれども俺にはそれがどうしても言えない。
今ほど彼女の姿が見えなくてよかったと思うことはない。彼女の表情を見たら――――それが演技であろうとなかろうと、言ってしまいそうだったから。
そこまで志向が生き立つと、俺の体は天命を見つけたかのように立ち上がる。そして、保健室の扉に向かって走りだした。荷物はいつも以上に重い枷と感じられて、立ち上がってすぐに投げ飛ばしてしまった。
そんなにしてまでも、聞きたくなかった言葉があったのに、俺の耳は彼女の最後の言葉を聞いてしまった。
彼女が俺に見せる、最初の弱みを。
「…………止めて、くれないんだね」
止めたら、どうなるというのだ。お前は止まってくれるのか? 自分の夢をあきらめて、こんなところで俺と話し続ける時間を過ごしてくれるのか?
言いたい言葉は、意地でも言わなかった。
言えないから、俺はくだらない言葉で出ていくことにしてしまう。だれも望んでいない「ごめん」という言葉だけを。
三十分ほどの間のことだと思う。俺は自然と誰もいないはずの自分の教室に向かっていた。そして、そこに案の定誰もいないと知ると自分の机に座る込、外界を遮断するかのよう倒れこんでいた。
そして寝た。
三十分ほどのことだから、むしろ寝る前よりも体は眠気を蓄積させてしまっていた。けれどもリラックスになったのではないかと思う。
冷静になった思考は、それこそ冷静に先ほどの彼女との会話に思考をゆき時届かせないようにしていて、残っていたのは保健室で投げ飛ばしてしまった自分の荷物のことだけだった。
「保健室へ、行こう」
先ほどの来室が最後になるだろう、そんな直感は全くの的外れだったということなのだろう。おそらく、三十分も経てば近場の駅だかに彼女は移動しているだろうから会う可能性もない。
そんなことを思いつつ、俺の頭の片隅はささやいていた。知っていて、それを認めることが嫌に恥ずかしかったことを。
『違うだろう? お前は音鶴にもう一度会いたかったのだろう?』
知っている。そして、認めないこともない。
体が燃えている、そうとしか考えられないほどに俺の体は熱に塗れていた。血液が鉛とすり替えられているように体のすべてが重く、自身の吐息がのど元をくぐるたびに熱い不快感が間隔を染めた。
けれども、そんな感覚が高揚なのだと分かった時、それらは不快とは思えなくなっていた。夕焼けの染めるリノリウムの床を叩き割るように駆け、寝起きで倦怠感に包まれた体が悲鳴を上げているが構わなかった。
部活帰りの生徒の集団が階段を下りていくのを掻い潜り、転びそうになる体を強引に前へ前へと進ませる。
今にして思う。寝て起きたら後悔するようなことなんて、最初からしなければよかったのに、と。けれども、そんな愚かな俺のことを彼女が待っていてくれるというのならそれはどんなにうれしいことだろう。
それこそ青春だ。都合と、奇跡で作られた眩い幻想。
そんな不合理で、遠回りをして始まるものだっていいじゃないか。
そして、俺はついに保健室の扉の前へと立つ。疲れからか体で呼吸をしていて、ここ数か月で一番の疲労が体にのしかかる、が気にも留めない。
扉の取っ手に手を駆ける。いつも感じてる重さはどこへ行ったのか全く感じなかった。
そこまでくれば俺を遮るものなど何もない、ただ開け放した。
部屋の中のあのベッドは開け放されていて、そしてその中には誰もいなかった。
「っ…………」
当然だ、そう思う。喧嘩別れのようなことになってはいたが、彼女と俺の中とは精々が数か月の話である。今後の将来を分けるような機会を俺のために咲くような奴でもあるまい。
傷つくことなんてないさ。自業自得なんだから。
気にすることなんてないはずなのに。
「何やってるんだよ、俺はっ」
独り言なんて柄じゃない。わかっていても、言葉は意思に背いて飛び出していた。目の前にある現実が、理想とかけ離れてしまっていることに、理不尽な感情を抱いていた。
「聞いてやればよかったんだ。何も変わらないと知っていても、納得だけはするべきだったんだっ」
胸を満たすのは淀んだ後悔の波。
「……手紙?」
ソレを発見したのは、自分のカバンを探して保健室内を右往左往しているときだった。投げ捨てたであろう場所には鞄はなく。虱潰しにテーブルの下まで探してみたものの発見はできなかった。
最終的に、
『見てみるふりをしたけれど。アイツもいないんだし、見るくらいなら』
何かに言い訳をするようにつぶやいて、目をそらし続けていた。そんな彼女のいつもいたベッドに足を向けた。
見てみると。
『なんというか、そうとう改造されてるなぁ』
いつもカーテンで閉ざされていたその内側には、鶴というのだから鶴の恩返しのように素晴らしいものが秘められているのかと思えばそんなことはなく。描写することすら厭うような凄惨たるありさまだった。
簡潔にまとめると、クールな彼女にもガサツなところはあるといったところだ。
若干、残念。
そんな奇妙なベッドを上をじろじろと見ていると、枕の脇に俺のカバンが置いてあった。そんなところに投げ飛ばした覚えはないので、彼女が最後に気を利かせてくれたというところだろう。
そして、その鞄を持ち上げてみると、下敷きだった場所に紙片があった。唯一の希望、わらにもすがるような気持ちで俺はその手紙を手に取った。
『やあやあ、君がこの手紙を読んでくれていることを信じてこの手紙を綴らせてもらうよ。音鶴羽織だ。
『この手紙は急に書いたものだから、誤字とかは余り気にしないでくれるとうれしいな。もともとこんなドラマ的な演出なんてする気はなかったんだ。君のせいなんだよ? まさか学校で過ごす最後の時間が手紙の筆記で終わるとは思わなかったし……、そうでないことをボクは望んでいたんだけどね。
『君が素直なやつなんて思ってもないけど。ボクだって素直とはかけ離れているから、結局こうなったとは思うよ。つまり、あまり気にしないでくれ。
『なんとなく、簡潔にまとめたいのにうだうだと変なことで埋め尽くしちゃったね。時間はないから、伝えたいことだけ伝えるよ。
『何にも言わなかったら後悔するだろう? いや、して欲しいのかな。君にも………ボク自身にも。けれども、しないに越したことはないんだ。
『何から語ろうか、まあ、まずはあの日のことかな? ボクが君に話をしようと誘った日のこと。もしかしたらボクがいつもいつでもそう頼んでいたと思っているなら違うよ。逆に言えば、
あの日あそこにいたなら君じゃなくても良かったかもね…………ボクは君でよかったと思ってるけど。
『この前のオーディションに受かったからボクが東京へ行くって思っているだろう? 当然、ボクもそういったからね。けれど実際は君と会う数日前に受かっていてね。その時に東京へ来ないかって誘われたんだけど、待ってもらってたんだ。なぜかって聞かれたら、君はあきれるような理由になるんだろうけれどね。
『あのままこの高校での生活を終えるのは味気ない。そう思ったんだ。保健室にこもって何様のつもりだって話だけどね。
『だから、何か刺激がほしかった。特別な関係がほしかったんだ。
『一回だけ、つまり一人だけに声をかけてみるつもりだった。正直ダメもとだと思っていて、これが失敗したら屋上から花火でも打ち上げて転校しようと思っていたからさ。
『でも、あの日の君といったらさ。いやに本気に自分のことを話してくれてさ……嬉しかったよ、君には見えていなかっただろうけど、本当にうれしくて笑ってた。
『君はボクのことをかわいそうなやつ、というより自分を重ねていたようだけどね……だんだんと変わっていったようだけど。
『そんな関係を続けて、満足できたから。向こうへ行くってことを先方に伝えたってわけ。君に相談するべきだったかな? でも君はきっと言葉ではぶっきらぼうに「勝手にいけよ」とかいうんだろう? それは分かってたから……サプライズみたいなものさ。
『まあ、そんなサプライズのせいでこんなことになったともいえるかな。
『けどさ――――ボクはこんな結末は嫌だ。
『こんな身勝手なボクを赦して、それでいて君が何かしらの感情をボクに抱いてくれているならば、記してある時間までに書いてある駅まで来てくれ。
『僕の顔を君がわかるかどうかは知らないけど、まあ、頑張ってくれ。』
数十分前とは全く違う覚悟とともに、限界を迎えている体に鞭を打ち、保健室を飛び出した。
彼女の手紙の内容にあきれつつ、笑みの止まらない口角を俺は知っていた。
随分と時間に余裕を持ってるじゃないか、アイツ。
体力が底をつきかけているので、そんなつぶやきは口に出さない。彼女が書いた電車の時間は、彼女がおそらくあの学校を出た時間とは到底結びつかないような……例えば、三十分余計に時間をつぶしても走れば間に合いそうなほどに余裕の持てる時間だった。
意図的だろうけれど、そんな確率の低い…数十分以内に保健室に来る人間がいて、手紙を最後まで読んでくれる人間が、加えて走ってくれるなどという都合のいい偶然を彼女は信じたということだろうか。
どうだっていい、とも思った。
伝えたいことは生まれてしまった。それだったら、後悔することのないように、そうするだけだ。
鼓動は異常な速度となっているが、それが功を奏した。俺の眼には、暗い橙で染まる駅のホームが道路からかすかに見えていた。
夕方の時間帯は、人が多い。それはもはや波と比べられるようで、俺には彼女の姿を簡単には見つけられない。
彼女が刻んだ時間はもう迫っている。この駅の構造上、ホームはいくつかあるが階層もすべてが同じで、どこかしらのホームに出れば彼女を見つけることができるはず。数か月前、燃えるような視界が一瞬だけ映した彼女と同じ姿を。
祈るように俺は近くの階段から一つのホームへと駆け上った。
線路を隔てた、向かい側のホームに。
それをとらえた瞬間、駅に備え付けられている電光板を見て、時間を確認する。俺の記憶が間違えてなければ手紙に書かれていた時間は同じ。つまりは、いつ電車が到着しても全くおかしくないということ。
向かい側のホームまで移動する時間はなかった。
人も多く、身動きを十分には取れない。
呼ぶ声も届かず、ただ彼女をことを見つめることしかできない。きっと彼女から見れば、俺のことなど周囲のサラリーマンなどと見分けがつかないような状態に違いない。そもそも彼女が俺の顔を知っているはずもない、と思う。
けれども、あがいてみたくなったのだ。
彼女を見ていつも思っていた、かないそうになくてもあきらめないで思い続けることが必要なんだと、そう思っていた。
だからこそ、彼女にあこがれる時だってあったのだ。
だから――――。
そして、彼女がこちらを見て、微笑んだ気がした。
そんな、夢のような視界は電車の到着によって無情にも引き裂かれる。重量感を演出する轟音は聞きなれているはずなのに、今日はなんだか特別な悲劇的な音に聞こえる。
いつも通り、その電車はあっという間に線路を規定通りに駆け抜ける。幾たびも聞いたような錆くさい音が周囲に炸裂した。
そして、そんな喧騒が過ぎ去った時。彼女の姿は霞のように消え去ってしまっていた。意外に、そこに悲しいとか寂しいという感情は沸いていない。不思議と達成感が胸を満たしているのがよくわかる。
周りの会社員にとって俺はじゃなな障害物でしかなく、俺は川の流れに孤立する苔石のように佇んでいた。周囲から見ればただの奇妙な高校生に移っているだろう。今までなら、この場を早々に立ち去っているはずだ。
けれど、今はここが少しだけ愛おしかった。
電車が駆けて行った方向に目を向けると、最後尾の車両が少しだけ視界に映る。
「ありがとう、音鶴。お前のおかげで俺は、少しだけ青臭くなれそうだ」
それと、と続けようとして飲み込んだ。
そんな言葉はきっと、本人に言ってやるべきだと、そう思ったのだ。
だから、また逢えたら……いや。
「また、逢おう。今度は何も隔てずに」
大切な友人、あるいは親友に。この言葉を贈ろう――決して届かなくとも、諦めないことにきっと意味はあるのだ。




