前
ある少女の話をしよう。
他に誰もいない高校の保健室。俺と彼女だけがあの頃の保健室にはいた。そして、毎回戯言にすらなれないくだらない妄言について語り明かしていたと思う。
互いの姿をまともに見たことはなかった。茶番の世海感じるかもしれないが当時の俺たちにとってその形が最善だったと俺は今でも思っている。
声と、考え方。それらの身が彼女を構成している材料だった。それはきっと彼女から見た俺にも言えることだろう。
傍から見れば俺と彼女は似ているのだろう。趣味や思考がある程度似ていて、ある程度違っている。だからこそ議論をするにはちょうどいい間柄だった。
けれどもその違いは俺にとっては深い溝だった。彼女から見ればたいして深刻なものじゃないと思うけれど、俺にとってはその違いはとてつもなく強大だったのだ。
あの頃の彼女は輝いていて、腐った言葉を吐きつつもその意志は確かに前へと自分から進んでいた。
その姿は、俺の眼をよく焼き付けた。その痛みが伝播して一種の嫉妬すら抱いていたかもしれない。似ているのに、肝心なところで彼女は優秀だったのだから。
しかし、彼女にとって俺が抱いている勘定はそれとはかけ離れたものだ。少々の嫉妬で揺るぐ程度ではない、そんな感情。
彼女の名前は音鶴羽織。
俺が辿った道のりを、少し遅れて、大きく違って歩んでいた少女の名前だった。
体が燃えている、そうとしか考えられないほどに俺の体は熱に塗れていた。血液が鉛とすり替えられているように体のすべてが重く、自身の吐息がのど元をくぐるたびに熱い不快感が間隔を染めた。
リノリウムの廊下から鳴る音は頭の中を縦横無尽に駆けまわり、窓から差し込む光は目の奥当たりを鋭い刃で引き裂いている。
そんな症状を自覚すればするほどに体の熱が浮き彫りになり、症状は悪化しているようだった。二日酔いというのもこのような症状なのだろうか、などと無駄な思考が嫌に冴えわたるのも風邪気味だからなのだろう。
俺が朝学校に来た時から、倦怠感が襲ってはいた。しかし、高校の授業はあまり休むとその後に大きな影響があるので無理して授業を受け続けた。それが悪かったのか、昼休みのころには利息を大きく抱えて俺の体はなまくらになっていた。
本末転倒、だろうか。この体の様子では明日も同じように登校することは期待できない。
とりあえず俺は保健室へと足を向けていた。倦怠感が体の隅々まで染みわたっていて一人でこのまま帰るのが難しそうだったのだ。それに、うちの親が昼休みのような中途半端な時間帯に迎えの車を出してくれるとは思っていない。
一時的にでも体を休めるために、教師に許可をとって俺は保健室へ行った。
「失礼しまーす。ベッド借りてもいいで、すか…………? って無人かよ」
それから数分を経て、ふらふらと揺れる体を引きずって保健室へと着くと中には誰も居ないようだった。あるのはいくつかのカーテン付きのベッドや保険関連の本で絞められた本棚。書類や器具が置いてあるテーブルなど。特段変わったものはなく、肝心なベッドは全てが締め切られていて人がいるのか、とりあえず閉めているのかがわからない以上使うことはできない。
ぽつんと部屋の中央に乳白色のクロスを敷いたテーブルにはだれも座っておらず、とりあえずはそこに座るのが自分の体に良さそうだ。
そう思い至った矢先のこと。
「そこの君。暇ならお話でもしないかい?」
綺麗な声だ、俺はそう思った。朦朧とした五感の中へでもすっきりと入ってくる。そんな特別な声だった。
気怠い体を何とか動かし、声の飛んできた方向を見つけようとするもやはり誰もいない。ということはベッドの中の人物が声をかけてきたのだろう。
「どこ見てるかはわからないけど、ここさ。入口に一番遠いベッド」
それを聞いたところでわざわざ向かう必要はない、そして話す必要すらないのだ。けれども、その時の俺は何かに操られているのか、はたまたこの珍しい出会いの形に酔っていたのか。そちらへと歩み寄っていた。
重い体も不思議と軽く、厚さもどこかへと失せていて。俺はいちばん入口から遠い位置にあったベッドへと向かっていた。
「来た……みたいだね。ということはお話に付き合ってくれるのかい?」
「……疲れない範囲なら」
ふふ、それなら安心だ。と彼女(声質は明らかに女のものだが、断言はしない)やや嬉しそうに笑う。と言ってもカーテン一枚を隔てた先に彼女はいるので本当に笑っているかはわからなかった。
このカーテンを開け放ってもいいのかもしれないが、俺はそれをしなかった。面倒で体が重いから、というのもあるけれど彼女にはそれをさせない不可侵な雰囲気が確かにあるように思えたのだ。
「……開けないんだね」
「そうは言っても、開けたら開けたで嫌だろ」
「やってみなければわからないことはある。絶対はないんだからね、可能性は世界にあふれているんだ」
……こいつ、中々に青いヤツだな。この短い会話だけで俺にはその印象が強く刻まれていた。演技がかっているとでもいうのだろうか。話しているのが自分でなく他人なら俺はここから遠ざかっていただろう。
それでも、実際に話しかけられているとその印象も演技だけではないと感じられる。それは形容しがたい感覚で、スーパースターに人がひきつけられるものと同じことなのだろう。空のように青い言葉も、自然と耳を傾けてしまう。
そんなことを思いつつ、一枚隔てて彼女のことを見ていると、黙っている様子に違和感を覚えたのか言葉を続けてくる。
「今、残念なやつだと思ったかい?」
図星だった。いや、もしかしたらそういうことを言われ続けてきたのかもしれない。こんな態度を誰にだってとり続けていたら当然ともいえる。しかし、本人はいたって真剣なのだ。その気持ちは、身を裂かれるほど痛くわかる。
だから言うのだ。
「青い……痛いヤツだとは思ったよ」
「……んぅ、うん。そうだよね。やっぱり」
その声色は少し残念そうに聞こえて、だから俺は言葉をつなげる。
「けど、全然残念なんかじゃない。思春期なんて、それでいいんだよ。他人の指摘なんてはねのけて。自分の考えを貫いても」
それは彼女に言った言葉でもあり、過去の自分に言った言葉でもあったのかもしれない。それにしても、熱で頭を侵されてなければきっとこんな言葉を初対面の彼女には言えはしなかっただろう。
と、思った途端に自分が一番痛いことをしていることに気付いて少しだけ恥ずかしさを覚えてしまう。青く、痛く。そんな過去の自分が乗り移ったかのようだった。
「ん、ふふふ。へえ……」
そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、彼女は先程とは違う、気取っていないような笑いを一枚隔てた先でしていた。何がそうさせたのか俺にはわからないけれど。
そんな俺を置き去りにする間の先、彼女はこう告げた。
「君、良かったらさ。もう少し話していかないかい? できれば明日も、その先も」
ボクは君のことを気に入っているみたいだよ、彼女は自身をそう表しながら、弾んだ声で彼女はそう告げた。
俺と彼女の始まりは、そんな短い会話だった。
「別に具合が悪いわけではないんだけどね。少しでも変わったことをしたいんだ。どうせベッドなんて、この前の時くらいしか足りなくは成らないしね」
「……つまり、仮病か」
「仮病、しかし、数多の病に満ちているこの世界で一つたりとも、軽度でも一切の病気にかかっていない人間がどれだけいるのだろう。少なくともボクはその病の網から逃れられるほど幸運ではないと自負しているよ」
おそらく本人としてはこれが「決まっている」セリフなのだろう。満足げな表情が一枚隔てていても見て取れる。
「自分を特別だと思っているのか、そうじゃないのかどっちなんだ」
「多数派が常に普通というわけではないだろう。逆もまたしかり、ボクはいつだってボクひとりでしかない」
のらりくらり、たてつく言葉は全て的を射ることは適わない。どこか論点を外してしまい、結局は彼女のペースに乗せられてしまう。
そういうものなのだろう。きっと俺もそうであったはずだ。
「普通は嫌いか?」
「ん、そうだ……ね。好きではないかな。でも、それ以上に……普通でいる自分が嫌いだ」
その言葉の中に、俺は彼女の姿を垣間見えることができた気がした。
出会いの日から翌日。俺は何とか投稿することに成功して、放課後に保健室へと赴いていた。昨日の時には自分の体が次の日登校できるなんて思っていなかったけど、彼女のおかげか、俺の体は意外にも動き続けてくれた。
「それにしてもさ。俺は保健室登校なんてフィクションのものかと思っていたぜ」
話題は彼女の学校生活のことについてだった。どうやら彼女は昨日に限らず、恒常的に授業を受けることはせずに一日中保健室にいたらしい。
「火のない所に煙は立たぬ、というだろう。事実が小説より奇なりともいうね。おかしいことがあることはなにもおかしくは無いんだよ」
なんとも彼女が好きそうな言い回しだ。「ありえないなんてありえない」みたいな、矛盾を包容しているようなニュアンスの言い回し。かつてその道をけもの道にしてきた俺にはその気持ちが痛くわかる。
善悪ではない。どちらもあり得るのだと、そういいたいのだ。俺相手ではなく、世界を相手取っていってやりたいのだ。
変わっていてもいいのだと、そう証明するための思春期なんだ。俺は今でもそう思い続けている。
「ちなみに、保健室登校の生徒が授業を受けていないのに普通の生徒より成績がいいというのもボクは身をもって証明している」
「嘘だろ……」
青く、痛く、憎たらしい女子だった。
そんな彼女との会話で俺が今日得た情報といえば、彼女の名前は音鶴羽織だということだった。鶴の恩返しのような名前だな、と言ったら少し怒られた。
普通でいる自分が嫌い、そんなことを思っていた自分は昔確かにいた。一つしかない人生を生きていくのにカメレオンのように周りに擬態していく意味はないだろうと考えていたこともあった。
それを正義に、足がかりにしていたのもまた事実だ。
そして、そのことを思っていたのが俺に限ったことではなく、あるいはそんなことを気にせずとも生きていけることを知ってしまった時。俺は確かに何かを失ったのだと思う。
彼女がその道を遅からず歩むことになるのだったら、せいぜい俺はその思い出を少しでもいいものにしてあげたいと思った。
というのが俺の建前だ。
さらに翌日。俺は飽きもせずに保健室へと出向いた。傍から見れば俺は彼女にほれ込んでいることになるのだろうか。なんでもいいけど。
もはや俺の学校生活はあいつと話すために存在しているような気すらしてきているのは気のせいではないのかもしれない。
あいつにとってはそうではないのだろうけど。
「ほれ、進路関係のプリント」
「あぁ。そこのテーブルにでも置いといてくれ。どうせ保険医は午前中だけしかこの部屋にはいない」
それは保健室として機能しているのだろうか。と思ったがあまり気にせずに、話を進めていた。
「まさか、同学年だとは思わなかったぜ。受験を控えた三年生がふつう、保健室登校なんてしているとは思わないしな」
「ボクもさ。まさか保健室に異性に会うためだけに毎日訪れる男子が三年生だとは思わなかったさ」
減らず口の減らないやつだ。減ったら減ったで彼女らしくないのでこれはこれでいいとも思うけれど。しかし、思春期の最盛期を三年生で迎えるのも珍しい。そのころにはいろいろなものが見えて、色々なものが遠くにあるのを知るころだろうに。
事実、俺はそうだけど。
「それはともかく、進路か」
「進路だねえ」
音鶴に渡す用のプリントを手に持って、何べんも教師に言われた内容を流し読みしながらそんなことを呟いてみる。そこに書いてある書体は何ともそっけなくもあるが、書いてある内容は自身の未来を左右するものだ。
しつこく言われるからこそ、下手な決断を打つこともできない。今思っている結論はそうそう変わらないのだろうけど、決めることには躊躇してしまう。
「音鶴は何か決まっているのか?」
参考にしようとでもしているのだろうか、俺は。なんとなく変わっていて、昔の地震のような彼女に向かって俺はそう問いかけていた。
「何かって、何さ」
「大学だよ。三年生なんだから、来年の自分がいたい場所くらい考えてあるんだろ?」
そう返すと彼女は少しの間黙り込んだ。考えているのだろうか、そんなことを思いつつ自身の将来についても考えてみる。そうすると自身の将来に特に具体性のないことに気付いた。適当な大学で適当な就職活動をして、適当な結婚をして、適当に老後を迎える。そんなことしか思いつかない。
若干の悲嘆に俺が暮れていると、彼女が言葉を紡いだ。
「ボクはね、夢があるんだよ」
彼女は相変わらずの透き通った声で俺に、唐突にそう言い放った。
「夢、ね。」
保健室登校なんて決め込んでいる彼女には、特別な彼女にはそれがあるらしい。周りの話を聞くと最近の子供は将来の夢を持たないなんて言うので、案外彼女も持っていないのではないかと思ったがそうではないらしい。
だとすると彼女には何が似合うのだろう、あまり彼女のことを知らないので、何とも想像がつかない。
「意外かな?」
「まあ。でも公務員になっているよか、随分らしいと思うぜ」
同感だね、そう彼女はつぶやいた。俺のこういう発言も、彼女との会話をひたすら引き延ばす結果となっているのだろうか。ふわりふわりと、霧をつかむような会話を繰り返す。
そんな雰囲気にのまれてか、なんだか頭の奥が熱を帯びているような気がしていた。同時に何か大切なものを忘れているような感覚に襲われる。何だったか、その輪郭のみが見えていて何とも気持ちの悪い心情だ。
どこか頭が回転していないような気もしている。
「――――ぁな、今のところボクがなりたいのは」
靄のかかった意識に一筋の光線が差し込んだ。それども、俺の目の前しか見えないほど煙たい意識は完全には覚醒しない。
それでも、返答する。
「えっと、ごめん。聞こえなかったよ。できればもう一回言ってほしい」
「君、大丈夫かい? 調子悪そうだよ」
本心から気遣うような声が一枚隔てて聞こえてくる、そんなことも言えるんだな、自分のことにしか興味を持っていないんだよ思っていたよ。
が、今度は簡単には返答することができなかった。
ふらり、と。俺の体は人形の糸が断ち切られたように力が抜けて座っていた場所からもずり落ちてしま――――。
返答はなく、代わりに聞こえてきたのは大きな音だった。とても穏やかとは言えないような音が一枚隔てた先から響いてきていた。
ずっと、このカーテンから出て彼に会うことなんて考えてもいなかった。決まっていたわけではないけれど、大きな心残りになってしまうことは……なんというか、嫌だった。
何があっても出てやらない。そんな風に思ってはいたんだ。けれども、カーテンの先で何かが起こっているとわかったらボクの体は自然とベッドから飛び出していた。
カーテンを開け放し、外の光景をボクの瞳は捉えた。倒れる直前まで座っていたであろうパイプ椅子は上に載っていた大きな質量の移動によって倒れている。そこに沿うように彼は倒れていた。吐息は荒く、顔面に触れるまでもないほどに高熱を発しているのが見て取れる。
ここまで来てボクは気づく。
「一昨日、昼休みにわざわざ保健室に来ていたんだから気付くべきだったね……!」
そんなことを言っている場合ではない。そう自分を戒めて、ボクは保健室から飛び出した。
「やあやあ、久しぶり……かな? 元気そうで何よりだ」
「ああ、お陰様でな」
再発した風邪によって体を炎の魔物によって囚われてしまった俺。もとはそこまで大げさな風ではなかったらしいけれど、それを無理にこらえていたのがよくなかったらしく、二日とその後の土日を全て療養に費やす結果となってしまった。
本末転倒、非常に滑稽な結果となっていた。
あの倒れた後。俺は気づいたら保健室のベッドで寝込んでいた。俺としてはベッドの前で話していたらベッドの中で寝込んでいたという驚きの展開である。
うちの親は迎えに車を出すなんてことはなく、落ち着いたら自分で帰ってねという書置きに従ってその日は適当に帰った。帰宅途中は不思議なことにそこまで体調は悪くはなかったが、帰宅した瞬間体調が悪化して今日にいたるというわけだった。
不思議なことに、休んでいた数日間で一番気がかりだったことが。
「……お前のことだったんだよ、な」
「何だい。藪から棒に」
いや、別に。そっけなく見えるようにそう返す。なんとなく本心を悟られるのは恥ずかしかった。きっと、倒れてしまったあの日。保健室に向かわずそのまま帰っていれば彼女のことをここまで気にすることはなかったのだ。けれども、保健室で倒れてしまった俺は違う。
見てしまったのだ。音鶴の、姿を。
鶴の羽のように、美しい城に染まっている肌。薄い茶色で整えられたセミロングの髪の毛は若者らしいやんちゃな印象ではなく、むしろ特殊な西域のような内科を感じさせていた。すらりとした体形はボーイッシュとも言え、そのうえで女性らしさを併せ持っているように見えた。
なんというべきか、合っていたのだ。
言動から推測できる彼女のイメージに、彼女が彼女らしく生きる造詣がぴたりと存在していたのだ。
彼女は異質だった。うらやましいほどに。少なくともその時の俺にはそう見えていた。
「それで――――この前は何の話をしていたんだったかな」
「意識が朧だったからな。正しいか保証はできないけど確か、夢の話だ」
そうそう、相変わらずカーテンの一枚先で彼女は頷きながらそう言う。余り驚いていないその様子は、まるで覚えていたのではないかとさえ思わせるものだった。
「夢、ゆ、め。そうそう進路の話から、ボクの夢の話になったんだっけ」
「そうだったな。結局お前の夢は聞きそびれちゃったけど」
あまり記憶は鮮明ではなかったが、そういわれるとそうなっていた気がしてしまう。これを世間では悪癖と呼ぶのだろう。無論、俺だってそう呼ぶ。
「そうだったね。ボクはそのことをゆめゆめ忘れていなかったよ」
…………。
「……………………そうだったな。結局お前の夢は聞きそびれちゃったけど」
「や、やり直さなくてもいいさ。フォローのつもりなのかい? じ、自分の仕出かしたことくらい自分で落とし前をつけさせてくれ」
なぜか妙に遠慮しているような口調で僕にそう言う彼女。しかし、意図がつかめない。一切合切つかめなかった。
「なんのことだ? わけのわからないことを言うな」
「わ、わかってるんだろう……? うぅ」
新たに分かったこと。案外音鶴羽織という人間はおちゃめなところもあり、それでいていつだって孤高な台詞を吐き続けるような人間ではないということだった。
「夢の話だ。けれどもボクは思うんだ。人に物事を尋ねるならまずは自分のことについて話してくれ、と」
つまるところあの日のことを言い直す代わりに、まず俺の将来の夢から教えろということらしい。先ほどの負い目もあり、俺にはその言葉が命令のようにも聞こえた。
しかし、将来の夢とは何だろう。
高校生、それも最高学年ともなればおのずと自分のことは分かってしまう。何ができて何ができずに、何をしたくて何をしたくないのか。そんな自身の個性を知り絶望や希望を胸に抱えていくのだ。
そんな具体的に将来をイメージできるようになった今、俺には非現実的なものは望めなくなっていて、そんな中から選んだ夢なんてきっと音鶴の期待する夢ではないのだろう。
それでいて、音鶴はきっと持っているのだ。そんな素敵な夢を。
そのことが幸福なのか不幸なのかといえばわからない。しかし、ひどくうらやましいのは確かな事実だった。
「あったんだと思うぜ。けれど、きっと全部……消えた」
「消えた?」
ああ、と言う。疑問を持つ彼女にとってはきっとわからない話なのだ。それが善か悪かなんて関係なく、わからない。
「達観してる……いや、わかったような顔をしているというのか? ともかく、俺は自分に見切りをつけてるんだ。良くも悪くもここが限界、境界線だ、ってさ」
色々な夢はあったはずだった。けれども自分の力ではそこまでの橋を架けることができないと悟ってしまうのだ。能力や環境、それらを掻い潜ってその夢へたどり着くことができそうにない。そう思ってしまう。
それは音鶴には理解できないのかもしれない。保健室登校しつつ、成績も良い。余裕がある生活を送れる、つまり現実に困っていないのだから。
「客観的に見るなんて良いことはないんだよ。きっと……夢なんか持つにはお前みたいに、自分を信じなきゃいけないんだ」
「ボクが自分を信じてる、だって? そんな……」
俺の言葉は彼女にとっては意外のようだった。そうだろう、自分のことなんて案外自分ではわからない。けれど、才能とか能力ならば自分で見限ることができる。
「自分が何かになれる、そう信じれなくなって。俺の夢は消えてしまったよ」
こんなことを出会って数日の彼女に言うべきではない、そもそもそんなつもりはなかったのに。彼女と話しているとどうも隠している部分を引きずり出されてしまう。
まあ、青いのはお互い様だということなのかもしれない。
「別にね。そんなに夢を語ることに覚悟が必要だとは思わないけど……。まあ、それが君なりの結論ならば仕方がない」
何か思うことがあるような、そんな感触だった。そもそもこんな青青しい会話を平然と行っている人間に何か思うことがないのもどうかとは思うけれど。
きっと、彼女にもあるのだろう。
「そんな話をされるとボクの夢も語りにくいね……、まあ語るけれども」
ふぅ、と。少しだけ息を吸って彼女は言う。覚悟が必要札とは思っていないにせよ、他人に自身のことを告げるのには意外に勇気が必要だ。
数秒おいて、彼女は重い口を開いた。
「ボクは俳優になりたいんだ」
ハイユウ……俳優。
演技掛かった口調からは想像できなくもない夢だ、と思った。あの凛々しい体系からも案外向いているのではないかと思わせる気配は確かにある。
なるべくしてなる、そんな予感を他人に与えられる程度にはしっくりきていた。
「だから口調がそんなに演技のようになってるのか……」
「違うよ。……違うはず……うん?」
ふざけてみせたいのかどうかわからないけれど、カーテンの隙間から唸っているような声が若干聞こえてきた。そこは自信を持ってくれよ。そんなことを思う。
「違うんだよ。ボクのこの口調は……サイがツノをもって生まれてくるようなもの、つまり――――」
先天的なものということか?
「……運命さ」
ああ、やはりこいつの言動は何とも、らしい。一番似合っているような言葉を瞬時に選んでいる気がする。
しかし、これはかっこいいように彼女が言っているだけで実際は俺がはぐらされたという話なのだろう。治め方が妙に様になっていたので、それを詳しく突き止めようとは思わないけれども。
「じゃあお前が俳優になりたい理由も知りたい…………」
と、そこまで口にしたところで俺は不意に言いよどんだ。
「いや、これも運命ってことなのか?」
なんとなく、そう言っただけのこと。茶化すことと何ら変わりないその問いの何かが彼女の琴線に触れたらしく彼女の返答は少しの間を必要としていた。
その時の俺には……つまり夢を現実だけで考えてしまった俺では、彼女が何に悩んで、口にするのをためらっていたのかがわからなかった。きっと、それは親しさや近しさでは割り切れるものではない。そういったことに気付くことができなかったのだ。
プライバシーをさらけ出すことを恥ずかしがっていたのではなく、彼女はもっと別のことに恥を感じていたのだと。
「運命、じゃない」
透き通る声は少しだけ震えているように聞こえる。それでも俺を魅了し、言葉の先を渇望するには十分だった。
「運命なんかじゃないんだ。ボクは、すごいひねくれていて、矛盾しているようにも聞こえて、失礼なことを言うんだけどね」
越えがたい一線があったとして、彼女はそれを超えたようだった。
「演技なんて、結局は真実でない……作り笑いの延長上にあるものさ。けれども、研ぎ澄まされた演技は人の心を変える、変えてしまうんだ」
熱演、なんて言葉は聞こえがいい。しかし、それは人をだましているのと根源では変わらないということだろうか。しかし、それが俳優を目指している人物の言う言葉とは俺には到底思えないが……。
「ボクは完全な演技がしたい。今はできなくとも、いつかは。そして、そんな完全な演技だって結局は嘘で、だから――ボクがする完全な演技を見て、その上で否定してもらいたい。」
おそらく彼女の考えは受け入れにくいものなのだろう。極論とも言える。景気者と言い嘲笑って終わらすこともできるはずだ。そして、俺はそれをしてしまうような人間になったはずだった、のに。
彼女は続ける。
そんな演技だ、本当のお前を見せてみろ……なんて。言われてみたいのさ。
慣れない望みを持つことは嫌だった。挫折を予期してそれを避けようともせず、霞のような成功をつかもうと挑み続けるなんて阿呆のやることだと思っていた。
失敗は手痛く、そして成功は余りに遠すぎる。
だから俺はいつだってあきらめることから始めていたのに、彼女はそんな俺のことを知らないだろうに、甘美な道しるべを俺の前に与えていた。
そんな道しるべを、俺はどう思うべきなのだろう。
その日を契機にしたのかは明らかでないけれど、いつからか俺は彼女のことを特別に見ていた。思春期にありがちな、少女漫画風の感情ではないと思う。俺が彼女に抱いていた感情は、あこがれが近かったのかもしれない。
昔の僕に似ている、そんな彼女にあこがれていた……具体的に言ってしまえば、成長して現実を知っていきつつも自身の芯を持ち続けることができた彼女を羨んでいたのだ。
尊敬ならば美しい感情だろう、それがもし嫉妬の念ならば言うまでもない。
そんな両極端な判断を自分の感情に課すことすら俺にはできなかった。それもこれも彼女の人当たりが、霧のようなものだからだと思う。
彼女が単純明快な人間なら俺はひと月もしないうちに保健室には向かわなくなっていたはずだ。しかし、俺は案外長い間彼女のもとへ訪った。
きっと、彼女に対して俺がどう思っているのかが知りたかったのだ。きっとそれは自身のこの先を示すものとなるはずと考えていたのだから。
自分のためだけに俺は彼女に会っていたのだ。そしてそれが正しいこととは程遠く、すべきことがあるとしたら、それを見落としてしまっていることに気付けなかったのだ。
彼女のことをもっとよく見ておくべきだった、などということは俺が死ぬまで絶対に思いつかない発想だろう。彼女の心はやはりカーテンを挟んでいるようにしか掴めていなかった、だからこそ俺は彼女に興味を持っていたのだから。
彼女の心が俺に判らないように彼女もきっとそうだったのだろう。彼女には彼女自身がわかっていなかったのだ。
だからこそ、きっと俺たちは幸運だった。
「転校、するんだ」
その日、彼女は何の前触れもなくそう言い放った。
窓からはいつもと変わらない秋の黒の差した夕暮れが見え隠れしていて、ベッドはだれにも使われていなく、そして俺たち以外この部屋には誰もいなかった。
そんな半ば日常と化した光景に、そんな言葉が生まれた。
相変わらず透き通った声で彼女は、自身のゆく道を簡潔に言ったのだ。
「俳優を目指しているというのは知っていただろう? なぜ、という話もね。だからさ、初めてこの前オーディションというものを受けてみたんだよ」
すらすらと滑らかな声は、理解しようとする心の指先をすり抜けていく風のようだった。そんな出来事があるというのは分かっていても、現実味がなくとても目には見えない。
けれども、現実だ。
俺の心中を悟っているのか、否か。彼女はそのまま言葉を繋げていく。当たり前のことを語るように、淡々と。
「別に大きなオーディションでもない。けれどもボクのような素人にはかけがえのない重要なチャンスさ」
そう言われてみれば、五日の保健室で彼女は俺にそんなことを言っていた気がした。自信にあふれているでも、自嘲しているようにも見えない口調で語っていたことを。今にして思えばあれが彼女にとっての自信の表れだったのかもしれない。
淡々と、平静を装い傾奇者のような言動をとれることが彼女の自身の映し身だったのだろうか、などと思う。
そんな思考の方向がずれてしまうことも、俺の混乱が招いていることだった。
「一次審査を通った時、半ば当然とも思った。自身がなかったわけじゃあないからね。二次審査を通ると運が良かったと思った。自信と自惚れは似て非なるもので、ボクは容易く己惚れるような人間ではなかったのさ。そして、三次審査を合格して、別日の最終審査に通されたあたりから現実味がなくなった」
夢心地、というのはあのようなことを言うのだろうね。そう彼女は、一枚隔てた先で言い放った。その声色をいつもとやや違っているもので、当時の興奮や緊張(彼女が緊張したかはわからないが)が蘇ってきているのかもしれない。
そして、やや間をあけた後、彼女は声を続ける。
「それで、後日両手で数え切れる人数だけ集められてさ。演技やら動機やら、色々と求められたことをやってきたら――――合格と、それとスカウトされちゃった」
合格とスカウト、オーディションの詳しい詳細が分からない以上多くは言い切れないが、それが生半可な実力で適うことではないことは理解できた。
まさに規格外、それが彼女なのだろう。
そして、転校ということは。
「その事務所……それと育成するスクールが東京にあるらしくてね。だから、その……転校……しなきゃいけないんだ」
保健室登校なんていう馬鹿をやっている彼女を見ていると忘れそうになるが、俺たちは三年生である。時期も秋に近づき、保健室になんて籠っているようなときでは決してないのだ。
だからこそ、その転校は特に異質に光る。
彼女は要領がいいらしい、ならば高校を卒業した後にそこへ入るなどといった選択も十分に取れるはずだ。
それを彼女は何かに焦ったようにしなかった。いや、スカウトしてくるというのは一時的な話でまさに今すぐにでも東京へ定住すべきものだということでもあるのだろう。
そしてそれは、この大学受験でどこかしらには受かることのできる状況をかなぐり捨ててでも彼女にはほしかったものらしい。
なんだか、気に入らなかった。そして、その原因を突き止めようとする心すら気に入らず、透けるはずもないカーテンを強く見つめていた。
言葉を絞り出すため、何かに縋り付くため、自分の思考がだんだんと汚泥に塗れていくのを感じながら精一杯の強がりを言葉にする。
「―――ーいつなんだ? 転校」
彼女はその言葉を受けて、やや不自然な間をあけて、答える。
「……明日の金曜日、それが最後の登校日って感じかな」
そうか、それだけ返す。
気付くと俺の体は保健室の、学校の敷地内から飛び出していた。何かに突き動かされながら、その正体はまるで分らなかった。
足早に駆けると、風の一部になったかのように錯覚する。思考もそれに追随するように進んでいく。付き合いが長いわけでもない。三年間同じ学校にいても存在すら知らなかった。そんな彼女がただいなくなるだけで、変わったのは俺の視界だけだというのに。
不思議な気持ちだ。ただ、そんな気持ちに浸るのは嫌だった。だから、なんとなく理屈をこね続けている。納得して、理解するために。
そして、その中に裏切られたという考えが過ったのが酷く気に入らない。
何がって、自分が。




