35話 慣れないこと
だって、あのまま私が驚いて声を出さなければ口づけをされていたかもしれない。
旦那様に口づけされるのは嫌……ではない、と思う。ただ、そこに自分と同じ気持ちがあればいいのになとは思ってしまう。
過去のことを思い返してみても、私たちにとってそういった行為は子供を産むための、ただの作業のようなものだった。過去はそれも結婚をしたからには必要なことだと思って受け入れていたけど、今はどうだろうか。そういう話は今世ではまだ出ていない。でも、もう少しすればそういう話も出てくるはず。いざそういう話が出てしまったらどういう顔をすれば良いのだろうか。そもそも、受け入れることができるのかも不安だ。
過去では気持ちがないからこそ、ただただ我慢をして受け入れていた。でも、今は旦那様のことを好きになってしまっている。私には気持ちがあるのに、旦那様の方にないとすれば、それに耐えることができるのか……。
(考えていても、無駄かもしれない)
今はまだ、そんな話すら出ていないのだから心配する必要はない。
でも、どうしてもあれこれ考えてしまう。これが恋をした人の気持ちなのだとしたら、なかなかに厄介だ。彼に抱かれるのに、彼には私に対する気持ちがないとわかれば精神的に辛い。ただただ我慢をしていた時の方が精神的に楽な気さえする。
そんなことを考えながらモヤモヤとしていると、部屋にノック音が響いた。
「奥様、リリーです。お部屋に入ってもよろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
ベッドに寝っ転がったままでは格好が悪いので、ゆっくりと起き上がってから返事をした。
失礼いたします、と言いながら入ってきたリリーはベッドに腰掛けている私を見て少しだけ不思議そうな顔をしながら、こちらに近づいてきた。
「新聞社のソフィア様から手紙が届いております」
「もう? 早いのね」
手紙を受け取り、ペーパーナイフで封を切る。
手紙を読むと、次の打ち合わせ日の知らせと、その打ち合わせの際に新作の原稿を持ってきてほしいことが書かれていた。きっと、その時に以前提出した原稿の加筆修正もお願いされるだろう。
旦那様のことで悩んでいても、仕事は待ってくれない。夜会でのあれこれのせいですっかりと忘れそうになっていたが、小説の仕事もあれば投資の確認もやらなければならない。続編の売上で今後の小説家としての動きも変わってくるので、気合を入れて動かなければならない。
新作も持ってきて欲しいということは、ソフィアさんは新作の出版を前向きに考えてくれているのだろう。その期待を裏切るようなことはしたくない。
手紙を閉じてから、リリーに紅茶を淹れるようにお願いする。打ち合わせ日までそんなに日がない。少しでも作業を進めなければ、後々大変になるのは自分だ。
「すぐにご用意いたします。軽食もお持ちしますか?」
「そうね……お腹いっぱいで眠くならないよう、少しだけお願いするわ」
「かしこまりました」
リリーが部屋から出ていくのを見送ってから、自分の原稿が入っている棚を確認した。以前書いた作品を取り出し、読み返すことから始める。
大幅な修正はいらないとはいえ、自分で矛盾点や違和感を探さなければならないのは結構難しい。自分の中で物語の筋や流れは組み立っているものの、その全ては読者にはわからない。そこをわかってもらえるように、意図を汲み取ってもらうためにはいかに違和感なく、読みやすく書けるかが重要になってくる。時間が経過した上で読み返すと、自分の粗がよく見える。
(この部分を直して……この文章は使いたいけれど、ここで使うには違和感があるわね)
赤色のインクを使い、修正を書いていく。
ページ数が多いため、結構根気が必要な作業だ。自分で自分の作品に向き合うことは小説家として必須なことだけれど、この赤入れの作業はいつもソフィアさんがやってくれている。私はそれに合わせて修正や加筆をするだけだったので、こうやって自分で最初から読んで赤を入れるのは初めてだった。自分が書いた文章だというのに、時間が経過すると記憶から抜け落ちている部分もある。自分で書いたというのに違和感を感じたり、何故この文章を書いたのか思い出せないものもある。これはなかなか、しんどい。
作業をしていると、リリーが紅茶と軽食を持ってきてくれた。作業の邪魔にならない場所へ置くよう指示をし、リリーには少しの休憩を言い渡した。
一口分の紅茶とサンドイッチを口に含んですぐに作業へと戻る。ゆっくりと休憩するのは、ひと段落ついてからがいい。
部屋にカリカリとした文字を書いている音が響く。いつもとは違うリズム感に、少しだけ疲れてくる。
(……まずいわ)
しばらく作業を続けていたものの、集中しているその瞬間は平気だというのに、慣れない作業で集中力が途切れそうになる。そして、脳裏に出てくるのは旦那様のこと。
私って、こんなにも恋に振り回される女だったのね……。
自分のことで新たな発見をしても、あんまり嬉しくない。恋愛に現を抜かすような立場ではないというのに、頭には旦那様のことが浮かんでしまう。
あまり集中できなくなってしまい、諦めてペンを置くことにした。切り替えるためにも軽食と紅茶をゆっくりといただくことにする。セットをソファがあるテーブルまで運び、ソファに腰をかけた。すると、急に肩あたりが痛くて重くなった。
肩に力を入れながら作業をしていたらしく、肩が凝ってしまった。参ったものだ。
自分で軽く揉み解したあと、軽食に手をつけた。黙々と食べ進めるが、そのせいで食欲に火がついてしまった。軽食を食べ終わったというのに、お腹はいまだに空腹を訴えている。こうなると、作業に戻ったところで集中できる気がしない。
ちらりと作業机を見る。今日に予定していた量を若干ではあるものの、越えることはできた。早く仕上げたいところだけど、こんな空腹状態では集中することなんてできない。
今日は自分を甘やかしてしまおう。また明日、朝から頑張ればいい。
はしたないけれど、ソファの背もたれに背中を預ける。
(……旦那様は、私の気持ちを知ってもそばにいてくれるのかしら)
気持ちが通じ合えばいいと思うが、そうもいかない。
でも、この気持ちを抑えたまま夫婦生活を続けることは果たしてできるのだろうか……。
(貴方のことをお慕いしています、なんて言ったらどんな反応を見せるのかしら)
驚いた後に、そんな気持ちを君に抱くことはないと、冷たくされてしまうのかしら。
そこまで考えて、自分がそこでどれだけ落胆してしまうのか想像してしまった。きっと、仕事に集中できなくなる。でも、失恋をした人の気持ちを理解できるようになるのかもしれない。そういう意味では、仕事に役立つ感情なのかもしれない。
そんな現実逃避をしたところで意味なんてないのに……。
ソファに寄りかかっているからか、少しづつ眠気が襲ってくる。少しだけ、このまま仮眠をしてしまおう。起きた頃には少しくらいは頭がすっきりとするはず。
誘われる眠気のまま、ゆっくりと目を閉じる。
慣れない作業に疲れたのか、はたまた旦那様のことで考えすぎたのか、仮眠にしては深い眠りに入ってしまった。
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