幼い私に正解を
はぁ、と大きく吐いた息は白く煙って空気に溶け込んでいった。
珍しく残業なしで定時に帰れることに、気分が浮つかないわけではない。それが今日でなければ。
真冬の夕刻に差し掛かるこの時間に、墓地に足を向ける人は少ない。向かう途中の道路でさえ車通りが少なく、それが一層この高台に広がる霊園の静けさを際立たせているように思えた。いくつも立ち並ぶ墓石の間を抜け、見慣れた家名を刻む一つの前で足を止める。そこには手向けられる花も線香も何もない。
あの人も、忘れてしまったのだろうか。墓前にそっと花を置き、しゃがみこんで手を合わせ、目を閉じた。私は忘れられそうにない。それとも忘れられないからこそ、ここへ来てはくれないのだろうか。私を、まだ憎んでいるのだろうか。分からない。きっと、分かる日も来ない。
今日でちょうど10年だ。私の大切な弟が死んで、それだけの時間が流れた。
中学生だった私はそれなりの社会人になり、ただ一人の家族といえる母は、母は。どうしているのだろう。高校を出てから顔を合わせたのは片手で足りるほど。それも私が就職して家を出てからはそれきり。
閉ざした暗闇の中にいつかの母の姿と言葉が浮かんで、消えた。
なんであなたが、
「……なんで、わたしが変わってあげられなかったんだろうね」
泣き濡らした顔で項垂れながらボソリとつぶやいた母の言葉。体からなにか大切なモノが抜け落ちたみたいに丸められた背中にはまるで生気がなくて、喪服姿のその女が私は、怖かった。
その一言が自分に向けられたものであるということが、理解できなかった。受け止めきれなかった。何を言っているんだ、って思った。お前だけ悲しいと思っているのか。私には悲しむ権利すらないのか。見慣れた生みの親の惨めな姿に酷く苛立った。泣きそうだった。泣いてしまいたかったのに、涙は出てこなかった。苛立って、それでも向けられる「憎しみ」みたいなものを拒みきれなくて、苦しかった。ただひたすら苦しくて、それでいて胸の何処かが吹き抜けみたいにひゅーひゅーと鳴っていた。
握りしめた制服のスカートがごわついていて不快で、この世界に神様なんてものがいるのかどうかは知らないけれど、涙雨の降る1月の夜は凍えるほど寒くて、斬りつけられたみたいに胸が痛かった。
すべてがグシャグシャに壊れてしまったんだと思う。あの日、あの時。
ぽとり、冷たい雫が合わせた手の指先に落ちてきた。閉じたまぶたを開いて空を見上げる。
あの日と同じように、空が泣いていた。
目が、醒めた。
心地よい眠りから無理やり引きずり出されて、背中を引っ叩かれたみたいに、一瞬で眠りから押し出された。勢いづいて起こした体をそのままに周囲を見渡せば、明け方の鋭い光がカーテンの隙間から差し込み、見慣れた居間の中を薄暗く照らしていた。小さな寝息が聞こえる。振り返ればそこには昨日拾った麻袋・・・もとい、妙な子どもが安らかな顔で眠っている。何故かそのことに私は安堵した。
よかった、ちゃんといてくれた。
口元が緩んで、笑みを浮かべたままそのあどけない寝顔を見つめて、そこにもう一つの思考が飛び込んでくる。なにが、誰が、居てくれた?もう居ないはずなのに。それは遠い昔に、失ってしまったものなのに。
「……い、たい」
頭の奥が鈍く痛む。レシュハルナは思わず頭を抱えて、いつの間にか足元に掛けられていた毛布に顔をうずめた。ああ、そうか。理由も根拠もないことなんて苦手だけれど、不思議とそれだけは理解できた。
「私」が私でない理由。私が、「私」であったこと。
それは夢でも妄想でもなく、どこかで、いつか確かに存在した現実なんだと。
顔の見えない「私」が可哀想だ。だって彼女は、何も悪くない。何も悪くない、はずだよね?
レシュハルナは年の割に大人びていて、頭のいい子供だけれど、家族というものに縁がない。家族といた記憶もないし、その分悲しんだり、苦しんだりしたこともない。気がついた時には幼い子どもたちと小さな施設の中で身を寄せ合っていて、ある日、なんだかなよっとした男の人が優しく笑って手を差し伸べてくれるまで身近な存在、という意識すらなかった。だから、はっきりと断言できないのだ。
「……誰も悪くない、よね?」
大人になっても泣いている「私」も、悲しみ故に辛辣な言葉で私を傷つけた母親、という存在も悪くなんてない。仕方がない。そう言ってあげられない。
導き出せない答えに頭を悩ませ続け、結局それはいつもの過激なモーニングコールがないことで訝しんだ師匠が声をかけてくるまでレシュハルナは暖かい毛布に顔をうずめたままだった。




