[81] 王と信仰
「これでお顔を冷やしてください」
「ああ、すまんな」
私は濡れた布を手渡した。
それを頬に当てて、リカルドさんは苦笑する。
「顔を殴られたのも久しぶりだ。しかもまさかあいつに殴られる日がくるとはな。それにしてもユカ様、ちいと甘やかし過ぎちゃおらんか?」
「そう見えます?」
「ああ、なんだあの坊主のべたつきっぷりは。執務室にいる時は以前より数段雄々しくなって見直しておったのに」
「そうなんですよね。ただあの瞳を見るとつい……」
肩をすくめるとリカルドさんが苦い顔をしてみせ、私は口元を押さえて笑う。
「ところで、近くはないか?」
「そうですか?隣は酌をするのにちょうどいいんですよ」
ユリウスが座っていた場所をリカルドさんに勧め、私は同じ場所に腰を下ろした。
空になった互いの杯に次の酒を注ぐ。
横に座ったのは、雑誌の恋愛心理学の特集でよく見かける、親密度をあげる座り方。
私があえてそうしたのは、別に口説こうというんじゃない。
私は肉親に近いユリウスと違い、彼と出会って間がない。
その彼から主人の秘密を聞き出すために、少しでも彼との距離を縮めたかった。
「そういえば、例の西園はどうするか決めたのか」
「ええ。ページが墓守を続けることを希望しました。改めて神官長を内密にお呼びして、鎮魂の祈りしていただくことに。子ども達は西にある王の直轄領に館を買い住まわすことにしました。後宮の賢女達も南の農村に古い屋敷を買い皆を移します。お年寄りには温暖な気候の地上で暮らすほうがいいかと」
「そうか、子どもらを外に出すか」
「ええ、城との直接の繋がりの無いカイルの手の者が手配してくれ、新しい私設の孤児院として開業させる準備をしています。もちろん子ども達は今まで通り素性を知らされずに過ごしますし、経費も篤志家からの援助ということでユリウスの私的財産から出してもらいます」
「なるほど、それならあの子達も外の世界を見ることが出来るな」
「もちろん箱庭の中に比べて、社会の厳しい現実にも直面することになると思いますが……」
表情の変化の薄い無口なエニーの手で養育された大勢の子ども達は、皆一様に大人しく無口だった。
無口というよりも、あれはコミュニケーションの不足からの、ことばや知能の発達が遅れているんだと思う。
新生児や乳児の次期のスキンシップやコミュニケーションの不足は、整った環境であっても死亡率を倍に増やすことになるほど重要だと聞いたことがあるから、約四分の一の子どもが亡くなったのはそこが関係しているんじゃないかな。
後は彼らが生る喜びを知り、それを謳歌してくれることを祈るだけ。
私は瓶から琥珀色の液体を杯にそそぎ、そっと啜る。
「女にしては良く飲む」
「リカルドさんこそお強いですね。安心して隣で飲めますわ」
既に、私達の前にある新しく開けた麦の蒸留酒の瓶が半分空いていた。
頬は殴られたために紅潮しているだけで、本人はほとんど酔った様子がない。
それでも、普段に比べればだいぶ語調がやわらかくなった気がする。
私も頬が多少熱くはなっているけど、まだ頭はしっかりしている。
「それで、俺に何が聞きたいんだ?」
「ちょうど私も切り出そうと思っていたのですよ。そうですね、私が伺いたいのも先王のこと。王は、神をどう思っていたと思いますか?」
テーブルの上の杯を持とうとしたリカルドさんの手が止まった。
そして値踏みするかのように私の顔をのぞきこんだ。
「なぜ」
「なぜと言われましても。王が私に『神などただの信仰』と仰られたので。なぜ王は神の存在を信じるこの国で生まれ育ったのに、そのような異端な考えを持つようになったのか、という質問に変えましょうか」
「……異端、確かにそうだな。王は、表立っては変わらず敬虔な信者でいらしたが、10年程前から、ほんの身近な者の前でだけだが、時々そのようなことをおっしゃった。神を冒涜するというよりも、距離を置いているようなことをな」
「それはなぜ?ねえ、知っていることがあったらなんでもいいんです。教えてください」
私は知らず、彼の上着に取りすがっていた。
その手を、固く温かい手が包む。
「まあ待て、落ち着け。何をそこまでこだわる。神の存在を疑ったことは俺はないが、戦の中で死線をさまよい絶望を感じた者が、神を見放し存在を否定することは少なくない」
「いいえ王は『国祖が作り上げたまやかしだ』と口にしたのです。私の元の世界では、太古から様々な神がいてその数だけ信仰が生まれた。信仰の対立から多くの血を流してきた歴史もあるわ。その中で信仰からも距離を置いている人達が口にする言葉をこの国に生まれ育った王が口にした。彼はいったい何をしってるんでしょう」
私は続けて言葉を発しようとし、ためらった。
「なんだ、今更臆すこともない、言ってみろ」
「私は、神がもしいるのならと祈ることはあっても、存在を信じたことはありませんでした。でも、この世界で、神の意志で召喚された自分という『神の存在証明』をつきつけられ、信仰は持てなくとも存在を受け入れました。だけど、その神が実在しないのなら、何が何の為に私をこの世界に連れて来たのか」
感情が昂りかけ、私はほっと深く息を吐く。
リカルドさんは、私の言葉にひどく考え込んでいた。
「なるほど、それで王が神の存在を認めなくなった理由を知りたいのか……。俺は、さっきも言ったように、戦地で様々な地獄絵図を見て来た。そのせいでフランシス様はああなってしまわれたのだと思ってたんだがなあ」
「何か王が書き残したものや気にしていた場所、何か、手がかりはありませんか?」
「それで、それを見つけ、真実を知ってどうする」
「それが何かわからない以上、どうするかはわかりません。ただ、今は知りたい。私が全てを捨ててここに来た理由が他にあるなら」
家族や仕事、友人、全てをいきなり取り上げられこの世界に来た。
私はユリウス花嫁として王妃になる為に。
だからその神が定めたという道を全うすることで、その喪失感を埋められるのではと思おうとした。
身一つで来たこの世界に存在証明を残したいとも思った。
事実を知り、もし王がいうように神以外のものの手でもたらされた存在だったら、私はどうなってしまうだろう。
次期王妃の、ユリウスの運命の花嫁の資格を剥奪される?
アザミ文様の金の冠と指輪を取り上げられた後どうする。
何度も覚悟し必死に積み重ねてきたものが、ここまで来てまた全て失うのは恐い。
恐いけど、それでも知りたい。
さっきからリカルドさんの袖を握りしめたままの拳が、葛藤の末の覚悟に震えた。
あまりに必死な私の様に、彼は私の肩を優しく抱いた。
「フランシス様はあの通り、日記なんて書く柄じゃなかったからな。だが秘密の部屋を持ってたと思う。深夜、火急の用で王の部屋を訪れると姿がなかったことがあった。護衛もつけずに抜け出していた。護衛が言うにはそういうことが度々あったらしい。王は自分の亡き後、ユリウスに王のみが譲り受ける『王の記憶』と呼ばれる書物を遺している。本来は口伝で伝えるべきもまで書き足しておいたと言っていた。もしかしたらそこに書いてあるかもしれん」
「『王の記憶』ですか」
「ユリウスに頼んでみるといい」
「ありがとうございます」
リカルドさんは私に杯をつきつけた。
私はそれを受け取り、こくりと喉に流す。
既に麻痺しかかってるはずなのに、灼けるような熱が体内を降りていく。
「あんまり一人でなんでも突っ走るな。むしろ、ユリウスを先に歩かせて罠避けにつかうくらいの気持ちでいけ」
「ふふ、次期王にひどいこと言いますね」
「俺はフランシス様の時と何も変わらんぞ。さて、美味い酒を馳走になった。もう遅い、そろそろ退散させていただこう」
「遅くまでお付き合い頂いて、ありがとうございます」
「俺は、ユリウスが王に、ユカ様が王妃になった世が見たい。皆がそう思ってる。神が望むのと関係なくな。それは忘れないでいてくれ」
リカルドさんが去った後、私は一人杯を弄びながら彼の言葉を噛み締めていた。




