7 友達………をつくろう
その頃には父と母は離婚して、母と弟とアタシになっていたが、奨学金で大学を出た後もアタシは生まれ育った団地には帰らなかった。自分で食事を用意して掃除洗濯をする労苦は、家族と暮らす苦痛に比べれば大したものではない。そうして距離をとる事でアタシの中身はほんの少しずつ修復されて、完全に無力であった赤子の頃に乳を含ませ尻を拭いてもらったのは否定のしようがない事実だと気付かされもした。
母から毎日のように電話がかかってくるようになったのは、弟が大学入試に失敗し続けていた頃からだ。「男は大学に行かなくっちゃね」弟は三流の大学に二浪してなお職に就こうともしなかった。母がアタシのアパートに仏壇と布団を送りつけてきてそのまま居座ったのはその後。弟に柔道の技をかけられて、肋骨にひびが入ったのだそう。女と違って価値が有る筈の男は、そういう風には育たなかったのだ。すぐに仕事を決めて出ていくからと言われれば、「ちょっと巫山戯ただけたいね」「骨折った位で大袈裟な」暴行を受ける場所に帰れと無下にも出来なかった。
弟にしてみれば生活の一切を任せていた者が、突然いなくなった事になる。そしてアタシの電話は鳴りっぱなしになった。固定電話が主流の頃だった。母を地元に戻せ。でなければお前が生活費を寄こせ。慰謝料を寄こせ。子供のころの借金取りの電話と同じ。呼び出し音を消していても留守番電話はすぐにいっぱいになる。説得を試みなかった訳じゃない。自分の事は自分でするものだ。暴力を振るってはいけない。大学に行かないのならば働けばいい。そんな当たり前の事を二十歳を過ぎた男に繰り返した。
「女のお前が大学ば出とうとに、俺が大学に行けんとかおかしかろうが!」
そう言う育てられ方をした弟だった。アタシは電話番号を変えた。
「電話番号を誰にも教えないで」
三日と経たず母は約束を破った。
だって可哀相じゃない。
姉のあなたが導いてやりなさいよ。
家族なんだから。
「覚えとけよ!貴様んとこに行くけんな!」
DV法は夫婦恋人間のみ。その他血縁は殺されるまで助けてはもらえない。アタシはなけなしの貯金をはたいて引越し、もう一度電話番号を変えた。
「絶対に電話番号を教えないで!生活できない!」
「わかった」
嫌がらせの電話がかかって来なかったのはたった一週間だった。再び引っ越す金は無い。アタシは泣いて母を詰った。
撲ったり怪我をさせられるのは嫌だ。
遊び暮らしている者を食べさせてゆくことは出来ない。
電話越しにでも罵倒されるのは避けたい。
そんなのはアタシも、誰であっても同じだ。
でも、ちゃんと暮らしているかは心配。
母が弟と連絡を取り合いたいのなら、公衆電話から電話すればいいのだ。その害悪を嫌悪しているアタシではなく母が。難しい事ではない。たったそれだけ。だが、母は言った。
「だって私は嫌だから」
そうだ。こいつにやらせよう。
アタシとの口約束なんかに意味は無い。さして長くもない人生で親の仕打ちに声をあげて泣き叫んだことが何度かある。これはその一つだ。
そんなアタシと普通に人付き合いをしたいと思ってくれる人は中々いない。一見して貧しく、家族関係に呻吟するアタシは「重い」のだ。世の中には面白く楽しい事が沢山あるのに、好き好んで世の不条理に向き合う必要などない。若いなら若いだけ、真面目に将来を考えていればその分だけ。それでもアタシを拒まなかった人は損得を求めない善い人なのだろう。親しくなれば、当然家族の話もでる。
「アタシ、親とは上手くいってないんだよね」
「そっかぁ…頑張ってきたんだね」
彼らは現状を語ればアタシの苦難を労ってくれさえする。
だが、彼は、彼女は言うのだ。
「家族だからさ、上手くいかない事もあるって」
何故なら彼らは善い人だから。
「きっとお母さんにも色々あるんだよ」
物事を良い方に捉え、一方だけの考えを聞くのは公平ではないと考える誠実な人だから。
「口では色々言ってもさ、本当は子供の事を考えているものだよ」
疑う事のない愛を受け取って来た人だから。彼らが家畜として子を育てる親が居ることを決して理解することは無い。虐待死のニュースを見て、死ぬことが出来たその子のために「良かったね」もうこれで苦しまなくてもいいと思うのを理解することは無い。何故なら彼らは光属性。正しく、誠実で前向き。希望に溢れた善人だから。
アステアスを市政官邸まで送れば、陽はとうに暮れて空には朱と蒼の月。アステアスに付き従った後は、妹のヘカテー様の所に顔を出すのが日課なのだが、遅くなりすぎて今日はそれも難しかった。時間もあるが、お貴族様の前で取り繕えるような気分でもないからね。まあ、サイテー。うっかりばったり再会しちまったクソ親がやっぱりしかっりクソでがっかり。月が二つの異世界に来てまで親がクソのままとはやってられない。何かを受け答えするのさえ億劫でレレクスがアタシを送ると言うのは断った。エーギルの言いつけを破ったから、一応対策はする。着ていた長衣を脱いで袖なしの姿になった。富める者の通りに入れば袖なし姿のアタシがエリトゥラの人間だって知ってる奴がそこそこいるので、かえって安全だったりするのだ。
通りの名である富める者とは死者の国の神である。冥府の王が治める通り。皆そこで自分がまだ死んじゃいないのを確かめる。ブッ細工な顔のまま此の世の憂さを晴らすための享楽と嬌声の灯を抜ける。角を曲がった2本先の通りにアタシの寝床。と、気付いた。喧噪の内では届かなかった切れ切れの笛の音。ふん。
そのまま風が来る港の側に歩を進めたのは、とげとげしい気分の所為だ。うるせえな。アタシだって何かに噛みつきたくなる時もあるんだよ。お利口にしていたら報いがあるなんて正しい世界に生きてる奴のルールだ。どんな奴が笛を吹いているのか確かめてやれと思った。隠しているものを暴き立ててやりたい気分。ああ、こっち。海の香りが強くなって、その先は波止場ってところで足を止めた。並ぶ係留杭が痩せた月に黒々と影を落とす。海の黒と空の黒。西都の街区溝即ち下水直結の闇はそのまま天に繋がっている。つまりどこもかしこもクソ。そこでなら笛の音はちゃんと曲として聞こえた。
その音が唐突に途切れた。係留杭だと思っていた影が立ち上がって身構える。笛の主だ。その影は意外に小さくて左手に笛、右手は肘から先の袖が風に揺れる。
「あれ?ゼフィロス?」
「え?クロノ?」
金の比率の造作に柔らかな巻き毛。幽けき月明りに浮かぶのはもう少しで大人になってしまう危うさと繊細さ。滑らかな肌は月の男神のよう。何のことは無い。笛の主は夕方にタッソの店で別れたばかりのゼフィロスだったのだ。
「こんな所に来ちゃダメじゃないか!それにその格好……」
こんな所も何も、アタシはここの住民だ。しかも胴着1枚のノーパンは通常営業。ってか、アタシの方が住民歴長いぞ。
「え?貴族の従者なのに???」
まあ、そういう反応になるわな。ゼフィロスの方こそどうしたのだろう。いや、しばらく前から笛の音が人の口に上っているのだから、彼がそれなりの期間ここに住んでいるのは間違いない。
「前はプラタイアに住んでたんだろ?今は親戚の所とか?」
「親戚…優しいお姉さん、かな」
察した。夜半に笛を吹いているのは、その時間部屋にいられないからだ。ゼフィロスは娼婦の元に身を寄せているのだ。親でも親戚でもないのに身形を整え、学舎の束脩を払って、この先食べて行ける能を得させようとした誰かが居るのだろう。それにしても学舎とは慧眼。平民は文盲が多い。娼婦相手ならラブレターの代読や代書の仕事がある。そのための代償が何かは聞かない。子どもであっても食べてゆく事に理由はない。まあ、綺麗な顔してるからね。構いたくなる女はいるだろう。
「軽蔑する?」
なんて聞くから笑った。アタシはつい最近まで娼館の使用人部屋に住んでいたのだ。冥府の王の元であれやこれやを見聞きすれば少々のことには驚かない。自分に害がない限り一切スルー。でなければここではやっていけないのだ。そして、だからこそこの街の人間同士には共感がある。
「クロノって6才に見えないと思っていたけれど、そういう事か……」
アタシが年齢不相応なのはそれだけじゃないけどね。そうしてゼフィロスは彼がどうして西都に辿り着いたのかの話をした。
プラタイアは曲がりくねった大河のほとり、何処までも芦原を背にたつ街だ。芦を様々に加工した品が有名で、紙や筆は国を遥かに超えて運ばれるほど。多くの民が芦原を生計の場としており、ゼフィロスの家族もまたそうだった。流行病で父を亡くしてからは母と姉とで芦を採り加工した。周りには親戚も多く居たから困窮するほどでもなかったのだと言う。裕福ではなくとも食べてはいける普通の暮らし。手すさびに作った笛を吹けば喜ばれたものだった。
「姉さんは遠方に嫁いだけど、僕は男だからそのまま変わらぬ暮らしが続いて行くのだと思っていたよ」
それが何時だったのか分からない。プラタイアの街角に紫色の髪をした美しい女が立つようになった。何処から来たのかもわからない女だった。ただ神を語る。はじめに聞いたのはそんな風変わりな女が居ると言うだけで、後になって妙な予言をしたのだと噂が流れた。
「原初の神だとか、緑の地だとかの話をしていたから、僕の母さんは何度かあの女の話を聞いていたのだろうね」
納品の時に街まで行くからとゼフィロスは笑った。その予言とは「この冬にプラタイアは泥水に沈む」というもので、多くはそんな戯言をと信じなかった。冬に洪水などない。が、妄言で民を惑わしたと、紫の女はプラタイアを放追された。
ゼフィロスの母が何も言わずに姿を消したのはその頃だ。どこかで事故にでも遭ったのではないかと探し回った。遠方の姉にまで問合せて判ったのは、母が紫の予言者を追ってこの街を出たという事だった。芦原で働く労働者は領主と有期で雇用契約を結んでいる。契約の途中で逃げ出したりしないよう家族や親戚、親しい者同士で連座の保証をしあっているのだ。ゼフィロスの母はそれを破った事になる。
「僕まで逃げられぬように入れ墨を入れられたよ」
ゼフィロスはいつも着ている長袖の服と小洒落た手甲をめくって見せた。抹消印はあるけれど、西都のものではない奴隷印がそこに在った。ゼフィロスは一度奴隷に落ちたのだ。
予言の通りにプラタイアが泥水に沈んだのはそれからすぐだった。降り続いていた雨で水かさが増していたこともあって、押し流されてきた木や岩や泥があっという間に芦原を覆った。多くの者が命を失ったのだと言う。ゼフィロスも気付いた時には泥に埋まり、何処から来たのだろうと言う岩に片腕を押し潰されていた。
「どうせ無くなるのなら入れ墨のある左手が無くなれば良かったのにね」
失ったのは右腕だったとゼフィロスはケタケタ笑う。甚大な被害を被ったプラタイアは復興には時間がかかる。食住を保証せぬまま雇用契約を維持できないと芦原の労働者の契約は一端破棄された。もしもそれの順が逆であったなら、ゼフィロスは腕は失ったとしても入れ墨を入れられるような事は無かったはずだ。被害から逃れた人々は新天地を求めてプラタイアを出ると決めた者も多かったと言う。ゼフィロスは奴隷の身からどのようにして街を出たのだろう。路銀はどうしたろうかと思った。
「ほら、僕、顔がいいから」
月の男神はそれを何でもない事のように言う。最初からそのつもりだったのかは分からぬが、ゼフィロスはそうして今の生き方を学んだ。そして西都へ。
ゼフィロスは紫の女の足跡を辿ってきたのだ。この西都で紫の女には追いついたが、そこに母の姿は無かったのだと言う。プラタイアやその道中から紫の女に付いてきてしまったものは多数いた。今も彼女を取り巻くその人々だ。彼らに母を知らぬかとゼフィロスは訊ねた。数人はそれを覚えていて、確かに西都までは居たと言う。言葉を交わすうちに彼らも食べてゆかねばならぬから、その土地土地で日雇い仕事などをしているのだと知った。母もまたそうなのか。が、待っても母は戻らない。
そうするうちに一人がこっそりと教えてくれた。
「あの人は月の船で緑の地へ渡ったよ」
緑の地は紫の女が言う神の書にある万人のための安住の地。原初の神の理想郷。それはは死んで向う所の事だろうか?母は死んだのだろうか?が、月の船で渡るとは?
「私ももうすぐそこへ行く」
詳しくは語らなかったその人はある時を境にその姿を見ることが無くなった。死んだのか。が、人死にがあったとも聞かないし、葬儀もない。そこで気付いた。
「あいつらおかしいんだよ」
紫の女の取り巻きはこんな数ではなかった筈だと。その全員が一時に集まっていないのは分かる。が、それにしてもその足跡を辿る中で耳にした追従者の数に比すると少なすぎるのだ。ならば母を含めてここに居ない者達は何処へ行った? 以来、少し離れて彼らを見ている。増えたり減ったりしていないかを。突然消えたと言うのなら、突然現れることもあるかもしれない。ゼフィロスが話の締めに持ってきたのは、そんな妙な話だった。「前」世で聞いた笛吹きの話のような。
「母さんは僕が入れ墨を入れられても良いと思ってプラタイアを出たのかな?」
ゼフィロスは誰も居ない闇に聞く。アタシはそれに応える言葉を持たない。彼女は予言を信じていただけで、そんなつもりは無かった筈、物事の順番がちょっとだけ狂っただけなんて、アタシの口からは言えなかった。
「ねえ、笛吹いてよ」
富める者の通りまで届いていた曲を。
「芦原の唄って曲なんだ。本当はね、笛のこの穴とこの穴を押さえないと正しい音色にならないのだけど、片腕になっちゃったからさ」
そうして吹いてくれたのはプラタイアでは有名な楽曲だそう。芦原を渡る風のような曲だった。誰も居なくなった黄昏に吹く風。浮かぶ情景には欠けた音色の分だけ足りないものがあるのだろう。
歓楽街で夜遊びなんてやってても、仕事はキチンとするナリよ。学舎ってのは悪くない。世の中がちゃんとしている気になるからね。一斉ではなく学習進度ごとの個別学習の中でアタシはラオコー師の補佐の指導役に落ち着いてしまっている。改めて考えるとそれもどうなのって感じよね。確かにアステアスが飽きないレベルの課題はアタシじゃないと用意できないんだけど、タダ働きっスよ?で、アステアスや大工3等、デキる子には筆算を教えつつ、アタシはラオコー師の神の書やほかの書物(貴重品よ)も借りて教わりながら読書。ふむふむ。昨夜一緒だったゼフィロスも来てるぞい。ゼフィロスはアタシが助言した通りにラブレターの現物を持参して、それを手本に書き取りの練習をしている。羊皮紙ではなく、葦草を叩いて繋いだような紙は「前」世のパピルスってこんなかなというもの。プラタイアからの輸入品だから羊皮紙より格段に安くても木札ほど手ごろではない。
「えっと…い、愛しい、マヌエラ。昨夜の、君、忘れ……ない、られない…君の…唇?に……×××……??、これ何て読むのかな?」
音読はどうかと思うぞ?
「お……××?×××??ラオコー師に聞いてみたら?」
学舎での綴り方の練習は神の書が教本。そんな単語が出てくる筈がない。レレクスが眉間を揉むくらいだから神職がどんな反応をするのか見ものだ。一方で掛け算九九がまだマスターできていない奴がいるので、脅したり
「ほら!七の段言ってみろよ!出来ねーとアタシがお前んトコに嫁に行くってメイレに言うぞ!」
脅したり脅したりして学習させている。「若女将!」「若女将!」「絶対イヤだっ!チクショーっ!」大層にぎやかだね。
先程から席を外していたラオコー師が部屋に戻って来た。それを振り返って唖然。ラオコー師の後に続いて入って来たのはアタシの良く知るオレンジかかった赤髪。ディオだった。何で?……あー、昨日、母さんに遭ったからか……。
父さんと母さんはアタシを娼館に預けた事で周囲から後ろ指を指されているだろう。が、アタシが娼館ではなく長衣を纏って貴族家に仕えているのならばその謗りを免れる。母さんがアタシは学舎にまで行かせてもらえる良い仕事をしているのだと吹聴して回らぬはずがないのだ。誰にって?そりゃあ同じ長屋のディオの母ちゃん達だろう。で、ディオはアタシが学舎に通っていることを知ったに違いない。学舎なら親の言いつけ「クロノと付き合うな」に直接は背かないだろう。そしてディオはアタシと小遣い稼ぎをしていた時の貯金を持っているのだ。つまり自分で束脩を払える。ってか、昨日の今日だろ?西都に学舎は幾つもあるぞ。良くここだってわかったな。早くね?そしてその執着は何?
だが、その顔は不機嫌さ全開。あれ?何か…怒って、ますよ…ね?ディオは教室内の一人一人を確認するように睨みつける。少々振り返って腑に落ちた。あれだ。先程の騒ぎを聞かれていたに違いない。超っ早でアタシに会えるよう学舎通いを実現させたのに、聞かされた台詞が「アタシがお前んトコに嫁に行く」か。そりゃねえだろ、ってなるわな。
「今日から共に学ぶ仲間が増えました」
ラオコー師、何でそんなにニコヤカなんじゃ。あんたの脇で火炎噴いてる奴に気付こうよ。
「……ディオです。騎竜の世話しながらだから毎日は来れねえけど」
ぼそぼそ言ってディオがアタシを睨んだ。固めの笑みではーいと手を振るが、その目が言う。どういう事か説明して貰おうか。
「若女将って何?」
あっれ?アタシ、旦那がちょっと留守にしてた間にはね伸ばしてた尻軽女扱いじゃね?いや、待てよ。アタシ別にディオと結婚してる訳じゃねえし。え?姦淫法適用?いやいやいや、アタシ6才よ?何でーっ?




