第1話 魔王の娘は、人間を知らない
一つの国ごとに物語が区切られる、魔王の娘と商人の旅です。
最初の行き先は、幸福を買える国。二人の出会いから、お付き合いいただけたら嬉しいです。
勇者は、魔王の娘を殺さなかった。
崩れた玉座の前で、フレイアは自分の血が床の亀裂へ流れ込むのを見ていた。父は討たれ、軍は潰え、残された自分の胸にも剣が通っている。敵を生かす理由など、どこにもない。
それなのに、男は刃を引き抜いた。
男は膝をつき、流れ出す血を押さえた。
「……なぜだ」
問いに、勇者レイドスはすぐには答えなかった。ひどく疲れた顔だった。魔王を倒した者がするには、あまりにも勝利から遠い顔だった。
「世界を、見てくれ」
それから、男は一つの国の名を告げた。
最果ての国。
フレイアの知るどの地図にもない、その場所での再会を、百年後に求めた。
あの日から、百年が過ぎた。
勇者の手がなぜ震えていたのか、フレイアには、今も分からない。
◆
「乗っていくか?」
背後から声をかけられた時、フレイアは人間界マニュアルの『乗り物』の頁を開いていた。
道の脇へ避けると、荷馬車がゆっくり止まる。黒い馬が鼻を鳴らし、隣の栗毛が耳を動かした。御者台には、帽子のつばを指で上げた男がいる。まだ若いのに、日に焼けた手と外套の擦れ方だけは、ずいぶん遠くを旅した者のものだった。
「次の町までなら、乗れるぞ。荷台は狭いが、歩くよりはましだ」
「対価は」
「話し相手。ずっと馬に話しかけてると、こいつらまで俺を無視し始める」
男の声に反応するように、栗毛が顔を背けた。
フレイアは男と二頭を見比べ、冊子へ目を戻す。困っている者へ手を差し伸べる行為は、親切と呼ぶ。ただし、同じ手段を詐欺や誘拐にも用いる場合がある――。
「何を読んでる?」
「貴様が親切なのか、誘拐犯なのかを判別している」
「ずいぶん失礼な本だな」
男は笑った。その間にも、彼女のフードの奥を確かめようとはしない。
フレイアは冊子を閉じた。顔色の変化を見落とさぬよう、男を見たままフードを少し下ろす。紅い髪の間から、黒い角が現れた。
「我は魔族だ」
「ああ。角があるな」
「人間ではない」
「見れば分かる」
男は御者台の横を叩いた。
「乗るなら、車輪の前からどいてくれ。シリウスが待ちくたびれてる」
黒い馬がもう一度鼻を鳴らした。話の中心が自分から馬へ移ったことに、フレイアは少しだけ不満を覚えた。
もっとも、都合はよかった。彼女は荷台の空いた場所へ腰を下ろし、知らぬ男の荷物を一つ、足元から脇へ寄せた。
「フレイアだ」
「俺はエドガー。……フレイア?」
男はようやく振り返った。
「現魔王の名前じゃなかったか、それ」
「知っておったか」
「商売柄、少しはな。そうそう本人に会うとは思わんが」
怯えた様子はない。それでも、先ほどより目が真剣になったことは分かった。角ではなく、名を聞いてから態度を変えた。その順番が、フレイアには興味深かった。
「大声で呼ぶな。身分は隠しての旅だ」
「隠してる相手に、自分から名乗るなよ」
「乗せた者へ名を告げるのが、礼儀なのであろう?」
「間違っちゃいないが、段階ってものがあるんだよ」
エドガーは頭を掻き、二頭へ短く声をかけた。車輪が動き、街道の石を踏む振動が座面から伝わる。
魔界で使う乗り物より揺れる。だが、自分で歩かずに景色が動くのは悪くなかった。
「で、魔王様はどちらまで?」
「最果ての国だ」
「方角は」
「知らぬ」
「国境まで何日だ」
「それも知らぬ」
エドガーは振り返り、彼女の小冊子を見た。
「その本、地図はついてないのか」
「ついている。載っておらぬのだ」
「困ったな。俺の商談先が世界の果てにあるとは限らんぞ」
困ったと言いながら、彼は笑っていた。行き先を知らぬ者を乗せたことにも、腹を立てていないらしい。
フレイアは膝の上へ冊子を置き、遠くの空を見た。
「その前に、人間の国々を巡る」
「観光か?」
「人間を知るためだ」
なぜ敵を助ける。なぜ同じ人間を殺す。力で従わせられる者へ頭を下げ、何の役にも立たぬ約束を守る。
魔族にも感情はある。だが、他者のために損をし、罪の意識に苦しみ、自分の命まで差し出す者は少ない。人間の行動を説明しようとすると、いつも最後の一つだけが、計算からはみ出した。
「理解して、どうするんだ」
男の問いに、フレイアは胸の傷へ指を当てかけた。途中でやめ、外套の端を整える。
「まだ、決めぬ」
世界を滅ぼすべきものか、守る価値があるものか。勇者はそれを自分で確かめろと言った。
だが、あの男の問いを、そのままこの男へ渡す気にはなれなかった。答えを借りるために、魔界を出たのではない。
エドガーはしばらく彼女を見ていたが、やがて前へ向き直った。
「だったら、腹ごしらえからだな」
「何の関係がある」
「俺の腹が減ってる。空腹の商人からは、ろくな話が聞けねえぞ」
街道脇の川辺で、エドガーは火を起こした。
馬へ水を与え、荷の紐を確かめ、自分の食事を用意する。その順序を、フレイアは荷台から眺めていた。先に自分が食わぬのかと尋ねると、逃げ出した馬は腹が減った程度では戻ってこない、と答えた。
川の水面が光る。男が干した肉を薄く切り、パンへ挟んだ。続いて、白い塊を二枚、重ねる。
火へかざすと、肉から脂が落ちた。白いものが形を失い、生地の切れ目からゆっくり膨らむ。初めは煙と区別のつかなかった匂いが、やがて鼻の奥に残るものへ変わった。
「食うか?」
「不要だ。魔族は大気の魔力で生きる」
「聞いてると、便利だな」
「便利ではない。人間が不便なのだ」
エドガーは焼いたパンを二つに切った。片方を自分でかじり、もう片方を紙へ包んで差し出す。
「要るかじゃなくて、食うかって聞いたんだ」
フレイアは受け取るべきか迷った。不要なものを受け取れば、また対価の話になる。だが、先ほどから自分がパンの焼ける場所だけを見ていたことにも気づいていた。
「これは、親切か」
「半分はな。もう半分は、魔王が昼飯に何と言うか、聞いてみたい」
「浅ましい」
「話し相手の代わりに乗せたんだ。働いてくれ」
フレイアは紙包みを取った。
温かい。指先を包む熱を確かめ、口へ運ぶ。薄い皮が歯の下で割れ、その内側から、肉の塩気と溶けた脂が押し寄せた。白いものは濃く、少し甘い。噛むほど、パンそのものの甘みも出てくる。
フレイアは黙った。
エドガーが期待するように顔を覗き込む。それが気に入らず、何か批評すべき点を探したが、その間に二口目をかじっていた。
「どうだ?」
「……判断を急かすな」
「食うのは速いな」
口へ入れたまま言い返すことはできない。呑み込んでから口を開こうとすると、もう一口分が紙の上に残っている。
フレイアは最後の欠片を食べ、空になった包みを見た。
「白いものは何だ」
「チーズ」
「すべての食事へ入れるのか」
「入れたい時はあるが、そうもいかんな」
「なぜだ」
「高いし、飽きる。腹も壊す」
それほど問題が多いものを、なぜ二枚も挟んだのか。
尋ねようとして、フレイアは自分なら三枚にするかもしれぬと思った。理解できないと言うより先に、同じ側へ立ってしまったことが、少し悔しかった。
「もう一つは、ないのか」
エドガーは待っていたように笑った。
その笑いに腹を立てながらも、フレイアは次のパンへ自分で肉を挟んだ。チーズは二枚にした。三枚目へ伸びた指は、男の視線に気づいて引っ込めた。
読んでくださって、ありがとうございます。
次回は、幸福を買える国へ。そこで二人が出会うのは、他人の悲しみを引き取って暮らす少女です。
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