表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/3

前編

 自分がちっぽけな存在なのだとは理解している。周りに比べて何かが秀でているわけもなく、逆に周りよりも不器用で皆の足を引っ張ってばかり。

 そのせいで状況は悪い方向へしか進むことができず、後戻りができなくなってしまうまでどうすることもできなかった。

 ——その結果がこれだ。

 少女は深い森の中で意識が朦朧とさせながらうつ伏せに倒れていた。身に着けていた鎧はあちこちが泥にまみれて汚れており、滑らかな肌のあちこちには血が滲んでいる。

「うっ」

 全身に力が入らないのかそれとも起き上がるだけの力がもう残っていないのか少女は僅かに体を身じろぎするだけでその場から動こうとはしない。

 そんな彼女に何かが近づいてきた。うつ伏せになった少女の全身に地響きが伝わってきており、徐々に大きくなってきている。


 ——パキッ


「っ!」

 木々のざわめきだけが聞こえる中、倒れたままの少女の頭上で小枝が折れた音がした。

 聞こえた音は決して大きくなかったが、静かな状況だとその小さな音もやけにはっきり聞こえる。音が聞こえた瞬間、少女はあまりの恐怖に息が止まった。少女は一人で森に入ったのだ。だからこの場に誰かが来ることは無い。

 つまりこの音は誰かが少女を助けに来たわけではない。もっと別のナニかだ。

 ゆっくりと少女は頭だけを動かして音のした方に視線を向けて視界に入ったものを見た瞬間——顔が引き攣った。

 地響きの正体はすぐ近くにいた。距離にして二メートルぐらいの距離でサーリャを見下ろす存在がいた。

 全身は紫がかった色をしており、外見は狼に近い。ただし狼と明らかに違うのは四肢から伸びている鋭い爪と大きく裂けた口から見える異様に多い牙がただの狼ではないと如実に示している。

 唸り声を発しながら真っ直ぐ少女を見ており、いつ飛び掛かってきてもおかしくない。一体だけならまだしも同じような存在が周囲に何体も控えている。

 飛び掛かられてしまえば満身創痍である少女が命を落とすのは避けられない。

 必死に逃げようとするが先程から身体を起こすことすらできない。一歩一歩ゆっくりと距離を詰めてくるが不意に立ち止まって姿勢を低くした。その様子を少女は目が離せないでいた。

 姿勢を低くしていた獣はまるでバネで弾かれるように飛び出しこちらに迫ってきた。その様子を少女は最後まで見続けるしかできなかった。



「どういうことですか!」

 雲一つない澄み切った青空が広がっているルイリアス王国。その中心にある王都リンガルに存在する建物の一つから信じられないと言った少女の声が響いた。

 王国内で唯一の騎士養成学校。その教室の一つから少女の声は響いている。

「このままだと退校処分ってどうしてそんなことになるのですか⁉」

 先程から目の前にいる男性に食って掛かる少女——サーリャ・ブロリアスは今の状況を何とかしようと必死だった。

 今年十七歳となった彼女は白を基調とした騎士学校の制服に身を包み、目の前にいる男性へと迫った際に煌めく銀色の髪が揺れる。部屋の外から何人もの話し声や騒ぎ声が聞こえてくるが、誰もサーリャの大声を咎める者はいない。

 この部屋には現在サーリャと男性の二人だけで他には誰もいない。もしこの部屋の中に誰かがいたならば、サーリャの大声に眉を顰めていただろう。

 そんな中、サーリャに詰め寄られている騎士学校の教員であるヘルト・オズモンドは彼女の必死さとは逆に冷静に状況を把握していた。ヘルトは今年六十歳を迎えようとしているが、かつて騎士として長年国を守り続け騎士としての役目を引退してからはこの騎士学校で未来の騎士を育てている。

 引退しても日々のトレーニングは欠かしておらず、引き締まった筋肉は服越しでもはっきりとわかる。

「どうしてってね、言わなくてもわかるでしょうブロリアス嬢。あなたの実力ではこのまま騎士の称号を与えて卒業させるわけにはいきません。いつまでも卒業の見込みがない者を在籍させるわけにもいきませんし、そんな生徒の面倒を見続けるほど我々は暇ではありません」

「なぜ実力が足りないのですか?私は毎日剣の鍛錬を欠かしたことはありません。周りよりも鍛錬の時間は多いと自負しています」

 サーリャは放課後時間の許す限り訓練場で剣の鍛錬をしており、いつも訓練場を最後に出るのはサーリャだ。素振りも剣技の型も覚えたことはすべて実践するようにしている。剣を握り続けてきたせいで掌はマメだらけになってしまい、他の女性騎士よりも手が荒れている。

 そんな努力を続けているのにもかかわらず実力不足と言われるのはサーリャのこれまでの努力を否定するにも等しい言葉だ。自然とヘルトへの言葉にも不機嫌さが混じってくる。

 それでもヘルトの表情は全く変わる気配がない。

「鍛錬の時間の長さがが問題ではないのですよ。いくら剣の腕が上がったとしても魔法が使えなければ騎士資格は与えられません」

「つ、使えないわけではありません。落ち着いて詠唱すれば発動はできます」

「発動はできる……ですか。それならば聞かせてもらいますがこれまでの模擬戦で魔法はいったい何回発動しましたか?」

「それは……」

 ヘルトからの問いにサーリャは思わず口ごもる。

 ルイリアス王国での騎士とは剣を振るうだけではない。いくら剣の腕があったとしてもそれだけではどうしようもできない理由があるからだ。

 魔法——人の力ではできないことを代わりに実現させることのできる神秘の力。術者の体内にある魔力・あるいは空間に漂っている魔力をかき集めて詠唱を唱えることで発動することができる。

 用途は多岐にわたり、日々の生活を便利にする魔法もあれば戦闘に使用される殺傷性の高い魔法も存在する。

「いいですかブロリアス嬢。我々騎士は魔獣の脅威から市民を守るという重要な使命があります。魔獣はその辺のイノシシやクマなどとは違い穢れた魔力を身に纏い、通常の武器では致命傷を与えることは困難です。だからこそ魔法による攻撃で纏っている魔力を吹き飛ばし、そのうえで攻撃を与えていかなければなりません。私が知る限り、ブロリアス嬢はこれまで一度も魔法の発動が成功したことがありませんが私の記憶違いでしょうか?」

 この世界には魔獣と呼ばれる生物が存在している。魔獣とは何らかの影響で体内にある魔力が変質し、生物自体にも影響を与えて体の構造から変質してしまった存在のことを指しているので魔獣と言っても種類は様々だ。

 魔獣は通常の生物とは比較にならないほどの力と凶暴性を持っており、家畜や市民に被害をもたらしているため各国の共通で討伐認定されている。そんな時に国の命令を受けて動く存在が、魔法と武器の両方を使用することのできる魔法騎士だ。

 魔法騎士は前衛後衛の両方を担当することができ、前衛では使用する武器に魔力を帯びさせ相手の魔力を突破し本体にダメージを与えていき、後衛では遠距離魔法で魔獣を攻撃するのでまさに相手との距離に合わせて柔軟な対応ができる存在だ。

 ただし魔獣は誰もが楽に討伐できるほど簡単な存在ではない。新米騎士が数人で倒すことのできる簡単な魔獣もいれば、ベテランの騎士団複数の力を合わせなければ討伐できないほどの存在もいる。

 だからこそ騎士となる者は武器の扱いだけでなく魔法も扱えることが前提条件になるのだが、サーリャはその魔法の発動に問題があった。別に魔法が全く使えないわけではない。練習の時は発動できるが、いざ模擬戦となると一度も発動ができないのである。

 人一倍努力しているサーリャはもちろん魔法に関しても力を入れている。詠唱も一字一句頭の中に入っており練習の時には問題なく発動できるのは確認している。ただ、模擬戦は練習とは違って常に状況が変化している。相手からの攻撃を避けながら一定の距離を保ち、詠唱をするにはかなりの集中力が必要となる。

 魔法は詠唱を行うことで発動時のイメージを明確にし、そのイメージをもとに魔法が発現する。込める魔力量とイメージがはっきりとしていれば強力な魔法を使用することもできるが、逆にイメージが曖昧であればいくら魔力を込めても魔法が発現することは無い。

 サーリャの場合は相手からの攻撃を避けることに必死になり詠唱が詰まったり中断してしまうことばかりで不発に終わり、一度も発動したことが無いのである。

「それでも、魔法が使えなくても剣技だけでも対抗することはできます」

「あなたはこれまで何を学んできたのですか。魔力を帯びさせていない武器で魔獣を攻撃することはできますが、代わりに魔獣の魔力があなたの持つ武器に移ってしまうのですよ?相手の魔力は徐々に武器を侵食していき最後は武器として使い物にならなくなってしまいます。長期戦も予想される戦場で何本も使い捨ての武器を持つなどどう考えても足手まといにしかならないでしょう」

 ヘルトの言い分は正しい。実際魔力を帯びさせていない武器は相手の魔力の浸食を徐々に受けていき、最後は簡単な衝撃にも耐えきれず破壊されてしまうのだ。これは剣や槍などの武器は当然のことながら鎧にも同じことが言える。

 武器への浸食があるというのならばそれを持つ使用者自身にも浸食が起こってしまうのではないかという問題もあったのだが、これは心配ない。魔力での浸食は装備だけにとどまり体内への浸食は無いからだ。

 これは人が体内に魔力を宿しているということが大きく影響している。武器に魔力を帯びさせれば浸食されないのと同じように、人という器は生まれた時から魔力を宿した存在と同じ扱いになる。たとえ魔獣からの攻撃をその体で受けたとしても互いの魔力は水と油のように反発し合い決して混じり合うことは無い。

 もはや呆れ果てているヘルトの表情を見ながらサーリャは悔しげに拳を握りしめた。ヘルトから言われなくてもわかっている。それでもここで認めてしまえばサーリャは退校処分を受けてしまう。だからこそ少しでも可能性のある手段に賭けるしかないのだ。

「ブロリアス嬢。あなたがどう頑張っても戦場で魔法が使えなければ役に立つことはありません。模擬戦とはいえ殺意の無い戦いでまともに魔法を発動できないのであれば本物の戦場で魔法を使うことなんて不可能です。実戦とは模擬戦とは違い命の奪い合いをする場なので精神的摩耗は今とは比べ物になりません。あなたの事情は理解していますがそろそろ現実を見るべきなのではないですか?」

 サーリャは黙ってヘルトの言葉を聞いていたが、内心は叫びだしたい衝動を必死にこらえていた。ヘルトの言い分は正しいのかもしれないが、その言葉の裏では早くサーシャを退校処分にしたいという意思があるのは明白だった。

 そもそも、ヘルトは一見サーリャのことをこれまでしっかりと見守ってきたような口ぶりだが、サーリャがヘルトとこうして一対一で話すことなどこれまで無かった。

 ヘルトは常に将来有望な生徒の指導ばかりしており、サーリャの指導で話しかけてくることは無かった。誰も教えてくれないからこそ、サーリャは一人で鍛錬を繰り返すしかなかった。

 他の教員も初めは他の生徒と同じようにサーリャへの指導もしてくれていたが、魔法がまともに使えないことを知ると徐々に距離ができ始め、最後は誰もいなくなってしまった。

「——すよね」

「はい?」

 俯いたままだったサーリャは顔を上げキッとヘルトを睨みつける。

「魔法が戦場で使えなくたって魔獣を討伐できれば騎士として認めてもらえるんですよね!」

 ヘルトがサーリャを退校処分にしたいのはサーリャが魔法を使えないという部分に注目しているからだ。ならば、魔法が使えなくても魔獣討伐の功績があればヘルトの言い分を覆すことは可能なはず。

「……何を考えているのか予想はできますがそれは止めておきなさい。できもしないことの為に命を賭けるなんてどう考えても無謀としか言いようがありません」

「やってみないとわからないじゃないですか!」

 小馬鹿にしたように鼻で笑うヘルトにサーリャはすぐさま言い返す。ヘルトの中では結果は見えているようだが、実際やってみなければわからない。

 全く意思を変えるつもりがないサーリャの姿にヘルトは「ふむ」と顎に手をやり何かを考え始める。その様子をサーリャはじっと黙ったまま見ている。

 やがて考えがまとまったのかヘルトは顎から手を放して口を開いた。

「そこまで言うのならブロリアス嬢には特別課題を与えましょう。それをクリアしたのならあなたの退校処分を見直してあげましょう」

「……特別課題とはいったい何ですか」

 サーリャは警戒心を解くことなく課題内容を尋ねる。退校処分を撤回させるほどの課題だ。決して簡単なものではないだろう。

「あなたにはルクドの大森林でこちらが指定する魔獣を討伐していただきます。期間は一か月。単独で討伐し、討伐の証である魔石を持ち帰ってくることが条件となっています。討伐目標はそうですね……ハイロウウルフでお願いします」

「ハイロウウルフ⁉」

 討伐目標を聞いたサーリャは思わず目を見開き信じられないといった声を上げた。

 ハイロウウルフは狼のような姿で主に森を縄張りとしている魔獣だ。魔獣側から魔法を用いた攻撃をすることは無く脅威としてはそこまで高くはないが、その代わりに身体能力が魔力によって底上げされている厄介な相手だ。持ち前のスピードで相手をかく乱し、僅かな隙を見つけたら鋭い牙と爪で相手を切り裂くことを得意としているのでなかなか近づくことのできない相手である。

 サーリャも魔獣の生態や討伐方法などはしっかりと頭に叩き込んではいるが、ハイロウウルフの場合はとにかく相手の動きを魔法で止め、足が止まった隙をついて接近して討ち取るというのが基本とされている。

 魔法行使のできないサーリャにとっては厄介な相手と言わざるを得ない。

「そうです。本来であれば魔法行使が基本であり、油断さえしなければさして脅威にはなりえない相手です。そんな相手に魔法がまともに行使できないブロリアス嬢が単独で討伐できるのであれば確かに魔法の存在が無くても市民を守る騎士として立派に務めを果たせるでしょう」

「それでもどうしてルクドの大森林なのですか⁉」

 ヘルトの言い分はもっともだ。それでもサーリャが問題視しているのは討伐相手だけではなくその場所が問題だった。

 ルクドの大森林——そこはルイリアス王国の西に位置する場所にある広大な森で、王国内でも有数の魔獣生息区域である。大森林の中は他よりも魔力濃度が高く突然変異を起こした魔獣が何種類もおり、独自の生態系を形成している場所だ。魔力濃度が高いせいで一般的な魔獣よりも力が強く複数体の魔獣と接触したのならば戦闘は避け、撤退することが推奨されるほどだ。もちろん騎士見習いのサーリャは知識として大森林の存在は知っているが実際に足を踏み入れたことのない未知の土地だ。

 そんな場所で騎士見習いのサーリャが単独で魔獣討伐など不可能にも近い内容だ。

「別に無理して受ける必要はありませんよ。大森林に生息するハイロウウルフです。変に意地になって命を落とされても困りますからね」

 未知の土地で難易度の高い魔獣の単独討伐。本来ならば無理に受ける必要もない課題だ。だが、今回は事情が事情だ。だからこそサーリャの答えは決まっていた。

「やります。やらせてください」



 ヘルトとの話が終わり部屋を後にしたサーリャは足早に廊下を進んでいく。

「まずは装備の確認ね。メンテナンスは怠っていないから大丈夫として、傷薬の補充と各種解毒薬も買い揃えないといけないわね。大森林内で寝泊まりするわけにもいかないから近くの宿屋を調べておくとして携帯食はある程度揃えておこうかしら。あとは……」

「これはこれは。誰かと思えばブロリアス嬢ではないか」

 ぶつぶつとこれからのことを考えていたサーリャだったが、不意に自分のことを呼ぶ声が聞こえ、いったん思考を中断することになった。

 その声の持ち主が誰か分かった瞬間サーリャは不愉快そうに顔を歪めた。思考を巡らせて自然と俯いていた顔を上げると前方に一人の男性が立っていた。

 サーリャと同じく騎士学校の制服を着ており、しっかりと整えられた金髪が窓から差し込む光に反射して輝いているように見える。

 端正な顔立ちも相まって女子からの人気は高いのだが、サーリャからすれば目の前の男性は好意を抱くどころか逆に嫌悪の方が強い。

「これはキリアン・オルランド様。私に声をかけてくださりありがとうございます」

 サーリャは歩みを止め軽く頭を下げてキリアンに挨拶を返す。キリアンに対しての言葉にあまり感情が乗っていないのはこの際仕方ない。

 一方のキリアンはそんなサーリャの内心を知っているのか知らないのかわからないが特に気分を害した様子もなく、笑顔を崩すことなく話しかけてくる。

「そんな堅苦しい挨拶なんて必要ないよ。俺たちは同じ騎士学校に通う仲間じゃないか。貴族社会の身分はこの学校にいるうちは忘れようじゃないか」

「これは失礼しました。——では、私に何か用でしょうかキリアン」

 サーリャは下げていた頭を戻し表情を変えることなく真っ直ぐとキリアンを見る。キリアンは相変わらずニコニコと笑顔のままだ。この場には現在サーリャとキリアンの二人しかいない。もしこの場に誰かがいてこのやり取りを見ていたならばキリアンの言動は身分にとらわれない器の大きい人間だと評価されていただろう。

 実際、彼の振る舞いは一定の評価を集めており彼に付き従っている者も何人かは存在する。

 キリアン・オルランド。オルランド伯爵の息子であり次期当主として期待を寄せられている人物である。オルランド家は代々当主となる者はこの騎士学校で騎士の資格を授与されることが前提条件となっており、有事の際は当主自ら戦場に出るためだったといつだったか耳にした気がする。

 彼の父であるオルランド当主は領民のために日々生活環境の改善を実行しており、その成果もあって領民からの信頼は厚い。

 しかし、父が素晴らしい人格者だったとしてもその息子が彼と同じような人間だとは必ずしも言えない。

 口にこそしないがサーリャは気づいてはいた。声をかけられた時から常に笑顔を絶やさない彼だが、その笑顔も本当の表情を隠すための仮面でしかないことに。表情とは裏腹にその目が全く笑っていないことにも。

「何か用とは残念だな。俺は一人悩んでいる君が気になって声をかけただけだよ。何か気になることでもあるのかな?」

「別に。あくまでも個人的なことなんでキリアンが気にするようなことではないですよ。用が無いならこれで失礼します。少しやるべきことが残っているので」

「おやおや。ずいぶんと冷たいじゃないか。もう少し君との会話を楽しませてくれよ」

「……失礼します」

 これ以上彼と無駄話をするのは御免だ。そう言って彼の横を通り過ぎたところでサーリャの背後から再びキリアンの声が聞こえてきた。

「そういえば噂で聞いたのだけれど、ブロリアス嬢はどうやら近々この学校を去るようだね」

 ピタリとサーリャの足が止まる。

「同じ学び舎で過ごした仲だから非常に残念だとは思うが騎士という資格は選ばれた人間だけが持つべきものだ。選ばれる資格がない者をいつまでも学び舎に居させるわけにもいかない学校の方針には私も同意せざるを得ない」

 ゆっくりと背後にいるキリアンに振り返ってみれば言葉を交わした時と同じ場所から一歩も動かずにサーリャを見ている。しかし、その顔にあるのはさっきまでの優しげな仮面ではなく、こちらを見下すような彼本来の表情がそこにはあった。

「私はこの学校を去るつもりはありません。無事に卒業し、騎士の資格を手にするんです」

「はっ!魔法をまともに使えない人間が何を偉そうに言っている。騎士の資格は努力だけしていれば無条件でもらえるようなものじゃない。魔法と剣技、その両方を使えて初めて魔獣を倒すことができるんだ。貴様のような存在は我々騎士を目指す者からすればとんだ恥晒しだ。おとなしくこの学校から去るがいい」

「騎士を目指すのに選ばれた人間かそうでないかは関係ない。騎士は本人の意思があれば誰でも目指すことができるし、それを周りから否定されるつもりはありません」

 実際サーリャの在籍している騎士学校への入学にはそれほど大きな制約は課されていない。剣・槍・メイスなどの武器を問題なく振るうことのできる腕力と最低基準の体力があれば家柄に囚われず、貴族平民も関係ない。

 その代わりに騎士という人々を守るという役割を与えられる以上訓練は厳しいものが待っており、意志の弱い者は自分から学校を去っていく。

 つまり強い意志があるならば厳しい訓練も耐え抜き騎士になれることができるのだ。

 サーリャが言い返すとキリアンの表情が固まった。そして薄ら笑いを浮かべていた表情が徐々に怒りに歪んでいく。

「お前はどうやら自分の立場が分かっていないらしいな。どれだけ強がっても結果は変わらんぞ」

 もはや取り繕う必要もないのか言葉遣いも本来のものに戻っている。それでもサーリャは引くことはしない。騎士になるというのは幼い頃から憧れていたことで必ずなると心に決めているのだから。

「あなたから何を言われても私の決意は変わらない。必ず課題をクリアして騎士として認めてもらうのよ」

 毅然とした態度でキリアンにそう宣言したサーリャは返答も聞かずに歩き始めた。これ以上の彼とのやり取りは時間の無駄だ。

「貴様は騎士にはなれない!次に顔を合わせる時は貴様の退校処分が決まって惨めに去るのを見届けてやるからな」

 キリアンの声が背後から追ってきたがサーリャは特に反応することもなく真っ直ぐその場から歩き去った。彼と会う前とは違いこれまで以上に決意をその心に抱いて。



 その日の夕方、サーリャはとある店のドアを開けた。

「こんにちは。ゴルトさんいますか?」

 あまり大きくない建物の中に入ったサーリャはカウンターまで近づき奥の部屋に向かって声をかけた。奥の様子は壁で遮られて見ることはできないが、わずかに金属音が聞こえてくるから留守というわけではなさそうだ。

 周りの壁には様々な武器が陳列されており種類も豊富だ。槍、メイス、剣、弓。他にも見たことも無い様々な武器が種類ごとにまとめてあるので利用者に優しい並べ方だ。

「ゴルトさ~ん。聞こえてますか~」

「うるせぇ!行くからもう少しだけ待ってろ!」

 いつまで経っても店の主が現れないので仕方なくサーリャは奥に向かって声をかけてみると今度はすぐさま返事が返ってきた。どうやら作業の途中だったようだ。

 しばらくすると奥の部屋から一人の男性が現れた。頭にタオルを巻いて髪が隠れており、両手には厚めの手袋をしている。目は鋭くいかにも頑固おやじという言葉が似合いそうな人物だ。

「やっと出てきた。遅いですよゴルトさん」

「知るか。こっちは俺が丹精込めた武器の仕上げをしていたんだ。途中で放り出すなんてそんなふざけた真似なんかできねぇだろ」

「だったら最初に声をかけた時に返事くらいしてくださいよ。無視されてるのか聞こえていないのかと思ったじゃないですか」

 全く悪びれる様子もないゴルトにサーリャは口を尖らせるが、本人は全く反省する気配はない。

「物作りはどんな時も全力で挑まないといかないんだ。別のことに気を取られてなんかいられるか」

「さっきは私の声に反応していたじゃないですか」

「さっきはちょうど区切りがついたところだったから返事をしたんだ。まだ槌を振るっているところなら返事なんぞせんわ」

「ちょっ⁉仮にもお客相手にそれは酷い!」

 ゴルトの発言はまさに職人気質の典型的なものだろう。商売よりもより良い武器を作ることの方に重要性を見出すなど他の店ではまず見られない光景だ。だからこそ信頼できる相手でもある。儲けより常に最高の品を提供する店には一切の妥協が無いので余計な心配をする必要もない。

 ここはゴルトが経営する鍛冶屋。鍛冶屋を営んでいるとはいえ、本人の性格がコレだから無茶なお願いや妥協案などは一切受け付けず、常にゴルトの裁量で取引がされているのであまり人入りは多くない。しかし最高の品しか置いていないのでその善し悪しが分かる一部の騎士からは絶対の信頼がおかれ、彼に装備メンテナンスの依頼を出すリピーターもいる。

 ちなみにサーリャも常連客の一人で何度も訪れている。

「それで?今回はいったい何の用だ。ついこの間装備のメンテナンスはしたばかりだから他の用事なんだろ?」

「そうそう忘れるところだった。ゴルトさん私でも扱えるような短剣ってあるかな?切るとかではなくて、こう投げるみたいなの」

 サーリャはそれっぽい仕草をゴルトに見せながら説明する。

「ああ?投擲用の短剣なんて何に使うつもりなんだ。お前にはその立派な剣があるだろう」

「それがね、近々ルクドの大森林に単独討伐をしに行くことになって、それ用の武器を揃えに来たんだよ」

「は?騎士見習いのお前がどうしてあんな場所に一人で向かうんだよ。どう考えても力不足だろ。死にに行くようなもんだぞ」

 サーリャの説明にゴルトは信じられないといったように驚いた表情で固まった。やはりゴルトでも同じような感想しか出ないようだ。情けない話だが、サーリャが逆の立場であっても同じ反応をするだろう。

「どうしても大森林で魔獣を一体狩らないといけないの。そのためには離れた距離でも攻撃できる短剣が必要不可欠だから何本か買いたいの」

「魔法はまだ使えないのか?」

「うん。実際戦闘になったら最後まで詠唱しきれる自信が無いから確実な手段を取りたいの。なんとかならない?」

 サーリャのお願いにゴルトは頭をかきながら「どうすっかな~」と悩み顔になった。ゴルトもサーリャが魔法をうまく使えないことを知る人物の一人である。きっかけは当時使っていた長剣が使い物にならなくなり、ゴルトの店で見繕ってもらった時だった。

 ゴルトは相手のスタイルに合わせて細かな調整をしてくれるのだが、その際に「お前さんは剣にどんな魔法を付与させているんだ?」と聞かれたことが始まりだった。

 嘘をついて誤魔化そうとしていたサーリャだったがゴルトが真剣にサーリャの為にと剣を選んでくれている姿に良心が痛み、魔法が使えないと正直に話したのだった。

 ゴルトは初め驚いた様子だったが、すぐさま立ち直り陳列している数多くの剣の中から一振りを選んで戻ってきて、


 ——これならお前さんに合うだろう。耐久性を重視したやつで切れ味は俺が保証する


 それ以来ゴルトの鍛冶屋でお世話になることが決まったのである。

 ゴルトはサーリャの剣を選んでくれた時と同じように短剣がまとめられている棚に近寄って真剣な表情で一本ずつ手に取りながら選んでくれている。サーリャはその姿を見ながら何も言わずただ黙ってゴルトが決めてくれるのを待っていた。

 なんだかんだ言いながらも最後はしっかり相手のことを考えてくれるのが彼の不器用な優しさだ。本人は否定していたが。

「とりあえずこの三本の中から選んでみても構わないか。実際使うのはお前さんだ。手に馴染むのを最後は自分の判断で決めてくれ」

 そう言ってゴルトが持ってきたのは三種類の短剣だった。一本目はサーリャがよく知る一般的な投擲用の短剣で、刀身も長くなく無駄な装飾もされていない。

 二本目は一本目の短剣と似たようなデザインで、違いがあるとすれば先程のよりも少し刀身が長く先端部分が針のように尖っており、小さな隙間にも難なく入り込み相手を刺すことに向いてそうだ。

 三本目に関しては他の二本と違って少しデザインが変わっている。刀身の長さは一本目と二本目の中間ぐらいだろう。先の二本は直剣的なデザインだったが、この短剣は刀身自体が軽く湾曲している。湾曲しているので直線的に投げてもうまく刺さるかがわからない。書物で見たことはあるが、おそらくこれは刀身自体を回転させながら投げて刺さると同時に湾曲した刃がさらに奥にまで刺さるように設計されたものなのだろう。

 サーリャは一本一本手に取り重さや握りやすさ長さなどを一つずつ真剣に確認していく。自分の命を助けてくれるかもしれない道具だ。不安が残るような選び方はしてはならない。

「う~ん。私ならこれが一番しっくりしたかな」

 一つずつ、時には二本持ちながら比較をしたりしながらサーリャが選んだのは一本目の一般的な短剣だ。

 今回サーリャが相手にするのはハイロウウルフだ。狼と身体特徴が似ているので小さな狙いに絞る必要がないため先が針のように細い短剣は今回の目的とは合わないし、湾曲した刀身の短剣はそもそもサーリャ自身まだ一度も使ったことが無い。扱ったことのない武器を実践で使っていくには危険すぎる。

 よって消去法の結果残ったのがこの短剣というわけになった。

「ゴルトさんありがとうございます」

「ちょっと待ちな」

「ん?」

 短剣用のホルダーも一緒に買っておき麻袋の中に詰め込んだサーリャは次の店に向かうためドアに手をかけたところで背後から呼び止められた。

 ゴルトはカウンター越しに立っており、腰に手を当てながらサーリャを見ている。

「俺が作った物はどれも俺が真剣に向き合った武器だからその質は保証する。だから生きるために捨てたり壊れたりするのは構わねぇ。だがな、無茶をした結果その場に放置され人知れず朽ち果てるような使い方をされるのだけは許さん。ボロボロになってもまたここに持ってこい。見違えるほどに修理してやる」

「あっ……」

 ゴルトの言葉にサーリャは何も言えなかった。いつものように気楽な言葉を返そうとしたが、口がパクパクと動かすばかりで肝心の声が出てこない。

 ゴルトは気づいているのだろう。だからこそどんな結果になってもこの店で彼女の帰りを待ち続けていると。こんな自分を待っていてくれる人がいてくれることがサーリャにとっては何よりも嬉しかった。

 そんな人を悲しませるわけにはいかない。サーリャは目を閉じ一度深呼吸をして再び目を開けるといつものように彼に言った。

「わかっているわ。一か月後また戻ってくるからその時はよろしくね」



 数日後、サーリャは予定通り王都リンガルを出発しルクドの大森林に一番近い町で宿をとっていた。リンガルからルクドの大森林までは徒歩だと数日はかかるが、運よく乗合馬車を捕まえることができたので予定より早く町に着くことができた。

 一か月以内にハイロウウルフを討伐し王都に戻らないといけないので帰りのことも考えるとあまりのんびりとはしていられないのだが、焦ればやられるのは自分だ。町に到着したその日は森には向かわず宿で持ち物の再確認をしたり情報を集めたりと移動の疲れを残さないように過ごしていた。

 その日の夜、サーリャは宿の一階にある食堂で夕食をとっていた。野菜のスープを飲みながらもサーリャは内心緊張と不安でいっぱいだった。

(明日からとうとう大森林に入るのね)

 ここに来るまでにサーリャは考えられるすべての対策を怠らなかった。装備は万全。治療に必要な薬の類も不足が無いように揃えてあるし携帯食も水も忘れないようにしてある。

 あとは目的の相手を狩ることができれば課題は達成だ。ただそれだけなのだが、どうしても不安は残る。

 せめて食事の時間だけでも明日のことは忘れようとしたところで店の扉が開いて数人の屈強な男達が入ってきた。

「女将~。今日のおすすめの料理は何だぁ?」

「あんたたちかい。今日は今朝仕入れたばかりの乳を使ったグラタンがおすすめだね。いつも食べてる肉も用意できるけどどうするんだい?」

「じゃあ女将の言葉を信用してそのグラタンをくれ。五人分でビールも付けてくれよな」

「はいはい。用意するからちょっと待ってな」

 男達はこの店の常連なのだろう厨房にいる女将と他愛のない会話をしていることからもそれは分かる。この店は町に着いた際、門番に安心できる宿を聞くと教えてくれた場所で、どうやら評判の高い店だったようだ。

 実際サーリャの手元にも野菜スープと一緒に熱々のグラタンが置かれている。

 そんな中、サーリャの耳に聞き逃せない話が聞こえてきた。

「しっかし最近魔獣の様子が変だよな。いつもより変異種が多くないか?」

「ああ。それは俺も思った。変異種もそうだが、通常個体も普段より気性が荒くなっているな。フォレストボアなんてあんな浅い場所にいるはずないだろ」

「今までの情報が役に立たないのが厄介ですね。私個人の感想で言うなら魔獣たちは何かに反応して騒いでいるように見えましたね。大森林の中で何かが起こっているのかそうでないのかもわからない状態では不安が残ります」

 さっきまで女将と会話をしていた男たちの話の中に、明日からサーリャが足を踏み入れる予定の情報が混ざっていることに気が付きサーリャはグラタンを食べつつ彼らの話を聞き逃すまいと意識を集中させていた。

(このタイミングで大森林に異変⁉冗談じゃないわ。こっちは将来がかかっているというのに)

 サーリャの中に暗雲が立ち込める中、男達の会話は止まらない。

「明日騎士本部に行って事情を伝えておくか?」

「よせよせ。あのルクドの大森林だぞ。説明したところであの大森林だからと相手にされないのが目に見えてるよ。前にも似たようなことで言いに行ったことがあったのを忘れたのか?」

「まぁそうなんだけどさ。最近のはいつもとなんだか様子が違っているように見えたんだよな」

 リーダー格の男が眉を寄せながらどうするかと悩む中、周りの仲間は気にした様子もなく話している。リーダーも違和感があるのだが、それが何なのかうまく説明できないようでしばらく悩み続けていたが最後は「まぁ、いっか」と自分なりに納得してしまい運ばれてきた料理に意識が変わってしまった。

 サーリャは声に出さないよう溜息をついた。もう少し聞きたいところではあるが、魔獣が普段と違った動きを見せているという情報を得ることができたのは僥倖だ。

 サーリャは再びグラタンを口に運んだ。変わらず美味しいグラタンであるが、サーリャの表情は先程までとは違って少し暗い影を落としていた。



 翌朝サーリャは泊まっている部屋で身支度を整えていた。

「これで良し。何も問題はないわね」

 部屋に備え付けられている鏡で自分の姿確認したサーリャは問題がないことを確認した後頷いた。

 サーリャは昨日までの移動に使っていた衣装とは違い、武器や鎧を装備した完全武装の姿になっている。

 胸当てを付け、手足には金属のプレートが付けられているがプレートで保護されている部分は少ない。代わりに露出している部分を革製のレザーアーマーで覆うようにして万が一の攻撃にも対応できるようになっている。全身を鎧で覆ってしまうとあまりの重さに動けなくなっているので必要最低限の部分だけは金属で保護する形になっている。

 腰には包帯や傷薬が詰められているポーチを付け、ベルトのように付けられたホルダーにはゴルトが作った短剣が左右に四本ずつ。合計八本が付けられている。

 左の腰にはこれもまたゴルトに選んでもらった彼女の直剣が鞘ごと括り付けられており準備は万全だ。

 髪は邪魔になるので後ろでまとめて支障が出ないようにしてあり、さすがに完全武装したこの格好は目立つので上から移動に使っていたローブを纏っている。これ以上の荷物はさすがに持てないので残りの備品は麻袋の中に詰め込んでいる。万が一足りなくなったら安全な場所で補充することはできる。

 改めてサーリャは鏡に映った自分の姿を見た。どこにもおかしなところは無い。今日までに十分な対策も取り全てが万全の状態なのだ。それでも鏡に映る表情は心なしかぎこちなく不安が顔に出ている。

 「こんな顔じゃ駄目ね。もう少ししっかりしなさいサーリャ・ブロリアス。あなたはこれからあの大森林に行くのよ」

 気持ちを切り替えるように自分の顔をぴしゃりと両手で叩いたサーリャは真剣な面持ちで宿を出るために歩き出した。



「ここがあの大森林なのね」

 サーリャは目の前に広がる森を見上げて思わず呟かずにはいられなかった。目の前に広がっているのは目的地であった大森林だ。

 見上げるほどに成長した木々は高濃度の魔力を常に浴びていた影響なのか土地柄なのかわからないが、幹が通常の木よりも以上に太く一本一本が三十m近くもあるので陽の光が遮られて少し中は薄暗くなっている。

 ここからは少しの油断が命取りとなる。常に全方位に注意を払いながら森の中を進み、草木の中に残っている課題目標の手がかりを見つけていかないといけない。

「よし!それじゃあ行きますか」

 無意識に腰に吊るしていた剣の柄を触ったサーリャはルクドの大森林に足を踏み入れた。



 ルクドの大森林は生態系が独特で慎重に慎重を重ねなければならない。それは王都にいる時から嫌と言うほど聞かされていた事実でその教えは忘れたことは無い。広大な森なのだからいきなり本命と遭遇することは無いとわかっていたのだが、探索を始めてすでに四日目。まったくハイロウウルフの痕跡を見つけることができないことにサーリャは少し焦りを感じ始めていた。

「この辺りにもいないわね。どこにいるのかしら」

 サーリャは何度目になるかわからない感想が思わずこぼれた。サーリャはポーチの中から小さな手帳を取り出し情報を書き込んでいく。

 手帳に書かれているのはサーリャがこの四日間で知りえた情報が詰まっている。サーリャがこれまで進んだ範囲のマッピング情報と、その中でハイロウウルフの痕跡があったかどうかの情報が追記されている。手帳の中には痕跡が見つからなかったことを閉める×印がいくつも書き込まれている。

(流石にここまでいないとなるともう少し奥に入らないと見つからないわね)

 サーリャは近くの倒木に腰を下ろし、手帳の情報を見ながら今後の方針を見直していた。

 これまでサーリャが遭遇したのは比較的小型で脅威になりにくい魔獣ばかりで対処も簡単だった。簡単だった半面、目的の相手の痕跡が全く見つからず貴重な時間をただ消費するだけになっていた。

 そしてサーリャがマッピングしたのは大森林の中でも比較的浅いエリアで深部にまで入っていない。なので書き込んでいる地図も外周部分が多く、まるで中心がくり抜かれたパンのようになっている。

 この状態になっているのはサーリャ自身の実力不足も当然あるが、安全を第一に行動してきた結果とも言える。もともと薄暗い森の中での行動なのでどれくらいの時間が経ったのか把握しにくい。

 暗くなって見通しが悪い中での戦闘は避けているので、まだ比較的早い時間であっても暗くなってきたと判断するとその日の探索は早めに切り上げるようにしているのも時間がかかっている理由の一つかもしれない。

 もしかしたら臆病者と周囲からは言われるのかもしれない。それでも自分の命を簡単に天秤に乗せるようなことをサーリャは決してしない。命あっての騎士資格だ。騎士になる前に命を落としたのでは本末転倒もいい所だ。

 しかし、自分の身の安全ばかりを気にしていてはいつまで経ってもハイロウウルフに出会うことができないのもまた事実。楽に討伐できることはここでは不可能。ある程度の危険は覚悟する必要がある。

「とりあえずこのまま奥に行ってみようかな」

 森からの出口は少し町から遠ざかっているが、わざわざ別の場所に移動してから奥に入るよりも今いる場所から入った方が時間の短縮にはなる。

 サーリャはそう判断し、装備の再確認を済ませてから立ち上がった。そしてそのまま森の奥へと続いている方向に歩き始める。

 周囲を警戒しながら奥へと進んでいたサーリャだったが、無視できない音が聞こえてきて慌ててその場にしゃがみこんだ。音の正体はまだ目にしていないが、少し先の茂みの向こうから小枝が折れる音と呼吸音が聞こえてくる。

 サーリャはしゃがんだままの姿勢で息を殺しながらゆっくりと茂みに近寄っていく。音を立てないようにゆっくりと目の前の茂みに手を入れ僅かな隙間を作る。隙間の向こう側には一体の魔獣がいた。

(あれはフォレストボアね。資料で見ていたよりも大きいわね)

 フォレストボアは猪型の魔獣で大森林以外の場所でも目にすることのできる珍しくもない存在だ。

 猪という生物の特性上、相手に突進していき自慢の牙で相手を傷つけるという攻撃方法だ。今目の前にいるフォレストボアもおそらく同じだと思うが、その姿にサーリャは困惑を隠せなかった。

 フォレストボアの平均的な大きさは大体一メートル前後。目の前にいるフォレストボアは恐らくその倍はあるのではないだろうか。そして一番目を引くのがその巨体を支える足。

 体のバランスから考えると不自然なくらいに発達した足はまるで巨大な柱のように太い。あの脚力から生まれる突進力は並大抵ではないだろう。

 しかし、いかに脚部が発達していようと所詮は猪。相手の突進に注意を払えていれば対処は可能だ。そしてフォレストボアは今こちらに背を向けて足元に生えている草に鼻先を突っ込んでいる。

 サーリャは音を立てないように静かに後ろへ下がり腰に下げていた剣を抜いた。

「我が内に宿りし力よ、鋭き刃を纏い我を助けよ」

 刀身に手をかざし、間違えないようゆっくりと詠唱を始めるサーリャ。戦闘中の詠唱はできないが全く魔法が使えないわけではない。こうして戦闘を始める前に準備をしておけば魔獣との戦闘は行える。

 詠唱が終わるとサーリャの持つ剣の刀身が淡い青色の膜に覆われた。膜はサーリャの持つ剣の刀身全体を覆うように包まれており刃の形になっている。無事に魔力を武器に帯びさせることができたようだ。

 剣を手に先程サーリャがのぞき込んでいた茂みから再び顔を出すとフォレストボアは移動もせずその場にいたままだ。このまま背後から奇襲をかけることができる。

 今回サーリャが討伐するべき相手はハイロウウルフだけなのだが、ハイロウウルフ以外を全く相手にしないというわけではない。もちろん避けられない戦闘は対処するが、それ以外でも討伐できそうな相手がいる場合は極力討伐してしまいたいというのがサーリャの方針で理由は二つある。

 一つは討伐した魔獣が残す魔核を回収しておきたいという理由がある。魔獣は討伐されると魔核と呼ばれるものを残す。魔核は魔獣の体の大きさによってその大きさは変動するが、すべての魔核は共通して紫色の丸い形となっている。この魔核を騎士本部の受付に持って行けば討伐証明として報酬が貰える形となる。

 討伐した魔獣の種類によって報酬額は変動するがその額は決して少なくない。防具の修繕や武器の新調など何かと出費が重なる生活では貴重な収入源となる。

 もう一つの理由が功績を少しでも残しておくためだ。

 ハイロウウルフの討伐が最優先目標だが、この広大な森の中で期間内に討伐目標と出会えるかどうかは正直運任せな部分がある。遭遇することができれば気にすることは無いが、万が一出会えなかった場合手ぶらで帰ってしまっては本当に何もできない人物だと評価されることは明らかだ。その評価を少しでも避けるために功績を残して評価点を稼ごうという思惑があるためだ。

 ありふれた存在であるフォレストボアでは大した功績にはならないだろうが何もしないよりかはましだ。

 茂みから立ち上がったサーリャは音を立てないようにゆっくりと背後から近づいていく。

 やるなら一撃。近づきながら剣を上段に構えていつでも振り下ろせる状態にしておく。緊張から剣を握った手の内側が少し汗ばんできた。

(ここまで来たらあとは踏み込みからの振り下ろしの方がいいわね)

 フォレストボアがすぐ目の前で背中を見せている。あと一歩踏み込めば届くがこれ以上はさすがに気が付かれるだろう。

 しっかりと剣を握り直し、踏み込みと同時にサーリャは勢いを乗せた斬撃を放った。

「っ!」

 サーリャは驚きのあまり目を見開いた。

背後からの完璧な不意打ち。確実に致命傷を与えることができたと確信していたサーリャの斬撃はサーリャが思い描いていた結果を残さなかった。

 振り抜いた場所にはさっきまでいたフォレストボアの姿は無く、代わりにその場には小規模の爆撃魔法が着弾したのではないかと思うような掘り返された地面がある。そして刀身はサーリャが魔力を帯びさせたままの青い光だけしか付いていない。

 サーリャは素早く剣を戻し周囲に視線を巡らせた。

(そんな⁉あのタイミングから躱されるなんて)

 攻撃のタイミングも状況も完璧だった。普通なら躱されることのない状況にも拘らず仕留めきれなかったのは言葉にすれば至極簡単。


——相手が普通ではなかったからだ。


 斬撃が届く瞬間、フォレストボアはこちらを見ることなく前に飛び出したのだ。おそらく剣を振るう時の風切り音を耳にしたのか気配を察知したのだろう。

 気配に気づかれたことは悔しいが、それよりも驚愕するべきことが他にあった。

(あのレベルの速さを初速から出せるなんて恐ろしいくらいの脚力ね)

 フォレストボアは前に飛び出す際、まるで砲弾を打ち出したのかと思うほどの加速を見せたのだ。剣を振り抜いた後に地面が掘り起こされたような跡があったのはフォレストボアがその強靭な足で地面を踏み出した際の影響だ。

 それほどの加速を正面から受ければ命に関わる。しかし、サーリャは警戒すべき相手を今見失っている。

 フォレストボアが踏み出した瞬間、掘り返された土が舞い上がってサーリャに飛んできたからだ。

 咄嗟に顔を背けて正面から土を受けることは無かったが、その間にフォレストボアは森の中に入ってしまった。

 姿は見えなくなったがサーリャは警戒を解かない。サーリャの周辺では巨体が走り回る足音と細い木々をなぎ倒す音が聞こえ続けている。

 サーリャはその場から移動はせず剣を構え直して冷静に音の発生個所を聴力で追いかけていく。

 周囲を見渡しても木々が邪魔でフォレストボアを見つけてもまた木々の陰に隠れてしまうのですぐに見失ってしまう。

「ギイイイイイイイィ!」

「っ!」

 サーリャの右斜め後ろ。木々をなぎ倒しながらフォレストボアがサーリャに向かって突進してきた。鋭い牙がサーリャを突き刺そうと物凄い速度で迫ってくる。

 サーリャは体を捻りながらフォレストボアが飛び出してきたのとは逆の左に下がる。サーリャの体程度なら簡単に跳ね飛ばしそうな巨体がすぐ傍を駆け抜けていく。

 傍を駆け抜けていく巨体に切りかかろうとしたがすでにその姿は木々の中に消え去っており、サーリャの攻撃は届かない。

 さっきまでは様子見だったのか、それともギリギリで突進を躱したサーリャを自分よりも格下と判断したのかフォレストボアは走り回りながら自分の姿を隠そうとはしなくなった。

何度もこちらに向かってくるようになりそれを躱すということが多くなったおかげで相手の動きにもある程度なれてきたが、状況は相変わらずサーリャに不利なままだ。突進を躱した後で剣を振り下ろしてもすでに相手はその場から離れた後で遅すぎる。かといって自分の命をそう簡単に危険な賭けに使うつもりはない。

(動きを止めるために足を狙うべき?……いえ。あの太さの足を切るにはさすがに危険が大きすぎる)

 サーリャは現状を打開するため必死に考えを巡らせていた。確かにあの突進を何とかするのならばその鍵となっている足を狙うのが最善だろう。しかし『足を狙う』ということはそう簡単なことではない。

 あの巨体を驚異的な速度にまで加速させることができるだけの脚力を有しているのだ。当然その筋肉量も相当であり、サーリャの斬撃で歩けなくさせるだけの深い傷をつけられるか不安が残る。

 そしてあの驚異的な速度で迫ってくる相手の足を切りつけた際に刀身が耐えられるのかもわからない。ゴルトの鍛えた剣だから他の鍛冶師が鍛えた剣よりも丈夫なはずだが限度がある。丸太のように刀身が太いならともかく剣というのは簡単に言えば金属の板。構造上、弱い部分である側面に大きな負荷がかかれば曲がるか折れてしまうだろう。踏まれでもすれば結果は明らかだ。

 ならば今サーリャがやれることは一つだ。

「……ふ~。」

 突進を避けた後に生まれる僅かな時間の中でサーリャは気持ちを落ち着かせるように深呼吸をする。そして両手で柄をしっかりと握り直して相手の動きを待つ。

 サーリャの構え方は先程までとほぼ変わらないが、変わっているところもある。肘を少し曲げる程度まで伸ばしていた腕をより肘を曲げて自分の体に近づけるようにし、剣を持つ高さも低くなっている。

 この場に戦いを眺めることができる第三者がいたならばサーリャの行動に疑問を持っただろう。身体に密着させるような構えでは最低限の動きしかできず十分な力を乗せて振り下ろすことができない。

 不可解な行動をするサーリャはその構えのままフォレストボアがいるである方向に常に体を向け、正面から迎え撃てる状態のまま相手を待つ。

 その時はすぐにやってきた。正面から致命の一撃を与えるためにフォレストボアが速度を全く緩めずに向かってくる。サーリャはギリギリまでその場から動かずフォレストボアが迫ってくるのを見る。そしてタイミングを見計らったサーリャは突進を躱すために右に下がりフォレストボアはサーリャの左側を通り抜けようとする。しかし動かすのは足だけで構えは解かない。

 フォレストボアの側面に向き合ったサーリャはついに動く。

「シッ‼」

 狙うは相手の首。サーリャは剣を振り下ろすのではなく下から切り上げる形で剣を振るう。切り上げも真上ではなく刃先をフォレストボアが向かってくる右に傾けておく。

 サーリャの狙い通り振るった剣はフォレストボアの首を横から深く傷つけることに成功した。そしてフォレストボアが目の前を通り過ぎていくほど傷口は広がっていく。

 無理に振り切らなくても相手から傷を広げてくれるのでサーリャは剣が弾かれないようにその場でしっかりと固定しておけばいい。相手の突進力を利用した作戦は無事に成功した。

「ギイイイイイイイイイイイイイィィィ‼」

 辺りにフォレストボアの断末魔の悲鳴が響き渡る。傷口からは血が勢いよく噴き出しており致命傷を与えたのは確実だ。フォレストボアは徐々に速度を落とし最後は立ち止まってサーリャの方に向き直った。

 サーリャは油断せず血が滴る切っ先を相手に向ける。

(油断しては駄目。気を抜くのは相手が死んだのをしっかりと確認してから)

 どんな生き物でも最後の足掻きというものは恐ろしい。最後でなくても命の危機に直面した時には普段からは考えもつかないほどの力を発揮できたりするのである。それが命のやり取りをする場となると、時としてこちらの想像を遥かに超える力を発揮し相手に一矢報いようとするのだ。いったいどこにそれほどの力を残しているのかわからないが、それがつまり生きるということなのだろう。

 現にフォレストボアの瞳にはまだ力があり、生きることを諦めたようには見えない。よろよろとこちらに近寄ってくるが、フォレストボアが近寄ってきた分サーリャもその分だけ後ろへ下がり距離を保つ。

 しばらくサーリャに向かって歩いていたが、それから数歩進んだところでついにその巨体はぐらりと傾き力尽きたように倒れた。

 倒れた後もしばらく動かずにその様子を見守る。じっとサーリャが見つめる先でその巨体がもう動くことが無いとわかるとゆっくりと構えていた剣を下ろした。

「ぷはぁ。はぁはぁ」

 知らない内に息を止めていたようだ。サーリャは一気に息を吐き出し何度も大きく呼吸を繰り返す。

「はぁ、上手くいって良かったー。やっぱりゴルトさんの剣じゃないと安心できないわね」

 王都にいるゴルトに心の中で感謝しながらサーリャは軽く地面に向かって一閃し、刀身に付いた血を飛ばす。刀身から離れたフォレストボアの血が地面に緩やかな弧を描いた。

「それにしても、思っていたより変質していたわね。ここだと当たり前なのかな?それとも変異種?」

 サーリャはちらりと横目で倒したばかりの存在に目を向けた。

 フォレストボアは特に珍しくもない魔獣の一種だったはず。王都周辺の村では被害は出ているが農作物を食い荒らされたり柵を壊されたりするぐらいで人的被害が出ているとはあまり聞かない。しかし、すぐ傍で倒れているフォレストボアは別格だ。そんな存在が村や王都に入り込んだなら相当な被害を出すだろう。農作物を食い荒らされるだけでは済まない。

 変異種は通常の個体よりも変異が大きく、姿形が変わるだけでなく本来なら持ちえないような能力を有していたりしており、本来なら苦戦するようなことでもない相手であっても十分警戒しなければならないほどである。

 変異種はその個体ごとに違いがあり全てが同じ変異をするわけではない。同じ種族であっても一方は腕力が強くなった個体で、もう一方は魔力の扱いが以上に長けた個体がいたりする。だからこそ事前の準備がしにくく遭遇してからの対策が求められてしまうことになる。

 もしかしたらこのフォレストボアも変異種の一体かもしれない。

「まぁいっか。変異種なら評価も高くなるはずだしさっさと魔核を回収しちゃいましょうか」

 サーリャは歩きながら纏わせていた魔力を解き剣を鞘に戻した。代わりにポーチの中から解体用の短剣を取り出す。死んだ魔獣なら魔力を纏わせなくても通常の刃物で解体は可能だ。魔力の残量にはまだまだ余裕はあるが節約するには越したことがない。

「魔核はどれくらいの大きさなのかな~。少しでも大きかったらいいな~」

 初めての討伐で浮かれているサーリャの顔には笑みが浮かんでいる。魔核の質に期待を膨らませながら解体しようとしゃがもうとしたサーリャは——


 グルルルル


 全力で横に向かって身を投げ出した。

 状況を正確に把握していたわけではない。今しがた背後から聞こえてきた唸り声の正体も正確な位置もわかってはいない。それでもこれまでの経験とサーリャ自身の勘が大きく警告を発したのだ。——全力で回避しろ、と。

 実際にその行動は正しかったようで、背後からガキンと何かが嚙み合わさる音が聞こえた。

 サーリャは短刀を投げ捨て、慌てて立ち上がりながら鞘に戻したばかりの剣を抜き放った。音の正体に目を向けると、サーリャがしゃがもうとしていた場所に一体の魔獣が立っていた。

 体長は二メートルはあるだろう。全身を覆う体毛は野生でありながらも流れるように整っており、毛皮として使われれば一級品となるのは間違いない。しかしその美しさは相手の顔を見れば簡単に吹き飛んでしまうであろう。

 まるで相手を射殺さんと言わんばかりの鋭い眼差し。そして口元から覗く牙は鋭く、漏れ出る唸り声は友好的な接触は不可能だとわからされるには十分なほどの迫力を持っている。

 そして一見すると大型の犬のように見えるが実際は違う。自分が強者だという絶対的な自負と威厳がある佇まいを持つ存在の正体をサーリャは知っている。自然とその名前を口にした。

「……ハイロウウルフ」

 ずっと探し求めていた存在。この森でサーリャが討伐しなければならない存在が今、目の前でサーリャと相対した瞬間だった。



 お互いその場から動かずにただ相手の様子を観察する。周囲から聞こえるのは風に揺られて聞こえてくる木々のざわめきだけだ。

 ハイロウウルフを目の前にサーリャはその場から動けないでいた。

 予想外のタイミングで待ち望んでいた相手と出くわしてしまったことで状況整理をしようと把握することに必死でこれからどうするべきなのか思考がまとまっていなかったのと、もう一つ別の理由がある。

(あれがハイロウウルフ?たぶん合っているはずだけれど、ちょっと私の知っているハイロウウルフと姿が違いすぎないかしら?それともルクドの大森林だとあの姿が一般的なのかしら)

 サーリャは表情が顔に出ないように努めながら、困惑した気持ちで目の前にいる存在を見た。

 ハイロウウルフ討伐のためにリンガルを出発する前、念のためにとそれぞれの魔獣の身体的特徴や対処方法が書かれている資料にサーリャは目を通している。一般的なハイロウウルフは背中の部分が灰色っぽい色をしており、それ以外の足や腹の部分は薄い茶色となっている。

 しかし目の前にいるハイロウウルフは明るい色の体毛ではなく、全体的に黒っぽく若干紫がかっている部分もあるので不気味さがあり、前脚から伸びる爪はまるで小さな短刀が付いているのではと思えるぐらいに鋭く長い。

 明らかに事前に調べていた内容と合わない部分がある。そして極めつけなのが……。

(あの揺らめいている魔力。迂闊に触るのは危険そうね)

 全身から漏れ出し蜃気楼のように揺らめいている魔力だった。

 薄い紫色の魔力は常にハイロウウルフから漏れ出しており、その量は全身を包み込むほどだ。

(魔力を纏わせている?いえ。それにしては魔力の形が不安定すぎる。何かの攻撃に使うには向いていないわね)

 似ているものとすればサーリャが刀身に魔力を纏わせている状態が一番近いが、ハイロウウルフの魔力は決められた形を作っているわけではなく揺らめいているので形が安定していない。あれでは動くたびに形が変わるので攻撃という面で使われるという可能性は低いはず。

 あの魔力は余剰魔力が漏れ出しているだけなのかそれとも別の理由があるのかわからないが、あまりいい結果にはならないだろう。

(それにしても本当に最悪!よりによってなんで魔力を解いた後に来るのよ)

 今後の動きを検討しながらもサーリャは内心悪態をつく。おそらくフォレストボアが散々走り回って木々をなぎ倒していた音と、そのあとに風に乗って流れてきた血の匂いに気づいてハイロウウルフはこの場にやって来たのだろう。

 相手を責めるのは間違いなのかもしれないが魔核を回収するつもりだったせいもあり、サーリャは持っていた剣に纏わせていた魔力を一度解いてしまっている。

 こうして再び戦闘状態となったのならもう一度剣に魔力を纏わせなければならないが、時間をかけて詠唱をする余裕など相手は与えてくれないだろう。そもそも相手の攻撃を避けながらの詠唱すらサーリャには荷が重すぎる。

 だからと言ってこのまま何もしないわけにはいかない。

(とりあえずは相手の動きを観察。敵の動きを読んで攻撃の隙を狙ってまずは打ち込む。少しでも大きな隙ができたならその隙に魔力を纏わせる)

 大まかな流れを決めたところでずっと相手の様子見をしていたハイロウウルフが痺れを切らしたのか鋭い牙でサーリャを噛み殺そうと飛び掛かってくる。

 サーリャは難無く迫ってくるハイロウウルフを横に移動して躱し次の攻撃に備える。

 魔獣化した影響なのか驚異的な速度で迫ってきたがフォレストボアほどの爆発的加速ではないので躱すのは容易かった。

 あっさり躱されたハイロウウルフだが、攻撃はまだ終わっておらずサーリャの後方に着地すると右前脚を浮かせ下から掬い上げるように振るってくる。

 まともに受ければ体が真っ二つにされそうな爪が迫ってくるがこれも予想していた動き。

 爪が当たらないギリギリ位置まで後ろに下がり爪が目の前を通り過ぎるとサーリャはすぐさま反撃に出る。

「はあっ‼」

 腕を振りぬき無防備な体勢になったハイロウウルフに向かってサーリャは全力で剣を振り下ろした。魔力を纏わせてはいないが全力で打ち込むのだ。威力は落ちるがダメージは確実に与えられるだろうとサーリャは思っていた。

 しかし、その期待は次の瞬間呆気なく裏切られた。

「なっ⁉」

 サーリャは目の前で起こったことが信じられず、目を見開き思わず声を上げた。

 振り下ろした剣はハイロウウルフに当たってはいる。当たってはいるのだが、刃先があともう少しで皮膚に届くというところで止まっている。相手の揺らめいている魔力の部分で止められたのだ。

 それに——

(なにこの感触。まるで水でも切ったみたいに勢いが殺された⁉)

 ハイロウウルフを包み込む魔力の層はそれほど厚くはない。それでも相手の魔力に剣が触れた瞬間、急激にサーリャの振り下ろす勢いが落ちたのだ。水のようだと感じたが、もしかしたら泥のようだと言い換えるべきなのかもしれない。

 目の前で起きたことが信じられず、僅かな時間サーリャはその場で固まってしまった。その僅かな時間をハイロウウルフは見逃さない。先程振るったのとは逆の足。左前脚の爪がギラリと光った。


 ——まずい‼


サーリャは大きく体を後ろに仰け反らせた。風切り音が目の前で鳴り、ほぼ同時にとてつもないほどの速さで何かが通り過ぎた。

 煌めく銀色の髪が目の前で何本か散っていく。

 相手の攻撃を避けることができたサーリャはすぐさま後方に飛び下がり距離をとる。

 ハイロウウルフは距離をとったサーリャをすぐさま追撃してくることは無かった。代わりにサーリャを討ち取れなかったことに対して納得していないのか苛立たしげに唸り声をあげる。

 それに対してサーリャはギリギリの状況を回避しながらも、まったくそれを喜ぶ余裕は無かった。

(あと少し動くのが遅れていたら命は無かった)

 改めて思い知らされる事実に、嫌な汗が服の下で流れていくのが分かる。実際サーリャの前髪がいくらか間に合わずに散ってしまったことから本当にギリギリのタイミングだったのだろう。

 相手を視界に収めながらチラリとサーリャは自分の持つ剣に目を向けた。

(剣は今のところ特に問題なし。引き抜く際に抵抗は無かったからあの魔力は動きを封じるための拘束系統ではないわね。向かってくる攻撃にだけ反応するのなら衝撃の吸収・緩和系かしら)

 サーリャは先程の行動から得られた情報を素早く整理していく。有効な対抗手段を見つけなければこのままだとジリ貧だ。

(魔力が揺らめいているということは安定していない?ならば魔力の薄い所を狙えばこちらの攻撃が通るかもしれないわね。問題は薄い部分が変化していることね)

 サーリャは大きくため息を吐きたい気持ちになるがぐっと我慢する。そこが一番の問題だった。絶えず変化しているということは、あらかじめ切り込む場所を決めることができない。どこに攻撃を仕掛けるかの見極めはその時に判断するしかない。

 つまり相手の攻撃をギリギリで躱し、そのあとに生まれる僅かな隙を狙ってその時に魔力の薄い部分に斬り込まなければならない。あまりにも無茶な条件で、たとえ実現可能なぐらいの実力を持っていたとしても進んでやりたいとは思わない。

 常にギリギリの状況下にいなければならず、少しでも見極めや動きにミスが生じてしまえば死が待っている。

 そんな綱渡りの状況を続けていれば先に疲弊するのがどちらかなんてわかりきっている。

「ま、これしか方法は無いわね」

 サーリャは自分自身を納得させるように呟いた。たとえ無茶でもやらなければならないのだ。それが今の自分にできる打開策なのだから。



 いったいどれだけの時間が過ぎたのだろう。

「はぁはぁはぁ……」

 肩で大きく息をしながらサーリャは目の前にいる存在を睨む。ハイロウウルフは出会った時と変わらず余裕のある佇まいでこちらを見ている。

 何度もこちらに襲い掛かり激しい動きをしているにもかかわらずサーリャのように疲れた様子はない。

(いったいどれだけタフなのよこいつは。このままじゃ先に動けなくなるのはこっちだけど……)

 そんなことはサーリャ自身が一番わかっている。だが、現状をどうすれば打開できるのかサーリャは思いつかないでいた。

 襲い掛かってくるハイロウウルフに何度も剣を振るい、何度も切りつけることはできたが結果は芳しくない。首、背中、腰。有効打になりえそうな部分はすべて試してきた。しかし毎回サーリャの剣は相手の体に当たる前に魔力の層で止められ、一度も相手を傷つけることはできていない。

 そして何度も繰り返してきたことで否応なく思い知らされたことがある。


 無理だ。


 サーリャでは目の前の存在を倒すことはできない。突きつけられた現実に思わず悔しげに表情を歪ませた。

 剣の腕が未熟なわけではない。こちらの攻撃がすべて避けられているわけでもなく、何度もこちらの攻撃は当てることができている。

 ならば原因は明らかだ。

(魔力を纏わすことさえできれば……)

 もう一度魔力を纏わせることができれば現状を打開することはできる。しかし模擬戦中に一度も魔法が成功したことのないサーリャがいきなり実戦で成功できるとは思えない。

(一度退いて体勢を立て直すべき?それともイチかバチか試してみる?)

 退くか留まるか。そのどちらを選ぶべきなのか考えている最中に状況が動いた。

 ハイロウウルフを包み込むような形で全身から溢れ出ていた魔力の量が突如として増えた。

「な、なに⁉」

 相手の変化に気づいたサーリャは一旦思考を中断し、困惑した表情で相手の動きを観察する。ハイロウウルフから溢れ出る魔力は全身を覆うことなく頭上に集まっていく。最初は一つの大きな塊だったが、途中で三つに分かれゆっくりと形を形成していく。

「……まさか」

 ある可能性が頭の中に浮かび上がりサーリャの表情が引き攣っていく。……まだ可能性の段階だ。思い込みで動くにはまだ早すぎる。

 ハイロウウルフの頭上で三つに分かれていた魔力がすべて同じ形に変わっていく。最初は球体だったが、それが今は細長く先端が尖り始めてきた。——もはや確定だ。

 サーリャはすぐさま近くの木々の中に入り込み、姿を隠しながらさらに相手との距離をとる。そしてすぐさま辺りに雷でも落ちたかのような轟音が鳴り響いた。

 土埃が舞う中サーリャはゆっくりと轟音が鳴り響いたすぐ隣の木に目を向け、そして目を見開いた。さっきまでサーリャの姿を隠す役目をしていた木はまるで砲弾の直撃でも受けたかのように幹が半ばから吹き飛んでいる。そしてその後方では大きくくり抜かれた地面がある。

「ちょっと、冗談じゃないわよ!」

 サーリャは感情を抑えきれず思わず大声で叫んだ。

 ハイロウウルフの変異種——それも魔力操作に長けた個体だ。サーリャはすぐさまその場から全力で逃げだした。

(よりにもよってなんで変異種ばかり遭遇するのよ‼しかも魔力特化型なんてハズレを引くにしても限度があるでしょ!)

 サーリャは走りながら自分の運の悪さに思わず悪態を吐く。魔力特化型の存在はサーリャにとって相性の悪すぎる相手だ。

 これまでサーリャが善戦できていたのは、相手がサーリャと同じ土俵である近接戦闘をしていたからだ。だからこそサーリャも持ちえる技術を遺憾なく発揮することができていた。しかし相手がサーリャの間合いの外、中・遠距離から攻撃を仕掛けてくるのなら対処できなくなる。

 目標から逃げなければならないのは悔しいが今は逃げることが優先だ。


 グルルルルオオオオオオォォォォ‼


 背後から今まで聞かなかった恐怖を掻き立てるような咆哮が聞こえてきたがサーリャは振り返ることなく走り続ける。あの咆哮にどんな意味があるのかはわからないが、確実にサーリャにとっていい結果には繋がらないだろう。

 走り続けていたサーリャだったが、背後で急激に魔力の気配が強まったのを感じ、今まで真っ直ぐに走っていたのを急に曲がって進路を変える。

 次の瞬間、先程木を吹き飛ばした魔力の槍がついさっきまでサーリャが走っていた場所に突き刺さり地面を掘り返す。

 着弾が聞こえた後サーリャはすぐさまさっき避けたのとは逆の方向に向かって走り再び進路を変える。間髪入れずに次弾が着弾するがサーリャには当たらない。

 サーリャは何度も走る方向を急に変え、ジグザグに走りながら逃げ続ける。ジグザグに走ることと木々が時折サーリャの姿を隠すことで狙いがうまくつけられず、背後から飛んでくる攻撃は一度も当たらない。

 サーリャは走りながらチラリと背後を振り返り、目にしたものを理解した瞬間振り返らなければよかったと後悔した。

 変異種であるハイロウウルフはまだ追いかけてきている。そしてその変異種に付き従うように一回り小型のハイロウウルフが見ただけでも二頭はいる。


 グルルルルオオオオォォォォ‼

 ギャアギャア!


 ハイロウウルフが咆哮を発すると森全体がより騒がしくなり、あちこちから獣の鳴き声が聞こえる。

(……最悪。こんな場所でトレインを引き起こすなんて)

 サーリャは悪くなるばかりの状況に泣きたい気持ちになった。

 トレイン——別名連鎖暴走とも言われ魔獣が生息する場所で決して引き起こしてはならないとされる最悪の行為だ。

 戦闘が拡大、もしくは逃げる最中に本来相手をする必要もなかった魔獣を呼び寄せてしまい時間が経つにつれてどんどん敵の規模が大きくなってしまうことを指す。

 トレインが発生してしまう一番の要因として挙げられるのが逃げている内に次々と魔獣の縄張りに足を踏み入れてしまうことが圧倒的に多い。

 たとえ戦闘音を聞きつけられたとしても自分から他の縄張りに足を踏み入れる魔獣は少ない。だからこそ逃げる際には別の縄張りに安易に入り込んでトレインを引き起こさないよう注意を払わなければならない。

 トレインは規模が大きくなれば大きくなるほど事態の鎮静化は困難となり、規模が大きくなりすぎると優秀な騎士団でも対処できなくなる可能性がある。それをサーリャはよりにもよってこのルクドの大森林で、しかも単独で引き起こしてしまった。誰かに助けを求めることのできない状況の中では最悪と言っていい。

 走り続けるサーリャの側面から兎型の魔獣であるイーターラビットが喉笛を嚙み千切ろうとその可愛らしい外見から想像もできないような凶悪さを持って飛び掛かってくる。

 サーリャはイーターラビットを走りながら持っている剣で斬り払う。斬られたイーターラビットは簡単に弾き飛ばされ地面に落下すると無様に転がっていく。しかしすぐさま起き上がると再びサーリャを追いかけ始める。

 魔力を纏わせていないので相手の命を絶つことはできないが、こうして脅威を一時的とはいえ振り払うことは可能だ。

 その間にもサーリャは必死に逃げ切れる場所を探す。このままでは先に体力が尽きるのはこちらだ。しかし、いくら走っても見えるのは起伏の少ない平坦な地面が続いているのと遮蔽物代わりに使っている木々だけ。逃げ切れるような場所も身を隠す場所もない。

 サーリャを追いかける集団はもはや対処が不可能なレベルまで膨れ上がっていた。両側にイーターラビットが並走し、背後からは変異種だけでなく通常個体であるハイロウウルフが追いかけてきている。ついさっきその集団の中に近くにいたフォレストボアも数体合流してしまった。

 徐々に背後から迫ってくる死の気配が嫌でも実感できてしまう。それでもサーリャは必死に走り続ける。走りすぎて心臓が痛いぐらいに暴れている。

(どこか、どこか逃げられる場所は無いの!せめて少しでも数を減らさないと)

 恐怖と焦りから注意力が散漫になっていたことで気づくのが遅れてしまった。サーリャの左側を並走するイーターラビットの目の前を横切る形で何かがこちらに迫ってきていることに。

「っ!」

 気づいた時にはもはや遅すぎた。慌てて避けようと身を捩るが動くのが遅かった為、たいした効果もなく一体のフォレストボアがサーリャの脇腹に一切勢いを緩めずに突っ込んだ。

「ぐふっ」

 横からの衝撃に思わず吸い込んでいた息を吐き出し、サーリャはフォレストボアが突っ込んできた勢いのまま横に飛ばされた。

 わずかな滞空の後、ゴロゴロと地面を何度か転がったところでようやく止まった。

「ゴホッゴホッ。あ、あぁ……」

 止まったところで遅れるように痛みがやってきて、そのあまりの痛さにサーリャは苦悶の表情を浮かべながらその場で悶えた。

 幸いにも牙はレザーアーマーで防がれていたようで致命傷にはなっていない。致命傷にはなっていないがその代わりに死ぬかもしれないのではと思えるほどの痛みは感じている。

 痛みに苦しみながらフォレストボアが出てきた方に頭だけ動かすと魔力で作られた槍がこちらに飛んでくるのが見えた。

「きゃあ‼」

 立ち上がることができなかったサーリャはごろごろと転がり少しでもその場から離れようとする。それでも大した距離を稼ぐことができなかったためすぐ近くに槍が着弾し、サーリャは周りの地面と一緒に爆発で吹き飛ばされた。

 吹き飛ばされたサーリャは受け身をとることすらできず地面に叩きつけられる。爆発の影響も追加されて動けず、土にまみれながらうつ伏せに倒れているサーリャはゆっくりと前を見た。

(……あぁ。これはもうダメだ)

 視線の先にはこれまでずっとサーリャの命を狙い続けてきた魔獣達が集まっていた。振り返った時よりも数が増えているようで、見える範囲で魔獣がいない空間はどこにも無い。

 よくもこれだけ規模を大きくしたものだとサーリャはまるで他人事のように思い、小さく笑う。

 ダメージはまだ回復しておらずまともに動くことはできない。持っていたはずの剣も吹き飛ばされた時に放してしまい今は何も持ってはいない。この状況から生き延びることは不可能だ。

 変異種であるハイロウウルフが「ウォン」と短く一鳴きするとすぐ傍にいたハイロウウルフが前に進み出る。

(うわぁ。あのハイロウウルフって他の個体を統率できるほど強かったんだ。どうりで勝てないはずだわ)

 おそらく前に進み出てきたハイロウウルフがとどめを刺すのだろう。通常個体でさえその強さは驚異的なのに、それらを統率できるほどの強さを持っているのならばあの戦いの結果も納得できる。

 それでも——

(そう簡単に私の命をあげるつもりはないわよ)

 右手をゆっくりと動かし腰に付けられている投擲用の短剣を一本外してうつ伏せのまま握りしめる。せめて一体だけでも道連れにしてやる。

 変異種を殺せないのは心残りだが仕方ない。死がサーリャの命を奪い去るまでの僅かな時間、これまでの日々が走馬灯のように流れていく。

 騎士に憧れてこれまで頑張ってきた。周りからバカにされても騎士になれれば見返せると思い諦めず訓練に励み、がむしゃらに生きてきた。それでも結果はどうだ。結局、目指していた騎士にもなれず広大な森の中で一人命を落とすことになる。

(これまで必死に頑張って来たのに結局は無駄だったのね。私は何にもなれないし何も得ることができないなんて……)

 そんなことを考えているとついにハイロウウルフの一体がサーリャに飛び掛かってきた。命を刈り取るための牙が、爪が迫ってくるのがゆっくりと感じられあと少しで届くというところで——ハイロウウルフが真っ二つになった。

「ガヒュ!」

「えっ⁉」

 ハイロウウルフも何が起こったのかわからなかったのだろう。真っ二つになったハイロウウルフは大量の血をまき散らしながらサーリャの近くに落下する。落下した衝撃で血が飛び散り、サーリャの頬を赤く染める。

 別のハイロウウルフが再びサーリャに飛び掛かってくるが、こちらも先程と同じように何もない場所でいきなり首が飛び胴から離れる。

(いったい何が起こっているというの)

 状況が全く掴めずサーリャはその場で倒れたまま混乱するばかりだ。その時サーリャは気づいた。

 目の前に集まっている魔獣達はずっとサーリャを見ている。——違う。魔獣達が見ているのはその先。サーリャの後ろだ。


 サクッサクッ


 草木を踏みしめる音。何かがサーリャの後ろから近寄ってきている。一定のリズムを刻みながら音がどんどん近寄ってくる。さっきまでサーリャを威嚇していた唸り声も知らぬ内に聞こえなくなっており静かになっている。

 そしてサーリャは信じられないものを見た。

 音が近くなってくると今度は魔獣達がじりじりとサーリャから離れていく。サーリャの後ろから近寄ってくる何かから目を離さず音をできる限り立てないようにゆっくりと。

(魔獣達が怯えている⁉後ろから何が来ているの?)

 怖い。サーリャが最初に感じたのは恐怖だ。近づいてくる存在は足音以外まったく音を出さず唸り声も咆哮も出さない。だからこそ正体がわからない。わからないからこそ恐怖が更に大きくなる。

 動けないはずの身体が小刻みに震え始めてくる。

(怖い!怖い!怖い!早く、早く終わらせて!)

 身体が震える中、サーリャは必死にそれだけを祈っていた。さっきまで道連れにすると意気込んでいたが、もはや最後の抵抗などする気も起らずサーリャの心は完全に折れていた。

 こんな恐怖を感じるくらいならひと思いに楽になりたい。

 涙が溢れてきて滲んだ視界の中、魔獣達がとうとうこちらに背を向けて逃げ出した。一人取り残されてしまうことが恐ろしくて「行かないで!」と叫びたくなるが、声が出てこず口をパクパクとさせることしかできない。

 各々が四方に散り、残っている魔獣はいない。この場に残っているのは傷つき倒れたままのサーリャと近寄ってくるナニかだ。

 とうとう足音が止まった。見えなくても気配で分かる。止まったにも拘らずナニかは何も音を発さない。ただ近くにいるだけだ。

 小刻みと言えないほど大きく震えていたサーリャだったが、不意に意識が遠のいていくのに気が付いた。魔獣達がいなくなったことからの安堵かそれとも恐怖で心が限界を迎えたのか……。

 それでもサーリャは意識が遠のいていく中、安堵した。


(良かった。これで楽になれる)


 意識を失った後はどうなるのかわからない。この場で無残にも殺されてしまうのか、食料代わりに食べられてしまうのか。それともボロボロになるまで玩具として使われるのかはわからない。

 それでも今感じている恐怖から逃げられることに違いは無い。サーリャは抵抗することなく受け入れ、闇の中に意識を沈めた。



「お母さま。私、大きくなったら騎士様になりたい!」

 幼い少女がベッドに腰かけている女性に将来の夢を楽しそうに話している。その顔には将来の自分に希望を抱き、憧れの眼差しを持ちながら笑っている。

「あらあら。サーリャはずいぶんと頼もしいことを言うのね。これもお父様の影響かしら」

 一方、母親は娘が生傷の絶えない道を目指すことに落胆や悲しみの表情は浮かべず、思い留まらせようと説得するわけでもなくただニコニコと微笑みを浮かべながら聞いていた。

「むぅ、本当だもん。絶対騎士様になってみせるもん」

 それでも幼いサーリャは母の反応が真面目に聞いていないと感じて頬を膨らませる。

「ええ。わかっていますよ。サーリャは頑張り屋さんだからきっとなれるわ。サーリャは騎士になった何をしたいの?」

「もちろんたくさんの人を助ける騎士様になるわ。毎日たくさんの人を助けていればみんな笑顔でいられるもん!」

「まぁ!毎日だなんて大変ね。そうね、みんなが笑顔でいられるならそれが一番ね。それでもサーリャ。時にはねどちらが正しいのかわからなくなる時もあるわ」

 これまで優しげな表情で聞いていた母は表情を崩さず、少し真剣な口調でサーリャに話しかけた。

「わからない?」

 サーリャは母の言っていることが分からず、可愛らしく首を傾げた。

「ええそうよ。例えばサーリャに新しいお友達ができたとしましょう。そのお友達とは仲良くなるのだけど、他の人からそのお友達は悪い人だから仲良くしちゃいけませんって言われるの。でもそのお友達はサーリャからすると悪い人には見えないの。みんなの言うこととサーリャが思ったこと、どちらが正しいのかわからない。……そんな時はどうするの?どんな騎士にサーリャはなりたいの」

 母からの問いにサーリャは難しい顔をしながら「う~ん」と唸りながら考える。

 小を切り捨てるか大を切り捨てるのか。片方を選べば必ずもう一方が悲しむことになる。みんなを笑顔にしたいと思っているサーリャの願いを否定するような質問だ。

 どちらかの犠牲を強いるような質問は大人でもどう答えるべきなのか悩むだろう。命の重さとは比べるものではなくすべて同じものだ。そこに優劣などなく平等に見なければならないのだが、実際には平等でないのが現実だ。

 裕福な者、貧しい者。力のある強者と力の無い弱者。そこには必ず優劣が存在し全てを平等に見ることなどできるわけがない。誰もが助ける際には必ず見返りを期待しており、その期待に応えられる者から救われていく。

 だからこそすべての者を平等に救うというのはただの夢物語として一蹴されてしまうだろう。

 母に見守られながらしばらく考えていたサーリャだったが、考えがまとまったのか顔を上げ母の顔を真っ直ぐ見ながら口を開いた。

「私は———」

 ……あの時、幼い自分は何と言ったのだろう。



 ゆっくりと瞼を開けたサーリャの瞳に最初に映ったのは見知らぬ天井だった。

 目だけを動かし周囲を見渡す。見えるのは木の壁や天井で、隅に取り付けられている窓から日差しが入り込んでいる。どうやらどこかの部屋のベッドで寝かされているらしい。

「……生きてる」

 サーリャはポツリと思ったことを口にした。こうして今寝かされているのだからそのことは間違いないのだが、なんだか実感が無い。あの絶体絶命の状況からどうやって生き延びたのだろう。思い出そうとしても途中で意識を失ってしまったので、当然サーリャは覚えていない。

 それでも誰かがあの場からサーリャを運び出してくれたのだろう。もぞもぞと掛けられた布団から右手を出して眺める。目の前に掲げられた自分の右手はどこにも欠損は無く、布団の中で左手や両足の指を動かしてみるが感覚もあるし動く。

 いろいろと疑問は残っているが、まだ頭がぼーっとしており起き上がれない。サーリャはしばらく身体を包み込む感触に身を委ねた。

 柔らかい。柔らか過ぎもせず堅過ぎもしない絶妙な弾力が横になっているサーリャの全身から疲れを取ってくれるようだ。大森林の近くに取った宿のベッドとは雲泥の差だ。

 どれだけその気持ちよさを堪能していたのかわからない。あともう少しと思いながら随分と長く横になっていたように思える。もしかしたら少し眠っていたのかもしれない。

 名残惜しいがいつまでもベッドで寝ているわけにもいかない。

 ゆっくりとサーリャは身を起こし始める。やけに身体が重く感じるが起き上がることはできた。身体に掛かっていた布団が起き上がると同時に少しずつずれ始め、最後は上半身から離れた。

 布団の下から現れた自分の身体を見たサーリャはピタリと固まった。

「えっ?」

 何故。どうして。サーリャは目の前のことが理解できず頭の中は疑問で埋め尽くされた。別に自分の身体が無くなっていたとか醜いほど大きな傷ができていたとかそんな理由からではない。

 視線の先には見慣れた自分の身体がある。ただ、肌を晒している面積が圧倒的に多くなっているというだけで……。

「きゃあー‼な、なんで私ブラだけしか付けていないの⁉」

挿絵(By みてみん)

 そう。サーリャは下着しか身に着けていないあられもない姿で寝ていたのだ。自分が下着姿になっていることをようやく理解したサーリャは顔を真っ赤にさせながら先程ずり落ちた布団を慌てて引き寄せ自分の身体を隠す。隠すと言っても胸元に引き寄せただけで背中は全く隠せておらず、綺麗な肌が晒されたままだ。

 誰にも見られることは無いという理由で可愛らしいフリルの付いたサーリャ好みの淡いピンクの下着が布団で隠される。

(な、なんで下着姿になっているの⁉知らない内に脱いでいた?いやいやいやそんなわけない!だったらここまで運んでくれた人が脱がしたの⁉)

 予想外の状況にサーリャの思考はパニック状態。茹でだこのように顔を真っ赤にしたままキョロキョロと忙しなく頭が動く。幸いにもこの部屋には今サーリャしかおらず他には誰もいない。

 おそらくベッドまでサーリャを運び、寝かせた人物が服を脱がせたのだろう。しかしわざわざ服を脱がせる理由が分からない。

 自分の身体をよく見れば左腕や脇腹部分に包帯が巻かれており手当てをした形跡がある。だが、治療だけならば服を捲るだけで済むことで、わざわざ脱がせる必要は無い。

 だとすると別の理由があるはずで……。

(まさか私、何かされたんじゃ!)

 サーリャの顔から一気に血の気が引き、慌てて自分の身体を隠している布団を剝ぎ取った。

「……あれっ?」

 サーリャは気の抜けたような声を出した。

 剥ぎ取った布団の下にあるのは自分の身体の下半分。見えたのはブラと合わせるように選んだ下着ではなく、サーリャが最後に見た姿である動きやすさ重視で選んだズボンだった。

 あちこち触りながら確認してみるが、投擲用の短剣を付けていたホルダーが外されているくらいで、特に乱れていたり履き直されたりはしていない。相手が男なのかわからないが、とりあえず純潔を奪われてはいないようなのでサーリャはほっと胸を撫で下ろした。

「と、とりあえず服を……」

 安心したとはいえこのまま下着姿でいるわけにもいかない。周りを見渡すとベッド脇に置いてあるテーブルの上に置いてあるカゴの中にサーリャが着ていた服が(なんだか少し雑に畳まれて)入っており、カゴの外には鎧一式と外されていたホルダーや手放してしまっていた剣が鞘に収められて置かれていた。


 ギィッ


 閉まっていた部屋の扉がゆっくりと開き、隙間から辺りを窺うように人の頭がひょっこりと出てくる。廊下に誰もいないことを確認したサーリャは静かに部屋を出た。

 廊下に出たサーリャは脱がされていた服だけを身に着けている。簡素なシャツ姿で前は開いているにもかかわらずボタンが無い。このままではその下にある下着が見えてしまうがそれを胸元にある紐で留めて見えないようにしている。鎧は部屋に残したままだ。そして手には一本の短剣が握られている。さすがに丸腰で動き回るわけにもいかないのでホルダーから抜き取ってきたものだ。

 出てきた部屋の扉の前でサーリャは左右を確認する。左を見れば扉は閉じられているが部屋が二つほど続いており、その先は行き止まりになっている。右は少し先で突き当りになっており、その先に何かがあるのだろう。

 迷わずサーリャは右に向かってできる限り足音を立てないよう静かに歩き出した。扉が閉まっていたとはいえ部屋の中で下着姿のサーリャが騒いでも誰も来なかった。ならばすぐ近くには誰もいないということになる。

(静かね)

 廊下を歩いていても聞こえるのは完全に消しきれないサーシャの足音のみ。それ以外の物音はせず静寂だけが辺りには満ちている。もしかしたらこの家の家主は不在なのかもしれない。

 そんなことを考えながら突き当りまでたどり着き、曲がろうとしたところで角の奥からギシッとわずかな物音がサーリャの耳に届き、慌てて壁に寄った。

 この先に誰かいる。サーリャの中で緊張が高まる。男なのか女なのか、ここまで運んだ自分をどうするつもりなのか。

 相手に気づかれないように角からゆっくりと顔をのぞかせてこの先にいるであろう誰かを探す。角の先は広いリビングが広がっていた。中央にはテーブルが置かれ傍には二人が並んで座れるくらいのソファーが置かれており、テーブルを挟んだ反対側には一人掛けのソファーが間隔を空けて二つ並べられている。

 そして物音を発したであろう人物は一人掛けのソファーに座っており、男だった。

挿絵(By みてみん)

 歳はサーリャよりも少し上、二十歳ぐらいだろう。端正な顔立ちは遠目に見ているサーリャでもわかるほどで、短く切り揃えられている黒髪が似合っている。少し大きめのゆったりとした服を着て静かに足を組み、辞書かと思えるほどの分厚い本を広げて読んでいる。

 サーリャの視線の先ではすべての時間から切り離されたかのような穏やかな空間が形成されていた。時折ページをめくる音と男性が身じろぎした時に生じる僅かな音しか生まれない。

 じっと動かない時はまるで一枚の絵画のようで、サーリャはそれまでの緊張感も忘れて思わずその光景に見惚れてしまった。

 相手のことをもう少しよく見ようと一歩を踏み出したサーリャだったが、床を踏んだ瞬間「ギイイイィ」っと床が軋んでしまった。

 それほど大きな音ではなかったが、静かな空間でその音はやけにはっきりと聞こえてしまった。まずいと思ったがすでに手遅れで、男もその音に気が付いたのか顔を上げ音の発生源であるサーリャの方を見た。

 半身が出ているだけだったが、ばっちりとサーリャの姿を見られてしまいその場で固まってしまう。

 男は何も言わずじっとサーリャのことを見ており、サーリャもどうすればいいのかわからず男性のことをじっと見る。

 お互い何も言葉を発さず無言で見つめ合う時間が続いたが、とうとう男の方が口を開いた。

「ようやく目覚めたのか。そんなところで一体何をしている」

「あっ。えっと、その……」

「そんなところにいたらまともに話もできん。さっさとこっちに来い。そこのソファーに座って構わん」

 しどろもどろになっているサーリャを全く意に介さず男は目の前にある二人掛けのソファーを指さしている。仕方なくサーリャはゆっくりと角から姿を現しゆっくりとソファーに近づいていく。

 サーリャがソファーに近づいてきても男は何の反応も示さない。手に持っている短剣には気づいているはずだが特に気にした様子もなくサーリャを見ているだけだ。

 ソファーに腰を下ろし緊張した面持ちで男性を見た。遠くからでは見えなかったが、蒼い瞳がサーリャをとらえている。

「さて、お前はどうして一人であんな場所でトレインなんかを引き起こしていたんだ?」

「それじゃあ、あの時私を助けてくれたのはあなたなんですか?」

「助けた……と言っていいのかどうかわからんが、魔獣の餌になりかかっていたお前を見つけたのは俺だ。たまたま近くを歩いていたら爆発音が何度も聞こえて向かってみたらお前がいたわけだ」

 淡々と話す男にサーリャは深く頭を下げた。

「助けていただいてありがとうございます。私はサーリャ・ブロリアス。ルイリアス王国の騎士見習いです」

「騎士見習い?ということはお前は騎士学校の生徒というわけか。ならば尚更どうしてこの森に一人でいる?」

 騎士。その言葉を聞いた男はピクリと眉を動かし目を細めてサーリャを見る。そして先程までの淡々とした口調に少し警戒感を滲ませ、少し問い詰めるような形で聞いてくる。まるで尋問でも受けているかのような気持ちになりながらもサーリャは正直に話す。

「えっとこのままだと私退校処分になるので、そうならないためにこのルクドの大森林でハイロウウルフを単独で狩ってこいと言われました」

「は?あんな所、ある程度の剣術と魔法が使えていれば勝手に騎士になれるだろう。それなのにお前はそこまでの実力が無いにも関わらずこの場所でハイロウウルフを狩ろうとしていたのか?」

「……はい」

 男は信じられないような表情でサーリャを見ており、その視線を正面から受け止めきれずサーリャは俯いてしまう。「よく入ることができたな」と呟く男の声を聞きながらサーリャは恥ずかしさで身を縮こませる。

 やはり特別課題を出されること自体が異例であって珍しいことなのだろう。自らの恥を晒していることにサーリャは情けなくなってしまう。

「お前を見つけたのは昨日だ。それから今までずっと眠ったままだったが、まぁ無事に目覚めたのなら問題はなさそうだな」

 一日も意識を失っていた。その事実にサーリャは驚きを隠せなかったがそれよりも気になっていることがある。

「あの、ここはいったいどこなのでしょう?私は大森林の中にいたと思うのですけど、近くの村ですか?」

「村なんて行くわけないだろう」

「はい?」

 村には行かないの?

「なんでわざわざ遠い所までお前を連れて行かなければならん。無駄な労力を使うぐらいなら俺の家に運んだ方が早い」

「それなら大森林の外にあなたの家があるのですか?でも大森林の近くにそんな家なんて無かったはずだけど……」

「何を言っている」

「えっ?」

 さっきから男との会話がうまくかみ合わない。お互い特に変なことを言っているわけでもないのに何かズレている。まるで前提自体が間違っているかのような……。

「お前は大森林からまだ一歩も出てはいない。ここは大森林の中にある俺の家だ」

 言っていることが理解できない。大森林の中に家?凶悪な魔獣が生息し独自の生態系を築いている環境の中に生活できる空間がある?

「えっと冗談ですよね。大森林の中でこんなのんびりと過ごせるわけないじゃないですか」

「なんでお前にそんな冗談を言わなければならん。どう言われようともここがルクドの大森林の中だという事実は変わらんぞ」

「そんなわけあるわけないでしょ!大森林の中で人が住めるわけないじゃない!」

 サーリャは思わず大声で叫んだ。ここまで馬鹿にされると流石に怒りたくもなる。それでも男はサーリャの怒りなど気にも留めていないようで相変わらず無表情のままこちらを見ている。

「そこまで言うならそこの窓から外を見てみろ。言ってわからないなら直接見た方が早い」

 男は面倒そうに近くの窓を指さし行けと指示する。サーリャは立ち上がりずんずんと大股で歩いていき窓へと向かう。歩くたびに脇腹が痛むが、怒りで興奮している今はその痛みさえも気にならない。

 カーテンを思いっきり開け外を見てみると目に飛び込んできたのは広大な庭だった。いや、果たしてこれを庭と言っていいのかも怪しい。騎士学校の訓練場が丸ごと入ってしまいそうなほどの開けた土地に申し訳程度にテーブルと椅子が置かれているが、どう考えても場違いだ。

 これだけの土地を持つとするならば、そこそこ力のある貴族か大商人ぐらいだろう。

「やっぱり森なんてどこにも無いじゃない。私を騙すのがそんなに楽しい?」

「いちいち喚くな。ちゃんと周りをよく見ろ」

 男はもはやサーリャの話を真面目に聞くつもりが無いのか一度閉じていた分厚い本を広げている。自分のことは眼中にないと言わんばかりの態度が更にサーリャを苛立たせる。

 言われた通り周囲をよく見ると、遠くに森が広がっているのが見える。しかし、あくまでも遠くに見えるというだけでここが大森林だという証明にはならない。そんなことを言ってしまえば、窓から森が見える場所はすべて大森林と言うことができる。

「ほら!やっぱり大森林なんかじゃ——」

 森をずっと眺めていたサーリャは見てしまった。木々の切れ間から何かがこちらを見ている。赤い二つの光が影の中で一際目立っている。そんな光が不意に消えた。消えた代わりにこれまで聞いたことの無いような獣の叫び声が聞こえ、木々が倒される音とわずかな振動が伝わってくる。

 しばらくその光景を凝視していたサーリャだったが、背後から声がかけられた。

「一つ聞きたいのだが、最近はこんな近くで魔獣同士の縄張り争いが見られるほど人間の生活圏は拡大したのか?それならば確かにこの光景も日常茶飯事の部類に入ってしまうな」

「……」

「それならばお前が信じないのもよくわかる。これは俺の認識不足だったな。しかし困ったな。他にも証明する手段はあるにはあるが、そうなると外に出ることになってちょっと面倒——」

「信じます。信じますから!ここは確かにルクドの大森林です!」

 サーリャは男の言葉を遮るように慌てて自分が間違っていたことを伝える。あんな激しい縄張り争いが近くで起こることなどありえない。何より他の証明手段と言う言葉に不穏なものを感じたのは決して気のせいではないはずだ。

 ふらふらとソファーまで戻ってきたサーリャは力が抜けたように座り込む。ソファーの弾力でサーリャの身体が僅かに跳ねたが、すぐに身体はソファーに沈みこんだ。

 「理解したようだな」と男が本から目を離さず言ってくるが、サーリャはただ頷くことしかできない。

「それでも信じられません。人が、しかもこのルクドの大森林の中で一人暮らしているなんて。いつ魔獣が家の中に入ってくるかわからないじゃないですか」

「そこは問題ない。入ってこられないよう術式を組んでいるからあいつらはこちらを眺めることしかできん。……それよりもお前はルイリアス王国の人間だな?」

「はい、そうですけどそれがどうしたんですか?」

「決まっているだろう。お前を送り帰すためだ。いつまでもこの家に居られるのは迷惑だ」

 帰る。その言葉にサーリャはすぐさま反応した。

「待ってください。私はまだこの森でやることがあるんです。せめてそれが終わるまではいさせてください」

「助けてもらった人間がいきなり図々しいな。俺はあくまでもたまたまその場に居合わせただけで、お前の課題とやらを手助けするために助けたわけじゃないぞ」

 男の言葉は正しい。見ず知らずの人間がいきなり自分の家を活動拠点にさせてほしいなどどう考えても受け入れることのできない相談だ。サーリャの言っていることはただの我儘であり、それに協力する必要などどこにも無い。

 それでも、それでもサーリャは恩知らずだと恥知らずだと罵られてもここで引き下がるわけにはいかなかった。

「そもそもだ。戦闘を直接見ていたわけではないが、どう見ても今のお前は実力不足だ。そんな奴が再び森の中に入っても犬死するだけだ。俺は自殺志願者を送り出すようなことはせんぞ。……ちなみに対象はハイロウウルフだったな」

「……はい」

 素直に答えるサーリャだったが、意気消沈してしまい最後の方は声が小さくなってしまった。それでも男には聞こえていたようで答えはすぐに返ってきた。

「諦めろ」

「なっ⁉」

 男は淡々と事実だけと口にする。

「諦めろと言ったんだ。ハイロウウルフは単独で行動する場合もあるが大抵は格下の存在を引き連れている。仮に他の魔獣とは接触せずにハイロウウルフを見つけたとしても結局は数の力で押し切られるだけだ。昨日のようにまた無様に地面の上を転がることになるぞ」

「昨日は不運が重なっただけです!昨日のようなことは二回も——」

「はっ!実力不足にもかかわらず大森林に単独で足を踏み入れ、トレインを引き起こしている奴が何を言う。トレインの回避は最低条件に位置付けられており、それすら守ることができない時点で実力などたかが知れている」

 サーリャの言葉を嘲笑うかのように厳しい言葉を言い放ってくる男にサーリャは何も言い返せず唇を嚙んだ。

(やっぱり、私には無理なの?)

「そもそもだ。どうしてお前がそこまで騎士になることにこだわる。そんなことをしなくてもお前の身分ならある程度楽に生きられるだろう」

 男の言葉にサーリャは驚愕した。どうして、どうしてそれを知っている。

「下々の者達の暮らしを知るということは無駄ではない。そこから得られる情報は貴重で飾らない言葉こそ真実味がある。ただし、不相応な道にこだわり続けるというのは感心しないと思うがな」

 呼吸をすることも忘れ、ただ男の言葉を聞くだけになっているサーリャは男が喋り続けるのを止められない。そして男はとうとうサーリャが危惧していたことを口にした。


「そう思わないか。サーリャ・ブロリアス男爵令嬢殿?」


 二人しかいないこの家の中で、サーリャの正体が男に知られた瞬間であった。



 サーリャは自分の正体を言い当てられたことへの驚きで固まったまま動けず、男はそんなサーリャの反応を見て楽しんでいるかのように笑っている。

「……私を知っているのですか?」

 硬直から抜け出し、探るようにサーリャは問いかける。少なくともサーリャは目の前の男と面識はないはず。しかし相手がこちらを知っているということは、どこかで会っているはず。

「名前を知っているだけだ」

「どこかの家の社交界の場で見たのですか?」

「いや。お前とはここで会うのが初めてだな」

「それならどうして私のことを知っているのですか?」

 サーリャの問いに男は最低限の言葉だけですぐさま返してくるが納得できない。言っていることが矛盾している。今日まで会ったこともない人物が名前だけでなく身分まで言い当ててくるなどありえない。

(うまくはぐらかされている)

 サーリャの中でますます目の前の男が怪しく見えてきて、警戒心がさらに上がる。この男の目的はいったい何なのだ。

「なぜ俺がお前のことを知っているか知りたそうだから答えてやるが、簡単なことだ。それはお前をここに運んできた時に調べたからだ」

「……どうやって?」

「悪いが荷物を調べさせてもらった」

 そこまで言われてサーリャはハッとし、腰元に手を動かす。今は外されているが、医薬品を入れていたポーチの中にはサーリャの身分証が入っている。当然そこにはサーリャの名前だけでなく貴族としての身分もしっかり記載されている。

「……女性の荷物を漁るなんて随分と失礼な方なのね。紳士なら淑女の持ち物は触りませんよ」

 サーリャはできる限り余裕のある風を装って男に言葉を返す。会話を始めてからずっと男のペースで話が進んでしまっている。ここで少しでも話の主導権を取り戻さなくてはサーリャも欲しい情報が得られない。

 しかしながら、現実は思い描いたシナリオ通りには進まないのが常である。

「何を言っている。この大森林で実力不足の人間がトレインを引き起こしながら俺の近くに現れたんだぞ?警戒するのは当たり前で、少しでも相手のことを知ろうとするのは自然な流れだろう。お前は素性もわからない奴を警戒もせずに家に入れるのか?」

「ぐっ!」

 間髪入れずに正論が返ってきて何も言い返せずサーリャは言葉に詰まる。まったくもって男の言うことは正しい。

「それで?話を戻すが、男爵令嬢殿がどうして騎士にこだわる。人が足りていないわけでもあるまいし、お前が騎士を目指す理由などないはずだ」

「確かに私は貴族です。しかし貴族と言っても名誉貴族と言うだけで、領地を持っているわけではありません」

「ほう、名誉貴族か。ならばおおかた父上殿が功績をあげたことで貴族になったということか」

 珍しそうな男の言葉にサーリャは黙って頷く。



 名誉貴族とは王国で使われている貴族制度の一種だ。国の一大事の際、目覚ましい戦果を挙げた者や、国に素晴らしいほどの利益をもたらした人物を身分に関係なく貴族へと昇格させることができる。

「それで?今のいい生活を続けたいからお前は騎士になりたいのか?」

「違います!たとえ貴族でなくても私は多くの人を守る騎士になると決めていました」

 男の言葉をサーリャはすぐさま否定する。そんな気持ちでこれまで騎士を目指していたわけではない。

「お前がどう思っていようが、どちらにせよ今の実力では不可能だ。特別課題を出されない程度になってから出直すことだな」

 これ以上の会話は不要なのだろう。男は再び本に視線を落とし何も言わなくなった。

「……はい」

 サーリャはただ頷くしかない。もはやサーリャには男に訴えかけられるものを何一つ持ち合わせていないのだから。部屋にある自分の荷物をまとめようとゆっくりと立ち上がり、戻ろうとしたところで背後から声がかかった。

「お前を王都に帰すのは明日だ。部屋は今使っているところで構わないから今日はもう泊まっていけ」

「泊めてくれるのですか?」

 男の提案をサーリャは意外だなと感じた。てっきり有無を言わせず帰されると思っていたのに、まさか泊めてくれるとは。

「俺を何だと思っているんだ。意識が戻ったばかりの怪我人を放り出すことなどするわけないだろう。治ったわけじゃないから今日は一日安静にしていろ」

「ありがとうございます」

 サーリャは気遣ってくれる男に向き直って深く頭を下げ、再び部屋に戻ろうとしたところであることを思い出した。今まですっかり頭から抜け落ちていたことを思い出したサーリャは慌てて振り返った。

「あ、あの!」

「どうした?」

「え~っと。その、一つ聞きたいことが……」

 何を聞かれるのか見当がつかず首を傾げたままの男を前にサーリャはどう切り出そうか悩んでいた。言いたいことはあるがなかなかその言葉が口から出てこない。聞くことが恥ずかしくて顔が熱くなっていくのが嫌でもわかってしまう。それでも聞いておかなければ気になって仕方がない。

「えっと、私って目を覚ました時、その、服を着ていなかったと思うのですけど。もしかしてあれって……」

 もじもじとしながら聞きたいことをようやく口にすると、男の方もサーリャが何を言いたいのか察しがついたようだ。

「あぁ。治療の邪魔だったから服は俺が脱がした。なんだ?何か不味かったか?」

「っ!わざわざ脱がせた理由を聞いても?」

 見知らぬ男性に肌を見られてしまった!しかも自分が意識を失っている最中に。その時のことを想像してしまいサーリャの顔は真っ赤だ。

 部屋まで運ばれベッドに寝かされたサーリャ。男が自分の服に手をかけ胸元の紐をゆっくりとほどいていく。胸元の紐が解かれ、あらわになる下着。脱がせるということは少なからずサーリャの身体に触れたということ。

 もしかしたらどさくさに紛れて胸を触られたかもしれない。男の手が豊かな双丘に伸びていき……。

「~~~~~~~~~~っ‼」

 もう限界だった。サーリャはその場にしゃがみこみ両手で顔を覆った。もはや顔だけでなく首元まで赤くなっている。

「捲っただけでは怪我がよく見えんだろう。服で隠れている部分も負傷していたら見過ごすことなどできん……ってお前は何をやっているんだ?」

「気にしないでください」

 男の訝しげな声が聞こえてくるが今のサーリャはそれどころではない。蚊が鳴くような声を発した後、しばらくしゃがんだまま動けずにいた。ようやく落ち着きを取り戻し始めたサーリャは気を取り直すかのように勢い良く立ち上がった。それでも顔の赤みが引いたわけではなく、今も赤いままだ。

「もう大丈夫です。ご心配をおかけしました」

「そう言うがまだ顔が赤いぞ?」

「気のせいです‼」

 サーリャは畳みかけるように主張する。これ以上この話題を続けたくない。

「そうはいっても、いきなりしゃがんだかと思えば顔を赤くして立ち上がったり、いったいお前は——。あぁ、なるほど」

 不意に言葉を途切れさせた男は何かに気づいたようだ。納得したように呟いた後サーリャを見てニヤニヤしている。何か嫌な予感がする。

「な、なんですか」

「いや、たいしたことじゃない。男爵令嬢殿は思っていたよりも〝そっち〟の知識が豊富なんだなと思っただけだ。安心しろ。治療以外でお前の身体には触っていない」


「なっ!」

 ようやく引き始めていたのに、男に指摘されて再びサーリャの顔が赤くなってくる。からかわれたことからの怒りなのか、それとも真っ先に〝そっち〟のことを想像し、自爆したことからの羞恥心からなのか。

「もう部屋に戻ります‼」

「ああ。しっかり休め」

 笑いを堪えているのか肩を震わせている男を見ていられなくなり、サーリャは早足でリビングから出ていく。まさかこんなことでからかわれるなんて思いもしなかった。

「言っておきますけど!」

「ん?」

 リビングから出ていき、角を曲がろうとしたところでサーリャは振り返った。

「私にはサーリャ・ブロリアスと言う名前があるんです。お前なんて言われ続ける理由はありません。そもそも私はあなたの名前すら知らないのだから、せめて名前くらいは教えてください」

 よく考えれば自分の名前も自ら名乗ったわけではなく、身分証を見られたことで知られただけだ。男はサーリャのことを知っていてもサーリャは男のことを何一つ知らない。

「……」

 しばらく男は顎に手をやり何かを考え始めた。まさか名乗るべきかどうか考えているのでは⁉明日には別れるのだから言わなくても別に構わないのではと考えているのかもしれない。

 しばらく躊躇っていた男だったが、最後は結局自分の名前を口にした。

「……ルインだ」



 部屋に戻ったサーリャは特にすることもないので言われた通りベッドで横になって安静にしていた。

「暇だな……」

 私物があるわけでもなく、部屋に時間を潰せる何かがあるわけでもないのでサーリャは暇を持て余していた。怪我人なのだから休むことは当然なのだが、ただ何もせず長時間寝ているだけというのもこれはこれで辛いものがある。一度は眠ってしまったが、今はもう目が覚めて眠気もまったく無い。

 窓から差し込む日差しも赤く染まってから随分と経ち、暗くなり始めている。

 外の暗さにつられるように部屋の中も次第に暗くなってくるが、部屋に備え付けられたランプが自然と明かりを灯しだし、部屋の中を適度に明るくする。

 ランプの中では明かりが揺らめいているがそれは火の光ではなく、魔力で作られた球体が宙に浮きながら光を放っている。ただのランプではなく魔力ランプだ。

「何かできることを探してみようかな」

 しばらく魔力ランプの光を眺めていたサーリャはベッドから身を起こして部屋の外へ出る。最後に見たあのニヤニヤとサーリャを見る顔は今でも腹が立つが、あれでも命の恩人だ。少しは恩返しをしたい。

 リビングに顔を出すと最後に見た時と変わらずルインはソファーで本を広げたままだった。一度は席を立ったのか、テーブルに置かれた本の数が多くなっている。

「あなたまだ本を読んでいたの?」

「そうだが何か用か?喉が渇いたのなら冷蔵庫に飲み物ぐらいは入っているはずだから好きに飲んでくれ」

 本から目を離すことの無いルインをサーリャは半ば呆れながら横目で眺めながらキッチンへと歩いていく。からかわれたことに対する意趣返しのつもりで敬語を止めて普段の口調に戻してみたが、ルインは特に気にした風でもないのでこのままでも構わないだろう。

 森で意識を失ってこの家で目覚めてから今まで何も口にしていなかったので喉が渇いていたのは事実だ。喉を潤してからルインにどうお礼をすればいいか考えようと思っていたサーリャは冷蔵庫を開け、その中を見て固まってしまった。

「……ねぇルイン」

「どうした」

「あなたってずっとここに住んでいるのよね?」

「当然だ。そもそもここ以外に家は持っていないからな」

 冷蔵庫の中の惨状に唖然としているサーリャを相手にルインは平常運転。冷蔵庫の中にはルインが言った通り作り置きしていたのか飲み物が入ったボトルが何本かあった。


 ——それだけだ。


 冷やしておかなければならない肉や野菜、卵などは一切入っておらず、何も入っていないほぼ新品の空間だけが目の前にはある。

「ルインって実は何も食べなくても生きられる化け物とかじゃないわよね?」

「お前は何か失礼なことを言わなければ気が済まんのか?俺とて食事はするぞ」

「だったら普段何を食べているのよ!探してもどこにも……って本当に何もないじゃない」

 キッチンの引き出しを手当たり次第開けていくが、少しばかりの調理器具はあっても食材の類は見つからない。食材どころか調味料の類まで一つも無い。

 こいつはやっぱり化け物なんじゃないか?——サーリャが再び失礼なことを思い始めたころでルインが口を開いた。

「足元だ」

「足元?」

「シンクの下の棚に乾麺の入ったボトルがあるはずだ。それが食事だ」

「……うわっ。本当に入ってる。それにしてもこの量は……」

 棚を開ければ確かに乾麺が入ったボトルがあった。しかしそのボトルの大きさが予想以上で、両手で持たなければならないほどだ。これだけの量を一人で食べるとなるといったい何日かかるのかわかったものではない。

「ちょっと待ちなさい。ルイン、昨日は何を食べたの?」

「パスタだな」

「一昨日は?」

「無論パスタだ」

 サーリャはこめかみに手を当てる。これは、もしかすると……。

「……一応聞くけど、明日は何を食べるつもりなの?」

「同じことを何度も言わせるな。パスタに決まって——」

「ちょっと待てーー‼」

 とうとう我慢できなくなりサーリャは叫びながら立ち上がった、両手には話題の中心となっている乾麺のボトルがある。

「毎日毎日パスタって何を考えているの!少しはパスタ以外のものを食べなさいよ!」

「何がそこまで気に入らないんだ。時間と手間をかけることの方が非現実的だ。他の料理とは違って茹でればすぐに食べられるんだぞ。さっさと食事を済ませて研究に戻れるのならこれほど効率的なものはないだろう。そもそも食事など空腹感を無くすための作業でしかない」

 ルインの主張にサーリャは足元で何かが崩れ去っていくような気がして思わずよろめき、キッチンに手をついた。

 食事が作業?この男の価値観はサーリャには理解し難いものだ。サーリャにとって食事とは毎日の楽しみの一つでもある。美味しいものを食べ、幸せを感じることで日々のストレスを忘れることができる。いわば心の栄養補充だ。

 しかしこの家の主にはその素晴らしさが理解できないようだ。毎日の食事に何かを求めているわけでもなく、ただ作業の一つとしてこなしていく。だからこそ多少味を変えていると思うが、毎日パスタでも構わないのだろう。

「……作るわ」

「何をだ?」

 サーリャはガバリと顔を上げる。

「私が今日の夕食を作るわ!私の前でそんな偏った食事をするのは見ていられないわ」

 いきなりルインに向かって宣言したサーリャをルインは目を丸くして見返してきている。サーリャがなぜここまでやる気になっているのか本気で分からないようだ。

「なんだ?お前料理なんかできるのか?食べる側じゃなくて?」

「お前じゃなくてサーリャ‼バカにしないで。騎士を目指す以上自分の食事くらいは自分で作れるわ」

 相変わらずの反応にサーリャはその場で地団駄を踏みたくなるがグッと堪える。本当にこの男は口を開けばこちらを怒らせることしか言わない。

「それで?他の食材はどこにあるの?まさかとは思うけど本当に食材がこれだけなんて言わないわよね?」

 サーリャはボトルに片手を置きながらルインに問い詰める。いくら何でも麵だけということは無いはずだ。少しは別の食材もあるはず。無かった場合は本当にどうしようもなくなるのでその時は今度こそ膝から崩れ落ちることになってしまう。

「食糧庫はサーリャの左にある扉の先だ。特にたいしたものは無いが、使えるものはあるはずだから好きに使ってくれて構わんぞ」

 ルインの言った通りキッチンの奥に部屋が一つ繋がっている。扉は開閉しやすいようにスライド式になっていて料理をする者からすると大変ありがたい設計になっている。まぁ、そんな親切設計もこの男の前では無用の長物になり果てているのだが……。

(とりあえずは何が残っているのか確認しないといけないわね。食材に余裕があるなら問題は無いけれど、そうでないなら炒め物かしら?)

 献立を考えながら食糧庫へと続く扉に進んでいく。しかし、連日パスタで済ませてしまうような男だ。きっとろくなものは残っていないだろう。

(そういえばルインってずっとここに住んでいるのよね。どうやって食料品を補充しているのかしら?)

 ふと思い浮かんだ疑問を抱えたまま扉に手をかけ、開け放った。

「……はっ?」

 いったいこの家で何度目になるのだろう。気の抜けたような声がサーリャの口から出てくる。ふらふらと中に足を踏み入れ左右に陳列されたものを見ていくサーリャの背後でゆっくりと扉が閉まっていく。

 肉・野菜・各種調味料。サーリャが求めている物がすべて揃っている。揃っているどころではない。おおよそ一人暮らしをするうえで保管するにしてはあまりにも膨大な量がこの部屋の中に詰め込まれていた。

 しかもただ無造作に置かれているわけではなく、食材の種類ごとに場所が分けられ、どこに何があるのかわかりやすいようになっている。

 しかし問題はフルコースを作れるほどに備蓄されている食材の量ではない。おもむろに近くにあった調味料の一つを手に取ってラベルに印字されている物を見た瞬間、サーリャは全身の毛が逆立ったように感じた。

「ルイン。ルイン!ルイン!ルイーーーーーン‼」

 壊れるのではないかと思うぐらいの勢いで扉を開け放ち、ルインがどこにいるのかわかっていながらも大声で名前を呼びながらサーリャは食糧庫から出てきて彼のもとへ向かう。

「……どうやらお前には大人しくしているということができないようだな。サーリャ・ブロリアス」

 サーリャが何度も騒ぎ立てるのでルインのこめかみには青筋が立ち、ぎろりとサーリャを睨んでくるがそんなことはどうでもいい。

「ちょっと!これはいったい何なのよ!」

 サーリャは食糧庫から持ち出してきた調味料をテーブルにドンッと勢いよく置き、その影響で大きな音が出る。

「なにって、ケチャップだが?」

「中身を聞いているんじゃないわよ!私が聞いているのはここ!」

 サーリャが指さしたのは容器に貼られたラベル。そこには商品の名前が記載されているのだが、それとは別に特徴的なイラストがスタンプされている。皿の上に野菜や果物が載っており、皿の外にはフォークとナイフが並べられている。

「そのスタンプがどうかしたのか?」

「どうかしたのかって本気で言っているの?これってブルリンド商会のマークじゃない」

「ブルリンド商会?」

 首を傾げるルインにサーリャは呆れるしかない。

「なんで持っている本人が知らないのよ。いい?ブルリンド商会は王都で知らない人はいないって言うぐらいの大商会よ」



 ブルリンド商会は数年前に突如として誕生した新規の商会だ。もともとは王都で料理屋を開いていたのだが、量がありながら大味で終わらせず美味しさを追求し続けるという少し珍しい方針を掲げていた。

 一流の店と比べてしまうと劣ってしまうが、それでもそれに追従するような美味しさを提供している。それでありながら一般庶民でも手の届きやすい価格設定なため店を訪れる人は後を絶たず、すぐさま王都中に評判は広がった。特に食べる量の多い男達や騎士達の間で好評だった。

 店はそこで立ち止まらず常に客のことを考えたメニューを考案し続け、増え始めた女性騎士も利用しやすいように店内のレイアウトを大きく変えるだけでなく野菜を中心としたヘルシーなメニューも次々発表したことでますます人気を高めた。

 今では料理を提供するだけでなく、独自の流通ルートを築いて独自に管理。さらには保存食や調味料などを販売し始めたことで独自のブランドを手に入れることになるまでに成長した。その際に目印として使われたのが、料理屋として営業を始めた時から使っているマークだ。

「へぇ。今はそんなことになっているんだな」

「知っていて買ったんじゃないの?」

 ブルリンド商会の扱う食材はどれも高品質で一流のレストランがブルリンド商会から食材を仕入れているぐらいだ。

 とりあえず怒りを引っ込めサーリャの説明を聞いていたルインの反応は実に淡白だ。もう少し驚いてくれた方がこちらも説明した甲斐があるというものだ。

(まぁ、ルインがそこまで大きなリアクションをするとは思っていなかったけどね)

 もしも「なにぃ!そうだったのか!」などとルインが言おうものなら確実に「誰だこいつ」と自分が言ってしまうのは容易に想像できてしまう。

「……ルインって実はかなり偉い人だったりするの?」

「なんだ突然」

「いえ。何となくそう思っただけで特に深い意味は無いわ。あれだけの食材を仕入れているのだからもしかしたらどこかの大貴族かと思っただけよ」

「何か勘違いしているようだから言っておくが、俺は貴族ではない。静かに暮らしたいだけのただの平民だ」

「ただの平民がルクドの大森林内に家なんか持たないし、あんな広い食糧庫も持たないわよ」

「そうか。なら〝少し〟他とは違う平民だ。そのケチャップも含めて食糧庫にあるものはすべて数年前に本人から譲り受けたものだ」

「あれが少し……」

 あれだけの規模で少しと誰が納得するのだ。さらりとルインの情報を集めようと思ったが逆に謎が深まってしまった。これ以上は何も得られるものは無いだろうと判断してケチャップを手に取り食糧庫に戻り始める。

 それにしても、とサーリャは手に持ったケチャップのラベルにあるブルリンド商会のマークを見た。

(たしか会長のルジー・ブルリンドって普段は〝王宮〟としか取引していないわよね。その人が無償で譲ってくれた?)

 また一つルインの謎が増えたのは気のせいではないだろう。



「さて。何を作ろうかしら」

 再び食糧庫に一人戻ってきたサーリャは腰に手を当て、目の前に広がる食材の数々を見た。まさかここまで揃っているとは思わなかったが、これはいい意味で予想外だ。

 料理をしないくせに食材は無駄に豊富で、キッチンにいた時にも気づいたのだが道具も一通り揃っているがどれも使われた形跡がなくほぼ新品の状態だった。

 いわゆる揃えたところで満足してしまい、その先までは進むことは無かったのだろう。

「とりあえず、野菜はしっかり食べてもらおうかしらね」

 パスタばかり食べているような人だ。きっと野菜などほとんど食べていないだろう。サーリャは野菜が置かれている棚に向かい、使う予定の野菜を手に取った。



「ルイン、作り終えたから夕食にしましょう。今からでも大丈夫よね?」

「……ああ。大丈夫だ」

 サーリャがキッチン越しから声をかけるとルインの声が返ってくる。しかし、一人掛けのソファーには誰もいない。代わりにサーリャが座っていた二人掛けのソファーから声が聞こえてきてゆっくりとルインが身体を起こす。

 どうやら何か行き詰っているようで、サーリャが料理をしている最中に移動してそのまま横になってしまったのだ。

 それでも寝ていたわけではなくこちらに向かってくるルインの表情には寝ぼけているような感じは無い。

 サーリャが皿に盛り付け終わるとルインが料理を運んでいき、空いたスペースに次の皿を用意する。二人分の料理しかないのと、テキパキと準備が整えられていくためすぐに食事の準備が整う。

 ソファーのある場所ではさすがに食事がしづらいので、キッチンの傍に置かれているテーブルでの食事となる。

「なかなかに豪勢だな」

「そう?時間のかかりそうなものはさすがに避けたけど、豪勢と言われるほどのものじゃないわよ。まぁ、毎日パスタしか食べていないルインからすれば豪勢に見えるのかしらね」

 サーリャが作ったのは野菜をふんだんに使った煮込み料理で、美味しそうな匂いが漂ってくる。煮込み料理以外にもハムを使ったサラダも置かれており、色とりどりで鮮やかだ。

「ほら、冷めないうちに食べましょ。温かいうちに食べるのが一番美味しいんだから」

 サーリャに促される形で食事が始まり、早速ルインが煮込み料理に手を出すのをサーリャは自分も食べながらさりげなく見ている。

「これはうまいな。久しぶりにこんなうまい料理を食べた気がするな」

「ふふ。そうでしょ。やっぱり食事は美味しいものを楽しみながら食べるのが一番なのよ」

 ルインからの高評価にサーリャは内心でガッツポーズをしながら嬉しさで笑顔になる。誰かに料理を振舞うこと自体これまで経験が無かったため、若干緊張していたのだが、どうやらルインのお気に召したようだ。

「あれだけの食材があるのにどうしてこれまで使ってこなかったのよ」

「それは俺がそこまで料理ができないからだな。俺が使ってもまともな料理ができるとは思えないし、かといって受け取らないわけにもいかん。一応保存食という形にしておけば最悪その食材を使ってしばらくは食い繋ぐことはできるからな」

「食糧庫の中にある食材って本当にこれまでずっと使っていなかったものなの。つい最近買って来たとかじゃなくて?」

「食糧庫の中にあるものはほとんどが数年前のものだが何か気になったのか?」

 ルインは煮込み料理のスープを飲みながら聞いてくる。

「私が見た限りだとどれも鮮度は良かったわよ。さすがに採れたてって程ではないにしても、このトマトなんてずっと食糧庫の中にあったとは思えないほど瑞々しいわ。買ってきたわけじゃないなら一体どうやって保存しているのよ」

 サーリャは自分の皿にあるトマトを口に運びながら尋ねた。他の野菜もそうだったが、どれも鮮度が良すぎたのだ。ある程度傷んでいると思っていたがそんな野菜は一つも無く、日が経ち過ぎて萎びている野菜もどれ一つとして無い。

「あぁ、そのことか。それは食糧庫内全てに状態保存魔法が常時展開しているからだろうな」

「んぐっ⁉ちょっ、まっ……!」

 呑み込もうとしたところでルインから爆弾が投下され思わずサーリャはむせてしまった。言いたいことはあるが激しく咳き込んでしまってそれどころではない。何度も咳き込むサーリャにルインはグラスに水を注いで渡してくる。

「大丈夫か?」

「だ、誰のせいだと思っているのよ。それよりどういうことよ⁉状態魔法の常時展開って、そんなのできるわけないでしょう!」

 グラスを受け取り水を飲みほしたところでようやくサーリャは言いたかったことを口にする。ルインの発言は一応魔法を扱う一人として到底信じられる内容ではない。

「状態保存魔法なんて空間と時間の干渉を同時に行使することになるのよ。そんな高レベルな魔法を扱える騎士なんて見たことが無いし、何より常時展開するだけの膨大な魔力をどうやって賄っているのよ!」

 状態保存魔法とはその名の通り対象の時間を止めて直前までの状態をそのまま維持し続ける魔法である。しかし、通常の魔法とは違い時間と空間に干渉するような魔法は難易度が桁違いだ。不変であり絶対的な規律である時間を止めるなど無謀にも等しい。

 何より、それだけの大魔法を一つの対象にかけ続けるならともかく、食糧庫内全体にかけているとならば消費魔力は想像もつかないほどの量だ。とても個人で賄えるものではない。

「まぁ、そう思うのも無理はないな。だが俺は〝少し〟他とは違う平民だから問題は無い。それよりも食べ終わったら風呂に入ってこい。広めに作ってあるからゆっくりできると思うぞ」

「はぁ……」

 サーリャの疑問はルインの魔法の言葉で片付けられてしまい、サーリャはもはや溜息しか出なかった。



 後片付けはやっておくとルインから言われ、半ばキッチンから追い出されてしまったサーリャは入浴のため脱衣所にいた。

 いつの間に用意したのか足元にはカゴが置かれており、中には新品のタオルや着替え代わりとしてルインの服が入っている。さすがに下着の類は今着けているものをもう一度使うしかない。

 身に着けていた服を脱ぎ下着姿となったサーリャは脱衣所に備え付けられている鏡に目を向けた。鏡には下着しか身に着けていない自分自身が映っている。

(私ってそんなに魅力が無いのかな?)

 自分の姿を上から下までじっくりと見ながらサーリャはそんなことを考えていた。これでも自分の体型には気を使っている。生傷の絶えない訓練の中であっても毎日の肌の手入れは欠かさないし、スタイルが崩れないように食事にも気を使っている。そんな毎日の努力のおかげで今日まで綺麗なボディラインを維持することができており、胸も大きい方だ。鎧越しでなければ少しは男性の視線を集めることができるのではないかとサーリャは思っている。

 そう思っていたが、今回ルインの反応を見てその自信が揺らいでしまった。

 はなはだ不本意だが、ルインはサーリャの服の上からではなく下着姿という肌を大きく晒した姿を見られている。少しはサーリャの身体を見てドギマギしたり胸に視線が向くかと思っていたが、ルインの目は特にそんな動きは無かった。

 あくまでも一個人であるサーリャとして接してきた。

(私の肌を見たのだから少しはドキドキしなさいよ!これじゃあ私だけが変に意識しているみたいじゃない)

 欲情して手を出されてほしかった——そこまではさすがに思っていないが、女性として少しは反応が欲しい所ではあり、何も変化が無いとそれはそれでサーリャに女としての魅力が無いのではと思ってしまう。

 いや。やっぱりそんな欲望丸出しの目で見られたくもないのは事実で……。

 結局サーリャはルインにどうして欲しかったのかわからず、しばらく下着姿のまま一人悶々としていた。

 答えの出ないままだったがとりあえずこのまま下着姿のままでいるわけにもいかないのでサーリャは残す下着も取って浴室の扉を開けて中に入った。

「へえ~。思っていたよりも広いのね」

 浴室内はサーリャが思っていたよりも広く、一人で使うには十分すぎるほどの広さがある。浴槽に関しては一人で使うにしては少し大きすぎるのではと感じてしまうほどで、腕を広げても大丈夫——とまではいかないが少なくともただ体を温めるために使うのならば浴槽の壁に手足がぶつかることは無い。

 洗い場で体を綺麗にし、ちゃぷっと小さく水音を立てながらサーリャはゆっくりと浴槽の中に入り首まで湯の中に身を沈める。

「は~。思いっきり足を伸ばせるのはいいわね」

 ルイリアス王国のすべての宿に浴槽があるわけではない。安い宿は当然風呂などあるわけないし、部屋で濡れたタオルを使って体を拭うことしかできない。

 風呂付きとなると手が出せないほどではないが、そこそこの値段になるのであまり普段から使うことはできないし、何よりここまで大きな浴槽を置いているところも少ないだろう。サーリャも泊ったことはあるが、どうしても足を少し曲げなければならず窮屈さがあったのは覚えている。

 快適な入浴を楽しんでいたサーリャはふとあるものを見つけた。

「ん?これは何かしら?」

 右側の浴槽の縁。腕を伸ばせば届く場所に不自然な出っ張りがある。角は丸められているが形は四角く大きく飛び出ているわけではないが、明らかに不自然だ。

「これって魔力受信装置?なんでこんなところに……」

 身体を起こし間近で見ると表面は星の形に彫り込まれており、そこに水晶が嵌め込まれている。そんなものが浴槽に付けられており、しかも魔力を与えれば何かが作動する。

 未知の仕組みに興味を持ったサーリャはゆっくりと縁に手を伸ばしていく。もしかしたら浴槽に面白い機能が備わっているのかもしれない。手をかざしたサーリャはちょっとだけと思いながら受信装置に魔力を流した。

 変化はすぐに現れ、嵌め込まれた水晶が淡く光りだした。何が起こるのか光り続ける水晶を見ていたサーリャの目の前で——浴室内全ての照明が落ちた。

「えっ⁉ちょ、ちょっと待って!」

 まさか浴室の明かりがすべて消えるとは思わずサーリャは焦りだす。すでに水晶も光を失っており周囲は真っ暗で何も見えない。まさかあの受信装置が照明の操作をするためのものだと誰が思うだろう。

 もう一度水晶に魔力を流さなければと慌てて手探りで縁を触っていたサーリャの頭上から柔らかな光が降ってきた。手を止め頭上を見上げたサーリャは目に飛び込んできた光景に目を奪われた。

「ふわぁ」

 見上げた先に広がっていたのは視界いっぱいに広がる満天の星空だった。天井だった場所がすべて星空へと変わり、月明かりが浴室内に降り注いでいる。

「綺麗……」

 星空を見上げながらサーリャはそれだけしか呟くことしかできない。これまで何度も夜の空を見上げたことはあるが、ここまで綺麗な星空を見たのは初めてだ。街の明かりなどは入り込まず、澄み渡った星と月が輝いている。

 身を起こしていたサーリャはゆっくりと浴槽の端にもたれかかり、縁に頭を乗せる。何も言うことなくサーリャはただ目の前に広がる星空をただ眺めていた。



 サーリャが星空を見ながら入浴を楽しんでいる頃、ルインはキッチンで黙々と皿洗いをしていた。最後の皿を洗い終え、立てかけたところでルインはちらりと脱衣所の方へ目を向けた。

「結局何も仕掛けて来なかったな」

 ルインはポツリと呟いた。自分が助けた騎士見習い——サーリャはルインが見ている限りでは特におかしな動きを見せてはいない。こちらを油断させてから何か仕掛けてくるのではないかと今まで警戒していたが、結局何も起こらず今は暢気に風呂に入っている。

(本当にただ特別課題とやらを果たすためにここまで来たのか?しかし、俺が森に出かけている時にわざわざ俺に見つかるような行動をしているから家に入り込むことが目的とも考えられる)

 ここがただの人里離れた辺境の地で起こったことならばそんなこともあると思ったかもしれない。しかしここは普通ならば足を踏み入れることを避けているほどの危険な地だ。そこに王国の人間がやってくることなど滅多に無い。

 ルインにとって王国の人間——しかも見習いとは言え騎士を目指している者は十分に警戒するべき対象になりえる。もしも何かしらの悪意を持ってきたのならばすぐさま実力行使をするつもりだったが、サーリャは策を巡らせているようには見えない。

(俺を探しに来るという線は薄いと思うが、その情報を信じずどこかの貴族が秘密裏に探りを入れているのか?)

 あるいはサーリャには本当の目的を伝えていないのかもしれない。ルインは王国の人間にとって邪魔な存在だ。杞憂に終わればそれでいいが、万が一の場合はこの家を手放す選択もしなければならない。

(結局はあいつの行動次第か)

 そう思っていたところで脱衣所から物音が聞こえてきた。どうやら入浴を終えたようだ。



 脱衣所から出てきたサーリャはタオルで髪を拭きながらリビングまで戻ってきた。大きめのシャツにゆったりとしたズボン姿のサーリャは入浴後ということもあり頬を上気させ、ほうっと漏れる吐息からは色気が漂っている。

「お風呂ありがとうね。とても気持ちよかったわ」

「それは良かった。ずいぶんと長く入っていたみたいだが、もしかしてアレを見ていたのか?」

「ええ、そうよ。あんな素晴らしい星空を見ながらお風呂に入れるなんて夢にも思わなかったわ!いったいどんな仕掛けなのよ?」

「簡単だ。天井全てに透過の術式を組み込んである。透過とは言ったが双方の透過にはせずにあくまでも片側からしか見ることができないようにしてあるから、外からはこちらを覗けないようにしてある。研究が行き詰った時はアレを見て気分転換するようにしているな」

「ルインが羨ましいわ。あんな景色を独り占めなんて」

 なんて素晴らしい機能なんだろうとサーリャは思う。お風呂に入りながら星空をいつでも眺めることができるなんて。サーリャならば毎日見ていても飽きないかもしれない。

 ちなみに、あまりにも星空を眺めることに夢中になりすぎて、のぼせかけたというのはサーリャの中では秘密にしてある。

「それで、サーリャは明日からどうするつもりだ?」

 興奮も冷めきらぬ状態のサーリャにルインは話題を切り替えるように静かに聞いてくる。

「……王都に帰るわ」

「ほう」

 サーリャの返答にルインは少し驚いた表情になった。

「意外って言いたそうね」

「そうだな。俺はてっきりここに残るとごねてくるかと思っていたからな。少し意外に思っただけだ。帰った後はどうするつもりなんだ?」

「特に決めてないわ。荷物をまとめて実家に帰ってから考えるしかないわ」

 サーリャは肩をすくめながら正直に話す。昨日まで騎士を目指して頑張ってきたのだ。それが果たされなくなった時のことなど考えてもいなかったのでこれから先のことは一切わからない。

「それじゃあ私はもう部屋に戻るわ。明日は預けてある荷物も取りに行かないといけないから王都じゃなくて近くの町まで送ってくれれば助かるわ」

 おやすみなさいと言ってサーリャはそのまま部屋に向かってそそくさと歩き出した。だからこそサーリャは気づくことができなかった。

 サーリャを見送るルインの目がその言葉の真偽を図るかのように細められていたことに。



 翌朝の早朝。まだ日が昇りきっておらず辺りが薄暗い中、ルインの家の敷地であるひらけた土地をゆっくりと横切る影があった。

 影は真っ直ぐとルインの家から離れていき森へと進んでいく。あともう少しで森に入ると言ったところで影が移動を止め、くるりと方向を変える。その動きにつられて薄暗い闇の中で銀色の髪が流れるように動く。

「助けてくれてありがとうございます。そして、ごめんなさい」

 サーリャはルインの家に向かって深く頭を下げ、感謝と謝罪を口にする。本当に彼には感謝している。危険な場所からサーリャを救い出してくれただけでなく、そのあとの手当てや寝床を提供してくれた。ルインがいなければこうして頭を下げることすらできなかっただろう。

 そんな彼の優しさをサーリャは裏切ろうとしている。これ以上に不誠実なことは無いだろう。恩知らずだと彼から蔑まれることになる。

 それでもサーリャはこの道を歩むと決めたのだ。サーリャにとって夢である騎士を諦めるということは考えられないことだ。ルインの前ではあっさりと諦めるような演技をしたが、内心では叫びたい気持ちを必死で隠していた。


 ——諦められるわけがない!

 ——私は騎士になるんだ!


 ルインはまだ眠っているだろう。サーリャが使っていたベッドの上に借りていた服を綺麗に畳んでおいて謝罪のメモを残してある。彼がメモを見つけるころにはサーリャはすでに森の中。探すこともできないだろう。

 長く、本当に長く頭を下げていたサーリャだったがようやく頭を上げる。そろそろ出発しなければ。

 気持ちを切り替えて再び大森林に挑もうとしたところで背後から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「こんな朝早くから散歩とはずいぶんと早起きなんだな。サーリャ・ブロリアス」

「なっ⁉」

 聞こえるはずの無い声を聞いてしまいサーリャは慌てて背後を振り返る。振り返った先にはいつの間にいたのかルインが近くの木にもたれかかり、腕を組んでこちらを見ている。

「どうしてここに……」

「俺を甘く見るな。昨日話していた時、お前が嘘を吐いていたのは分かりきっていた。わざわざ特別課題をクリアするためにここまで来るような奴が簡単に騎士を諦めるとは到底信じられん。お前の性格からしてこっそり抜け出すかもしれないと思っていたが、まさか本当に行動に出るとはな」

 見破られていた!サーリャの嘘を見破ったうえでルインは何も言わずに放置していたのだ。杞憂で終わってほしいと思いながらこの場所にいたのだろう。それをサーリャは裏切ってしまった。

「それで?」

 ルインが気から身を離しサーリャの方に向かって一歩踏み出してくる。申し訳なさと後ろめたさから思わずサーリャは一歩後ろに下がってしまう。

「俺は言ったはずだよな?自殺志願者を放置するつもりはないと。一度出直して来いと。その忠告を無視してお前は何をするつもりだったんだ?」

 これは質問ではない。ただの確認だ。親に叱られている子供のような気持ちになりながらもサーリャはルインの視線を正面から受け止める。

「もう一度大森林に挑みます」

「言ったはずだぞ。お前は実力不足だと。このまま森に入っても前回の二の舞だ。今度も俺が助けてくれると思っているなら勘違いだぞ。あの時はたまたま見つけただけにすぎないしそこまで面倒を見る義理は無い。今度こそこの森で死ぬことになるぞ」

 ルインの言っていることは事実なのだろう。このまま挑んでも勝てる見込みは無い。それでも——。

「それでも私は諦めたくないの‼」

 サーリャの悲痛な叫びが辺りに響き渡る。

「これまでずっと騎士になるために頑張ってきたの!どれだけバカにされても騎士になれれば見返せるって。騎士になれればこれから多くの人を救うことができるって。だからこれまで頑張ってこれたの!その夢を簡単に諦め切れるわけないでしょう‼」

 一度言い出してしまうと止まらなかった。そして怒りがサーリャの中で渦巻いている。簡単に夢を諦めろと言ってくるルインに。そしてそんなことを言われてしまう自分自身の不甲斐なさに。

 これだけ必死なのにどうして結果が出ないのだろう。どうして自分は落ちこぼれのままなのだろうか。諦めなければいつかきっと実を結ぶ。しかしサーリャにはその努力が実を結ぶ兆候さえ見られない。なんて不公平なのだろうか。

 これまで我慢していた思いを出し切ったサーリャをルインは黙って聞いており、何かを言うわけでもなくじっとサーリャだけを見ている。そんな彼をサーリャは若干目に涙を浮かべながら睨みつける。

「騎士はサーリャが思っているような綺麗事だけで成り立っているわけではないぞ。時には必要悪としてその手を汚すこともある。その重圧に押し潰されて剣を手放すやつを俺はこれまで何人も見てきた。命令されることに慣れ過ぎてそれが正しいことなのか疑問に思うことなくただ行動していく。そんな人形のような生き方を目指すと?」

「そんなことあるわけない。騎士は常に正義を掲げて人々のために動くのよ。間違いなんて起きるはずないじゃないの」

「正義か……。その言葉を信じた結果が()()なのか」

「えっ?」

 ぽつりと呟いたルインの最後の言葉はサーリャに向けられたものではなかった。寂しげな言葉とともにルインの表情に陰が差す。しかし、それも一瞬のことで、すぐさま何事もなかったかのようにいつものルインに戻ってしまった。

「目標が高いのは結構だが今のままでは結果は変わらないぞ。どうするつもりなんだ」

「——さい」

「なに?」

「だったらルインが私を強くしてくれたらいいじゃない!あなたならそれくらいできるでしょう!」

 大森林で不自由なく生活できているのだ。生活力は壊滅的だが少なくとも周囲の魔獣を単独で対処できるほどの実力を持ち合わせているということになる。ならば彼からサーリャに足りないものを学べばいい。

「断る」

「何でよ!」

 すぐさま却下してきたことに嚙みつくサーリャ。この男には人の心が無いのだろうか。

「そもそもそこまでしてやらなければならない理由が無いだろう。理由もなく誰かの面倒を見るなんて御免だ。お前の面倒を見ることで俺にどんなメリットがあるんだ?」

「メリット……」

 サーリャは必死で思考を巡らす。ルインがサーリャを必要とするような何かを提示しなければ!

 しかしこれまで一人で問題無く生活してきたのだ。今更何をこの男は欲しがるのだろう。欲しいものはすべて独力で解決してしまえるならばサーリャにできることは何も無い。

 なかなか案が出て来ず焦り始めていたサーリャだったが——。

「あっ」

 一つ思いついた。ルインが持っておらずサーリャが代わりに提示できることを。しかしこれはあまりにも……。

(あまりにも単純すぎる……)

 サーリャが思いついたことはあまりにも対価として安すぎる内容で、思いついておきながら口に出すのを躊躇ってしまう。それでもこれ以外に良い案は思いつかないことに変わりはない。自分の進退を決めるかもしれない大事な局面で思いついたことを口にした。

「……作ってあげる」

「何を?」

「ルインが私の面倒を見てもらっている間、食事は私が作ってあげるわ」

「……」

 あまりの内容に呆気に囚われているのか口を開けてルインが固まっている。

「ほ、ほら。ずっとパスタだと食事のバランスが悪いと思うの。本を読みながらずっと何か悩んでいるみたいだから、美味しいものを食べれば何か閃くかもしれないでしょ。私はルインから戦い方を教えてもらって、ルインは毎日の食事が豪華になる。どちらにもメリットがあると思わない?」

 ここまで来るともはや勢いで押し通すしかない。捲し立てるように言いたいことを喋ったサーリャはルインの反応を窺った。あとは彼の返答だけだ。

 顎に手を当てしばらく考え込んでいたルインだったが、考えが纏まったのかサーリャに何も言うことなく家に向かって歩き始めた。

(あっ)

 見放された。当然だ。見放されるようなことをサーリャはしたばかりで、対価として提示したのがあまりにも安っぽい内容だ。一応は検討してくれたと思うが結果は変わらなかったのだろう。そう思うと全身から力が抜けてしゃがみ込みたくなるが、それだけはすまいと必死に足に力を込めて立ち続ける。

 こちらに近づいてくるルインは何も言わずサーリャの横を通り過ぎていく。視界がぼやけてきて声が震えそうになる。

「ついてこい」

「えっ?」

 背後からおもむろに声をかけられゆっくりとサーリャは振り返る。ルインは数歩進んだところで立ち止まってこちらを見ている。

「お前の覚悟とやらを見せてもらう。そこでお前をどうするか判断させてもらう」



 再びルインの家まで戻ってきたサーリャは一人広い庭の真ん中に立っている。ルインは少し準備をすると言って家の中に戻ったきり出てこない。

 ルインはサーリャの覚悟を見せてもらうと言っていたが、実際何をすればいいのかサーリャには全く見当がつかない。

 しばらく何もすることなくただ突っ立っているだけの時間が過ぎていき、ようやくルインが家から出てきた。準備をすると言って戻ったはずなのだが、ルインにそこまで大きな変化はない。動きやすい服に着替えて、その手には鞘に収められた一本の剣が握られているくらいだ。

「それじゃあ内容を説明するぞ」

 サーリャに緊張が走り、自然と背筋が伸びる。

「内容は簡単だ。サーリャは俺と模擬戦をしてもらう。相手を殺すことは禁止でそれ以外の縛りは一切ない。魔法、剣術・体術など使えるものはすべて使った限りなく実戦に近い内容でやらせてもらう」

「覚悟を見せろって、やることは模擬戦なの」

「そうだ。だが模擬戦だからといって甘く見ないことだ。俺は殺すつもりで行動させてもらう。だからサーリャも俺を殺すつもりでかかってこい」

 殺す。その言葉を口にした瞬間ルインの纏う雰囲気が変わった。これまでののんびりとした表情は消え、命を奪う者が見せる冷酷な雰囲気が代わりに現れる。サーリャを見る目も人としてではなく殺す対象になり、鋭い視線が突き刺さってくる。

「で、でも殺すなんて」

 サーリャは腰に下げた剣に思わず目を向ける。この剣は人を守るために振るう為のもので、決して人を傷つけるために使うものではない。

「騎士の仕事が魔獣退治だけだと本気で思っているのか?剣を持つ以上、相手の命を奪う行為から避けられると思うな。命を奪う相手が人か魔獣かの違いだけだ。その覚悟が無いなら模擬戦を始める前から不合格だ」

 容赦のないルインの言葉はサーリャの心に深く突き刺さる。知らなかったわけではない。王都にいた時も盗賊や犯罪者集団が各地で被害をもたらし、何度も討伐されたという情報は聞いたことがある。その情報を得るたびに騎士とは魔獣だけでなく人も斬らなければならないのだと嫌でも気づかされてしまった。

 それでも知っているというだけで終わってしまっていたのはサーリャが無意識に避けていた結果だからだ。覚悟なんてできていなかったのだ。それが今ルインから改めて突き出されただけ。

「ごめんなさい覚悟が足りなかったわ。でもここで逃げるわけにはいかないわ。模擬戦をやらせてちょうだい」

「ならば準備ができたら言え。開始の合図をする」

 鞘から剣を抜き正面で構えるとルインも遅れる形で鞘から剣を抜く。しかしルインは構えることなく剣をだらりと下げたままだ。

「ルイン。一つだけお願いがあるのだけどいいかしら?」

 サーリャは準備が整ったと言おうとしたところで一旦言葉を切り、待ったをかけた。

「なんだ?腹が減っているのなら我慢しろ。食後だと体が思ったように動かなくなるぞ」

「誰がそんなことを言うと思っているの!そんなことじゃなくて、始める前に剣に魔力を先に纏わせてもいいか聞こうと思ったの」

「本気で言っているのか?片方が有利な条件で始める模擬戦がどこにある。今の王国はそんな模擬戦が当たり前になっているのか?」

「えっと。そんなことは決してないのだけど……」

 これはさすがに責められても仕方がない。そんな模擬戦など王国でやろうものなら絶対に問題になる。だからといってなぜ始める前に魔力を纏わせたいのか正直に理由を話すほどサーリャもバカではない。言えばどのような反応が返ってくるのかは明らかだ。

「まぁいい。それくらいなら別に構わないぞ。それと模擬戦は一回限りだ。全力を出し切れてもそうでなかったとしても再挑戦はできないからな」

「わかっているわよ。何回もチャンスをもらえるなんて、そんな甘い考えを持つつもりはないわ」

 剣に魔力を纏わせ、今度こそ準備が終わったサーリャはルインから離れて合図するように頷く。その合図を見たルインはポケットから一枚のコインを取り出した。

「このコインが地面に落ちたら模擬戦開始だ。……いくぞ」

 キンッと指で弾き上げられたコインが回転しながら宙を舞う。コインが地面に落ち甲高い金属音が鳴り響いた瞬間、サーリャは弾かれたようにルインに向かって駆け出した。



 急速に距離を詰めるサーリャ。おそらくルインはサーリャが近づいてくる前に魔法を撃ち込んでくるだろう。詠唱をしてから魔法が飛んでくるまで僅かな時間がある。詠唱している間に距離を詰めなければ。

 そんなサーリャの眼前に魔力弾が至近距離まで迫っていた。間一髪のところでサーリャは頭を動かし迫りくる魔力弾を躱した。

(いつの間に詠唱をしていたの⁉事前に準備をしていた?いえ。そんな素振りは無かった)

 予想もしていなかった速さの攻撃にサーリャの速度が少し落ちる。そんな隙をルインが見逃すわけもなかった。おもむろにルインが左腕を正面で横に振るうといくつもの魔方陣が現れ、サーリャに狙いをつける。

「ちょっと⁉これって!」

 距離を詰めるのを一旦中断しサーリャは慌てて横に回避運動に入る。次の瞬間、ルインの前に展開された魔方陣から無数の魔力弾がサーリャめがけて襲い掛かる。

 必死に走り続けるサーリャの動きを追いかけるように続々と撃ち出される魔力弾はサーリャの背後を絶えず通り過ぎていく。

 ルインを中心として円を描くように走り続けながらも、サーリャは常に視界の中にルインを捉え続けている。常に見る位置を変えていたおかげなのか、ルインの周囲に展開されている魔方陣の変化にいち早く気が付くことができた。明らかにこれまでと種類の違う魔方陣が二つ、いくつもの魔方陣の中に紛れている。

 二つの内の一つから魔力弾が発射された。しかしサーリャに向かって放たれてはいない。狙いはサーリャではなくその先。サーリャが足を踏み出そうとした場所に着弾し、大きな爆発が起きて足が止まる。……これはおそらく牽制。ならば次に狙ってくるのは——

(私だ‼)

 残っている魔方陣からサーリャに向かって魔力弾が撃ち出された。飛んでくる魔力弾はこれまでのものより弾速が早くサイズが小さい。直前の爆発で足を止めてしまっているので今から避けるには遅すぎる。サーリャの中心に穴を開けようとするが、このまま何もせずやられるわけにはいかない。

「ハァッ‼」

 迫りくる魔力弾をサーリャは正面から斬り捨てる。真っ二つにされた魔力弾がサーリャの両側を通り過ぎていき、やがて霞のように消える。

「ほぉ。思っていたよりもやるじゃないか」

「当たり前でしょ。これでも騎士を目指しているのだからこの程度はできないとね。それより、さっきの間違っていたら私死んでいたかもしれないじゃない!」

「当たり前だろう。言ったはずだぞ殺すつもりでいくと。それよりも随分と余裕そうだからこれからはもう少し激しめにいくぞ」

 さっきまでとは比べ物にならないほどの魔方陣がルインの周囲に現れ、サーリャに狙いをつける。まだまだ模擬戦は始まったばかりだ。



 ルインの目の前では他の者が見れば地獄のような有様が広がっている。綺麗にならされていた地面はありこちに大穴が開き無事な所が少ないほどだ。そんな場所をサーリャが必死に逃げまどっている。絶えず魔力弾がサーリャを撃ち抜こうと発射し続け、彼女の頭上からはつい先ほどから追加した爆撃魔法が降り注いでいる。

 彼女は必死に避けてはいるがすべての攻撃を避けられるわけもなく、時には鎧に直撃して地面を転がり、時には足元で炸裂した爆風で宙を舞いその姿は凄惨たるものだ。しかしどれだけ吹き飛ばされ、無様に転がろうとも彼女の心は折れておらず目には強い意志が宿っている。

 それでもルインは攻撃の手を一切緩めることなく冷静にサーリャの能力を観察していた。

(剣の腕は悪くない。周りをよく見ているし危機察知も反応も良い方だな)

 サーリャは魔力弾を的確に躱し、避けきれないものは目標が小さいにもかかわらず正確に斬り捨てている。高速で飛んでくる魔力弾を何度も斬ることは容易なことではない。

 そんな一方的な状況の中、ルインはこの状況を腑に落ちないでいた。有利な状況に変わりはない。しかし気になっているのはサーリャの行動だ。

 初めは気づかなかったが、長く戦闘が続いていると嫌でも気づいてしまう。

(どうしてあいつは一度も魔法を使ってこない?)

 サーリャはこれまで剣の腕を存分に披露しているが、模擬戦が始まってから一度として魔法を使っていない。攻撃にも防御にもだ。魔法を使えないのではと考えもしたが、サーリャが剣に魔力を纏わせているのをルインは見ているし、今もサーリャの剣には魔力が纏っている。ならば魔法を使えないという線は無いだろう。

(自分の手札を隠しているのか?それともカウンターを狙うためにタイミングを見極めているのか?なんにせよあいつの意図が分からんな)

 このまま圧倒的な火力で押し切ってもいいのだが、それではサーリャは何もしないまま不合格となってしまうのでさすがにそれは酷というものだろう。あくまでもルインの目的はサーリャの実力を測ることだ。

(確かめてみるか)



 一方、サーリャの方は全く余裕が無かった。走り続けていたせいで呼吸が苦しくなってきており、身体中はボロボロで所々に血が滲んでしまっている。ルインから放たれていた魔法が飛んでこなくなった隙にできる限り呼吸を整える。

(やっぱり間違いない)

 これまで逃げ回ってばかりだったが、それでも分かったことがある。しかしそれはサーリャにとってはあまり嬉しくない情報だ。

(魔法の完全無詠唱。しかも制限無しであの威力なんて反則もいい所でしょう)

 頬を伝う汗を左手で拭いながらサーリャは悪態をついた。

 無詠唱で魔法を使う者などサーリャはこれまで見たことが無い。魔法とは詠唱を行うことで発動するもののはず。それなのにルインは全く詠唱を行わず好き放題に発動させている。それに明らかに一つ一つの魔法の威力がおかしい。あんな威力の魔法を無詠唱でポンポン撃たれてしまっては一方的な戦闘になるのは当たり前だ。

 あの威力はいったい何のか。どうして詠唱もせずに魔法を使うことができるのか。まったく理解することができない現実に、サーリャは離れ場所で立ち続けているルインをなぜだか恐ろしく感じた。——彼は本当に人間なのだろうか。

 なんとか距離を詰めなくてはならないのだが、あまりの猛攻に近寄ることができない。どうするべきか悩んでいるサーリャだったが、ルインに変化があった。いくつかの魔方陣だけ残して他はすべて消え去り、これまで下げたままだった剣をゆっくりと目の前で構えた。

 次の瞬間、爆発的な加速とともにルインがサーリャ目がけて突っ込んできた。ルインの左右にぴったりと付いてきていた魔方陣から魔力弾が放たれ、サーリャの両側に飛んでくる。

 退路を塞がれたサーリャの目の前に遅れて放たれた魔力弾が着弾し、盛大に土埃が舞い上がり視界が遮られてルインの姿が掻き消える。

(まずい!ここから離れないと!)

 この視界状況ではどこから攻撃が飛んでくるかわからない。すぐさま離れようと動き出そうとしたところで——


 ゾクッ


 サーリャの中で危険信号が盛大に鳴り響く。この感覚は知っている。つい数日前にも感じたことのあるものだ。

 土埃の中でかすかに動くものがサーリャの視界に映りこんだ。ルインが姿勢を低くしながらサーリャの目前にまで迫っている。剣を両手で持ち、いつでも振るえる態勢になっている。

「このっ!」


 ギィン‼


 背筋に寒いものを感じながらも咄嗟にルインのいる場所に剣を振るうと、ほぼ同じタイミングでルインから鋭い横薙ぎの一閃が放たれる。大きな金属音を響かせながらサーリャとルインの持つ剣がぶつかる。さすがに両腕で振るわれた剣の威力は重く、若干サーリャが打ち負けてしまい後ろに下がってしまう。

 体勢を立て直そうと後ろに下がろうとすると、まるでサーリャの行動を読んでいたかのようにルインは大きく踏み込んできてサーリャとの距離をさらに詰めてくる。

 横薙ぎから刃を返し、再びルインが剣を振るってくるが今度は真正面から受け止めずサーリャは受け流すことで対処する。

 ルインはそのまま縦、横と息をつかせぬ間隔で次々と斬りかかってくるが、サーリャはそのすべてを受け流していく。

 受け流すばかりでなくサーリャも負けじとルインに斬りかかるが、ルインはすぐさま剣を引き戻してサーリャの斬撃を難なく受け止め、時にはぎりぎりのところで避けられてしまう。

 ルインが振り下ろす剣をサーリャは逆に下から切り上げて迎え撃つ。またしても激しい金属音を響かせながら互いの剣がぶつかり合い、今度はルインの方が押し負けて剣を握る右手が跳ね上がった。今のルインは守るものが無く無防備だ。

(チャンスだ‼)

 サーリャは追い打ちをかけるためにルインに向かって大きく踏み込む。どれだけ実力があろうとも今から腕を戻しても間に合わない。ルインが右腕を戻すよりもサーリャが剣を振りきる方が早い。

 ようやく見出した勝機を前に興奮が高まってくる。切り上げた剣を返しそのまま袈裟懸けに振り下ろそうとしたところで何かが引っ掛かった。何か、何か見落としているような気がする……。

 ルインの右腕が未だ跳ね上がったままで何もおかしなところは無い。しかし何かしっくりこないのも事実だ。思い過ごしだと流そうとしたところでサーリャは全身に冷水を浴びせられたかのように怖気立った。

(左腕は!左腕はどうしたの⁉)

 ルインが剣を振るう際、両手で振り下ろしていた。しかし、今回跳ね上がったのは右腕だけだ。左腕は跳ね上がっていない‼

 咄嗟にルインの左腕を見れば、手に魔力が収束してすでに撃てる状態だ。

 嵌められた。ルインはおそらくこれを狙っていたのだ。本来力勝負ならルインの方が優位なはずなのにわざと剣を弾かせて無防備な姿を晒し、サーリャが反撃してくるのを。そしてサーリャはルインの思惑通り動いてしまった。

(急いで離れないと。駄目、間に合わない!)

 すでにサーリャは前に踏み出してしまっており、その勢いはもう止めることはできない。今のサーリャにできることといえば、これから起こるであろう結末を見ることしかできない。

 何の感情もこもっていない冷たい目でサーリャを見ているルインは、とどめの一言を口にした。

「吹き飛べ」

 ルインの左手がサーリャの腹に叩き込まれた瞬間、まるでハンマーの直撃を受けたかのような衝撃がサーリャを襲った。

「ガフッ!」

 フォレストボアの突進と引けを取らない威力をまともに受けてしまい、サーリャは身体をくの字に曲げて後ろに大きく吹き飛ばされる。まともに受け身も取れず、地面に落下したサーリャは仰向けになる。幸いにも意識を失うことは無く痛みに耐えながらゆっくりと起き上がろうとしたサーリャだったが、すぐさま喉元に剣が突きつけられた。

 見上げればいつの間に接近してきたのかルインが見下ろしている。

「……私の負けよ」

 サーリャは血が滲みそうになるくらい強く拳を握り締めて絞り出すように自らの敗北を認めた。ある程度予想していたことだが、やはり勝てなかった。そもそも始終サーリャはルインの行動に振り回され続けており、一度もサーリャが優位となれる状況を作ることができなかった。勝負にすらなっていなかったのだろう。

「模擬戦が始まってからずっとサーリャの動きを観察していたんだが、どうしても気になったことがあるんだがいいか?」

「何よ?」

「どうして模擬戦が始まってから一度も魔法を使わなかったんだ?」

「っ!」

 やはりバレてしまった。当然と言えば当然の疑問だろう。この模擬戦では特に使用制限を設けていなかったにもかかわらず、一度も使ってこないのであればサーリャが逆の立場であってもそこを指摘するだろう。

「最初の魔法による飽和攻撃は防御魔法の展開速度とその魔力強度を測る意味合いがあった。しかし一度も使ってこなかったことから何かカウンター系統、もしくは極端に射程の短い魔法を準備していてそれを使って逆転の一手とするのかと思ったが、サーリャは最後まで剣で戦うことに固執していた。模擬戦を始める前に魔力を纏わせることはできていたから使えないということは無いんだろう。……なぜ使わなかった?」

 どう答えたものか視線を彷徨わせていたサーリャだったが、下手な嘘は許さないと言わんばかりの圧力がルインから発せられているので観念するしかない。

「私、魔法が使えないのよ」

「使えない?しかし実際使えていただろう」

「それは模擬戦が始まる前だったからよ。戦いの最中だとこれまでまともに発動したことは無いわ」

 何故使えないのか更に話そうとしたサーリャだったが、その前にルインが手で制した。

「どうやら話が長くなりそうだな。その前に朝食にするぞ。サーリャはその前に風呂で綺麗にしてこい」

 そう言ってルインはサーリャに手を差し出すのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ