8-13.Viande 朝引き地鶏の香草焼き 大地の慈愛と人の情熱が詰まった蕪とともに
「殿下……。殿下のおかげで、私は知ることができました」
ソフィーは第三王子を真っ直ぐに見つめ、声に微かな震えを残しながら話し出した。
「それは、『真実の愛』です」
「ソフィー……! ああ、僕もだ……!」
(う、嘘だろ……?)
まさか、本当に乙女ゲームのシナリオ補正が強制的に働いたのか?
俺の血の気が、シンクの排水口へ吸い込まれる茹で汁のように、一気に引いていった。
唇が、乾いた鱈子のようにカサカサと水分が失われていく。
「私は最初、遠くからじっと見つめているだけで満足でした。ですが、優しく手を引いて連れ出してくださり、ずっと隣にいる間に……私はもう、それだけでは満足できなくなってしまったんです」
「ああ、ソフィー……!」
「私は……私はもっと、セリーヌ様と一緒にいたいです! 毎日、セリーヌ様のお料理を食べたいです! 私の、私の胃袋も心も全部、セリーヌ様のものです!! 私は……セリーヌ様を、愛しています!」
『……へ?』
俺と第三王子の間抜けな声が、この時初めて綺麗に重なった。
会場が、水を打ったように静まり返る。
「えっと……これは……告白……?」
司会が完全に進行を忘れ、戸惑いの声を漏らした。
「くっ……くっくっくっ……! はははははっ! これは痛快だ! 派手に振られたな、ルイ!」
たまらず、第二王子が腹を抱えて吹き出した。
その言葉で現実を理解した第三王子の顔が、一瞬にして唐辛子のように真っ赤に染まり上がる。
……そして、全く予想外の角度から愛の告白を受けた俺の顔も、信じられないほど熱くなっていた。
「お嬢様……お顔が真っ赤です。それはもう、煮詰めた『いちごジャム』のように甘々で」
マルグリットが、片手で口元を押さえてニヤニヤしながら脇腹を突いてきた。
(やっぱりお前、セリソフィカプ推しじゃねぇか! それと食材の比喩は俺の特権だ! 勝手に真似するな!)
パチ、パチ、パチ。
アルフォンスが静かに手を叩き始め、それが観客へと広がり、さらには審査員や司会までもが加わり、会場は割れんばかりの大喝采となった。
今、手を叩いていないのは、真っ赤な顔の俺と第三王子、その取り巻きの二人。そして、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆ってしゃがみ込んでいるソフィーだけだ。
やがて一人の男が俺に近付いてきた。王子の代理人の宮廷料理人だった。彼はコック帽を取り、俺に深く一礼する。俺は顔が赤いままだったが、無言で手を差し出した。彼は一瞬戸惑ったが、しっかりと握手を交わした。
その時だった。
「ふ、ふざけるな! こんな……こんな馬鹿げた結果、認められるかァッ!!」
第三王子の激昂した大声に、会場の拍手がピタリと止まる。
「まさか、ここまで往生際が悪いとはね。私は心底がっかりしたよ」
第二王子アンリ=シャルルの声が、よく冷えたレモンのように冷たく会場に転がった。
「ルイ。君こそ、この神聖な勝負を汚した自覚はあるのかい?」
「汚す? どういうことです、兄上!」
ふう、と大げさにため息をついて、第二王子は側仕えの騎士に「連れて来い」と短く命じた。
すぐに連れてこられたのは、人の良さそうな顔をした小太りの男――ポムドテール男爵だった。
第三王子はその顔を見るや、ギリッと目を見開き、慌てて顔を背けた。
「男爵。君は、私の弟から何を頼まれた?」
「は、はい……。『辺境伯令嬢に、食材を仕入れるための商会を紹介してやってくれ』と。『元婚約者と正々堂々と戦いたいが、彼女は王都で食材を揃える伝手がないだろうから……』と。ただし、自分が裏で手を回したと知られるのは恥ずかしいから、自分の名前は絶対に出さないように、と仰られました」
「それで男爵は、あの『パルマンティエ商会』をセリーヌ嬢に教えたんだね?」
「は、はい。私が贔屓にしているパルマンティエ商会の紹介状をお渡ししました」
「そのパルマンティエ商会が、勝負の直前になってセリーヌ嬢に食材を売ることを拒否した。……そのことは、知っていたかい?」
「い、いえ! 今、初めて知りました!」
男爵の顔が、クチナシ色素のように青ざめた。
なるほど。つまり、疑われないために、あえて自分と関わりの少ない、人の良いポムドテール男爵を利用したということか。アルフォンスの、男爵は第三王子派ではないという情報は間違っていなかったのだ。
「自分の息のかかったパルマンティエ商会を使って、セリーヌ嬢が本番の食材を仕入れられないようにした。ルイ、そうだね?」
「……知りません」
「そうか。だがお前は先ほど、セリーヌ嬢に言ったな。『食材が手に入らなかったからヤケになってるのか?』と。……どうして、セリーヌ嬢が食材を手に入れられなかったことを知っていたんだい?」
「それは……!! 市場を駆けずり回っているという噂を聞いて……」
「ほう……、パルマンティエ商会の支配人は『第三王子殿下の命で仕方なく従った』と、すでに証言しているぞ?」
「…………!!」
「勝負を言い出しておきながら、相手が食材を手に入れられないように仕掛け、審査員は自分の派閥で固めようとし、さらに料理を出す順番すら公平に決めない。……それが、誇りある王族のやることか!」
「ぐぐぐ……ッ」
「殿下……! おやめください……! これ以上はお立場が……!」
取り巻きのエティエンヌとギヨームが必死に第三王子を抑えようとしていた。だが、王子は二人の手を振り解き、血走った目で俺に向かって飛びかかろうとした。
「お嬢様ッ!」
咄嗟にアルフォンスが俺の前に立ち塞がり、マルグリットが俺を庇うように強く抱きしめた。
しかし――暴走する第三王子を止めたのは、アルフォンスでも公爵でも騎士でもなく、アンリ=シャルル第二王子だった。
「もうやめるんだ、我が弟よ」
「どいてください、兄上!!」
「いい加減にしろッ! ルイ!!」
第二王子の凄まじい剣幕に、第三王子はビクッと力を抜いて後ずさった。
その隙を突き、モンフォール公爵の太い腕が、背後から第三王子をガッチリと羽交い締めにした。
「ルイ。なぜそこまでソフィー嬢に執着する? そしてなぜ、そこまでセリーヌ嬢を嫌うのだ?」
兄の問いに、弟は顔を歪めて叫んだ。
「あの女が……あの生意気な女が、僕の言うことを黙って聞かないからです! すぐに僕を見下した目で『それは違います』と口答えをしてくる! 小言を聞かされる! 周りの者もだ! 王族の僕よりも辺境伯の顔を窺って、辺境伯との縁を大事にしろだなどと! 僕はもううんざりだ!」
王子の喉が唸るのような息を出す。
「それに比べて、ソフィーは黙って僕の言うことを聞いてくれた……黙って頷いてくれた! 僕には、僕を肯定してくれるソフィーが必要なのです! それなのに、この女は僕からソフィーまで奪おうとしている! この女は僕にとっての悪役なのです!!」
……呆れた。心底、呆れたやつだ。
「マルグリット、離しなさい」
俺が静かに告げると、マルグリットは渋々と腕を解いた。
そして俺は、身を挺して守ってくれようとしたアルフォンスの肩に手を置き、彼を後ろへと下がらせた。
元婚約者の前に立つ。背筋はピンと伸びていた。
「殿下……当時の婚約者として、小言ばかりで殿下のお心を傷つけるような態度を取りましたこと、深くお詫び申し上げます。大変申し訳ございませんでした」
俺は、三十八歳の社会人として、頭を下げた。
だが、ここは俺が働いていたホテルじゃない。
理不尽なクレーマーに、ただ平謝りしてやり過ごすだけでは終われないのだ。
「ですが……殿下は、この国を背負う王族というお立場です。己を肯定する甘い言葉ではなく、周囲の厳しい意見にも耳を傾ける必要があります。それが、人の上に立つ者の義務です。為政者としての重い義務を果たすからこそ、王族も貴族も、平民の上に偉そうに踏ん反り返ることが許されているのです」
俺は顔を上げ、王子を真っ直ぐに射抜いた。
「殿下の先ほどの言い種は、己の不満を八つ当たりする、ただの駄々っ子と同じです。小言を言わないからソフィー様が好き? ソフィー様は人形ではありません。……王族としてその程度の覚悟で、よくも大切に育てられた鶏や蕪を、『貧乏人の泥臭い食べ物』などと馬鹿にできましたね。
――恥を知りなさい!!」
セリーヌの、手入れの行き届いた柳刃包丁のように研ぎ澄まされた鋭利な声が、会場の空気をすっぱりと一刀両断に切り裂いた。
「こ、この女ァ……ッ」
「セリーヌ嬢」
激昂する王子の口を強引に塞ぎ、モンフォール公爵が申し訳なさと敬意の混じった声で俺を呼んだ。
「この馬鹿な甥が、多大なるご迷惑をおかけした。……ここは、私に任せてはもらえないだろうか。責任を持って、一から再教育する。頭が冷えた頃に、改めてセリーヌ嬢への謝罪もさせよう。だが、今日のところはこれで収めてはくれまいか」
「……もちろんです、公爵閣下。私の方こそ、熱くなり出過ぎた真似を。ご無礼いたしました」
「いや……見事な喝破だった。私も背筋を正す思いだ。さすがは誉高きヴァン=ルージュ家のご令嬢。お父上にもよろしくお伝えしてくれ。……アンリ=シャルル殿下。それでよろしいか?」
第二王子は静かに頷いた。
「では、これにて失礼する」
公爵が、取り巻きのエティエンヌとギヨームと共に、暴れる王子を無理やり引き摺って会場を後にした。ルヴァン男爵も、深々と一礼してその後に続く。
「やれやれ……これでひと段落、かな?」
「殿下……ありがとうございました」
「いや、こちらこそ愚かな弟がすまなかった。それにしても――セリーヌ嬢、君は本当にすごいな」
「え?」
「私はてっきり、君が負けると思っていた。弟が何やら汚い画策をしているようだから首を突っ込んだんだけどね。君が負けそうになった時に、ポムドテール男爵を突き出して勝負を無効に持ち込もうと思っていたんだが。……まさか、審査員全員の票を実力で集めて、完全勝利してしまうとはな」
「全員……殿下の票の行方は、聞いておりませんが?」
「私の票は、最初からセリーヌ嬢に決まっていたよ。どうだ? 私の『専属料理人』にならないか?」
「ご冗談を」
「いや、冗談ではないさ。……だがまぁ、君の恐ろしいお父上からお叱りを受けるだろうから、今はやめておこう」
「殿下……なぜ、そこまでして私を助けてくださったのです? それに、最初から私に票が決まっていたとは?」
俺の問いに、第二王子は少しだけ目を伏せ、自嘲気味に笑った。
「……君は本当は、私の婚約者になるはずだったんだよ。だが、私には隣国と別の話が舞い込んでね。それで、君の婚約者はルイに変更されたんだ。……もしかしたら私の妻になっていたかもしれない女性への、せめてものお詫びさ」
(――もしかしてアンリ=シャルルは、セリーヌのことを……?)
もしセリーヌがこの王子の婚約者になっていたら、彼女が心を閉ざすことも、俺がこの体に入ることもなかったかもしれないな。
「どうしてソフィー様に五票与えるなどと仰ったのです……?」
「……彼女の意思を、きちんと聞いておきたかったのさ。ああ、ほら。愛しの君のそばに行ってあげなくていいのかい?」
第二王子の言葉で、俺はハッとした。
そうだ! ソフィーは!
俺が慌てて振り返ると、涙をいっぱいに溜めて震えるソフィーと目が合った。
そして、ソフィーがドレスを翻して走り出す。
「セリーヌ様ぁぁぁ!!」
俺は、全力で飛び込んできたソフィーの小さな身体を、しっかりと力強く抱きしめた。
会場は再び、温かい祝福の拍手で包まれた。




