1.Apéritif 乾杯はキールロワイヤルで
四十歳になったら、小さなフレンチレストランを開く。
白いクロスのかかったテーブルが四つほど。
厨房からは、鍋の縁で煮詰まるソースの匂い。
常連と他愛もない話をしながら温かい皿を出す——そんな人生を送る予定だった。
そんな夢を抱いていた俺の意識が途切れたのはクリスマスの前夜だった。
勤め先のホテルで、許容範囲を超えた三日連続の大規模パーティ。
睡眠時間はほぼゼロ。いや、そんなのはいつものことだった。修羅場なら何度もくぐってきた。
そう。何度も。
——だけど、この時ばかりは、体が言うことを聞かなかった。
泡立て器を忙しなく回していたはずの手が、急に自分のものじゃなくなる。
指の力が抜け、音が遠ざかり、足元だけが妙に鮮明になる。
そのあと、厨房の床の冷たさが、肌からじわりと染み込んできた。
(……これは、やばい)
そう思った瞬間、世界がふっと消えた。
火を落とした鍋みたいに、すべてが静かになって——
「――セリーヌ・ド・ヴァン=ルージュ! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!!」
耳をつんざくような大声に、俺はハッと目を見開いた。
光が目に入る。だけどその明るさはいつものチカチカするほどの眩しい、厨房の刺すような光ではない。
揺らめく、温かな炎の光だった。
(これは、キャンドルの火!? おいおい危なくないか?)
火元責任者としての意識が働いて、俺は咄嗟に光源を探した。
視界に飛び込んできたのは、頭上高くに吊るされた巨大なシャンデリア。揺らめく無数の炎が、磨き上げられた大理石の床を照らしている。
(……ここはホテルの宴会場か?)
いや、それにしては内装がクラシックすぎる。空調の音もしない。漂っているのは脂っこい肉の香り、甘ったるい菓子の残り香、鼻の奥に張り付くほど濃い香水。
「おい! 無視をするな、セリーヌ! そのふてぶてしい態度、やはり反省の色が見えん!」
(さっきからうるさいこの声はなんだ? クレーマーなら勘弁してくれ)
俺はのろりと視線を下げ、声の主を見た。
そこにいたのは、仕立ての良い青の礼服に身を包んだ、金髪の若者だった。
青い目の整った顔立ち。だが、今は怒りで歪んでいる。まるで、自分の思い通りに焼き上がらなかったパンを見て癇癪を起こしている見習いみたいだ。
(そもそもセリーヌって誰だ?)
俺の名前は柊哲郎。三十八歳。レストランを開いたらマダムをどうしようかが悩みの種の……独身だ。
俺はふと自分の身体を見た。
白のコックコートではなく、真紅のドレス。胸元まで波打つ艶やかな深い赤髪が、肩から落ちている。
足元を見ようと思ったが、ふくよかな胸元が邪魔をする。
(胸!? え、俺、女の子になってる!?)
慌てて手袋を外し、手を確かめる。
血管が浮き出ていない。水仕事でひび割れてもいない。柔らかく、滑らかで、脂の乗ったマナガツオの身みたいに、嘘みたいに白かった。
手のひらにあるはずの、長年フライパンを振ってできたタコもない。
(……は?)
理解が追いつく前に、頭の中で、煮えた油に水滴を落としたような衝撃が爆ぜた。
魂が触れ合う。
この身体の奥底で眠っていた記憶が、火にかけたスープのようにふつふつと沸き上がった。
重い家名。礼儀作法。視線の重さ。
学園の空気。噂。評価。
それらが俺の意識と乳化するように混ざり合っていく。
(そうだ、俺は……)
セリーヌ・ド・ヴァン=ルージュ辺境伯令嬢。
目の前の男は、この国の第三王子ルイ=オーギュスト。俺の……婚約者だ。
そしてここは王家や貴族の子息が通う学術都市ムルソーにある、ヴァルキュイジエンヌ学園のパーティに使われる講堂だった。
——婚約者。婚約破棄。
(……待て待て待て)
これ、俺が仕事の合間に漫画アプリで読んでた、よくある「悪役令嬢もの」じゃないのか?
夢か? 冗談か?
試しに思いきり頬をつねる。
……痛い。
痛いという事実だけが、妙に鮮明だ。
夢か転生か、そんな分類はどうでもいい。
今、俺の意識は確かにセリーヌとして、この世界の空気を吸っている。
「僕は、ソフィー・ド・ラ・ヴァロワ伯爵令嬢と真実の愛を見つけたのだ! 彼女への嫌がらせを繰り返した貴様のような冷酷な女は、我が妃にふさわしくない!」
ざわめきが膨らむ。
波みたいに、会場全体がうねる。
「セリーヌ様が嫌がらせを?」
「嫉妬に狂った女は醜いな」
「お高く止まってると思ったら性格が悪かったのね」
(……これは断罪イベント、か?)
背筋が冷える。
国外追放? 牢? いや、この世界観だと最悪——斬首もあるか。セリーヌの記憶からでは判断できない。
王子の指が向いた先に、一人の少女がいた。
会場の片隅。灯りの届きにくい場所。
大きな瞳。栗色のふわふわした髪が腰まで伸びている。
真っ白なミルクにほんの一滴焦がしバターを混ぜたような淡い色のドレスが、呼吸に合わせてかすかに揺れていた。
彼女は突然の話に、まるで混ぜていたメレンゲを全て壁と自分の顔にぶちまけてしまったように呆然としていた。
(俺が彼女に嫌がらせ……?)
セリーヌの記憶をたどっても、“悪意”が見当たらない。
少なくとも、明確に彼女を傷つけるようなことはしていない。
「あ、あの……殿下。わ、私、嫌がらせをしたのがセリーヌ様だなんて一言も……それに、その……婚約破棄とか、真実の愛とか言われても……」
「怖がらなくていいんだ、ソフィー! 君は僕が守る! そして、君を正式に僕の妃として迎える!」
「い、いえ。そうではなく……」
懸命に言葉を探す彼女を見た瞬間——なぜだか、胸が高鳴った。
ドクン。
(……なんだ、これ)
理屈じゃない。
高校の時、一度だけ経験がある。
視界に入った瞬間、心臓が勝手に決めてしまうやつだ。
恋、と言うには滑稽かもしれない。
でも、確かに今、あの時と同じ『火』がついた。しかも、火種の位置が妙に俺らしい。
「彼女を笑顔にしたい」という欲求が、胃の底からせり上がってくる。
それにあの顔は、間違いない。無理をしている。
このまま放ってはおけない。
追放?
牢屋?
死罪?
そんなのはどうだっていい。
——ああ、俺はこの世界に来ても、失っちゃいなかったんだ。
「――お待ちになって、殿下」
俺の口から出た声は高く、それでいて芯の底は冷たく低い。
会場のざわめきを、すっぱり割って響いた。
自分でも驚く。
話し方が俺のものではない。
セリーヌの、研がれた柳刃包丁みたいな言葉だ。
「なっ、なんだその態度は! まだ言い訳をするつもりか!」
「嫌がらせなど、ヴァン=ルージュ家の名に誓ってしておりません。ですが——」
息を整える。ソースを添えるのと同じだ。
余計な泡を残さないように。
「殿下のご意志を尊重して、婚約破棄の件、謹んでお受けいたします」
誰かが息を呑む音が、いくつも重なった。
固唾を飲む、というのはたぶんこういう音だ。
俺は歩き出す。
ドレスの裾が、床を撫でる音。
歩き慣れないはずのドレスが妙にしっくりくる。
そして俺に視線が集まる。
「お、おい! どこへ行く!」
俺の足が止まった先にいたのは——
「ソフィー様」
「は、はい……」
可愛らしい顔が、完全に動揺している。
近くで見ると、彼女の顔色は確かに良くない。
心なしか、彼女の頬がみるみる赤くなる。唇が乾いている。目の下がうっすら影になっている。
俺は彼女の手を取り、そっと跪いた。
手の甲に口付けをする。
柔らかな肌が、ほんの少し震えた。
「ひゃっ」
「こんな茶番に付き合わせてしまって、本当に申し訳ありません」
「え、はい!?」
「顔色が優れませんわね。頬がとても赤いです。熱がおありでは? ……朝食はちゃんと召し上がって? この肌の乾燥具合、ビタミンと良質なタンパク質が不足していますわ」
「ビ、ビタ……? あの……最近よく寝れていなくて……食べ物もあまり喉に通らなくて……」
「それはいけませんわ。この会場にある料理は冷めて脂っこいものばかり。お体に良くありません」
俺はパン、と手を合わせた。
「そうですわ。厨房を借りましょう。……さぁ、ソフィー様、こちらへ。一緒に参りましょう」
「は……はい?」
俺は彼女の手を取り、歩き出す。
指先が、少しだけ力を返してきた気がした。
「ソフィー!? 騙されるな! そいつはお前に嫌がらせをするつもりだぞ!」
背後で王子が叫ぶ。
俺は立ち止まり、ソフィーを背に庇う。
視線だけで切りつけるように、鋭い眼光を飛ばした。
「殿下。あなたは『愛してる』と言いながら、彼女の体調も慮れないのですか」
丁寧に。だが熱意を込めて。
全ての料理の基本だ。
「彼女に今必要なのは、そんな劣情ではなく——温かいスープと、柔らかいベッドです!」
「はぁ!? 何を言っているんだお前は!?」
「殿下こそ、何を仰っているかお考えになった方がよろしいですわ」
俺は、王子とその取り巻きをまっすぐ見た。
この瞬間、セリーヌと俺の背筋の張り方が、重なった気がした。
「よろしい。私はここに宣言いたします」
会場の空気が、ぴん、と張る。
誰もが次の一言を待っている。
「この私、セリーヌ・ド・ヴァン=ルージュはソフィー・ド・ラ・ヴァロワ伯爵令嬢をお慕いしております。
——彼女の胃袋は、私がいただきますわ!」
それは俺が叩きつけた、宣戦布告だった。




