2.Amuse-bouche 栗のブランマンジェ 真紅のベリーの出会い
私は、ソフィー・ド・ラ・ヴァロワ。ヴァロワ伯爵家の生まれ。
——けれど、栄光と名誉に包まれた我が家は、いまは遠い昔の話。
曽祖父の代で抱えた領地経営の失敗は、家の背骨に深く刺さった棘のように、今も抜けずに私たちを苛んでいる。
それでも、家はあたたかい。
それでも、我が家はあたたかかった。
父と母はいつも笑い合っていて、歳の離れた弟のシオンは「お姉様」と私を慕い、小さな手で私のドレスの裾をよく握っていた。屋敷の使用人たちも家族のように優しくて、私を「お嬢様」と呼ぶ声には、いつだって陽だまりのような笑顔があった。
だからこそ、私はこの日を迎えるのが恐ろしかった。
ヴァルキュイジエンヌ学園。
この王国の貴族が、十六歳を迎える年に通うことを義務づけられている場所。
――正しくは、通わなくても構わない。
無知な統治者が生む暴政を防ぐため、領地経営は血筋だけではなく素養で担わせる——それがこの国の冷徹な制度だ。卒業できなければ爵位の継承権を失うため、この二年制の学園に通わないという選択肢は事実上存在しない。継承者が不在となり領地が宙に浮く――そんな不測の事態を避けなければならないからだ。
裕福な貴族は、学園の近くに豪奢な屋敷を構えて通学する。けれど、我が家にそんな余裕はなく、私はただ一人、寮に入ることになった。
お父様、お母様、シオン。みんなと離れたくない。
口にすれば困らせるとわかっているから、言わない。
その代わり、胸の奥で何度も言った。言葉を飲み込んだぶんだけ、喉の奥がきゅっと痛んだ。
入学式の日。私は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
ガタガタと揺れる辻馬車の窓から見えたのは——お城みたいに立派な石造りの校舎。
灰色の石壁は朝の光を受けても冷たく見え、尖塔は空を突くように高い。
そして、その門へ吸い込まれていく、煌びやかな馬車の列。
今年の入学者は大貴族が多いと聞いてはいた。王族もいらっしゃるという。だけど、目の前に広がる光景は私の想像をはるかに超えていた。
王家の紋章。侯爵家の紋章。
馬車に施された金属の細工は朝日に反射して眩しく光り、己の富と権力を誇示して憚らない。整然と控える御者の服さえ上等で、馬たちの毛並みは硝子細工のように滑らかだった。
学園前の広場で馬車から降りた瞬間。
——圧倒的な『場違い』の空気に、私は飲み込まれた。
石畳に降り立つ足が、急に軽くなった気がする。いえ、違う……軽くなったんじゃない。自分の存在が薄くなったんだ。
馬車から降り立つご令嬢たちのドレスといったら、どうだろう。
ふんわりと何層にも重なるスカートは最新の流行だろうか。歩くたびに高級なシルクが微かな衣擦れの音を立てる。レースはため息が出るほど繊細で、すれ違うたびに、甘く重たい香水の匂いが鼻をくすぐった。
私は思わず、自分のドレスの裾を見下ろした。
お母様がお祖母様から贈られて若い頃に着ていたものを、私のために仕立て直してくれた大切なドレス。
『流行遅れだけど、生地はとてもいいものだから。ソフィーによく似合うわ』
そう言って微笑んだ母の顔を思い出すと、胸があたたかくなる。
けれど、ここに立った途端、そのあたたかい記憶が私を鋭く刺した。
——流行遅れ。
周囲のきらびやかさと比べれば、その古さは一目瞭然だった。
私はドレスの裾を握る手に、ぎゅっと力を込めた。皺が寄ってしまうとわかっているのに、手の震えを止めるにはそうするしかなかった。母の愛情を誇れない自分が、たまらしく嫌だった。
ふと、誰かの視線を感じた。
「あの方のドレス、見て」
「あの方のドレス、見て」
「まあ……いつの時代のデザインかしら」
すぐ近くで、ひそやかな笑い声が弾けた。鈴を鳴らすように軽くて、薄い紙を割くように冷たい。
私は言い返すこともできず、ただ息を潜めて俯くことしかできなかった。
入学式の時間まで、せめてこの華やかな場所から離れていよう。そう思い、踵を返して門の方へ戻ろうとした。
一台の立派な馬車が、私のすぐ横を通り過ぎ、石畳の水たまりを派手に踏み抜いた。
泥水が弾ける鈍い音が、耳の奥でひどく大きく響いた。
「きゃっ」
避けようとしたのに、体が遅れた。
ドレスの裾に黒々とした泥が、べたりと飛散していた。
冷たさよりも先に、ひどく生臭い湿った土の匂いが立ち昇る。周囲から一斉に突き刺さる好奇の視線を感じ、顔から火が出るほど熱くなった。
(……どうしよう)
入学式まで、そう時間もない。それまでに綺麗にできるだろうか。
泥だらけの古いドレスで、入学式に出るのか。皆に笑われ、「惨めな令嬢」という烙印を押されて、これからの二年間を過ごすのか。
その瞬間。
「止まりなさい!」
馬車の中から、凛とした声が飛んだ。
怒鳴り声ではない。でも、空気が切れるほどの強さがあった。
馬車はすぐに停車し、すぐさま扉が開く。
踏み台が置かれるや否や、従者の手も借りずに颯爽と降りてきたのは——燃えるような真紅のドレスに身を包んだ令嬢だった。
こぼれ落ちる深い紅の髪。大人びた顔立ちは、息を呑むほど美しく、そして冷ややかに見えた。
(恐ろしそうな方……)
それが私の印象だった。
その方は、一直線に私のもとへ歩み寄り、泥に汚れた私のドレスを一瞥した。
心臓が跳ねた。
『私の乗る馬車の側に立つなんて、身の程を知りなさい』。そう責められるのだと思い、体が石のように硬直する。きっとこの泥もその報いだと言われるのだろう。
けれど——
「当家の馬車が、大変な無礼をいたしました」
その方は、周囲の目など一切気に留めることなく、私に向かって深々と頭を下げたのだ。
豊かな紅の髪が肩から滑り落ちる。陽を受けたその髪は、光に透かした葡萄酒のように艶めいて揺れた。
「お嬢様が頭をお下げになるようなことでは……!」
慌てて駆け寄った御者が声を張り上げる。
けれど、彼女は微動だにしなかった。私はあまりの出来事に、息の仕方を忘れていた。
「い、いえっ! 私が不注意だったのです。水たまりに気付かず、ぼんやり立っていたせいで……!」
声が上擦る。
ただ早くこの場から消え去りたかった。
「いいえ。決して貴女のせいではありません」
静かだが、断固としたその一言が、私の胸の奥の、一番固く縮こまっていた場所にすっと入り込んだ。
『あなたが悪い』と言われると思っていた心が行き場を失って、ふっとほどける。
「失礼してもよろしいですか?」
「えっ? は、はい」
何を尋ねられているのかわからないまま、頷いてしまった。
そして、泥のついた裾にそっと指先を這わせ、生地の質を確かめるように視線をなぞる。
——優しく、でも正確に。
「こちらは……とても丁寧に織られた、素晴らしい生地をお使いですわね」
「え……」
声にならない息が漏れた。
古い、と笑われると思っていたのに、良いと、言われた。
「こんなに素晴らしいドレスを汚してしまい、本当に申し訳ありません。替えのドレスはございますか?」
「い……いえ」
首を振った瞬間、胸がきゅっと締め付けられた。現実が私の頬を叩く。
替えのドレスなどあるはずがない、という我が家の台所事情を晒すのが惨めだった。
「それでは入学式に間に合いませんわね」
その静かな宣告に、視界がぐらりと揺れる。
やはり、泥のついたこの姿で列に並ぶしかないのだ。
そう絶望しかけた私の耳に、澄んだ声が届く。
「お詫びとして当方でドレスを用意させていただけませんか? 急いで間に合わせますので……」
「え……? い、いえ! そこまでしていただくわけには……」
断ろうとした。
きっとこの方とは家格が違いすぎる。こんな大きな借りを作るのは恐ろしい。
でも、怖いのはきっと、それだけじゃない。
同情されて助けられるのが、申し訳なくて、恥ずかしくて。
「私のせいで泥がついたドレスで入学式に参加させては、我が家名の恥です」
その声は、刃物みたいにきっぱりしているのに、不思議と冷たくなかった。
この方は、少し不器用なのかもしれない。そう思わせるような、温かさがあった。
「私のためを思って——お受けくださいませんか」
私を射抜くような強い視線。
けれど、その瞳の奥には、優しくて生真面で、躊躇しない、強さ。
気づけば、私は彼女の瞳に吸い込まれるように、こくりと頷いていた。
頷いた瞬間、ずっと胸の奥底に溜め込んでいた重たい息が、ようやく外へと吐き出された気がした。
「申し遅れました。私はセリーヌ・ド・ヴァン=ルージュと申します」
ヴァン=ルージュ。
その名を聞いて、私は息を呑んだ。この国でその名を知らぬ者などいない、西の国境を守護する辺境伯家。侯爵をも凌ぎ、公爵に比肩するほどの影響力を持つと言われる大貴族。零細な我が家とは、雲泥の差だ。
「わ、私はソフィー・ド・ラ・ヴァロワと申します」
「ソフィー様ですね。さぁ、急いで仕立て直しましょう」
——そうして。
セリーヌ様から頂いたドレスは、白を基調とした、ほんの少し淡いクリーム色の、素敵なドレスだった。
その真新しいドレスは、まるで今の私の心のように、ふわりと軽やかだった。




