奪われた夜
午前3時。
部屋は真っ暗で、モニターの光だけが青白く揺れていた。
「っしゃ……クリア」
ゲームのボスを倒した瞬間、俺は椅子にもたれかかった。散らかった机にはカップ麺の残骸、飲みかけのエナジードリンク。
画面には「ボーナス達成!」の文字。
……これが、俺の“大学生活”だった。
講義? 出てない。
バイト? 続かない。
彼女? いたことない。
ゲームと引き換えに、現実を諦めていた。そのまま次のゲームを始め、気づけば、黒かったカーテンの隙間が白み始めていた。夜が終わっても、俺の生活は何も変わらない。
それでも、俺には一つだけ――守られている場所があった。
「結人、朝ごはんできたわよー!」
一階から母の声が響いてくる。
徹夜明けの重い頭を掻きながら、髪も整えず、フードをかぶって階段を下りた。
リビングには、湯気の立つ味噌汁。
「結人、また徹夜? そのうちゲームの画面に吸い込まれるよ」
「うるせぇな」
「でも、朝ごはん食べに来るログインはするんだね」
母の笑顔。父の渋い顔。姉の悪ノリ。
――誰もが、俺の“だめさ”を笑って受け入れてくれた。
「結人は、ダメでも結人だからいいんだよ」
――そんな風に言ってもらえることに、俺は甘えていた。
その夜、リビングで父が渋い顔をして、タブレットのニュースを眺めていた。
「結人、最近どうだ」
どうだ、の意味が広すぎて俺は答えられなかった。就活か、バイトか、友達のことか。
「……まあ、普通」
父は画面から目を上げず、「そうか」とだけ言った。責めない。問い詰めない。ただ「そうか」。
その一言が、なぜか一番こたえた。
姉が台所から顔を出した。
「結人ってさ、ゲームうまいの?」
「まあ」
「じゃあ教えて。私、このステージ三週間詰まってるんだよね」
「……お前、ゲームなんてやってたのか」
「やってるよ! 知らなかったの?」
母が笑いながら麦茶を運んでくる。父は難しい顔のまま、タブレットの画面を指で送る。姉が俺の隣に座り、ゲームの画面を見せてくる。ただそれだけのことが、どうしてこんなに温かいんだろうと、あとになって思った。
けれど、その幸せは、唐突に奪われた。
*
コンビニ帰り、家の前に立った瞬間、空気が変だった。
玄関の扉が――半開きだった。
「……え?」
鍵は閉めたはずだ。
近づくと、割れたガラスの破片が足元でかすかに鳴った。
嫌な予感が背骨をなぞる。
心臓が、早鐘みたいに跳ね始める。
「……母さん? 父さん?」
返事はない。
代わりに――奥から、姉の悲鳴が上がった。
「やめてえぇぇぇ!」
音が、耳じゃなく骨に突き刺さった。
肺が縮んで、息が吸えない。心臓だけが勝手に暴れて、足先の感覚が一瞬遅れる。
――いつも母が「ごはんできたわよ」と呼んでいた同じ家の中で、今は悲鳴が鳴っている。
守られていた場所が、音を立てて崩れていく。
俺は玄関へ飛び込んだ。
視界に入ったのは、血の色だった。
倒れた母。うずくまる姉。
父が、包丁を持った男に立ち向かっている。だが――
「っ、やめろぉぉ!!」
間に合わなかった。
男の刃が父の胸元を裂き、父が崩れる。
姉も胸元を押さえたまま、床へ倒れ込む。俺は……なにもできなかった。立ち尽くすことしか。
男がこちらを見た。
血の滴る刃を握ったまま、落ち着き払った声で言った。
「運が悪かったな」
「……っ、なんで……!」
遠くで、パトカーのサイレンが鳴り始めた。男は玄関を一瞥し、俺から刃先を外して薄く笑った。
「お前はいい」
「……え?」
「その顔じゃ、もう何もできないだろ」
――それが、俺に残された“家族の最期”だった。
*
数日後。
俺は自分が生きている意味さえわからなくなっていた。
空っぽの家。
食器の並び。ソファのへこみ。
そこにいたはずの声だけが、どこにもない。あの日から、心にぽっかり穴があいたようだった。
……いや、穴なんて生易しい。
胸の中心が、丸ごと削り取られた。
見慣れた天井を見つめながら、俺は生きることをやめた。
誰もいない。
その夜、前の世界での俺は死んだ。
*
最初に感じたのは、匂いだった。
土。草。焚き火の煙。
次に、音。風が木の葉を揺らし、遠くで鳥が鳴いている。知らない響きだった。あの家にはなかった。目を開けると、空が広すぎて、一瞬自分がどこにいるか分からなかった。
天井がない。壁もない。
ただ青い空だけが、どこまでも続いていた。俺は、粗末な木造の家の前に敷かれた藁の上で横になっていた。すぐそばでは、小さな焚き火が煙を上げている。どうやら、ここで昼寝でもしていたらしい。
「ユイト、起きたの? ごはんあるよ」
見知らぬ少女の声。
振り向くと、小さな女の子が立っていた。
俺は自分の手を見る。幼い。
指が細く、爪も短い。
腕も脚も、自分のものじゃないみたいだった。
「……ユイト?」
――その呼び名に、胸が小さく痛んだ。
「なんで……俺の名前……」
少女はきょとんとして首をかしげる。
「なんでって。ユイトはあたしのにいちゃでしょ?」
もう一度“ユイト”と呼ばれ、頭の奥が鈍く揺れた。その名に引かれるように、この世界で暮らしてきた記憶の断片が戻ってくる。つまり、この世界でも俺は――“ユイト”として生きているらしい。
偶然? 運命?
そんなことを考える余裕はなかった。
ただ、前の世界と同じ名で呼ばれたことが怖かった。
「早く。冷めちゃうよ」
少女に促され、その手を取って立ち上がる。視線が低い。全身が軽い。一歩進むたびに、自分ではない誰かの身体を動かしているような違和感があった。
少女に手を引かれ、木の扉をくぐる。
家の中には、煮込んだ野菜の匂いと、薪が爆ぜる音が満ちていた。優しそうな男と女が、こちらを見ている。戻った記憶のとおり、ここが俺の家らしい。
「目が覚めたか、ユイト」
「無理させないでね。まだ小さいんだから」
……父と母。
そう思った瞬間、喉が詰まった。
貧しくても、そこには確かに“温もり”があった。
それから、この家での暮らしが少しずつ日常になっていった。
「にいちゃ、おんぶして〜!」
「重いっての!」
「ユイト、畑お願いね」
「……うん」
妹は俺の袖を握る癖があった。怖いときも、眠いときも、嬉しいときも。その小さな手が、俺に「まだ生きていていい」と言ってくれている気がした。
また、守りたいものができた。
――いや、できてしまった。
今度こそ。
今度こそは。
*
けれど、その春。
また、あの悪夢が繰り返された。
夕方、家に戻って扉を閉めたばかりだった。
外の空気に混じって、獣みたいな汗の匂いが鼻を刺した。
「……っ」
俺が振り向くより早く、家の周囲で足音が散った。
多い。――少なくとも四人。
正面に二人、裏手に回り込む気配が二つ。
「動くな! 金目のものを出せ!」
扉が蹴破られた。
野盗だ。
粗末な革鎧。鈍く光る刃。
二人が土間へ踏み込み、残りは外から窓を塞ぐように散った。
父が斧を取った。
母が俺と妹を背に庇い、じりじりと後ろへ下がる。
不意に、袖を引かれた。
妹が俺の服を握っていた。
小さな指が震えながら、布をぎゅっと掴んで離さない。
「にいちゃ……!」
俺は反射的に妹の肩を引き寄せた。
――やめろ。
考えるより先に、叫んでいた。
「やめろ! 家族に触るなぁぁっ!」
けれど、野盗は止まらない。
一人が父へ斬りかかる。
もう一人が、俺たちへ向かってきた。
母が前へ出る。
「子どもには触らないで!」
刃が振り下ろされる。
母は身体を捻って避け、そのまま野盗へ飛びついた。
「ユイト、下がって!」
もみ合う母の向こうで、父の斧が床へ落ちた。
「っ……!」
父が崩れる。
斧が落ちた音に、母が振り向く。その一瞬だった。
野盗の刃を受け、母の身体も大きく揺れて、その場へ倒れた。
「母さん!」
妹は俺の袖を握ったまま、動かなかった。
「いやだ……にいちゃ……!」
目の前に、父と母が倒れている。
前と同じだ。
奪われる。
また。
奪われる。
野盗の一人が舌打ちした。
血のついた刃を持ち上げる。
その目が、俺の袖に縋りつく妹へ向いた。
(やめろ……っ)
俺は妹と野盗の間へ入ろうとした。
妹を庇う。
そのはずだった。
でも、一歩踏み出すより早く、刃が振り下ろされた。
(お願いだから……それだけは、奪わないでくれ!)
――遅かった。
ぐしゃり、と。
袖を掴んでいた手が、強く俺を引いた。
直後、その指から力が抜けていく。
「……え?」
妹の身体が傾いた。
俺は咄嗟に、その身体を抱き止める。
「……あ」
それ以上、声にならなかった。
床へ横たえた妹は、もう動かなかった。
そのとき、何かが、俺の中で爆ぜた。
――頭の奥を焼き切るような激痛。
世界が反転し、音が遠のく。
頭の奥で、はっきりと“声”がした。
――奪え。
気づけば、野盗の腕を掴んでいた。
黒紫の光が俺の掌から溢れ、掴んだ腕を伝って野盗の身体を包み込んだ。
――こいつは今、妹を殺した。
――そして次は、俺を殺すつもりだ。
こいつの中に渦巻く、濃く粘ついた感情。怒りでも興奮でもない。目的が一本に尖った――殺意。そのほかにも、幾つもの輪郭が頭の中へ押し寄せる。
(……多すぎる)
(全部は持てない――ひとつだけ……!)
俺は本能で、最も鋭いそれへ意識を向けた。
(これだ……)
(これを……奪え……!)
次の瞬間、野盗の目から色が消えた。
「……あ……?」
振り上げていた刃が止まり、指から抜け落ちる。野盗は空になった手を見つめたまま、呆然と立ち尽くした。代わりに、奪った“殺意”が俺の中へ流れ込んでくる。
視界が赤く染まった。
妹を殺された怒り。
何も守れなかった絶望。
それらすべてが、奪った殺意と混ざり合って暴発した。
俺は、地面へ落ちた刃を拾った。
野盗は、まだ呆然としていた。
こいつが妹を殺したという事実だけは消えなかった。
「――ああああああああああっ!」
刃を突き立てた。
一度では止まれなかった。
野盗が動かなくなってからも、俺の手だけが震え続けていた。
周囲の野盗たちが息を呑む。
黒紫の光。
突然、刃を落とした仲間。
血まみれの刃を握る子ども。
「ば、化け物だ……!」
誰かが叫んだ。
残った野盗たちは、我先に逃げていった。
俺は、一人を殺した。
何も守れないまま、初めて奪い、初めて殺した。
そして胸の奥に、怒りとは違う“黒い熱”が沈んだ。
もっと。
もっと力があれば、守れたのに。
その感情が、どろりと絡みついて離れない。
*
川辺で、ひとり空を見上げる。村が荒れている。どうやら俺の家だけじゃなくて、他の家も野盗に襲われたようだ。けれど、村はやけに静かだった。もう野盗はいない。そんなことは、どうでもよかった。ふと、自分の袖を見る。ついさっきまで妹が握っていたところだけ、布に皺が残っていた。もう、引かれることはない。妹の声も、温もりも、もうない。
俺は守れなかった。
「……また……奪われた……」
そう呟いたとき――
「逃げた野盗なら、うちの連中が片付けた。もう襲われる心配はねぇ」
しわがれた低い声。
振り返ると、大柄な男が立っていた。
厚い肩に、使い込まれた革の上着。無精髭の残る顔にはいくつもの古い傷が走っている。鋭い目つきなのに、不思議と威圧されるだけではなかった。何度も修羅場をくぐってきた男に見えた。
「名前は?」
「……ユイト」
「いい目をしてるな。壊れた奴の目だ」
「……おじさん、誰?」
「ガレウス。盗賊団の団長だ」
男はゆっくりと手を差し出してくる。
「お前の全部が壊れてても構わねぇ。ついてこい。強くなれ」
「この世界は、奪われるだけじゃ終わらねぇんだよ」
それは、絶望の底にいた俺にとって、唯一の救いだった。
*
あれから十年。
俺は、盗賊団で生きてきた。
この世界の正義は、いつも遅い。泣き声が止んでから剣が抜かれ、裁きが落ちる頃には、守りたいものはもう冷たい。だから俺は、間に合わせる側に立つ。正しさの順番を待たずに、先に手を伸ばすために。
あのとき目覚めた力の名は――
《万象奪界》
触れた相手の中にある、“奪えるもの”の輪郭が浮かぶ。
感情。記憶。能力。肉体に備わった感覚や性質。
その中から、俺はひとつだけ奪える。
だが、奪ったものとは別に、胸の底へ黒い渇きが残る。
他人の持つものが前より眩しく見え、「もっと欲しい」と囁いてくる。
その渇きが何を削っていくのか、この時の俺はまだ知らなかった。
それでも俺は、奪う。
もう、二度と守れないなんて思いたくないから。
奪われるくらいなら、俺が奪う。
たとえ、世界から最悪と呼ばれても。
たとえ、この心が壊れても。
これは、奪われた少年が――
いつか誰かを救う物語だ。
貴重なお時間を使ってお読み下さり、ありがとうございます。
次話からは、盗賊団で暮らすユイトと仲間たちの日々が始まります。
この先の物語にも、お付き合いいただけたら嬉しいです。




