第8話 現実逃避
第8話 現実逃避
二月の雨は冷たかった。
シアトルの空は朝から灰色で、濡れた道路にネオンがぼんやり滲んでいる。智也は安物の黒いダウンジャケットの襟を立て、雑居ビルの前に立っていた。
手には折れ曲がった履歴書。
英語で書かれた職務経歴書は、結衣がほとんど作ったものだった。
「大丈夫、大丈夫」
結衣が隣で言う。
白いニット帽にキャメル色のコート。以前は華やかだったその服も、最近は少し毛羽立って見えた。
「今回の日系企業、そこまで英語求めてないって」
「……うん」
「笑顔でいけばなんとかなるから」
智也は曖昧に頷いた。
だが胃の奥はずっと重い。
英語が聞き取れない。
話せない。
なのにここへ来てしまった。
自分は“本当はすごい人間”だと思いたかった。
日本でくすぶっているだけだと。
環境が変われば人生も変わるのだと。
でも現実は、ただ自分の能力不足を突きつけてくるだけだった。
面接室は小さかった。
白い蛍光灯。コーヒーの匂い。壁に貼られた企業理念。
向かいに座ったアジア系の面接官が履歴書を見ながら言った。
『You studied English seriously, right?』
智也は笑顔を作る。
「イエス」
『Okay. Then let’s continue in English.』
その瞬間、頭が真っ白になった。
面接官が何か話している。
だが速すぎて、ほとんど聞こえない。
『Can you explain what you can do for this company?』
「……」
『Mr. Takase?』
「……アイ、ワーク……ハード」
面接官の表情が曇る。
『Your resume says you are aiming for global business.』
「イエス……」
『Then…』
面接官は少し間を置き、率直に言った。
『Can you really speak English?』
智也の耳が熱くなる。
心臓が嫌な音を立てた。
その一言が、胸の奥へ突き刺さる。
“本当に英語できますか?”
できない。
でも認めたくなかった。
「……スタディ、ナウ」
『I see.』
面接官はそれ以上何も言わなかった。
終わりだった。
ビルを出ると、結衣が駆け寄ってきた。
「どうだった?」
智也は答えなかった。
「ちょっと、何か言ってよ」
「……無理だった」
結衣の顔が強張る。
「また?」
「しょうがねえだろ」
「しょうがなくないって!」
結衣が苛立った声を上げる。
「お兄ちゃん最近全然勉強してないじゃん!」
「してるよ!」
「してないでしょ! 毎日YouTubeばっか見て!」
「お前が海外来れば変われるって言ったんだろ!」
雨が強くなる。
通り過ぎる人たちは二人を見もしない。
結衣は唇を噛んだ。
「私はお兄ちゃんの可能性信じてるのに」
「もういいよ、その“可能性”って言葉」
智也は吐き捨てた。
「俺、ただ英語できないおっさんじゃん」
結衣が黙る。
その沈黙が痛かった。
夜。
二人はシェアハウスで無言のままカップ麺を食べていた。
部屋にはインスタントスープの安っぽい匂いがこもっている。
窓の外ではパトカーのサイレンが鳴っていた。
結衣はスマホを見ながら言う。
「ねえ、この投稿どう思う?」
「……何が」
「海外で頑張ってる感出てる?」
画面には夜景を背に笑う自撮り写真。
智也は思わず笑ってしまった。
「なんかもう、疲れた」
「は?」
「俺ら何やってんだろ」
「夢追ってるんじゃん」
「夢?」
智也は乾いた笑いを漏らした。
「現実逃避だろ、こんなの」
結衣の顔色が変わる。
「……最低」
「だってそうじゃん」
「お兄ちゃんが人生変えたいって言ったんじゃん!」
「お前が煽ったんだろ!」
部屋の空気が張り詰める。
その頃、日本では陽菜がようやく眠ったところだった。
奈緒はそっと布団を抜け出し、居間へ向かう。
時計は午前零時を回っている。
母はもう寝ていた。
ストーブだけが小さく燃えている。
奈緒は静かに机へ座った。
ネイビーのスウェット。髪は適当にまとめただけ。肩は凝って重い。
眠かった。
本当は今すぐ寝たい。
でも問題集を開く。
イヤホンを耳へ入れる。
英語音声が流れ始めた。
『meeting』
『contract』
『responsibility』
以前は雑音みたいだった英語が、今は意味を持って耳へ入ってくる。
奈緒はシャープペンを動かした。
窓の外では風が鳴っている。
静かな夜だった。
その時、スマホが震えた。
結衣のSNS更新通知。
『人生変えるために頑張ってます✨』
奈緒は画面を開かないまま通知を消した。
代わりにリスニングを止めず、次の問題へ進む。
最近、少しわかってきたことがある。
人生は、劇的には変わらない。
海外へ行った瞬間、別人になれるわけじゃない。
毎日をどう積み重ねるか。
結局それしかない。
奈緒はコーヒーを一口飲んだ。
冷めて苦い。
でも目が覚める。
机の横には、陽菜が昼間ぐちゃぐちゃにしたクレヨンが転がっていた。
洗濯物もまだ畳めていない。
シンクにはマグカップが残っている。
完璧じゃない。
全然きれいじゃない。
それでも奈緒は問題集を閉じなかった。
逃げないと決めたから。
その夜、奈緒の模試スコアはさらに伸びていた。




